79. 交渉
カイと考えた案は、ひとつだった。
アルベルト様との約束の朝になってクロードは帰ってきた。
馬を繋いで、台所側のドアから入ってくる姿が見えた。かなり疲れた様子だった。
「お嬢様、お話があります」
クロードから応接室に呼ばれた。メアリーについてきてとお願いをしたが、その願いは聞き届けられることはなく、ひとりで行くことになった。
「アルベルト様とお話されるときは、私にも相談してください」
「あの時は廊下でいきなり会ってしまったから」
「大事な話をするときは、応接室か図書室を使われてください。それによりによって、アルベルト様」
「まずいの?」
「交渉というものがあります。先に言わないと了承してもらえないものも多い。例えば今回の件は、受け取らなかった報酬の代わりとして、アルベルト様に手紙を書いてもらうことにすることも可能だったでしょう」
なるほどそうなると、アルベルト様のために駒として動く必要がない。
「今回は話が終わってからとなりますので、難しいでしょうね」
「今からは、反故にするという訳にはいかないでしょうね?」
「そういうことですね。でも、あの時の報酬を何か別の物に変えることは可能でしょう」
「覚えておくね。ありがとう」
「お嬢様、貴方は簡単に人を信じたり、感謝したり」
「私が感謝したいから、ありがとうが言える人になりたいの」
「そうですね。それが貴方らしいのかもしれませんね」
クロードが両手から手袋を取ると、ポケットにしまう。私の両頬は、彼の手で引っ張られた状態になり、変な顔になっているはずだ。
「ふぁにしているの?」
「何しているのかってことですか。真由のマネですよ。これはこれで変な顔が見れて楽しいけど」
クロードの言葉が急に砕けた口調になる。こういう時のクロードは、私ではなく、俺という言葉遣いになる。執事モードからいきなり切り替わった。いつもだったら、執事モードがしばらく続きお説教されるというパターンなんだけど、今日は少し違うようだった。リモコンで切り替えたわけではない。ちょっと巻き戻してみて、会話を脳内でリプレイさせる。どうやら、「ありがとう」の一言がリモコン代わりになり、執事から普段モードになったという結論に達した。
こういうときのクロードは、魅惑的な笑顔を振りまく。
本能的に「あの笑顔に捕まるとまずい」と警告音が鳴り響く。
顔に添えられていた手を振りほどき、後ろ側に少しずつ後退していき、もうすぐでドアノブを掴めるはずだった。後ろ側に回していなかった手首を掴まれて、満面の笑みのクロードと目が合った。
「どこに行くのでしょう。お嬢様」
いつの間にか執事モードに切り替わっている。もっと悪いではないか!
「勝手にセオと山に行ったこともお話していませんでしたよね?」
口元は笑っているのに目が笑っていない。冷酷な笑顔で氷漬けにされそうだ。
「ごめんなさい?」
「悪いと思っていませんね」
しまった。疑問形で誤ってから、自分の失態に気がつく。
「約束の印がその手に合っても不名誉な噂は広がるものです。貴方はもっと自分自身を大切になさってください」
「ごめんなさい……」
ごめんなさいに続く言葉が何も見つからなくて、彼の顔を見つめる。
「いいでしょう。でも二度目はありません」
「約束の印があるのになぜカイを向かわせたの?」
「彼には貴方に手を出す勇気はないからです。守ることはあっても貴方の了承なしには、何も事は進まない。それがわかっていたから向かわせたのです」
クロードがいないときに頭の上にキスされています。と別の報告をするとカイが殺されそうなので、黙っておくことにした。




