71. 登山
登山とは苦しいばかりでいいものではない。以前の私は決めつけていた。
達成感を味わうならこんなに最適なスポーツはない。
最高だ! 少しずつ登っていくたびに緑色の葉っぱの色が少しずつ違っている。澄み切った空気、鳥の声と川のせせらぎの音、風が通るたびに木々が返事をするように音を立てる。自分の呼吸の音。なんて静かなんだろう。あのときスポーツウェアとシューズは持ってきていた。きれいな靴よりもこちらの方が私らしい。
「休憩するか」
見晴らしのいい場所に木のベンチが用意されていた。
「セオが作ったの」
「まあね。なかなかだろう?」
「座り心地いいね」
セオが取り出したものは、豆を挽く道具だった。コンパクトサイズであちらの世界でも売られていた物だ。銀色の細い小型のミル、山行き用のものだ。
「ねえ、それってコーヒーミル?」
「もらったものだ」
コーヒー豆を挽くたびにふわりと香る。この香りに惹かれて何度もカフェに入ったことがある。本格的なところに行くと豆の種類から書いてあるが、自分の好みがわからないから、何でもいいと思っていた。山で飲むコーヒーは初めてだ。飲んでもいないのに喉が欲しがっているのがわかる。
彼が背負っていたリュックは、革製品で重そうだがたくさん物が入りそうだった。そのリュックサックから出てきたものは現代的な物ばかりだった。コッヘル、ケトル、ドリッパー、フィルターと元いた世界の商品が並んだ。手慣れた様子でコーヒーを淹れていく。
「これを譲ってくれた女性はかわいい笑顔の人だった」
セオは右手を握ったり開いたりしていた。つながれた右手が離れてしまったような感じなのかな。勝手に想像したみる。
「いろいろな山に登りたい。そう言って旅だってしまった」
「その道具は必要だったのではないの?」
「何を食べても何を飲んでも味がわからないと言っていた。だから私には必要がないものだと言って全部渡してくれた。でも、これを使うのはこれが最後だ。ガスの予備がもうない」
「それは残念だね」
そんなたわいの無い話をしているとすごい勢いで走ってくる動物が見えた。
「ねえ、セオ。あれ何かな?」
「犬に掴まっている猫?」
よく見るとそんな風に見えなくもない。背中の黒い物体は黒猫、セントバーナードの背に必死にしがみついている。急に犬が止まると同時に投げ出されるようにして、猫は木のある方に投げ出された。そこは猫、華麗に木を蹴って地面に無事着地した。




