7. 夢ではなかった
「おはようございます」
私の部屋に同居人はいない。ひとり暮らしだが、エアコンにAIが組み込まれていて、女性の声で朝の挨拶と今日の天気をお知らせしてくれる。
AIにしては柔らかいボイスで、人の声かと間違えるほどの出来だが、今日は違う感じに聞こえた。
まだ布団でゆっくりと眠りたいが電車は待ってくれない。
伸びをしながら目を覚ますと、ダークグリーンの瞳とぶつかった。
一瞬状況が呑み込めずにびっくりして起き上がる。
周りを見ると、自分の部屋にはない調度品ばかりで埋め尽くされている。天蓋付きのベッド、深い森を思わせるようなカーテン、オルゴール付きの時計、猫足のクローゼットとドレッサー。
六畳間の畳の部屋が今では懐かしい。
お嬢様ではないので、マーガレットの部屋で寝ることはできないと言ったのだが、メアリーに聞き入れてもらえなかったのだ。
天蓋付きのベッドは贅沢で、電気を消すと天井に星が見える。元の世界にあるような光る塗料を使ってあるみたいだった。
「びっくりさせてすみませんでした。お熱がないか確認していました」
ダークグリーンの瞳を見たときは、クロードかと思って焦ったが茶色の髪が見えた。
髪はひとつに纏められているが、余計な装飾はなく、複雑な編み込みで結ばれていた。
小さい頃に母がよくやってくれたみたいに、メアリーが自分の手で熱がないか、確認していたようだった。
「メアリー、おはようございます」
布団を顔の目だけが見えるところまで引き上げて、小さな声で挨拶をした。
「どうして隠れているのですか?」
「こんなひらひらした格好したことないから恥ずかしくて」
昨日、マーガレットのネグリジェを押し問答の末に着せられた。スポーツウェアはメアリーの中では囚人服として定着しているために譲れないとまで言われた。
石畳の道もあるが、舗装されていない土の道にスポーツウェアの恰好で倒れていたので、埃がついてしまっていた。この天蓋付きのベッドには、スポーツウェアは相応しくない代物だ。洗濯をしたら、こっそりと愛用しようと思っていた。
「すぐに着替えるので大丈夫ですよ」
昨日見たクローゼットの中は、ひらひらしたお洋服でいっぱいだったはずだ。全部ドレスという代物しかなかった。
メアリーの頑固さは、最初に会った時から感じていた。朝からドレスについて、昨日の夜のようにネグリジェを着る着ないの再現をしても、メアリーに押し切られるだろうと予想がついた。
「……はい」
観念したようなくぐもったシンプルな返事がメアリーの満足いく答えだったらしい。
今までに見たことがないような晴れ晴れとした笑顔が返ってきた。
「こちらにお座りください」
ドレッサーの前を指定され、逃げ出すわけにもいかず、観念して座る。
メアリーの手には、すでにブラシが用意されている。毛先が柔らかいので、心地よい気持ちにさせてくれる。
「こんなに短く切られてしまって」
涙ぐみながら、髪の毛を丁寧に梳いてくれる。
本当のことを話すべきなのか。私のいた世界では「普通です」と言うとまた更なる誤解を与えそうだ。
最初から詳しく話すべきかもしれない。
口を開こうとしたときにドアを三回ノックする音が聞こえた。
どうやら、ノックの文化はあったようだ。
メアリーが黙ってジェスチャーで、隣の部屋にと指示を出す。
お嬢様体験一日目の私としては、黙って従うより他に選択肢はない。
この部屋には続き部屋があり、手前に洗面台、白いカーテンの向こうには猫足のバスタブがある。さらにドアを開けると、トイレが設置されている。完全なるプライベートスペースだ。日本で言うと、私の部屋を通り越して、三つ隣の部屋までいきそうな勢いだ。
マーガレット様が大事にされていたのがよくわかる部屋だ。大事にしていない娘にここまでの設備は必要ない。
ここまで豪華な部屋をもらっているのに、本館には住んでいなかった。来ていたのはアンナただひとりのようだった。あの応接間には、テーブルが一脚と椅子が二脚、ソファーのみだった。お母さまと言っていたから、母はいる。父はどうだろう。ここまでしっかりしたお屋敷を建てられるということは、ご健在なのだろう。大事にされていながら、離れて暮らすのには、意味があるのか。
お嬢様としては、あるまじき行為なのだが、洗面台の向こう側に居ながらにして、少しドアを開けて会話が聞き取れるようにした。少しでも何か情報が欲しい。
低い艶ある声は、間違いなくクロードだ。