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63. 覆水盆に返らず

「ただいま」


 ドアノッカーで気がついたクロードが扉を開けてくれる。


「おかえりなさいませ。お嬢様」

「本物の執事みたい」

「いえ、本物の執事です。お嬢様」

「ご当主様からの呼び出し大丈夫でした?」

「ご当主様ではなく、お父様です。お嬢様」

「えーっと、まだお会いしていないので、父という実感がわかなくて」

「えーっとは不要でございます。明日、お会いになるそうです」

「はっ?!」

「マナーは、今日中にアンナ様から習ってください」

「今日中?! えっと午前中、結婚式に行っていて、お茶の時間に帰ってきたのにこれから? これからマナーのレッスン?」

「左様でございます。今日は泊まりがけでいらしています」


 誰が? と聞く暇もなく、応接間のドアが開き、赤い髪の女性が姿を現した。

 かわいらしい微笑みの裏には、容赦なくやらせてもらうというような気迫が感じられた。


「今日はマナーのレッスン、一緒に頑張りましょうね」

「アンナ! えっとあの困ります」

「何が困るのかしら? 今、お茶を用意させています。一緒にお茶を楽しみましょう」


 そう言えば、街であんなに食べたのにお腹がすいている気がする。

 レッスンを始めるよりも先にお茶をして、気晴らしをしてからということだろうか。

 優しい先生でよかった。

 クロードは今日一日中、大変だっただろう。ご当主様からの呼び出しにアンナ来訪、お茶出し、布団干し、全部ひとりでやったのだろうか。

 そんなことを考えていると、女性たちの笑い声が聞こえてきた。

 そちらの方向に目をやると、メイドさんが増えている。

 

「帰ってきてくれたのね。よかった」

「本館からの新しい増員です」


 帰ってきてくれたわけではなく、新しい増員。クロードがうまくご当主様に言い訳をしたと考えられる。


「どんな手を使ったの?」

「ただ彼女たちはフェアリーハウスに馴染めなかったとだけ、お伝えしました」


 馴染めなかった。それは都合のいい言葉運びである。


「クロードが言ったあの言葉で辞めちゃったと聞いたけど?」

「あの言葉とは何でしょう?」


 最後までしらばっくれる気だ。こうなったら、どう言ってもYESという返事は引き出せそうにない。知恵比べは、私の方に分が悪い。早々に会話を適当に切り上げて部屋へ帰ろう。


「今日は疲れたので部屋へ帰ります」

「それは許されないかと思います」


 アンナとのマナーレッスン、やっぱり忘れてくれていなかった。

 ロングヘアのメイドさんがひとり、ワゴンを押してくる。クロードとすれ違うときにクロードに流し目をして応接間に入っていく。どうやら彼女はクロード目当てらしく、しばらくは彼の毒舌に耐えてくれそうだ。


「しばらくはメイドさんたちが逃げ帰ることはなさそうだね」

「どういう意味です」

「そういう意味です」

「なるほど、わかりました。その手の甲にあるマークが消えたら、覚悟してくださいね」

「クロードは私をマーガレットの代わりとして見ているでしょう。私は紫の上にはなりたくないの」

「むらさき?」

「初恋の女性を忘れられない男性が出てくる話」


 そんな一言であの名作中の名作である源氏物語を語っていいものか疑問が沸いたが、相手はクロードである。わかりやすく簡潔にと思うと、そんな説明しかないような気がしてくる。

 珍しくクロードを言い負かすことができた。

 彼の顔を見たときに言った言葉をもとに戻したいと思った。

 手は二の腕を握り締めて、唇を噛みしめて、視線を合わさないように横を向いている。

 

「ごめん。いい過ぎた」

「いいえ、お嬢様。謝らないでください」


 いつもアンナと会うときは、部屋の外へ待機してくれる彼が背を向けて歩いていく。

 傷つけてしまった。そう思ったときは遅かった。

 言ってしまった言葉は、もうどうやっても元に戻すことはできない。


「マーガレットお嬢様、アンナ様がお待ちです」


 さっきのロングヘアのメイドさんが声をかけてくれる。


「わかりました。でも、少しだけ待って」


 そう言い放つとクロードの後を追いかける。

 中庭に入る扉の前で、手袋越しに彼の手を握ることができた。


「傷つけることはしたくなかったの。あなたにとって一番大事な人は、マーガレットでしょう。私ではないよね」

「真由、俺の中で一番大事なものは何かわかっている。でも、マーガレット様を忘れられないのも事実。ここにいるのは、マーガレット様ではなく、君という存在。俺を選んでくれたら、誰よりも大事にする」


 胸を針が刺したみたいに痛んだ。

 私は誰かをこんなに真剣に思ったことはあっただろうか。


「昔、よく遊んだ男の子がいたの。その子の髪は銀髪で、瞳はきれいなダークグリーンの瞳を持つ子だった。小さいときに遊んだ記憶があったのに、大きくなるにつれて、そんな子どもは存在しないと思った。物語で読んだと思っていた。でも、その男の子は存在した。だけどね。私は忘れてしまったの。その子のことを忘れてしまった。どんな風に笑って、どんな風に感じて、どんな風に泣いたのか、もう忘れてしまった。あなたはあの時に何を感じていたの?」


 心の中の思い出が風に吹かれて、目の前に現れたように錯覚を起こしている。

 きっとあの子は、物語の中の空想の人物。探せなかった物語の住人。目の前のクロードではないはずなのにどこかあの子に似ていないか面影を探してしまう。


「真由、貴方とも遊んだ日々があった?」

「違う。きっと違う人。クロード忘れて」

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