5. アールグレイ
「お風呂の前に確認したいことがあるんだけど、さっきの執事さん呼んでもらえる?」
「そちらのベルでお呼びになれます]
金色の天使の羽の装飾がついたベルを手のひらで指し示した。
触っていい物なのか、もう一度メイドの顔を見る。
メイドは、どうぞと言うように目を伏せ、ゆっくりとお辞儀をした。
ベルにゆっくりと近づき、目の高さまで上げて、じっくりとデザインを観察する。
かわいい。実に好みのインテリアだ。
チリリという小さな音が響き渡る。
これで執事が飛んでくるわけがない。
「何か御用でしょうか。お嬢様」
ありました……
えっとどちらにお控えだったのでしょうか。ドアの裏側とか?
しかもノックせずに堂々と入ってきたような気がする。
ここは簡潔にはっきりと言って、相手の出方を見る。
「コホン。えっとアンナお嬢様から、お茶の用意をするように言われていましたか?」
一瞬見間違いかと思うくらい、不敵な笑みを返された。
まるで気がついてもらえてうれしい。そんな彼の歓喜のような言葉にならない声が聞こえた。
「いいえ」
これで決定だ。アンナは、ここに長居をするつもりはなかった。
「用意をと言っていたのはお風呂であってお茶ではなかった。それは事前に指示が出ていたことでいい?」
「はい」
アンナは何が何でもマーガレットが欲しい。
その理由って何だろう。
『領主の娘の使い道』なんて日本の基礎学科にあるはずはない。
しかも異世界のことなんてお手上げだ。
一点をずっと見つめて考え込む姿勢は、学生時代に怖いと言われてきたのだった。その癖が異世界に行ったからといって治るわけではない。
その様子を見かねてなのか、声をかけてくれる。
「お茶をご用意致します」
「ありがとう」
そう、わからないときはお茶を飲もう。脳に糖分が必要だ。お茶うけとして、何か出してもらえたらうれしいが、それを堂々とお嬢様が要求してもいいのだろうか。
「先に考えたいことがあるからお風呂は後でもいいかしら? 何か用事があるときは呼ぶから下がっていてもいいわよ」
堂々とお嬢様らしく振る舞ってみたが、メイドの意志は固く首を振るだけだった。
表情は硬く、一文字に結ばれている唇は、意思を押し通す覚悟のようだった。エプロンを手で強く握っていることから、自分の意志に反して何かを成し遂げなければならないという心が透けてみえそうだ。
アンナに指示されているとしか思えなかった。
「あなたのお名前は?」
「メアリーです。お嬢様」
「さっきの執事さんの名前は?」
ドアがいきなり開き、唇を上に引き上げただけの無理やり作った笑顔とともに執事が顔を出した。唇は笑っているのに瞳は笑っていない。
彼は銀色のワゴンを押して入ってくる。ティーポットとティーカップ、お菓子が用意されている。
「クロードでございます。お嬢様」
笑顔には笑顔で返すが引きつったものになっていることは否めない。
ノックひとつなく、ドアが開くのは心臓に悪い。
ここの文化にはノックという文化が育っていないのだろうか。でも、ドアノブがあるくらいだから、そんなことはないはずだった。
「お茶の用意早かったのね。クロード」
「お風呂の後のお茶の用意をさせて頂いておりました」
喉が渇くことを想定してくれていた。
彼はよく気が利く人のようだ。そういう風に教育されているのか、前もって、いろいろなことをやってくれる人だと考えてよいのかもしれない。
ティーカップ、ソーサーとスプーンがトレーの上でセットされる。耳障りな音が一切なく、流れるような動作で、目の前にティーカップが置かれた。カップには鳥と花があしらってある。
ティーポットから紅茶が注がれる。
アールグレイの香りが鼻に届く。
大好きだった紅茶なのに毎日の暮らしに疲れて、入れて飲む習慣を忘れてしまった。誰かに注いでもらえる紅茶は、すごい贅沢品だ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
クロードは、トレーをテーブルに置き、懐に入っていたハンカチを取り出した。
ダークグリーンの瞳が心配そうに覗き込んでいる。
毎日の仕事に流されて、自分の心を顧みなかった。そのつけがここで回ってきた。人前で泣いたことなどなかったのに気持ちが溢れて止まらない。
「ご無理をなさいませんように」
クロードの長い指がゆっくりとやさしく頬に触れた。