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26. 黒猫の思い出

 新月の夜にマーガレットと話すチャンスがあれば、いや絶対チャンスは逃さない。

 何とか話をして、それまでにカイさんには恋人を見つけてもらおう。

 待って!彼は今、黒猫になっている! 恋人以前の問題だ。猫の恋人なんてダメだよね? 本気で提案したら怒られそうだ。

 ドアをノックして、メアリーが入ってきた。


「お風呂沸きましたよ」


 肩に乗っているサラマンダーを見て、悲鳴を上げた。

 そうだよね。悲鳴を上げるぐらいが女性として可愛げがある。平然としている人ってどうなんだろう。でも、生き物嫌いじゃないし、ただ、飼うのはダメだ。飼ったら別れがつきまとう。


「お風呂に入ってくるね」


 クロードにそう言って部屋を出る。変な顔になっていなかったよね。耳まで真っ赤になっている顔を片手で押さえて、片手で毛布を掴んで廊下を歩いていく。廊下に横向きで寝そべっている黒猫を発見した。両膝をついて、毛を撫でているといつか飼っていた黒猫のことが頭をよぎった。


 私が小学生の頃、四年生の夏休みだった。夜の間に吹き荒れた台風が去った後、叔母と一緒に買い物に行こうとしていた。アパートの階段を下りると、駐車してあった車の下から、子猫の小さな鳴き声がした。


「あら、車出せないわね」


 小さくて目だけが大きな黒猫、足が細くて折れてしまいそうに弱弱しい。台風の雨風が強い中、この車の下で震えていたのだろうか。私が顔を見せるとゆっくりと歩いてきた。手を伸ばすとしばらく匂いを嗅いで、ぺろりとひと舐めしてくれた。


「奈津子さん、この猫飼ってもいい?」


 三十八歳の独身女性に対して「叔母さん」というのは気が引けたので、奈津子さんと名前で呼んでいた。

 叔母は困ったような顔をして、しばらく考えていたが、決心したように顔をあげた。


「いいよ」


 今思うとあのアパートは、ペット禁止だったのかもしれない。


「やった!」


 必要な物を買ってもらい、家に着くと猫は横向きに倒れて変な呼吸をしていた。動物病院に連れて行くと、病名を告げられた。『先天性の横隔膜ヘルニア』レントゲンで見ると猫の肺と胃がくっついている。食べると胃が肺を圧迫して呼吸が苦しくなる病気だと説明を受けた。家を出る前にコンビニで買った固形のペットフードをあげたことを悔やんだ。


 胃の消化を助ける薬をもらって、小さな注射器で五ミリリットルの薬を無理やり口をこじ開けて入れる。猫用のペットフードをすり鉢ですりつぶした後にお湯をかけて、それが冷めた頃に少しずつあげる。その生活が十日続いたので、どこかで安心していた。


 ある夜、黒猫ぷくは、私の座っている後ろに自分のお尻がくっつくようにして座った。しばらくすると横にきて、ちらりと私の方を見ている。私はロバート・ルイス・スティーヴンソンの宝島の本を閉じて隣に置いた。それが合図のようにして、正面に来ると私の足に遠慮がちに自分の足を少しかけて小さな声で鳴いた。抱っこしてと言っているのがわかった。その夜が彼女と過ごした最後の日。次の日の朝、ぷくは息を引き取っていた。

 

 ペットの葬儀やさんが家まで来てくれて、小さな籠を持ってきてくれた。その籠があまりにも小さくて、彼女が生きた時間の短さを悲しいと思った。


 ぷくぷくに太ってほしい。福がたくさん彼女にきてほしい。そんな願いを込めたぷくという名前。

 両親との別れ、猫との別れを味わった私は、「別れ」がすごく辛いということを知り、その感情を感じたくないと思った。十八歳のときに好きな人がいて、その好きな人から好きだと言われる奇跡があったのに断った。いつか来る別れが怖くて、恋愛する喜びよりも別れの辛さの方に天秤が傾いた。このままずっとひとりで生きていくのだと感じた瞬間、孤独で押しつぶされそうに感じた夜。


 

 カイさんの黒猫の姿は、私がぷくに描いた未来を指していた。キトンブルーの子猫の瞳がどんな風に変化していくのか楽しみだった。ぷくが生きていたら、きっとこんな姿になっていた。

 体を撫でているとカイさんの片耳がぴくりと動き、膝をついていた私の足に自分の前足をかけた。ぷくが生きていた日々と重なって黒猫を抱き上げた。ぺろりと顔を舐められる。大きな音を立てて、黒猫がカイさんになる。


「何泣いてるの?」

「……悲しいことを思い出して」

「思う存分泣け」

「泣くなと言わないの」

「言わない」


 そう言って、壊れ物を大事に扱うように抱きしめてくれた。人のぬくもりは安心感を与えてくれる。両親の笑い声、写真の姿しかぼんやりとしか覚えていない。でも、声ははっきりと聞こえる。私を呼ぶ声、今頃泣いてどうするんだろう。泣いても両親もぷくも帰ってこない。


「今、泣いて明日は少し元気になって、その次の日はもっと元気になって、少しずつ元気になればいい」


 耳元で囁かれて、このフェアリーハウスの人々はおせっかいだけど、何て優しいのだろうと思う。


「メアリーの悲鳴が聞こえた!」


 地獄の底から聞こえてくるようなバートンさんの声。ああ、あの悲鳴が聞こえたのか。ドアは厚くて聞こえるような音量ではなかったはずなのに。キッチンで料理の途中だったらしく、包丁を持っている。すごく急いできたのがわかる。


「おまえか!」

「バートンさん、彼ではありません!」


 両手を広げて、カイさんをかばったのがいけなかった。

 厚手の毛布がはらりと落ちて、カイさんとバートンさんとメアリー、それからこの騒動にドアを開けたクロードに私の体を披露する羽目になってしまった。


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