2. おかえりなさい
「おかえりなさい」
取り囲むようにして、みんな笑顔で私を見ている。
その笑顔がまぶしくて、ゆっくりと瞬きをした。
太陽の乱反射がまぶしくて、実際はどんな顔をしていたのかわからない。
みんな笑顔だと思ったのかは、口々に「よかった」の言葉が聞こえてきたからだ。
ヨガのときに最後に横たわって静かに目をつぶる屍のポーズ。そのポーズをとった後、手足を少しずつ動かし、横になってゆっくりと起き上がる。ヨガのときのようにゆっくりと起き上がらないと現実に戻れない感じ。
目を閉じて、もう一度しっかりと開ける。
上半身を起こすと、置かれている状況が少し見えてきた。老若男女押し合いながら、こちらを見ている。髪の色、瞳の色がみんな違っている。レザーアーマーをつけている人、ワンピースとエプロンをつけた人、さまざまな恰好をした人たちがいる。近くでフェスでもやっているのだろうか。
状況が呑み込めないで、目を閉じたり開いたりするが夢ではなく、現実のようだった。
「みんな道を開けて」
声の方を振り向くと、一台の馬車が止まっているのが見えた。
みんなが口々に領主様、領主様の馬車だと言っている。帽子を取ってお辞儀をして挨拶をしていることから、町の一番のお偉いさんがこちらへ向かってくるようだった。
目の前のたくさんの人がお辞儀をしながら、邪魔にならないように道を開けている。
人の中に埋もれて道に座っているのに、遠くから歩いてくる姿が見えた。
スカーレットの髪は、柔らかい猫っ毛のようにふんわりとしている。トパーズの瞳は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いているようだ。踝までのドレスは、瞳と同じカラーが差し色として使われており、まさしく彼女のための一点物といった感じだ。
領主様の馬車に乗って、私と同じ変わらない年齢の女性と言えば、領主の娘なのかもしれない。
できるならば、面倒なことに巻き込まれたくない。
でも、もうロックオンされている今、どこにも逃げられない。
私にできたことといえば、立ち上がって服についた埃を払い、脱げていた帽子を手に持ち、体裁を整えることしかできなかった。
「おかえりなさい」
手をいきなり繋がれて、帽子を取り落としてしまった。
おかえりなさいと言われたら、私を知っている人物としか思えなかった。
だが心の中では冷静な声が聞こえた。
手のこんだドッキリを仕掛けられたものだ。
私がいたのは、コンビニ。太陽が高く上がっていることからお昼になっていると予測する。昼ということは、ここに運ばれて大がかりなセットの前に立っている。素人にもドッキリを仕掛けるようになってしまったのか。テレビカメラはどこに潜んでいるのだろう。そんなことを考えながら、面白そうなのでこの企画にのることにした。
「おかえりって? ここはどこ?」
「あなたを見た瞬間わかったわ。マーガレット、おかえりなさい」
今、問いと答えがかみ合ってない気がしたが台本通りに役者さんが演じていると思ったら、それも致し方ない。
スカーレットの髪のお人形さんみたいな女性にぎゅっと抱きしめられた。
彼女は泣き出した。
周りの人々も涙ぐんでいる気がする。
みんなが口々に代わる代わる声をかけてくれる。
「いきなりいなくなって心配しましたよ。マーガレット様」
「ご無事でよかった。どちらにいらっしゃったのですか? マーガレット様」
「マーガレット様、おかえりなさい」
私の中でマーガレットというと清楚な白い花が頭に浮かぶ。
自分が呼ばれるような名前ではない。
マーガレット様を連呼されて、穴があったら入りたいほどの衝動が体中を駆け巡った。
真っ赤になりながら、抱きついている彼女から離れる。
私の髪も瞳も黒に近い茶色で、あんな清楚な白さではない。
もう恥ずかしくて無理だ。これ以上、マーガレット様呼びに耐えられる感じがしない。
「あんなところから、ここまでどうやって運んだの」
「やっと名前を呼んでくれたわね。マーガレットにそう呼ばれるのは久しぶりね」
そう言ってまた抱きしめられる。
名前を呼んだためしはない。おかしいと感じて、今の会話のどこに名前が隠れているのかを頭の中で必死に探した。ひらがな文字の名前のような感じはしない。マーガレットというくらいだ。目の前にいる女性もカタカナ呼びのはずだ。
「アンナ」
「はい」
設定集を開いたわけではないのに設定された名前が当たってしまった。
私の心を無視して、物語は刻一刻と進んでいるようだった。
「帰りましょう。私たちの家へ」
アンナが手を引いている方向へ顔を向けると、馬車が目に入った。
馬車に乗った経験がないことから、好奇心と猜疑心の間で振り子のように心が揺れ動いたが好奇心が勝ってしまった。
アンナに導かれるままに馬車に乗った。
馬車は、町を離れてどうやら小高い丘を目指しているようだ。ジグザグにつくられた道をゆっくりと上っていく。
ぼんやりと景色を眺めていたが、町が遠ざかるにつれて、違和感が私の中で大きくなっていった。
町並みは今までに私が見たことのない風景だった。
オレンジ色の屋根と白い壁、黄色の壁、赤い壁。色とりどりの壁は海外の町並みを連想させた。湾の形が優雅なUの字になっていて、海が広がっている。
私たちの乗った馬車が走っているのは、一面のラベンダー畑。紫の絨毯がどこまでも広がっている。
私が記憶喪失になっていない限り、今の季節は三月だ。梅が咲いていた。
今、目の前でラベンダーが満開になっている。この紫の色の花の記憶は五月だったような気がする。気候が暖かすぎて、花が咲く時期を間違えることはあると思うが、春の日はまだ遠く感じるような寒さだった。
胸の鼓動が大きくなっていく。
私の暮らしている町には海はない。どちらかと言えば山側だ。
こんなカラフルな町並みが日本にあるとは思えない。パスポートは作っていないから、勝手に海外に連れ出すことなんて無理だ。
手にじんわりと汗が吹き出てくるのがわかる。全身の毛穴という場所から汗が出てくる。
「ここは何という町なの?」
町の景色から、目が離せなくて、馬車の小さな窓に張り付くようにして問いかける。
「コスツスよ」
日本ではない地名、パスポートを持っていない私が海外に行くことは皆無である。
ここは、まったく違う世界。そう異世界なのか。
あの暗闇から、いきなり明るい場所に投げ出されたような感覚。体だけが先に異世界に行っていて、精神は後から追いついたみたいな感覚。あの感覚が正しかったのだ。
目の前に座っているアンナを見ると、目を伏せている姿が悲しそうに見える。少し涙ぐんでいるのがわかる。
本格的にマーガレットなる人物を待っていた感が伝わってきた。
私はマーガレットではない。その一言を発しようとしたが飲み込んだ。
もう少し状況がわかってからでも遅くない。
石造りの大きな門をくぐり抜けて、見えてきたのは門と同じような石造りの建物、二十以上の部屋数、バルコニーがすべての窓についていた。
アンナは、本物の領主の娘だ。予想が確信に変わった瞬間だった。
「帰りましょう。私たちの家へ」
と言っていた。
マーガレットも同じ領主の娘だ。
そうしないとこんな場所に連れて来られない。
頭の中で警鐘が鳴り響く。一瞬たりともここにいてはいけない。そうしないと取り返しのつかないことになりそうだった。