127. 振り向いてほしい人
夜に泣いたことが嘘みたいに思える朝、目の腫れが現実だということを目の前につきつけて証明している。
顔を洗うと気持ちまでも洗い流された感じになる。
自分の頬を思いっきり叩く。
自分の望んだ道を歩く。
今までは何かエスカレーターのようなものに乗ってしまい、流されていくだけの人生のような気がしていた。
どこかで違う人生を歩んでいるような現実感のない感覚。
これは自分で進む方向を決めた道、選んだ人生だ。
メアリーはもういなくて、クロードが椅子に座って紅茶を飲んでいる。
テーブルの上には、ワンプレートディッシュが用意されている。
クロード家の朝の短縮メニューだということは、一皿という数の少なさからわかった。
トーストとレタスとベーコン、目玉焼きがのっている。
メアリーとクロードが夜にどのくらいの間、話していたのかわかる。
綺麗に並べられた料理をしばらく眺めていた。
メアリーが早起きして作ってくれたのを想像する。
フォークをゆっくりと持つがすぐにテーブルに置いてしまう。
顔をしばらく手で覆い隠していたが、もう一度料理を見ると気を取り直してフォークを持ち上げる。
「いただきます」
一口食べると、黒コショウが口の中で弾けて香りが広がる。
目玉焼きが半熟なので黄身がとろりと流れ出るのをパンにつけて食べる。
最後に紅茶を飲むとため息が零れた。
「ごちそうさまでした」
お皿を洗って、急いで家を出る。
クロードが後ろからついてくるが、それは彼の仕事だから仕方がないと割り切る。
「おはようございます! 親方!」
「おはよう。早いな。親方はやめろ。弟子を取った覚えはない」
「何から始めましょうか?」
目の前に黙って出されたものは、この間の続きだった。
この革の持ち主の人は、きっと困っている。
親方のことだ。これをやり遂げないとすごく怒るだろう。
半端者の烙印を押されそうな気がする。
「今日中に終わらせろ。この間のように針は失うな」
短いけど親方の意図が伝わってくる。道具は使えない。ゆっくりでいいから、一針一針動かすしかなさそうだった。
誰かと自分を比べるのをやめて作業に集中する。
何かに集中する時間があるというのは、余計なことを考えないでいい時間だ。
一日中、針仕事をしていると、すこし麻痺したように人差し指と親指が痛い。
親方が何か話かけてきたが、指の痺れの方に集中していたために聞きそびれてしまった。
「え?」
「だから、何度も言わせるな。知り合いから聞いた話だが、朝ご飯付き、小さな工房付き、物件があるそうだ。借りるか?」
「借ります!」
「何か吹っ切れたようだな」
「いいえ。全然、何も吹っ切れていません」
「でも昨日よりもいい顔をしている」
親方が言うなら、その通りなんだろう。
外のテラスに出ると大きく伸びをする。
クロード家から一歩出て、違う生活が始まる。
メアリーの顔が見れないのは、寂しいが、ひとりの時間が欲しいのも確かだった。
「マユ、勝手に決められては困ります」
「でもクロード、話よく聞いていた? 私が住む場所は、キャルムが借りている家から、外廊下で繋がっている物件らしいのよね。誰かの意志が加わっている気がするけど、そこは甘えさせてもらおうと思うの」
「そうですか……」
工房付きということは、もう独り立ちしろということだ。
「バッグ等のお直しをして、少しは親方の仕事も回してもらえたりするみたいだから。親方も自分の仕事が減って、さらに他のお直しをしてほしいお客様もいなくなって少しは落ち着いて仕事ができるんじゃないかな」
背伸びをすると肩が変な音を立てる。かなり凝り固まっている。
空中に伸ばした手は、カイの胸には届かなかった。
何かが欲しいと思ったら、もぎ取るしかなさそうだった。
左手を見ると約束の印は消えることなく、そこにハッキリと存在している。
自分が欲しいモノは、仕事は手に入った。
もうひとつだけ、どうしても叶えたい願いがある。




