9章
今年は元旦の初日の出が出遅れる幸先の悪い年だった。雨が降ることはなく、曇り空に覆われた一日なんて生きていれば何度だって出会う日に過ぎず、例えばその日が誕生日だったとしても結婚記念日だったとしても誰かにとって悲しい程度で済むのに、年の始まりだとそうはいかない。不吉な何かを煽るようなコメントが流布するのを、俺は勿論馬鹿馬鹿しいと感じていたのだが、実際幸先の悪い事はいくつもあった。
地元には帰らなかった。年末年始は仕事が一旦片付いたタイミングで大学も年末休みに入ったので一週間ほどオフの日があったのだが、仕事が増えたため授業の欠席が増えて前期を上回るほど出席点が致命的なことになった。そのためテストやレポートの必要点が高くなり、課題に追われていた。それでも琳や大学の友人が課題を手伝いに来てくれて、息抜きもした。琳の課題慣れした手際に驚き、卒論はどうかと尋ねた。
「完成してる」
呆れた口調には彼の矜持が窺える。俺が仕事にかける思いを彼は大学に向けていた。同じ時を過ごしたことのある人と、今は全く違う道を生きている。そのことに、僅かばかりの感傷を受けた。三田光莉とのプレゼンも、教授からそれなりの評価を貰えた。授業終わりに笑顔でお礼を言い合った彼女に対して、きっと二度と言葉を交わすことはないのだろうと感じた。それが俺たちの正しい距離感だった。
年が明けた二日の夜、成瀬主演で幕末を舞台にした二時間ドラマが放送され、リアルタイムで観た。局を挙げた一大プロジェクトとして幾度となくCMをうっていた。番宣にも何度も出て、俺はそのすべてをチェックした。さわやかな笑顔でワイプに映る成瀬を見ながら、無理しているなと分析する。成瀬のことを掘り下げる番組が流れる度に、成瀬の淡白さを思い出した。個人的なことを成瀬が話す度、公式プロフィールに趣味嗜好が追加されていき、その内容がSNSを賑わす。ファンや世間が知った気になる成瀬の、言葉で理解できる情報を、俺は別に欲しいと思わない。でも、都度騒ぎ出すSNSを深追いする悪癖がすっかり抜けなくなっていた。
しかし、ドラマは希望の数字に届かない視聴率に終わり、ドラマについてよりも成瀬の人気に対する揶揄が週刊誌を賑わせた。爆死、、大コケなどの言葉が使われ、人気に陰りだの、黒歴史だの言いたい放題をされていた。ファンはしきりに、内容が良くなかった、主題が悪い、裏番組が高視聴率だったなどと成瀬を庇うコメントで対抗するけれど、数字というのは一番の指標であり、様々なバイアスにまで心は向かない。
表面だって成瀬は落ち込んだ様子は見せなかった。気丈な振りは勿論上手な人だった。しかし、彼は痩せた。明け方四時のメールに返事が来たときは、最近眠れていないということを遠回しに吐露した。電話口で、俊に隠し事はできないね、と乾いた声で言ったけれど、それが成瀬の救いであればいいと、願うことしか出来なかった。
奇しくも一月中旬に成瀬は二十歳になった。彼は当日ドラマの撮影で、現場で誕生日を祝ってもらったという内容のコメントと共に、やたら飾りの多いケーキをSNSにアップしていた。成瀬は甘いものがほとんど食べられないと知っているから、それはただの形式的なお祝いだった。しかし、写真の中で一緒に微笑んでいたうちの何人がそのことを知っていたのだろう。とんでもない量のファンが横並びに祝福のコメントを並べているのを、俺は大学の恐ろしく暇な授業中にこっそりと、冷ややかな気分で見ていた。
その日の夜、俺は成瀬に呼ばれて彼の家に行った。深夜に呼び出す相手が俺でいいのだろうかと思いながら、彼がそうするしかない人間であることが俺の原動力でもあった。成瀬に求められていたいし、成瀬の隣にいられる存在に、本当はなりたい。
吉田との一件以来、俺は意図的に成瀬との関係は伏せている。事務所の意向だった。一日に一回は連絡を取り合い、月に一度は顔を合わせているけれど、SNSやインタビューでは一切、彼の気配を出さないようにしていた。
二十歳になったプレゼントに貰ったというワインを、彼は困ったと言いながら見つめていた。
「飲めばいいじゃん」
俺は一年という年齢の差を恨めしく思っていた。
「興味ないんだよね」
本当にどうでもよさそうな口調だった。これを受け取るときに浮かべただろう白々しい笑顔を想像し、つい笑ってしまう。そんな俺を見つめる目は、恐ろしく無感情だった。成瀬が最近笑わなくなったことを知っているのも、おそらく俺だけだろう。成瀬は他人に対して常に愛想笑いを張り付けている男だった。
俺はすっかり困ってしまった。窓を数センチ開けて暖房を効かせた部屋に静かな空気を送り込む。細く入り込む空気が恐ろしく冷たくて、それをわざとらしく騒いでソファに腰かけていた成瀬の隣に座る。広々とした部屋で距離感を無くし、傍にいることを務める。
「俺の誕生日知ってる?」
首を捻って顔を覗き込む。肌がざらっと乾燥して荒れている上に、無理やりファンデーションを塗っている。痛そうで痛々しくて、見てられないのに目が離せない。
「五月五日、こどもの日でしょ?」
「知ってるんだ」
本心から驚いたけれど、でも妙に納得もする。
「似合うなぁって」
成瀬が俺の頭に顎を載せる。
成瀬は警戒心が強いけれど、その分受け入れた人への依存が存外強い。
成瀬は自分から距離を詰めることはないけれど、詰められた距離の中では自由に振舞う。
結局のところ、彼は根っからの優等生なのだ。貰った愛情は返さなければ気が済まないし、よくしてくれる人の期待は裏切れない。違和感があっても悪く言うことはできないし、人を知ってしまうと嫌いになることもできない。
「俺が二十歳になったら、一緒に飲もうよ」
成瀬の肩に寄り掛かると、さっきあげたばかりの香水が強く香った。プレゼントは何が良いか尋ねたら、任せるといわれたので、香水をチョイスしたのだ。
「俊の趣味で決めて欲しい」
俺はどこかで、気を使わないでいいよと言われると思っていた。そういわれなかったことが、俺にとってはある種の救いとなり、俄然やる気に満ちるのだった。
デパートの一階の化粧品売り場は子供のころは通る度に押し寄せる人工的な匂いに息苦しさを感じていたというのに、そこで鼻を利かせていくつもある香水の中から、気に入った一本を選んだ。女性ものにしようと最初から思っていた。彼を飾るのなら、女性もの以外にあり得ない。
店員がラッピングしながら、彼女さんにですかとさりげなく尋ねてきた。ベテランの風格で特に興味はなさそうに、あくまで接客の一環としての問いだった。俺を知らない顔だったから、違いますと笑顔で返した。
そのときの、言いようのない高揚感。他人への感情で満たされるという感覚は、成瀬以外に感じたことはなかった。例えばもしも俺が熱心な信仰心を持つ教徒だとすれば、与え続け祈り続けることで満たされていたのかもしれない。成瀬から与えられているものは形容し難い。ただ、成瀬の体温に生かされている自分を、俺はただひたすらに知っていた。
「俊が二十歳、か。それもいいね」
静かな同意だったけれど、彼の中に漠然とした空感ができたのが分かる。
「じゃぁ、これは俊の誕生日まで取っておこうか」
成瀬は言うが早いか、ワインボトルを掴んでキッチンの戸棚の一番下の段にしまってしまった。重厚感のある扉がずっしりとした音を立てる。あっさり離れた肌に、触れあっていた面が熱を失い急激に寒さが身体中を襲った。
「あ、そうだ」
日付が変わる直前に、俺は成瀬の手を取った。首を傾げる彼の薄い手のひらに、人差し指で文字を書いた。くすぐったいと笑いながら、成瀬は一文字ずつ声に出した。
「お、め、で、と、う」
最初に言ったとか、最後になったとか、別にそんなのを気にするような年じゃない。でも、彼の手を取る必要はあった。心無い言葉と同じ通り道で届く祝いの言葉に心からの意味があるというのなら、彼の手を取れる距離にいる俺の言葉が一番彼に響くはずだ、と思いながら。
同じ空気に触れながら、成瀬の手はやはり冷たかった。ありがとうと笑顔で言った成瀬は俺の右手を引き、されるがままの俺を香水が感じる距離まで引き寄せた。
一度成功したことがそう長く続かないことは承知の上でも、事務所にとって商品である俺たちは売れる時に売られる。
夏に向け、次のユニット曲の話が来た。もう出すのかと驚きと期待が上がる一方で、短期間で爆発的に売り込んでしまうと飽きられるのも早くなる。俺と成瀬のユニットはもともと期間限定の予定だろうから、売れるだけ売ってしまおうという魂胆は無論理解はしている。
複雑な思いは乱れ染めのように広がっている。問題は、俺と成瀬の間に出来たパイプが事務所の考えに反して強くなり過ぎたことだ。
炎上すれば群がる悪意の野次馬達は、つい最近週刊誌がすっぱ抜いたばかりの不倫記事に集っている。芸能人同士の不倫で、男の方は結婚をしていた。奥さんが可哀そう、というけれど、本当にそう思うのなら触らないことが賢明だろう。不特定多数の人間がいう「可哀そう」が施してくれるものなどない。他人の家庭の話に善人ぶって口出しした結果が「可哀そう」の一言なら、それは誰かのためじゃなく自分のための言葉だ。
初夏に似合う明るい曲にしたい、という社長の意思を汲んで、次の曲はアップテンポにするらしい。夏らしさを誘う単語をいくつか広げ、題材決めに俺たちは加わった。アイドル系統にするのか、クールな雰囲気を推し進めるのか、見極めようとする鋭い大人たちの眼差しを受けながら、俺と成瀬は何が来ても構わないと言った。成瀬となら、どんなものでもやっていけると思っていた。
曲が決まり、衣装を決めようという段階になり、しかしこの計画は白紙になった。
成瀬がついに、週刊誌に売られた。そのことを冷静に思い返すと、むしろ成瀬の潔白だった日々の長さに驚かされるくらいだったが、主演作が上手くいかなかったタイミングで出されたことによる打撃は、成瀬を打ち砕くには十分だった。
深夜の突然の電話で、俺は成瀬本人からそのことを知らされた。
「過去の女に写真を売られた」
投げやりな口調だった。焦りや憔悴があるかと思ったが、そうするには彼は冷静な男だった。どこにいるかと尋ねると家だというから会いに行っていいかと聞くと、僅かな間ができた。本当に静かな間だった。やがて、どこではられているかわからないからと煮え切らない言葉が返ってきた。たまらずに奇襲をかけた。
マンションを囲う、桜の木。まだ寒さの残る風に、葉のない幹が寂しく見える。蕾も、花も勿論咲いていない。だから誰も、見向きはしない。
インターフォン越しに感じた成瀬の困惑は、抱きしめられたときに俺の幸福へと昇華された。今の成瀬には、俺が傍にいることで気丈に振舞っていてほしくて、俺が傍にいることで弱さに正直でいてほしかった。
「真面目に、いい子ちゃんでいたことが仇になった。好印象だとか、好青年なんていい顔していたから、落差でこのざまだね」
まるで彼は自身に言い聞かせるように、力のない口調だった。口をはさむ暇を俺には与えず、たとえ彼が言葉を探していないとしても、俺は言葉を失っていた。
相変わらず殺風景な部屋の床は、冷たい。暖房のお陰でうわべだけ暖かくなっていくのに、いつまで経っても手足に血が廻らない。テレビもつけず、曲が流れるわけでもない。静かで呼吸の音がしない空 虚な空間だった。
俺は何かを変えなければと悩んだ挙句、勝手に棚を開け、ワインを取り出した。一緒に飲むと約束したワイン。グラスに注ぐと、芳醇な香りが鼻先にむせそうなほど強く香った。一年という年齢差を意識しなくても、思い知らされる瞬間がある。どれだけ近づいても、それを蜃気楼だったと気付かされる瞬間がある。でも、俺にとって成瀬が夢現な存在だっというのなら、写し絵の方が遥かに俺の心に近かったのかもしれない。
グラスを突き出すと、成瀬は意味が分からないという顔をした。俺が強い言葉で飲むように言うと、彼は困惑したままだったが大人しく口にした。たいしておいしくないと、呟きながら。
俺はそんな成瀬を横目に、頭の中で、よくなぞった言葉が成瀬に向くところを想像する。
『真面目で一生懸命なイメージだったのに、人並みに遊んでるんだね』
『なんか冷めたかも』
『写真を売るような女と付き合ってたってところが感じ悪い』
『正統派のイメージはこれで終わり』
悪意は人のささくれに爪を立てる。成瀬が大嫌いな人はあまりいないかもしれない。でも、彼の好感度を快く思っていない人はいくらでもいる。栄華を極めた彼の足元を崩したくて仕方ない、無作為な悪意の蓋が一度開けられてしまえば底が知れない。
ネットはすでにゴミ箱と化している。無責任な言葉を好き勝手に置き去られ、それを否応なしに目にする人が必ずいる。焼き増した言葉に胸焼けしながら、もとは誰の悪意だったかなんてわかりようもない。
「真面目でいるなんて、得なことはないね」
彼の嘆きが、この騒動のすべてだった気がした。
彼は、売り時の為に大学を諦めた。イメージの為に、常に品行方正に生きていた。舞台で肉体の限界まで身体をはろうとも、そんなところは評価されない。そのひとつひとつに真剣に向かい合ってしまう真面目さが、いま彼を裏切っている。
「真面目でいれば安泰だって、ずっと思ってた。明るいキャラクターじゃない自覚はあったし、バラエティーに出ても気の利いたコメントもできない、汚れ仕事もできない。面白くない、個性がない。そんな風に言われるだけ。それでもそれでいいと思って身を潔白にしていても、女が写真を売ればすべてが壊れる」
アルコールの力を借りて、彼は妙に饒舌だった。彼の中に生々しい鈍色が広がっているのが分かる。
彼は俺に嫉妬をしているのだ、と頭の隅で理解した。
真面目を取り柄に努力した彼は、炎上慣れした俺ならば打撃は少ないと考えているらしい。言外に、彼はそういっている。今までも、彼はそう匂わせ、示唆していた。意図的ですらあった。軽薄そう、不真面目そう、裏で何かやっていそう。勝手に自分から斜めの方に移動して俺を見た意見に、彼はそれでいいという顔をした。与えられていた言葉たちが星座を作るように線で繋がると、彼に対する愛しさと憐れみで、呼吸が乱れた。
でも、その息苦しさの理由の一つは、俺の嫉妬心だ。成瀬に近かった女の存在。成瀬の内側に入り込み、その上成瀬のすべてを金で売った女。俺の知らない成瀬を、知っているだろう女。
どんな言葉が届いたとしても、俺が成瀬に触れられる唯一であれば、その全てを忘れることが出来た。成瀬に触れられるのは俺だけだと思っていたのを、勘違いに終わらせるわけにはいかない。
唇を噛む。その仕草で辛うじて、成瀬への衝動的な気持ちを抑える。
成瀬の方から懐に入れてきたのだ。成瀬は厚手のタートルネックを着ていた。シルバーネックレスがダイヤモンドをちらつかせながら揺れている。役の為に痩せた身体はまだ体重を戻せていないらしく、食事にでも連れだしたいのに俺も成瀬も自由の許されない状況下にあった。
成瀬のため息がまだ冷たい二月の風に溶けていく。暦の上の春なんて、何の暖かさもつれてはこない。
成瀬を神格化し俺を貶めた人達全員、己の放った言葉に苦悩すればいいという醜い感情が沸き起こる。この件で好きなだけ成瀬に失望すればいい。想像で塗り固めた成瀬を、画面越しで近しく錯覚した代償だ。
齟齬の分だけ、俺は成瀬の心に入れる。各方面から来る言葉に、目線に、どうせ成瀬は傷を負う。優等生として持て囃されていた分だけ、彼は苦しむ。そんな手負いの成瀬に、俺は変わらずの信頼と、可愛らしさを与え続ける。より露骨に世界を遠ざける成瀬の心の内側に入り込んでいる俺は、彼にとっての安全地帯だった。
薄々感じていた通り、成瀬は単純にアルコールに弱かった。たった一杯のグラスで、彼の白い肌は覗く限り赤に染まっていた。とりわけ血管周りが浮き出る様に色を変えていて、触れると驚くほどに熱を持っていた。絡めた指先を戯れさせながら、成瀬は俺の名前を呼んだ。
「俊」
目があう。彼の白目に射した赤が、充血なのかアルコールのせいかは定かではなかったけれど、俺はたまらない気分で彼の瞼を手のひらで覆い、視界を塞いだ。彼の眼に映るものが美しくないのなら、彼の目を奪ってしまえばいい。手のひらに彼のまつげがかすった気がして少し手を遠ざけながら、顔を近づける。
成瀬の唇は冷たくて、すこしだけワインの香りがした。