8章
撮影が終わったとき、夜の八時を回っていた。大型スタジオを出ると町がネオンの明かりに包まれていて、クリスマスの存在を思い出した。
いつものように帰りの車の中でSNSをチェックしていると、どこから湧いてくるのか、新たに粘着質のある長文で俺に対する文句を述べていたアカウントを見つける。それに対して俺のファンが喧嘩を買って反論する。見ていて気分が悪くなって馬鹿馬鹿しくなって、何かの糸が切れた。
マネージャーにアパートの前で下ろしてもらい、部屋に帰ることなく吉田に電話をかけた。すぐに出た彼は、都内の居酒屋で後輩と飲んでいるという。合流していいか尋ねると、彼は渋るように唸った。
「お前、イメージ大事にしろってあれほど言ったじゃん」
吉田が俺の為に言葉を選んでいると理解できるから、笑ってしまう。
「俺のイメージ?成瀬のお飾り?成瀬の足枷?」
「俊…。疲れてる?」
「話聞いてよ」
吉田はさんざん悩んだ挙句、家に来いと言った。
「未成年のお前を居酒屋に呼び出したら、俺の首が飛ぶ」
と付け足して。
指先をポケットに突っこんだまま、俺はのんびりと駅までの道を歩いた。すれ違う人が皆一様に、首をすくめて誰にも何にも目をくれずに家路を急いでいるのを眺め、皆がこんな風に自分の目的にだけ忠実であればいいのにと思う。多少気に障っても、気にかかっても、無駄なことを言わずに自分の運命線に交わるもの、琴線に触れるものだけを相手にすればいいのに。
電車に乗ると一転、馬鹿みたいに効かせた暖房で、肌着に薄っすら汗が乗りそうなほどだった。皆が携帯を眺めているのだなと、観察しながら、その視線に俺がいるかもしれない、俺を貶めるコメントに内心賛同しているのかもしれないと思うと、内側から嫌悪感と不信感で熱を持った。
「お前はほんとに、身勝手だよな」
吉田は一人だった。聞けば、一人で飲み会を抜けだしたという。まだ一杯しか飲んでいないと恨めしそうに言うが、表情の端に俺を気に掛ける色が窺えた。
「そうやって、しょうがないって顔しながら受け入れてくれるところ、俺は知ってるから」
吉田の家には何度か来たことがある。彼は全く片付けのできない性格なので、部屋は荒れ放題、理性的でもない。欲望をかき集めてそのまままき散らしたような空間だと感じながら、何故か心地いいと感じた。ここにあるもの全てが自堕落の呼吸を見せているのだから、俺が綺麗でいる必要もないのだと思うと、ここには居場所がある気がした。ソファに座っている吉田にこっそりカメラを向けて、俺が一番近しいと思えるだらしない格好の彼をカメラに収める。
成瀬の隣にいることに、疲れ始めた。成瀬の存在に救われ、同じくらいの痛みを味わっている。成瀬の傷に触れて、成瀬の傷に共鳴させた己自身が、何故か知らない他人に壊されていく。いっそ距離を置けば救われるのかも知れないと思う。そうなるうえで問題になるのは、俺が成瀬を手放せないことだった。表向き優等生、清廉潔白な彼の、直ぐに弱る裏側と絶対表には出さないに憂鬱に触れてしまい分かり合ってしまった俺には、もう成瀬を遠ざける理由も度胸もなかった。
吉田の写真に、コメントを添える。
『同じ事務所の吉田先輩のお家にお邪魔してるよ!相変わらずの、地獄絵図』
衝動的に、投稿のボタンを押す。
俊、と呼ばれ、俺は携帯をコートのポケットに入れ、彼の隣に腰かけた。
厳重注意を受けながら、そう成る予感がなかったわけじゃないとぼんやりとする頭で考えた。
「なんでこんなことしたの」
悲痛なマネージャーの叫び声にも、むしろ這い上がれない程度まで壊してほしかったのだとはいえなかった。
限界だった。そういえば何か変えてくれただろうか。どうしようもなかったのだ。たとえ悪い方に働くと知っていても、この状況に耐え続ける気力は残っていなかったのだ。突発的な破壊衝動を誰かに説明をするほど難しいことはない。そこに至るまでの長いストーリーに、誰も興味はないのだから。
「このイメージ損失は、相当でかいよ」
かれこれ一時間に及ぶ小言に、俺は一切言葉を返していない。時折、マネージャーが言葉を求めて間をとるが、それを社長が嫌みで埋めてきた。
「やんちゃなキャラクターと羽目を外すことの違いもわからないヤツとは思わなかった」
こうも言った。
「せっかくいい大学で頑張ってるのも、これで水の泡だ」
俺は誰の為に、何の為に、何を頑張っていたのだろう。
吉田の家に行った次の日の朝、目覚めると俺のSNSが大炎上をしていた。嘗てない大騒ぎで、どうやら吉田との関わりに世間は引っ掛かりを覚えたらしい。吉田は嫌われというジャンルにいる存在だから、彼に関わることは悪とみなされる。
腰の低い吉田を知らない、陰で努力している吉田を知らない、俺を受け入れてくれる吉田を知らない、誰かの言葉。ネットで発した言葉の行先はどこになるのだろう。一生画面の中に張り付いているのなら、いっそ生きている言葉になってくれと思う。書き込んで消化される思いに、こんなにも深く傷跡を残されたくはない。
燃えていると悟ったとき、直ぐに思い浮かべたのが成瀬だった。マネージャーや事務所からの電話、家族友人からの電話履歴の中から成瀬のものはないかと遡ってみたが、見つけることは出来なかった。そのことにひどく落胆すると同時に、それでも今欲しいのは成瀬の存在だと思ったのは、自分でも不思議なことだった。
その後は迎えに来たマネージャーの車で事務所まで向かい、十二分な説教を食らい、今後の禁止事項を通達されるまで拘束の身となった。
今回の件はあくまで事務所の先輩と会っていただけなので、勿論表立っての罰則はない。ただ、事務所によってつくっていたキャラクターに瑕がついたという意味では、十分に重罪だった。
気が遠くなるほどの説教を食らった後、マネージャーが車で送っていくと申し出た。勿論、そんなことを受け付ける気にもならず、あしらうように右手を振ったが、その手を思いのほか強い力で引かれ、送迎者に押し込まれる。
「痛い」
わざとらしく掴まれた二の腕をさすりながら文句を言うが、彼は聞いておらず、何故か一緒に車に乗り込み、隣に腰かけた。清潔な柔軟剤の香りが、車独特のこもった空気の中で潔癖な空気を纏っていた。そういえば香水付け忘れたなと頭の隅で考えていると、マネージャーがすっかり苦い表情でじっとこちらを見てきた。
「何?」
不機嫌な声で問う。張り詰めた空気の中でも、彼にならまだ強がっていたかった。
「内海君。もう、止めようね」
「何を?」
「こういう事の全部だよ」
「意味わかんない」
声が震えないように何度も嚥下を繰り返しながら答える。それでも、瞼が軽い痙攣をおこしていると、指先が冷たくなっていく。むきになって手を握り込んでみても、自分自身を欺いて、自分自身は騙されてくれなくて、ただの一人芝居だと知っている。
「今の内海君は、結婚に反対されて盛り上がってしまっているようなものだよ」
「従順な奴がよかったなって思ってるの?」
目が合うと、彼は困ったように笑った。口元が全く笑ってなくて、優しくしようと心がけていてくれるのが分かるから、どうしようもなくなってしまうのだ。
本当の俺は、他人の好意に弱いんだ。
「この世の中はさ、無言は肯定なんだよね。いい時も、悪い時も。サイレントマジョリティーなんて言葉もあるくらいだし、否定は声を上げるものだけど肯定ならわざわざ声を上げない、という暗黙の了解があるんだよね。
今君に届いている否定の何倍もの肯定が、世の中にあるんだよ。何となく好き、ぐらいじゃわざわざ言葉にしないし、君に熱心に言葉を届けないだけで好意的に思ってくれている人はたくさんいる」
彼の声は良く通る。舞台を多く経験したせいか声を張り上げなくても音が落ちず、雑な音に邪魔されることもなく滑らかに耳に届く。そのせいだろうか、妙に耳心地だけが良くて上っ面に感じてしまう。
「そうは言うけどさ、無いものをどう信じればいいの?」
「信じなくたって、疑わないことはできるよ」
嫌みのない言葉選びだった。ずるいなぁと、何故か穏やかな気分で思った。彼の言っていることに間違いはないし、自己防衛の観念は絶対的に必要だ。
でも、彼は舞台俳優だったから。お金を払って舞台を観劇しに来た人のふるいにしかかけられていない。そして原田の言葉を借りるのなら、払ってくれたお金に見合わなかった部分の批判なら、受け容れられる。結果の否定と人間の性質の批判は全くの別物だ。
目の横をよぎっただけの羽虫に執着する人なんていないだろうに、対象が人間となればそうはいかないらしい。
「炎上することに慣れちゃだめだよ。悪意をはねつけない弱さに流されて、忠告まで流してしまったらだめだよ」
マネージャーのしっかり絞められたネクタイの結び目の綺麗な逆三角。少し手をかけたくらいじゃ解けない正確な結び方は、俺も高校時代にブレザーだったから知っている。そういえば高校によっては、既に結んであるネクタイを首にかけるだけでいいらしい。楽をさせるためじゃなくて、ネクタイを緩ませないように。飛行機に乗る手続きも携帯電話の設定も複雑化していく一方なのに、片や簡素化して行動を縛り付ける。
他人の都合に、振り回される。
「自分に意見する者すべてを排除しようとするのは間違いだよ。君が好きだからこそキミに間違えて欲しくないファンのことまで否定してはいけないよ」
俺は曖昧な気持ちでその言葉を聞いていた。反論したい気持ちが偏頭痛のように波うって押し寄せてくるけれど、自分の弱い部分がすこしずつ削られていっている気がして、今はもう解放されたい気持ちでいっぱいだった。
目に見えないものを信じることも、目に見えないものに期待をすることも、目に見えない悪意に向き合うことも、どうせなら一緒くたにして投げ捨ててしまいたかった。
俺は結局、今日から三か月の間すべての行動をマネージャーに報告することを義務付けられた。事無きは得たと思う。所詮ネットの中で騒ぎになったところで、法にも触れなきゃ倫理に反したわけでもない。ボヤ騒ぎにマッチとライターを手にした人間が押し寄せれば騒ぎが大事になる、それだけのは話だ。
何より、俺は解放感で麻痺していた。大騒ぎになればなるほど、俺は壊れていく「内海俊」の存在を傍観し、手放せた気分に浸った。見当違いに貶められる言葉も、容姿に対する容赦ない中傷も、成瀬ファンのそれ見たことかと言う暴言も、一言二言の方が痛みになる。集団心理でことが大きくなっている分には、それを纏めて放棄することができた。
この件を隔て、俺のチャラついたキャラクターイメージは一層濃いものとなった。すっかり毒々しいイメージにはなってしまったが、一方で名前を知る者が増えていく。
成瀬とは少ないながらも途切れずに連絡を取り合っていたが、彼の方からこの件については一切触れてこなかった。
成瀬になら、言い訳ではない本心を語れると思ったのかもしれない。大人への機械的な説明をするのではなくて、社会規範を盾に自分の正義を説くのではなくて、自分の言葉で自分が感じたことを話せるのではないか。そんな空想に耽りながら、一向に成瀬の存在は近くに感じられない。
誰の手によって遠ざけられてしまったのだろう。成瀬の手も声も表情も、もう二度と手にできない気がした。
嫌われ者の気楽さを一度知ってしまうと、むしろそうであることに忠実になる。それは自分と乖離した存在だからだと理解するのに、あまり時間はかからなかった。
自分の意志に意図的にベールをかけ始めたころ、琳が遊びに来た。少し前まではしょっちゅう来てくれていた彼だが、ここのところは卒論に追われていたという。
「卒論書きながら、お前の曲何度も聞いてたよ」
俺と成瀬のユニット曲は相変わらず様々なチャートの上位に食い込む。話題は上々、歌唱力と表現力への賛辞の言葉をたくさん貰った。あの炎上騒ぎも、成瀬と俺の関係性もどうでもよく、ただ曲を評価してくれる声は、有難かった。
「昔から歌い方が全然変わってなくて、嬉しかったよ」
「どういうこと?」
差し入れでもらったが食べずに持ち帰ったサンドイッチとフルーツに、琳が買ってきたコーラを並べ、身体にいいのか悪いのかわからない食事にする。
「ほら、よくアーティストとかって、他人に影響されたり試行錯誤の上に変な歌い方を覚えちゃう人っているじゃん。癖の強い歌い方をする人」
「あぁ」
ベッドの上で胡坐をかき、琳はきびきびとした声で話す。まるでプレゼンだ、と思った。
「俺は俊の癖がなくて響く歌声がすごく好きだし、ビブラートも好き。だから、変に小手先の技を覚えたりしたらどうしようって、心配してたんだ」
照れるべきかお礼を言うべきか悩んで、なんだそれ、と返した。相手の喜びそうな対応をしようかと少しでも考えた自分を、俺は酷く嫌らしく感じた。
「でも、最近のキャラ変はどうかと思う」
すっと目を細め、何かを射抜くような視線を送る彼に、直ぐに、彼は俺を諫めるためにわざわざ訪ねてきたのだと悟った。
「別に、実際名前が売れてるし、いいだろ」
俺はぶっきらぼうに、立膝をついて膝頭に頬をつける。膝も頬も冷たかった。どちらも同じくらい冷たいのに、冷たいとわかるのは何故だろう。
「よくないよ。お前はそんな風に、感情論で上げ下げされるような人材じゃないよ」
俺はずっとお前に売れて欲しかったんだ。
彼から与えられる真摯な感情と、真っ直ぐな視線が痛くて、俺は顔を背けて早く終われと願う。文字だけならば耐えられる。目の上を滑っただけの感情ならば俺はもう既に受け流す手段を手にしたけれど、声にも表情にも感情を乗せられてしまったら、俺はまだ揺るがされてしまう。
「昔から、お前は場の空気をよく読んで、周りに気を使っていた。そりゃ、まぁ確かに毒舌だなって思うところはあったけど、余りある情の篤さも感じてた。俺が年の離れた最年長だったから、いじられ役を甘んじてるって知って、お前は度を超えないように影でグループをコントロールしてくれてただろ。俺はそれが嬉しかったんだ」
こんなにも真剣に俺に向き合ってくれる人がいたんだなと思うと、自然と苦しさを覚えた。だけどもう既に、言葉を響かせまいとした俺の心には、琳の真剣さは不思議に映った。未だに誹謗中傷は鋭く心に差し込むというのに、ありがとうと言われても笑顔一つ作れなくなっていた。
「今からでも遅くないと思う。もう、あんな風にネットに餌を蒔くようなことしないでよ」
最後は懇願だった。ほんの少し顔を動かして、琳を見た。傾けたまま投げかけた視線では、琳の表情を正確には読み取れない。
「遅いよ、もう。今更何しても、非難されるだけだよ、それこそ、嘲笑を買う。弁明だ、好感度狙いだ、そんなことを言われるだけ」
言葉にすることで、澱のように溜まっていた雑念が、形を持って俺に対峙した。
「俺が幸せでも不幸でも本当はどうでもいいやつらが、俺の不幸を願っている。人間は潜在的に他人の不幸を保険に持っていたいんだ。相対的に、己が幸福であるために。でも、善良である誰かの不幸を願うわけにはいかない。抑々、何処かの誰かが不幸でも、それを知る由もないからな。だから、不幸を願いやすい誰かを探してるんだよ。こいつは叩いてもいい、だってこんなにも叩く要素があるんだから、ってな」
ファンは増えたはずなのに、好きという声も増えたはずなのに、それだけでは悪意の言葉は相殺できなかった。好きを笠に着たお節介も、簡単に届く。
琳は軽快な会話をいくつも持ってきた。聞いていると楽しい気持ちを少し思い出して一緒に笑うこともできたけれど、優斗のことを切り出すことはできなかった。