7章
雑誌の撮影現場で、思いがけない人と出会った。
重たいコートを着てアイドル雑誌の一ページを割り当てられた俺は、撮影後に簡単な取材に応じていた。好きなタイプは、なんて甘ったるい質問の羅列。恋愛系のネタは何処の媒体でも人気があるらしく、幾度となく聞かれてきた。勿論明確な人物像を想像してものをいう事など今までは一度もなかったのだが、見た目の話はともかく性格的な好みを聞かれると、どうしたって頭の隅に浮かんでしまうシルエットがある。
明るい人との相性がいいと思っていた。自分の軽率さを薄めてくれる相手を選ぶのが自分の恋愛観だとばかり思ってきた。それは勿論、恋愛だけじゃなくて人間関係を通して当たり障りなく人との繋がりを程よく持っていればいいと思っていたはずなのに、お堅くて弱気なくせに芯は通った人間と関わることで、自分の中にその類の落ち着きを見出せた気がして、俺は自分自身を見つめ直した。人に好意的に見てもらえる愉悦、潔白だと胸を張れる幸福感。ナルシストと揶揄される自己愛とは違った、自分自身ヘの信頼。教えてくれる幾つもの背中が、有難かった。
取材後にマネージャーの車に戻ろうと駐車場に行くと、小柄な少年とすれ違った。
「俊」
名前を呼ばれて振り向くと、懐かしい顔があった。
会うのは実に四年ぶり。アイドル時代に同じグループに所属していた後輩の優斗だった。
「え、久しぶり」
小学生のときから記憶が更新されていないのだから当然と言えば当然だが、顔つきがまるで大人になっていて驚いた。名前を呼んでもらえなければ気付かなかった。
少し話が出来そうな雰囲気だったので、マネージャーには先に帰ってもらった。薄暗い駐車場ではなんだからと、近くのカフェに入る。
外を歩くと、街並みが柔らかな色合いになってきたけれど、風は冷たさを増した。
「まさかこんなところで会えるとは、思わなかった」
思いがけない再開に気持ちが上がり、心を込めて言うと、彼はにこやかに笑った。笑った時に目にしわが寄る感じは、小学生時代から変わっていない。
「俺は、直ぐに会えるだろうなって思ったよ」
「優斗は、何しているの?」
「俊と同じだよ。俳優業やってる。でも、何方かと言えば舞台が中心かな」
コーヒーのストローをすする横顔がシャープで、すっかり垢抜けた姿に驚きが隠せなかった。
「舞台?すごいな」
「すごかないよ。テレビにばんばん出てる俊の方が、よっぽどすごい」
彼の口調はやや冷かだったので、俺は口をつぐんだ。
舞台の大変さはマネジャーにも成瀬にも聞いているし、培う力は相当なものだと思うけれど、事務所の力で初めからテレビ系の仕事ばかりの俺を快く思っていない雰囲気を察してしまったので、これ以上は何も言えなかった。
「他のメンバーとは、連絡とってる?」
「うーん。今は、もうないな」
今は、という口調に引っかかった。
「昔は結構連絡してた?」
優斗はおしぼり用のペーパーで指先を拭いながら、まあねと曖昧に笑った。
「俺たちのうち、この業界に残ったのは、俺と俊だけだよ」
「え?」
「抑々、地方アイドルやってただけで、芸能人でも何でもない。あのグループは俊が掘り出されたから芸能界の一部くらいに計算されるかもしれないけど、そうじゃなきゃ部活の延長だよ」
あまりに辛辣な言葉が並ぶので、俺は言葉を返せずに戸惑い、持て余したリアクションをココアで飲み下した。
「皆それなりに事務所探しもしたけど、やっぱ形にはならないね。俊の活躍観たらモチベーションも下がるし、お前だけが特別だったんだよ」
「そんなことないだろ。確かに運は良かったけど…」
「けど?」
優斗の口調が鋭く、俺は押し黙る形で首を横に振った。
「同じステージに立っていたけど、お前だけが引き抜かれた。残酷な世界だと思わないか?当時俺は小学生だったから俊のことを凄いとしか思わなかったけれど、今になっていろいろ察する。実際にお前は売れてるし、スカウトの見る目って確かなんだな」
きっぱりとした口調で言い切られると、反論の言葉を探せない。
沈黙すると、店内の落ち着き払ったジャズの音がやけに響いて聞こえた。木目調のテーブルを目線でなぞっていると、不意に虚しさを覚えた。
「琳には会ってる?」
頭に浮かんだ優しい笑顔を思って尋ねると、優斗は首を横に振った。
「知らない。今どこで、何をしてるかも」
意外に思って眉をひそめる。面倒見のいい琳が、他のメンバーと音信不通になっているのは意外だった。
「琳は、俊のこと好きだったよね」
思い出話をする口調だった。
「時効だと思うからいうけどさ」
優斗は持っていたカップを置き、切り出した。
「俊が今の事務所に引き抜かれるとき、俺たちは解散しない道もあったんだ。抑々、エースがいたわけでもセンターが居たわけでもなかったからね。大人数のアイドルグループから一人抜けたからって、別に潰れるわけじゃない」
代わりはいくらでもいるという話は、昔話とて他人にされるのは厳しかった。
「でも、俺たちは解散した。なんでかわかる?」
「琳なんだろ?」
話の流れで、それ以外にはなかった。
「琳は学業に専念するっていう希望があったし、優斗とか小学生の子たちも多かったわけだから、解散はいずれたどる道だったんだろ」
言い訳をしている気分だった。自分が解散の引き金になった事実を今更咎められているようで苦しかった。大成しようとして始めた活動ではなかったはずだけれど、結果論として自分はグループを踏み台にしたことになる。後ろめたさがなかったわけではない。ただ、あのまま生ぬるい活動の先に、全員が幸せになる道なんてなかったじゃないかと否定的な事実を彼に突き付けてしまいたい衝動性が、自分の中にあった。
「まぁ、勿論、最年長の琳にとっても、人生の岐路だったのは確かだね」
大人びた話し方に、小学生の面影が重ならない。容赦なく年上を呼び捨てにする生意気な態度だけがあのときのままで、それが年相応の怜悧さを身に着けていると傍にいるのが息苦しかった。
「琳はさ、一つのグループから二人の逸材は出ない。作り出せないって言ったんだ」
優斗と目が合う。着ているキャメルのジャケットに似た、甘い瞳。
「田舎のアイドルグループからのし上がったシンデレラストーリー、なんて半分は話題作りなんだよ。だから、枠に限りがある」
俺は、自分の力量を見間違ってはいないつもりだった。成瀬のおかげで今の立場があること、マネージャーの影での努力に支えられていること、社長に育てられていること。
それでも、他人に突き付けられると訳が違った。自虐は自分でするから意味があって、他人がすればただの罵倒になる。
「芸能活動を続けたかったメンバーもちらほらいた。解散になれば、そいつらは路頭に迷う。それでも、俊が東京のそれなりの事務所に移って活動をするのなら、変にグループを残すと比較対象になったり、何となく物足りないような言われ方をするのは大人たちはわかっていた。だから、終わりにした。これが、解散の顛末。知ってた?」
俺は力なく首を振る。
生きているだけで他人に迷惑をかけている、人の世話になる。その事実が、妙に重たい。人の為に出来ることなんてなくて、人に頼られるような器じゃなくて、それでも人の脚に絡みつかなければ生きていけない。そういう妖怪いたよなと頭の隅で考えていると、湧いてくる感情のひとつひとつが自分の思想と乖離している気がしてならなった。妖怪が人間にとって悪だから嫌われているのか、人間が嫌うから妖怪が悪とみなされるのか。鶏が先か、卵が先か。
別れ際、ちゃっかりお会計は俺持ちになり、持っていた財布がブランドものであることを目敏く見つけた優斗に、嫌味っぽくそれを指摘された。
ぐったりと疲れた俺は、優斗と別れた後、駅前でタクシーを拾った。扉に手をかけて窓の外を眺め、道行く人の洋服が段々色がなくなってきたことを感じた。夏はあれほど鮮やかな原色の服を着ていた人たちが、黒やキャメルやグレーの服を身に纏う。直ぐに暮れる街の景色に溶け込み、それは馴染んでいるというよりも見えなくなっているだけに思えた。
優斗との再会を、後悔していた。出会おうとしたわけではないのだから後悔という言葉が適切かどうかはわからなかったけれど、逢瀬に変えるべきではなかった。
今の彼を知ることがなければ、可愛い弟分と思ったまま記憶を持つことができたのに、中途半端に交わった糸は複雑に絡み合い、齟齬を残したまま再び道を違えてしまうから、解いて分かり合うことが永遠の課題となってしまう。忙しさのあまり昼食を抜いた胃が食べ物を求めて音を鳴らし収縮していくにもかかわらず、重たく感じる。優斗との思い出が、アイドル時代の記憶が、無理やり紡いだアフターストーリーによって台無しになってしまう。
琳の思い出は、いつまでも優しい思い出なのに。一緒にやってきた仲間だと思っていたのは自分だけだったのだろうか。一方的に嫌われることを今更悲しむ余裕はないけれど、好意的に見ていたはずの人に疎まれているとは知りたくなかった。成瀬は?吉田は?マネージャーは?途端に誰もが敵に見える疑心暗鬼で、心が痩せていくのが分かる。
片道三車線の真ん中。隣を走るどこぞの社用車の会社名をなぞり、目を閉じる。口の中に残っているココアの甘さを追い出すように何度か唾液を飲み込んでいると、口の中が乾いて仕方なかった。
日が暮れるのがすっかり早くなると、スタジオと大学の往復の日々に、自然な太陽光が差し込まなくなってきた。乾燥機にかけた洗濯物に埋もれながら久しく感じていない日光を思ってみても、何処か映画や絵画に見た青空ばかりが浮かんできて、記憶の何処にも五感に感じる太陽の存在が残っていないことに気付いた。当たり前のように更新される記憶だったから、望まなくともあるのが当然の記憶だったから、大事にしなかったせいだろう。
仕事が休みの日、大学が終わったあと課題がいくつか残っていたこともあり、珍しくまっすぐ家に帰った。アパートに戻って電気をつけると蛍光灯の燦燦とした光に照らされて、これが俺の太陽だと、その場で伸びをする。カップラーメンの封を切ってお湯を沸かしている間にテレビをつけて、久しぶりにゴールデンタイムの番組を見ているなと思いながらチャンネルを回す。深夜番組に慣れた感性には明るく清潔感のあるスタジオも美しさで選抜されたスタジオゲストにもコマーシャルの洗練された雰囲気にも、白々しさと居心地の悪さを感じてしまう。光があるから影があり、影は影だけで生きていくことはできない。
ふと動物番組に移った子猫の可愛さに気を取られてチャンネルをそのままにしていると、スタジオに原田の姿が写り、俺は背筋が硬直した。絶対に届かない距離にいるはずなのに、彼の鋭さと冷たさはここまで届くのではないかと危惧する本能を否定できない。勝手に弱みを握られたような気分で、俺はあれ以来原田の出ている番組は避けていた。
しかし、テレビの中の原田は人相のいい笑顔で心地の良いコメントを残し、ゲストらしいアイドルをよいしょしている。焼肉屋で出会った原田とは別人としか思えない対応に現実という壁を意識するけれど、彼の小賢しさを強さや処世術と言い逃れることに、僅かな抵抗を覚える。
タイマーがキッチンでけたたましい音を発しているが、俺は動く気にもなれずに、ずるずるとソファに座り込む。彼の善人の面を思い切り笑い飛ばしてやりたいのに、嘲ってやりたいのに、結局根底にある底意地の悪さと計算高さは全く同じものを自分の中に自覚している。俺は何処かで、「ヒールも使いこなす普通の子」と評価されようとしている。貶められてもかまわない、嫌われることも甘んじる。それは時間の経過とともに、俺は覆せると信じていたからだ。
テレビから悲鳴に近い歓声が聞こえてきて、顎を引いたまま目線だけを上げて画面を見つめる。スタジオにまだ生後数日だという子猫が用意されていて、男性アイドルが両腕に抱き上げてカメラに向かって微笑を浮かべている。可愛い子猫。可愛いといわれる対価に、子猫は可愛がられているのだ。
のろのろとキッチンに行き、いつの間にか止まっていたタイマーを横目にカップ麺の蓋を外すと、既に質量の増した麺がカップから溢れそうになっていた。ため息を零しそうになりながら箸を進めるも食欲はすでに減退してしまっていて、濃い味付けにはやたらと喉が渇いた。水道水をグラスに注いで何杯か飲むと、胃が重たくなった。カップに残っていた麺は諦めてそのままゴミ箱にあける。
リビングでは、今度はペットが起こした奇跡などというタイトルで再現ドラマが始まる。見る人の涙を誘発しようと柔らかな音楽と優しいナレーションが、心温まるエピソードを作り込んで心に訴えかけてくる。いつだったか吉田に、エピソードトークで繋ぐ番組ではエピソードの強さよりエピソードの語り方が重要だと教わったことがある。事実が事実以上の意味を持って感情を揺さぶる。筋書きのないドラマは存在しない。方向性のない音楽は存在しない。台本のないバラエティーは存在しない。綺麗ごとは利害関係に関与しない人の戯言であって、対価のない言葉の為に身を削ったりはしない。
エンドロールと共にスタジオの面々が涙を浮かべていて、原田もまた例外ではない。その涙を偽物だと紛糾する気にはならないし、原田に優しさや温かさがないとも思わない。それでも、純粋に額面通りには受け取れない。受け取ってしまったら俺は、成瀬を裏切る気がした。
原田の一番内側の下品で卑劣で腹黒い感性が、自分に共鳴する辛さに耐えかねている。自分がなぜこの仕事をしているのかは分からない。それでも、世間一般に流れる夢だの希望だの、そんな耳障りのいいファンタジーに身を委ねることを理想としては望んでいて、そうであろうとしたいのに、光になり続ける成瀬の背を追いたいはずなのに、原田の辛辣な言葉に、俺は納得し、受け容れてしまう。俺が成りたいのは成瀬のはずなのに、俺は成瀬には成れない。彼のように優等生には成れない。正統派の道はもうない。
その現実を受け入れるには、俺はもう徹底的なヒールを演じ続けるしかないのかもしれない。
ベッドに落ちるように寝転び、携帯ですっかり慣れた仕草で自分の名前を検索する。
狭いベッドの中で、ここは安全のつもりでいたのに。持ち込んだ小さな端末が媒介する世界は名もなき存在だというのに、なぜ悪意だけはまっすぐ伝わってくるのだろう。