6章
大学終わりに友人と食事を済ませてから家に帰ると、俺は手を洗うよりも先にテレビをつけた。
来週公開の映画の番組宣伝の為に、先週から今週にかけて成瀬が各チャンネルのバラエティー番組に出ずっぱりになっていた。勿論すべての番組を録画予約してあったが、見られるときはリアルタイムで見るようにする。リアルタイムの利点はなんといっても、SNSで反響が直ぐにわかることだった。好感度抜群の彼らしく、成瀬の言動、髪型、仕草に対してのコメントはどれも甘やかで何故か俺まで幸福な気分になる。成瀬との距離が近づく分だけ成瀬の名声に浸れる、と思う度に、彼の威光を借りていると思われるのはやはり癪で、それでも成瀬には世間から愛されていてほしかった。
時計とテレビを交互に見ながら、服を部屋着に変えてソファで番組が始まるのを待っている。ここまで浮足立ってしまう原因は、今日の番組の司会が原田だからでもあった。軽快なオープニングが始まると同時に、俺はソファで膝を抱えて、右手には携帯電を握る。
番組自体は軽快なトークで進行していき、ゲストとして成瀬の名前がコールされると同時に観覧席から甘やかな悲鳴が漏れ伝わる。
カーテンの向こうから現れた成瀬は背が高く、硬めの革靴で歩く姿はとにかく美しかった。高級ブランドのジャケットを着こなし、謙虚に周りに頭を下げてはにかむように笑う姿なんて、悪く言う方が角が立つ。成瀬は冒険や一か八かの賭けはしない。あくまで品行方正、清潔感があって華美にはならないように選んだ衣装は似合っているけれど、成瀬に馴染み過ぎている気もした。
流石にプライムタイムの司会を任されるだけあって、原田のトークは流れるように進んでいく。成瀬と以前共演したことや、成瀬が如何に真面目で真っ当な人間であるかを、自分を卑下しながら面白おかしく語ると、場は当然のように盛り上がる。口下手な成瀬には多くを語らせるよりも、人柄の出る誠実さを周りが言及する方が遥かに魅力的に見えるという点で、原田は確かに成瀬の使いどころを熟知していた。
「そういえばさ、この前、焼肉屋さんで会ったよね?」
原田が不意に話を振ると、僅かに成瀬の表情が硬くなったが、直ぐに持ち直して、
「あぁ、ありましたね」
と笑顔で返した。
「少し前にさ、何処とは言わないけど焼肉屋で、偶々会ったんだ」
原田が一緒にやっている別の司会者に説明をする。
「高級なとこ?」
「めっちゃ高いのよ」
ここでひと笑い。文字にすれば何も面白くないことが、なぜ彼の表情と声だけで笑いという付加価値が生じるのだろう。
「それは、じゃぁ、別々に連れがいたってこと?」
「俺は後輩を何人か連れてたんだけど、成瀬も、誰かと来てたよな?」
カメラに抜かれた成瀬は穏やかな笑顔を作る。
間違っても、原田さんは泥酔状態で覚えているわけないですよね、なんて言わない。それが成瀬の美点だった。
「事務所の後輩の、内海です。内海俊」
成瀬の声で呼ばれる名前はなぜこうも、身体を痺れさせるのだろう。落ち着きがあって、凛としているのに柔らかさもある声。傍にいなくても、彼の声を聞けばすぐそこに、彼の存在を感じることができるのは、彼の声をよくきいているからだろうか。
「女の子みたいに可愛らしい顔してるよね?」
そう言ってくれた別の司会者は、他の番組で会ったことがある。あいさつした時にも、女の子みたいだねと言われた。
「あいつなぁ、いい目してるよな」
原田は記憶を手繰り寄せるように瞬きをして言った。
「かわいい顔してたけど、如何にも気が強そうな目をしてて、あぁいい役者になるなって思った」
俺は携帯を弄ろうとして浮かせていた右手をそのままに、息をのんで困惑した。感情が湧いてこない、という状況を理性的に理解をしていても、心に出来てしまった空間に正しい感情と名前が必要に感じた。
多分、いやおそらく、褒められてはいない。
でも、原田に悪意がないのが分かってしまうから、妙な苦しさが気道を締め付ける。浅い呼吸に頼りながら画面の向こうの成瀬を見つめると、彼の端正な横顔が酷く遠くに感じた。
成瀬は目をときめかせ、愛想のいい笑顔で相槌を打った。
「そうなんです。目で演じるのがうまいんです。一緒に音楽活動をしているんですけど、歌っているときの目もいいんですよね」
「成瀬君からしても、やっぱり凄いの?」
「いや、凄いなんてもんじゃないです。完敗ですよ」
俺は軽く目を閉じて、一度大きく深呼吸をする。冷静になりたいと思えば思うほど、感情がいい方にも悪い方にも縦横無尽に動き回る。自分の感情の名前もわからないくせに、妙な苦しさだけははっきりと心を痛みつけてくる。
原田の言葉に悪意を一切汲み取らない、汲み取れるだけの経験値もない成瀬のことを、俺は優しくも不安に感じる。所謂危機管理能力は低くなく、危ない橋を渡ったり疑わしきはせずという態度は徹底しているが、本人の人柄ゆえに人間への理想が甘い。成瀬は無意識で性善説を信じていて、彼はその点においては事務所から守られてきた人間だ。
人を善と悪に分けるつもりはないし、自分が善の側にいるだなどという幻想は抱いていない。それでも、成瀬は関わる相手を間違えてしまうと、本人は全く気が付かないままに悪い方へと流されてしまう気がした。詰めが甘いのだ。少なくとも、あれだけ裏で口の悪さや傲岸な態度を見せられたというのに、少し褒められたくらいで相好を崩してしまうくらいには、成瀬の人生は人を恨む必要がなかった。
他人の妬みや嫉みに足元をすくわれる怖さを、彼はきちんと理解していない。成瀬唯というブランド力に、彼自身が自覚を持って利用される可能性に気付いてほしいけれど、謙虚で腰の低さが彼の魅力だから、自分の価値に気が付いてしまったら成瀬はきっと成瀬唯としての魅力を一つ失ってしまう。
「彼、元アイドルなんで、曲に入り込んだ表情を作るのがうまくて。ぜひ、MVも見て欲しいですね」
「なに、そっちの宣伝もするの?」
原田のツッコミに場が湧き、そこで話題は一区切りとなって別の話題に流れていく。
成瀬の気持ちに温かさを感じながらも、彼が宣伝まで挟んだせいで場に居もしない内海俊の話題をカットすることができなくなった。もっと成瀬唯について深堀りしてほしい彼のファンがこの数分を疎ましく感じることを、俺は止めることはできないと思った。俺が成瀬を好きでいても、成瀬が俺を可愛がってくれていても、片方に好意の比重を置く人に同じように愛してくれとは言えない。
原田の軽快なトークは続く。成瀬は時折振り回されているように言葉に詰まるけれど、あれでも言葉を引き出してもらっている方だった。タイミング綺麗に映画の宣伝を織り込み、笑顔で出番を終わらせた。
一時間番組の後半に、次のゲストとして出てきた人気の男性アイドルは、大人数で団体芸を繰り広げていた。売れていると暗黙の了解のもと、原田に「お前らいつまで経っても売れないな」と弄られ、負けじと自分たちの特技を披露してはいまいちな結果に玉砕して笑いを誘う。メンバーの一人と以前番組で共演した経験があるのでつい画面を見ていると、思いがけず笑い声が漏れてしまうことが度々あり、気付いたら番組が終わっていた。番組と番組の間に挟まれたフラッシュニュースが始まったところで、テレビの電源を切る。
いつも成瀬の番組をチェックした後は彼に感想の連絡を入れるようにしているが、今日は辞めた。何となくだが成瀬がそう望んでいるとも思えなかったうえに、ネットで成瀬のトーク力や人柄の良さを称賛する言葉で溢れていた。彼には今、世間が彼に対して好意的である現実に浸ってもらえばいい。
成瀬に人を見る目がないのなら、俺が彼のシェルターになればいいのだ。成瀬の価値を、ブランド力を、俺が登った太陽の位置に画鋲で張り付けてしまえばいい。表の成瀬唯に薄暗さも弱気な態度も必要がない。負になる感情は俺がろ過して、崩れ落ちそうなイメージなら編み直してたたみ直して補修すればいい。成瀬には団体芸も自虐も必要がない。ただ愛されていればいいのだ。
大学の前衛的で綺麗な校舎の中ですれ違った三田光莉は、多くの人が行きかう廊下でも一際目立っていた。今日はカジュアルなデニムに厚手のベージュのニットを合わせていて、さりげなく胸元から覗くネックレスがシンプルな格好の中で存在感を放っている。
同じ授業に向かうというのに、俺たちは目線を合わせただけで、直ぐに前を向いて知らん顔で同じ教室に入っていく。少人数制の小さな、窓すらない教室の重たい扉が閉まると同時に、顔を合わせておはようと言い合った。大学生にとって何時でも始めの挨拶はおはようになるのは、一つの業界なのかもしれない。
「昨日の生放送、お疲れ様」
適当な席に腰かけて言うと、彼女はありがとうと丁寧な口調で言った。
「しかし、あの時間に生やって、直ぐに大学なんて大変だね」
教科書やパソコンをカバンから取り出して準備を進め、パソコンのスイッチを入れる。まばゆい明かりを放ちながら起動する画面に気を取られていると、やはり一席空けて腰をかけた三田が微かな溜息をついた。
「誰が見たって今が一番売れている時期だからね。力を入れてくれているんだって思わないと」
まるで自分に言い聞かせているような口調だったので、俺は彼女の横顔をそっと見つめる。
「失礼な質問だったら申し訳ないんだけどさ、なんで大学通ってんの?」
隣を見ると、まつげを気にして人差し指でカールを押し上げていた彼女の手が止まる。
「なんでって?」
怪訝な顔で首を傾げると、彼女の真っ直ぐな髪がさらさらと音を奏でるように揺れた。奇抜な髪色をした学生も多い中、ダークショコラに近い暗色のセミロングは垢抜けていながらも清楚な印象を与えてくる。
「いや。だって、三田さんはアイドルとして人気があって忙しいわけでしょ?それなら、別に大学に来る必要なんてないんじゃないかなって思ったから」
言いながら、成瀬の横顔を思い出す。成瀬の記憶を呼び起こすときはなぜかまず浮かんでくるのは彼の横顔で、目を伏せて憂鬱そうに笑っていた曖昧な口元や長いまつげまで輪郭の一部として想起するのだった。
三田は微かに目を眇め、少しの間俺を見つめてきた。意図的に狭めた黒目は、それでも確かに俺をみていた。
「それは内海君も同じじゃない?あなただって、だいぶ売れっ子でしょ」
謙遜を必要とする場所ではないと直ぐに悟るけれども、絶頂期を迎えているアイドルに言われると何故か、心に引っかかるものがある。成瀬のお世辞に付き合わされているときとまるで同じ気持ちだった。
俊は売れるよ、と混じりけのない真面目さで俺に言う成瀬を、俺は芸がないと思う。口説き文句ならばナンセンスだし、殺し文句なら月並みだ。
「売れるって何だろうね」
俺は思わずそんなことを言ってから、きっとこんなことを言われても彼女は困るだろうと思い直し、
「俺は社長から大学を出ることを勧められたから。良い肩書きにもなるし、例えばクイズ番組とかに出ることがあればとっかかりとしてもいいだろうってこと」
あとは恐らく、成瀬との差別化だろう。成瀬と売り込む時期をずらすために、俺にはこの時期を雌伏の時間にしているのだ。うちの事務所は成瀬中心に回っていて、でも当の成瀬は大学進学をあきらめた口で、とにかく俺たちはかみ合っていない。
そうぶちまけてしまいたい気持ちを、俺は既の所で飲み込む。彼女に言ってどうするのだ、と冷静な自分が直情的な痛みに、論理的に処理を促す。そうして感情にコードネームをつけて機械的に処理することが増えた。そのおかげか、物理的な荒波は起こらない。穏やかで偽善的な平穏の中で、俺は薄い空気を求めて浅い呼吸を繰り返している。
「この見た目で秀才キャラも、悪くないだろ?」
俺は屈託のなさを意識する。成瀬の笑顔を引き出せる、大人の満足げな表情を引き出せる、社長を喜ばせる、ある種の無邪気さを取り繕った。三田は納得したように頷いて、目線を下げた。何かを考えている眼付きだったので、俺も何も言わずにいた。廊下を、数人の集団が騒ぎ声で通り過ぎていく声がする。男女入り混じっていて、会話の内容はわからない。
「私この世界に入ったのが高校一年生の時だったんだけど、当時は結構な進学校に通っていたんだよね」
彼女は何かを決意したように顔を上げて、話し始めた。起動させていたパソコンが画面の向こう側で何かを高速で処理して、画面が一時的に真っ暗になる。
「はっきり言って、落ちこぼれてた。そこそこ真面目に勉強して学校に行っていたつもりだったんだけど、周りは抑々地頭がいいんだよね。全然勉強についていけなくて、そうなると学校に行くのも辛くなっちゃって、悪循環でなにも上手くいかなくなっちゃったんだ」
淡々と語られる彼女のエピソード。何処かで聞いたことがある気がするのは何故だろう。俺自身にそんな経験はないはずなのに、似た痛みを知っている気がして記憶に指先を突っ込んでみても、どれも無関心な顔で痛みを受け流すようだった。
弄ぶようにボールペンを手に取って、意味もなく、芯をしまったままその場にぐるぐると円を書く。何かを塗りつぶすように。
「そんな時に、アイドルグループの女の子が有名な大学に進学しているのを見て、これだって思いついちゃったんだよね。推薦で大学にはいれるなら、アイドルになってやろうって。邪すぎて、笑っちゃうでしょ」
彼女は自嘲気味に笑う。その乾いた笑い声を聞きながら、俺自身、結局この世界での成功も功績も目的も目標も、そしてなにより終焉が分からずに、机の表面のざらつきをペン先でなぞり続けた。このまま日が暮れるまでこうしていれば目に見える傷でも出来るのだろうかと、意味もなく考えながら。
「USB貸して」
彼女が手を伸ばしてきたので、俺は慌ててペンケースから黒のUSBを取り出し、彼女に手渡す。小さな白い手には薄いピンクのネイルが塗ってあって、手首は信じられないくらい細い。
多分、アイドルは彼女の天職なのだろう。頭がいいというセンスを持つ人間がいると彼女が言うのなら、三田光莉はアイドルとしてのセンスを持っている。
数日前、出演したバラエティ番組の放送後に、吉田に電話をした。バラエティにも力を入れたいと考えた俺は、彼に出演番組をチェックしてもらうようになった。
成瀬と出会ってからの俺を彼は、本気になったと評価してくれた。明らかに仕事に対して明確な意思を持った俺を、彼はそれならばと厳しくも丁寧に指導してくれるようになった。
厳しめの評価を欲す俺に対し、彼は簡潔で明瞭な指摘をくれる。間の取り方、コメントの長さ、表情の持って行き方。自分では気付きようのない細部にまで指導をくれる。彼は異端児で弾かれ者だけれど、仕事に対しての熱量はすごいものがあった。彼の汚い部屋にはお笑いの本が山積みになり、売れている先輩の自叙伝があり、自分でつけている反省ノートも、小説のようにびっしりと文字が並んでいる。
作ってきた互いのパワーポイントのスライドを繋ぎ合わせる彼女の横顔に、
「でもさ、どんな形であれ、成功者になってるんだからすごいよね」
とお世辞ではなく言ったつもりだったが、彼女はつまらなそうな顔で俺を一瞥し、
「その言葉、内海君は言われてうれしい?」
あまりに淡々とした口調でキーボードをたたいているので、俺は参考になる教科書に付箋を貼りつける手を止めてしまった。
「わかんないけど、俺は、せっかくアイドルとして成功した功績を、無意味みたいにいわなくてもいいんじゃないかなとは思うよ」
三田が大きな目を更に大きく見開いて此方を見てきて、俺もまた、彼女から目を逸らせずに、意図せず見つめ合うような格好になった。やがて酷く優しい表情でありがとうと笑う彼女の表情には、カメラに向ける濁りのない笑顔とはまた違った余裕があった。
こんなに単純で明快な言葉を、俺は何故成瀬に言わなかったのだろうと、微かな後悔を覚える。なにより、人に言えることを自分自身に向けては言うことができない偽善的な優等生を身体に眠らせていたことに、僅かに戸惑った。
窓がないせいで、この校舎は何処も空気がこもっていて、何となく息苦しさを感じる。季節ごとに湿り気だったり空調の一方的な質感だったり、昼休みを挟むと食事の独特の匂いが、循環されずに漂っている。勿論太陽の光も雨も感じられず、校舎を出て初めて、天気と温度と湿度と、時間を感じる。
三田から返されたUSBをペンケースに仕舞う。
「内海君、優しいって言われる?」
「いい子だね、とも言われるよ。見た目よりも、って枕詞が付くことが多いけどね」
そういうと彼女は手を首にあてて、今日初めて、無邪気に笑った。
「三田さん、その服似合うね」
彼女はにっこりと笑い、
「内海くんもね、その服凄く、似合ってるよ。大人っぽくて、お洒落で。いつもとちょっとテイスト違うけど」
彼女の審美眼はすごいものがある、と思う。
今日着てきたのは全身成瀬からのお下がりだった。
つい先日、成瀬と小さな打ち上げをした。いつものように成瀬行きつけの店に呼ばれ、二人でささやかながらプロジェクト完遂の労を労い合った。
公開されたMVの再生回数は事務所の期待を上回るもので、配信サービスなどの様々な媒体でも期待以上の数字をあげた。俺のSNSのフォロー数も二倍近くに伸び、セット売りが基本の世界で思いがけない形でかみ合ったようだった。勿論社長はご満悦だろう。内海俊の名前は売れたし、それまで優等生のイメージしかなかった成瀬のプライベートも程よく売れ、相乗効果で言えば成瀬の新規開拓につながったともいえる。
その日の成瀬は珍しく色味のあるニットを着ていた。すっかりモノトーンのイメージがついていたのだが、色が白いので寒色の青がよく似合っていた。何気なく彼の私服を褒めたところ、彼がお下がりをくれるといって家に招待してくれた。
城塞と名高い彼の家にまであっさり案内されると、むしろこちらの気持ちがついて行かなかった。
成瀬の慎重な性格は嫌と言う程わかっていたつもりだったが、彼は警戒心が高すぎる故に、一度懐に入れた相手への情の深さと素直すぎる愛情を持ち、それを無邪気に俺に向けてくることに俺は正直戸惑っていた。事務所が同じだという保険があったところで、成瀬に万が一があれば俺に回ってくるあれこれがあることを、彼は理解していないのだろうか。それこそ、マネージャーの警戒心は成瀬の人の好さを考えると妥当なのかもしれない。
港区のタワーマンションの一室。エントランスにコンシェルジュがいて、ホテルかと呟いてしまった。
部屋の広さに反し、物は多くなかった。リビングには大きなテレビとソファがあるだけで生活感などなく、モデルルームのように静かで整っている。やたらと静かな部屋だったが、壊すことを許さない静けさがあった。ここで誰がどんなに騒ごうと、暖房を焚こうと、この部屋に浮遊する冷たさと静けさは直ぐに取り戻されそうだった。おそらく明日には俺の痕跡や気配は、跡形もなくなっているのだろう。
ウォークインクローゼットの中にも案内された。好きな服を持って行っていいよと、大盤振る舞いなのかただ無頓着なのかわからないあっさりした口調で、成瀬は言った。
俺は遠慮なく部屋を歩き回る。吊るされた服はどれも綺麗にアイロンがかけられていて、綻びのない並びは彼の生きづらさを象徴するようだった。
「別に、もう背も伸びないし服なんてそんな直ぐに悪くなるわけじゃないからずっと着ててもいいんだけど、芸能人として同じものを着続けるのは美学じゃなくて羽振りの悪さの象徴みたいなところがあるんだよね」
入り口の扉に寄り掛かったままの成瀬を振り返る。端正な顔を歪めると、苦痛にでも耐えているように見えた。
「嫌な思い出でも?」
その昔成瀬が着ているのを見たことがあるシャツに触れながら確信をもって尋ねると、彼はじっと俺を見つめた。目力があるというのは、おそらくこういうのを指すのだろう。こちらの瞳を奪い取るというより、彼の視線の先に捉えられると、彼の笑顔を引き釣り出すまで離してもらえないような気がした。
「成瀬唯、年相応の謙虚なコーディネート!って見出しで、高校生の時に私服姿をとられた。大型量販店で買った画一的な作りの服だったから発売年も値段も暴露された。スニーカーだけはちょっといい物を履いてたから、それもオークションの参考価格まで出された。トータルコーディネートの総額も概算された」
淡々と、目線も表情も変えずに唇だけ動かす仕草は、むしろ仕組みを教えて欲しい。ちょっとした変人か、機械に脳を支配された人間のようで、笑かしに来ているとわかったので心置きなく笑う。
ふっと解れた空気に、彼も微かに笑みを浮かべる。
「続きがあるんだよ。去年の話。成瀬唯、全身高級ブランドで歩く深夜の六本木。もう、出てきた単語に悪意しかないでしょ。全身の高級ブランドは頂いたものだったり、ファッションブランドとの提携の問題でそうなっただけ。深夜の六本木は、ドラマの打ち上げだったから、隣に共演者もマネージャーもいたじゃん、ってね。主演映画のクランクアップの日だったから、羽目を外すと踏んで張り付いたんだろうけど何も起こらないからって、記者も自棄になりすぎ」
おかしさに耐えきれずに散々笑っていると、最初は心を奥にしまい込んだ表情だった成瀬も、釣られるように笑いだした。彼は無防備に笑うと、目元にしわが寄る。年齢不詳の華やかで色っぽい雰囲気が崩れると、年を遥かに上回る印象がある。
成瀬は俺の一つ上だから、大学生だったら二年生だ。必修はまだ多いけれど、大学にもすっかり慣れて手を抜くもことにも慣れた年齢。そう考えると、彼の背負っている物はあまりに大きい。多分、この繊細で華奢な身体には、大きすぎる。
「俊相手に愚痴ってもしょうがないのにね」
直ぐに冷静さを取り戻した成瀬は少し後悔したように言うけれど、俺は、俺だけがこんな成瀬を知っていると理解すると、どうしようもない優越感に浸れる。俺たちの関係は言葉で表すようなものでは既になく、彼の言葉、仕草、笑顔、時折見せる弱さのすべてに、関係性の境目が甘美な色でぼかされ始めたことを感じている。
「でも、わかりますよ。届かないってわかっても、独り歩きする噂とか勝手な発言にはせめて心の中で反論しておかないと、自分が悪い方に流されそうになりますよね」
有名ブランドのロゴが主張激しくデザインされたシャツ。一体いくらするのだろう、ただの布なのに、と思う俺は、まだまだ庶民寄りだろう。
「なんか、俊って、話しやすい子だね」
成瀬が話す度に艶めかしく動く喉元に少しだけ見とれる。男としての魅力を前面に出さないところも、近しく感じる。精神的に近寄った分だけ、俺は彼に身体的な近さを求め始めているのかもしれない。
「言われたことないですけど。見た目がこんなだから、頭空っぽにしか見られません」
自分の髪の毛先に触れると、彼も釣られるように手を伸ばしてきた。クローゼットにしては広々と、だけど男二人で話すには少し狭い洋服に囲まれた場所で、俺は成瀬の匂いに脳がしびれた。彼は香水を使っていないのでいつも薄っすら石鹸の匂いがするが、これだけの洋服に包まれると彼に抱き込まれているように感じられた。
「言葉には言葉以上の意味なんてないから、言いたい奴には言わせるといいよ」
その手が俺の顎を撫ぜたとき、なぜが背中が溶かされた気がした。人となれ合わないことで有名な成瀬の一番奥底に触れているという幸福感は、彼に触れられることで立証される。彼から伸ばされる手の分、俺は彼を手中に収めることができる。
「俺、好き勝手言われたとき、言ってる相手をメンヘラかモラハラだと思うようにしてるんです。喧嘩になると一方的な意見だけ喚き散らして、相手に反論も意見もさせない。構図が一緒じゃないですか?」
自分の中で幾度となく繰り返した行為を、意識して整理して構築した思考を口にして、彼に伝える。その手続きをなせるのも、物理的にこの距離にいて、心理的に遠慮の要らない位置に俺が今いるからだ、と思うと、成瀬の為に俺を攻撃する誰かへの優越感で満たされた。
その日は結局、成瀬に誘われるままに彼の家に泊まった。朝早く、珍しくオフだという彼に見送られ、俺はドラマの撮影に向かった。成瀬の家を指定して迎えに来させたマネージャーは、泊まるに至った経緯や昨晩どう過ごしたのか、成瀬がくれた服を入れた紙袋にも興味を示したが、俺は寝不足だったので座席を倒して一切を無視した。
例えば朝帰りのことが週刊誌を賑わせたらいいのに、と思いながら。
あの成瀬の家から朝帰りだぜ、とうつらうつらした頭で考える。マネージャーみたいに、聞きたくて仕方がないという顔で、邪推したくてしょうがない言いたげに、寝不足でマンションを出てくる俺をカメラに収めてくれればいいのに。
傾倒と、心酔と懊悩が混ざり合って、俺は冷静じゃいられない。昨晩見た彼の顔を思い浮かべ、その輪郭を視線で何度も繰り返しなぞった。