4章
大学の空きコマを使って、図書館で読みかけの少女漫画のページを捲る。去年撮影した映画の原作で、封切がもうすぐだから原作を一読しとけと言われた。インタビューなんかで原作に触れられたときに困らないように、と。まだまだ脇役を抜け出せない俺の演じたキャラクターは、時間の都合上カットされた部分が多かった。
この話を貰った時、結構いい役だ、と言うから期待したのに、二番手で落胆した。今までとそんなに変わらない、とあまり乗り気ではなかったが、社長がやんわりと否定した。
「今回の役は、確かに咬ませ犬なんだけど、とにかく人当たりの良い優しいキャラクターなんだ。原作のファンから圧倒的に人気キャラクターだよ」
少女漫画でよく見るパターンという印象は、今も変わっていない。
俺の演じるアンリというキャラクターは、明るい茶髪の小柄な美少年で、主人公の幼馴染。一見チャラいが、幼少期から主人公に一途な好意を寄せ続けていたというお花畑設定にはすっかり既視感を覚えたが、自分の容姿はキャラクターに馴染むだろう。重要なのは、アンリは今まで演じたキャラクターの中で最も誠実で思慮深さを持っているという点だった。見た目の派手さとの対比で、主人公の少女もアンリに心を惹かれる描写があった。人気投票で主人公を抑えて首位になったというから、当たり役であることは確かなのだろう。
しかし先週から読み始めているのに、二十巻を読破するどころかまだ十巻にも達していないのは、単にくそつまんねぇ漫画、と思ったからに過ぎない。主人公の煮え切らない態度も、相手役の死んだ表情からの不躾で脈絡のない行動力も、アンリの良い人ぶった態度も、どれも鼻に付く。
成瀬のアドバイス通りに自分の内側から共感性を呼び起こそうにも、善人の気持ちなどわかりえない。その気になれば俺も、誰かの為に自分の気持ちを犠牲にして他人の幸せを願えるのだろうか、と考え、あまりの馬鹿馬鹿しさに一人首を振る。
その日の夕方、MVについての打ち合わせがあったので大学から直接事務所に行くと既に成瀬がいたのだが、役の為に痩せて髪が短く刈り込まれていた。聞くに、来年の夏に向けて戦争映画の撮影があるという。戦争に散った若き英雄。絞った身体も、乱雑に刈り込まれた髪も、肉が落ちて目力の増した表情も、ドラマに向けた役作りが盤石にされていた。
「衣装はこの形に決まったわ」
衣装担当が数枚の紙に印刷された原画を渡してきた。妖艶でダークな雰囲気を出す為に黒を基調としてスーツスタイルで、シルバーアクセサリーをふんだんに使った細身の作りになっていた。
衣装合わせまでに絞った方がいいなと少し考える。童顔で小柄なので、こういったクールな雰囲気を出すのはあまり得意ではない。それに、一日だけなら黒染めスプレーを使ってもいいかもしれない。マネージャーに相談してみよう、と考えているときだった。
「成瀬君の髪が短くなったのも考慮して、クールさを前面に出すことになったわ」
衣装さんの一言で、俺は頭の中で行っていた算段が瓦解するのを感じた。俺に似合うかどうかなどさして重要ではないのだ。俺は成瀬を一瞥する。横顔に影を落とす髪がすっかりなくなったせいか、誠実そうな雰囲気が増した。
世間が求めているのは内海俊じゃなく、成瀬唯。その根本を覆すことはないのだから、彼の為に世界は回る。当然だ。俺はただ、動きかけの車にある空きに、とりあえず放りこまれたおまけに過ぎず、役割は言われたことを言われたとおりにこなす、無機質な行為だ。
話し合いは淡々と進む。これは話し合いではなく、説明に過ぎない。決定事項を滞りなく頭に叩き込む。時折心配性な成瀬が突っ込んだ質問をする以外、俺たちは黙って話を聞いていた。
「俊、この前のバラエティ見たぜ。お前爪痕残しすぎ」
MVの撮影日が迫っていたある日、事務所の廊下で声をかけられた。
うちの事務所は有数の大手に比べれば規模はそこまで大きくないが、女優俳優などのタレントやモデルなどは勿論、曲を提供してくれたアーティストや、お笑い芸人など、分野は多岐にわたっている。
事務所に所属してから最初に仲良くなったのが、お笑いトリオの突込みをしている吉田だった。お笑いのコンクールでダークホースとなり優勝を掻っ攫う栄華からの、キレのいい突込みと歯に衣着せない外道な発言が受け、深夜番組でレギュラーを取るまでのスピートは目を見張るものがあった。
年齢は俺よりも十歳も上だが、年功序列の一切を否定し、ここは実力の世界だと豪語する彼は、実際軽口の多い俺を一切咎めない。
「もうね、名前売れましたって感じだった」
ハイタッチして、笑い合う。言うなら悪友のような存在だ。畑は違うが最初から会話のテンポが同じで、ガス抜き相手としてはこれ以上ない存在だった。
出演映画の番組宣伝で、ゴールデンのバラエティに出る機会があったのだが、それが先週放送された。
主演を務めたアイドルが女装に自信があるというところから番組レギュラーのお笑い芸人と女装対決なるものをしたのだが、お笑い芸人の方はともかく、豪語した割にアイドルの女装はあくまで女装の域を越えなかった。アイドルとしては勿論可愛らしい容姿をしていたけれど、骨格や見せ方が男のそれだった。本人のプライドに反し、出演者や観覧客の反応はいまいちだったのを見るに、おそらくファンから可愛いと甘やかされてきたのだろうと思うと気の毒に思う。贔屓目の称賛は正しい感性を狂わせる。それを目の当たりにし、俺は自身のSNSに書き込まれるファンのコメントは鵜呑みにしないことを心に決めた。
芸人たちによる無謀なコスプレ、イケメンたちの微妙な女装という絶望的なコスプレイベントになってしまい、場の空気は誰もが言葉を選ぶせいで締まらない。番組からすれば、ほとんど放送事故に近い状態になったときに先鋒、次鋒、の次にダークホースとして現れた俺は、まさしく救世主だっただろう。渋谷にいるギャル、というコンセプトで女子の制服を着た俺のカーテンが開いたとき、空気感が一気に変わった。
トランスジェンダーの役を演じた際、女性の所作についての講習を受けた。歌舞伎の女形の所作についても学んだ。見た目だけでなく、俺の女性を演じる力はそれなりのものとして周りの目に映ったようだ。
司会者をはじめ出演者から絶賛をされ、バラエティとしてはこの上ない出来だったらしく、俺のカットは長々と放送されたのだ。一視聴者として番組を流しながら、いつものようにネットでエゴサーチを進める。写真が出回り、それが拡散される。
『女子より女子』
『女子だけど付き合いたいレベル』
『こんなかわいい子に出会いたい人生だった』
『投げキスしたり、ノリもいいね。明るくて、私は好き』
まるで芸妓にでもなった気分だった。通りすがりの人から投げ銭でも貰うみたいに、軽い称賛の言葉を受け取る。投げる方も受け取る方も一度きりの関係であり、後腐れもない。
『てか、この子、成瀬と一緒に曲出す子だよね?』
誰かが気付いたコメントが瞬く間に拡散された。
『正統派の成瀬唯とやんちゃな内海俊の組み合わせなんだね』
『やばい、ちょっと楽しみになってきた』
『成瀬君に可愛がられてるってことは、生意気なだけってわけじゃなさそう』
早速手のひらがひっくり返された、と思うと彼らの身勝手さへの怒りと共に、やっとあの悪意の羅列から逃れられると思うと体の芯から力が抜け、このままベッドに溶け込んで実態がなくなりそうだった。国民性だか何だか知らないが、とにかく流されるときは感情より優先して流れに沿って行く。
とはいえ、主演のはずのアイドルを結果的に食った形になるわけだから、アイドルファンからは冷たい言葉を投げられた。ただ、バイアスの根源が分かれば、気にしないということもできなくはない。意見の取捨選択の権利はこちらにもある。
「あれ、司会も絶対お前のこと気に入ったから、バラエティもハードル下がったんじゃない?」
吉田が悪い笑顔をこちらに向けたので、まさかと笑う。
「まだまだ、呼んでもらえる段階じゃないから」
でも、と続ける。
「一緒に撮って、SNS上げていい?この繋がりは話題になると思う」
しかし、彼はすぐに首を横に振った。表情にも、絶対にダメと書いてある。
「お前ね、異端児になるには早すぎるよ。まずは成瀬君にくっついて主演レベルになりな。それが先」
「なんで?このままアウトサイダーな感じも悪くないと思う」
俺の発言に、彼は呆れたといいたげに肩をすくめた。成瀬とばかり一緒にいたから忘れていたけれど、普通の男性の身体は大きい。
「そりゃ、変人狂人を演じれば一時的には話題になるよ。でも、そんな一時的なものでいいの?人は中途半端な成功者が嫌いなんだよ。まず、自分の分野できちんと成功する。誰にも汚されないだけのものを築き上げる。それからじゃないと、どれもただの奇をてらった危ない人だよ」
彼の諭すようないい方に、十歳の年の差を見た気がする。
「せっかく成瀬君が君を売るために忙しい合間を縫ってユニットを組んでくれたんだ。彼の正統派のイメージを汚しちゃだめだ」
「わかった。じゃぁ、俺が売れるようになったら、長年の悪友ってことで出演してね」
吉田は頷いて、
「その時は俺の売名になればいいな」
彼は毒舌だけど、確かに根はまじめな人だ。常識もあるし、お笑いに関しては周りを置いてけぼりにするほど熱いといわれている。破天荒でビックマウスなキャラクターは、その真面目さの上にあるから安心してみていられるのだ。
授業の一環で課題の発表をしてもらう、と教授が説明すると、深まった秋の涼しさによってすっかり眠気を誘われていた学生たちが飛び起きた。前期の授業では黒板の板書さえすればテストは簡単に乗り超えられた学科合同の必修の授業なので、皆それなりに気を抜いており、おまけに二人組でくじ引きだとわかった際に教室中が騒めいたのは、顔さえ知らない人と当たる確率の方が高いせいでもあった。知っている人だと気楽だという内心は共通認識ではあったが、一方的に知っているだけでもまた、あまり意味がない。この少人数クラスには、俺を含め芸能人が数人まぎれている。
勿論種も仕掛けもないシンプルなくじ引きをしたはずだった。何の因果か、と俺はため息を零したくなったが、向こうの警戒心はそんな生ぬるいものではなかった。俺が一緒にやることになったのは、三田光莉という、女性アイドルグループのメンバーだった。人気グループの中心メンバーだけあって、大学の中でも容姿はかなり綺麗だったし、華やかさもあった。おまけに彼女は頭の良さも売りにしていて、グループ屈指の完璧美少女として個人知名度も高かった。
教室にそれぞれのペアで別れて作業を行う際、名前を名乗るが早いか彼女は、申し訳ないけどと全く申し訳なさそうに前置きをした。
「校内で、教室以外では話しかけないで欲しいの」
命令口調、とは思わなかった。ただ、清廉潔白で可憐な少女をコンセプトにしたアイドルグループの口からでる言葉としては、少し棘があった。一つ席を開けて同じ長テーブルに腰かけていた彼女の方を見ると、意外にも真っ直ぐに目が合う。薄化粧だった。女性アイドルとは何度か共演した時、皆近くで見ると、何重にも重ね塗りされた厚化粧だったことを思いだす。しかし、あのメイクは、彼女の今着ている秋の色合いをしたベージュのワンピースには似つかわしくない。
「えっと、それはつまり…」
「あぁ、ごめんなさい。先走った」
困惑して言葉を濁した俺に、彼女は手を顔の前で振る。
「違うの、内海君が悪いんじゃないんだけどね」
とりあえず一方的に酷く嫌われているわけではないと察し、安堵する。嫌われるよりも嫌いだと態度で示されるのは純粋に苦痛だった。
彼女は小さく息をついて自分を落ち着かせようとしていた。頭の中で言葉を組み立てているのが分かる。
「写真撮られたり、噂されるのを避けたい。だから、必要以上に接触しているところを人に見られたくないから、個人的に一緒に作業したりすることはできないと思う。ごめんなさい」
こちらの顔色を窺うようにそっと上げられた目線には、俺を気遣う色もあったように思う。
そうか、そう言うことかと感心すら覚えながら、俺は頷いた。
「俺もその方がいいと思う」
もしも、と想像をする。簡単な想像だ。彼女と俺が空き教室やパソコン室で課題の制作をしている姿を、誰かがアイドル三田光莉だと気づいて、こっそり写真を撮る。SNSに乗せられた写真は瞬く間に拡散され、パソコンの中に真面目なPPがあっても会話の内容は全て課題についてであったとしても、そんなことは誰も信じない。おまけにこちらは軽薄なイメージ先行の若手俳優。想像するだけで気落ちしそうになる。
既に俺たちの方にちらちらと視線が集まっていることには気付いていた。
意識的に不特定多数を遠ざけようと、可愛らしい目の前の少女を見つめる。なんて役得、と思いながら、自分にはそれほどの価値はないのだろうと微かな絶望感がよぎる。学内で、芸能人らしいという好奇の目線にさらされることはあっても、羨望の目線など貰ったことはほとんどない。
長いけれど透明なマスカラを載せただけのまつ毛で縁どられた瞳には勿論カラーコンタクトもなくて、彼女は大学という場所ではアイドルとしての皮は一切被っていない。だけど、アイドルとしての矜持を忘れはしない。伸ばした背筋、きっちりと引かれた俺との境界線、おろした髪の艶。その姿勢に軽い敬意を覚え、俺は彼女の提案を飲んだ。
連絡先の交換は必須だったので彼女の小さな手が携帯電話を操作する姿を見ながら、間が持たない気がして必死に言葉を探す。一応、此処から数か月一緒に課題をこなす関係だというのに、初っ端に牽制をされてしまった。
成瀬と初めて言葉を交わした時もこんな気分だったなと、俺はすでに遠い昔のような気分で思い出を引き出す。成瀬との思い出は全て、小分けにパッキングしてあるみたいに直ぐに取り出せる。その分、酸いも甘いも、どれもぱっと見、似ている。彼も、俺との間に明確なノーを突き付けてきた。軽視はされていないはずなのに、親近感は感じさせてくれなかった。モテる男の一番賢しい処世術みたいで、今になれば、何処で学んだのだと鼻で笑ってやりたくなる。女なんて、いないくせに。
その日の夜、俺は悪い癖で三田光莉の名前をネットで検索した。出てくる写真と今日会話をした女性の差異に呆気にとられながら、彼女が如何に完璧に「アイドル」を演じているのかを目の当たりにして、驚きと共に僅かな失望を感じた、
ありのままの姿を見せることが売りで人間らしさを評価されている彼女たちのグループは、何かに忖度することも不用意に媚を売ることもしないイメージを持たれているが、根底が違っていたのだ。彼女たちは、「素」というキャラクターを既に作っていた。何処か当たり前で親近感のあるキャラクター性は、無理のあるキャラクターを作らないだけでグループでの役割を、立場を、求められるものを提供するサービス業に従事しているだけだった。
ベッドサイドに携帯電話を置いて、仰向けに寝転ぶ。煌々と灯る電球の光に眉をひそめ、手の甲で目元を覆う。
こんなことに陰鬱な気持ちになる自分の楽観的感性には、時折こうして首を絞められる。わかっている。俺は正直者が救われる世の中を、努力家が報われる世の中を、誰しものが幸せになれる世の中を、望むような人間になったのだ。出ているドラマだって、そんなお気楽な筋書きはないけれど、ふとそんな理想郷を思い描いてしまう。それが成瀬の望む世界だと知ってしまったからだ。
報われないならば全部やめて終わりにして、真面目に馬鹿を見ている人が嘲笑われるのならば、出来れば成瀬をその世界から遠ざけておきたかった。
そして一緒に終わりにしてしまいたかった。