3章
十月の上旬が、ユニット結成のお披露目になった。といっても、何をしたわけでもない。成瀬の個人ホームページに大々的に告知され、彼のファンが狂喜乱舞しただけだ。
俺はその日の夜、いつものようにSNSを開き、載せるために撮った写真に添える文章を考えながら、昨晩の呟きへの返信を見ていた。開いた時から、いつもの倍近いコメントに驚いたが、その謎は直ぐに解けた。成瀬ファンが、今日の発表で俺にもコメントを送ったのだ。
大抵の好意的な意見の中に、いくつか、便乗商法の内海俊に首を傾げるものと、成瀬のソロじゃないことで落胆するファンの正直すぎるコメントを見つけた。予想通り、と自分に言い聞かせる。少し耐えられなくなったときは、成瀬とのやり取りを思い出し、心を落ち着かせる。
琳からも電話がきた。
「盛大な匂わせをしてくれたな」
というので、気付けよ経験者、と笑う。
長い夏休みを終えて再開した大学は相変わらず温室で、この中にいてもぬくぬくと育っていくのは主観的な自尊心だけだろう、と思うほど真剣さも懊悩もなかった。時折、成瀬のファンに話しかけられた。すっかり面白くない気持ちには成るものの、成瀬のファンをあしらうのは気が引けた。成瀬君てどんな人ですかと猫なで声で聞かれる度にいい先輩だと当たり障りなく返してから、気が向けば成瀬本人にその事実を連絡した。大抵短い文章だったが、彼は丁寧に返信をくれる。事務所ですれ違ったとき、いつも楽しいメールをありがとうと髪を撫でられた。それを見ていた俺のマネージャーは驚いた表情をし、成瀬のマネージャーは疎ましそうに俺を睨んでいた。俺に成瀬の仕事を奪う力がないことなど誰の目から見ても明らかなのに、あのマネージャーには一ミリでも可能性があることは気に障るらしい。
仕事も程よく上向きだった。まだ主役を張るレベルでない俺は、逆に数多くの作品に細やかながら出演を続けている。単純接触効果というやつだが、それを繰り返していくうちに名前が浸透し、ファンが増えた。
順調に進んでいる。少しずつだけど着実に、前に進んでいる。
SNSも話題になることが増えた。コメントも倍増し、夜中にベッドの中でそれを見る日課の時間が長くなった。それまでの画一的なものに比べると、数が増えた分返信のバリエーションが増えたようで、最初は楽しかった。ただ、露出度に比例して、少し厄介なコメントも度々受けるようになった。やらない方が自衛のためには良いのだろうとわかっていても、ついつい時間ができる度に自分の名前をネットで検索し、深手を負う。苛烈な言葉は相当なものだが、叩ける者は叩いて行く愉快犯も中々に残酷だということを知った。いじめの加害者と、それを見て見ぬふりするクラスメートのようだ。
でも、一番きついのは、もしかしたらファンの何気ない言葉かもしれないと思う。作りかけのキャラクターに対する、過剰な期待と的を射た正論。ピンクの髪がすごく似合ってますと言ってくれる反対側に、茶髪が好きだったのにという意見がみられる。誰かの理想であるために、誰かの期待を裏切っていると知ることは純粋な苦痛だった。
成瀬を経由して俺を認知した人のコメントはどちらかというと、少し辛辣なものが多かった。理由は大抵、真面目で品性のある成瀬の傍にチャラついた俺がいると、単純に彼の価値が下がるというものだった。
ドラマの打合せから帰ってテレビをつけると、丁度成瀬がバラエティに出ていた。次にやる舞台の宣伝を引っ提げ、世界中から集めた素人の動画を繋ぎ合わせた映像を流す番組で、それにちょっとコメントを残している。求められるのは当り障りのなさと共感性。案の定、可愛さを求められると相好を崩して、シリアスな動画には神妙な面持ちを見せる。成瀬は愛想笑いを張り付けているようなところはあったけれど、それはあくまで華やかな顔立ちを生かし相手に不快感を与えないための処世術であり、表情で多くを語る人間ではなかった。
おそらく彼は今、成瀬唯という人間を演じている。その真実が自分の中にあるだけで、成瀬という人間の隙間に親近感を覚えた。一流のタレントであっても、もとは同じ人間だ。
成瀬に誘われて、一度二人でダンスのプライベートレッスンに向かった。小さなダンススタジオを借り切って二人で振り付けを確認しながら進めたのだが、前回のレッスンから僅か二週間、その間彼はみっちりスケジュールが詰まっていたはずだ。だというのに、前回あれほどちぐはぐだったダンスが、形になっていて俺は僅かなアドバンテージを消されたようで悔しくて、でもそれ以上に成瀬への憧れが一層強くなった。
ファンは成瀬唯を天才と扱いたいようだけど、俺は知っている。彼が人知れずしている努力の数々。それが、堪らなく愉悦な気分にさせてきた。
企画の本格始動の先駆けとして、一番最初の共演は雑誌の撮影になった。音楽系の雑誌で、アイドルだろうが声優だろうが、ちょっとでも曲を出せば食いつくことで有名な雑誌だ。
不慮の事故なのか故意の結論なのかは定かではないが、結局これもいちゃもんの嵐で、遠いところでやたら燃えているのを、俺は自室のベッドで傍観することとなった。架空の場所に手は届かないのに、その真ん中に自分がいる。実に不思議なことだった。
まず、いきなり表紙を飾ったことで、別の界隈の反感を買った。同じ月に曲を出すアイドルのファンやイケメンボーカリストが人気を博すビジュアル系バンドのファンにより、俳優が曲なんか出すなと成瀬ともどもやり玉に挙げられる。
次に成瀬のファンが、成瀬の人気に乗っかる形になった俺に対し、売名をするなと語気を荒くする。インタビューで、「成瀬さんに追いつけるように頑張りたいです」といえば、烏滸がましいといわれ、グラビア撮影でカメラマンの指示通り成瀬の肩に手を置けば、先輩に対して礼儀がないと暴走する。
俺の方が成瀬の内心に触れているはずなのに、物理的な距離を超えようとする誰かの一方的な思いに負けてしまう。
そりゃそうだ、俺がみているのは成瀬の背中で、ファンがみている成瀬は正面の美しい姿だ。テレビ越しの誰かは、成瀬の暗鬱に触れなくていいし、成瀬の努力の足音を聞くこともない。
でも、本当は、段々と知らないフリができなくなってきた。真剣に向き合い露出が増えるとその分だけ、知らない誰かの悪意を受けることになる。気にしないようにしても、「都合のいいことにしか耳を傾けない」といわれてしまう。
傷んだ髪先を一束指先でこするように触りながら、中身のすかすかした感触に、アイドル時代は校則が厳しくて黒髪をしていたのを思いだした。グループ内では年上の方だったが、見た目はどちらかといえば幼く見られがちで、まだ子供だった年下組に交ざって写真を撮ると、そのルックスを度々ネタにされた。可愛いといわれることが俺自身にも甘美に聞こえていた時代の話だ。中学を卒業と同時に事務所移籍に伴い上京し、校則の緩い学校で芸能活動に本腰を入れるようになった。幾度となく演じてきた、チャラついた役の数々。髪色を元に戻す余裕もなく、派手な髪色にアイデンティティを見出すくらいにずっと痛めつけている。
琳に、黒髪も可愛かったのになと言われる度に、本当はそうでいたかった気持ちが漣として心に押し寄せ、僅かな砂を攫う様に侘しさを覚える。
東京に行くからには大きくなるしかないと思った。グループの解散を快く思わないメンバーもいた。一人抜け駆けのように、結果論でグループを踏み台にした俺を、恨む理由は十分だったろう。事務所を移動した子たちが今どこで、何をしているのかは知らない。
数人の大人で運べる程度の寂れた簡易ステージで歌っていたとき、素通りする誰かに気付いてほしくて、足を止めて欲しくて、聞いて観て行ってほしくて、だけど今は興味がないのなら触れないでいて欲しい。あの簡易ステージの上で歌っていた時期が懐かしい。参差錯落とした寄せ集めメンバーでその場限りの勢いで乗り切っていただけで、ビジョンも将来性もなかったけれど、少なくともこんな冷たい孤独には触れたことがなかった。多くの名声を集めるには、それ相応の悪意にも触れないといけないものらしかった。
怖いのは嫌われることじゃない、と思う。本当に怖いのは、嫌いという感情を何が何でも形にすることに固執し、それを俺の元に届けないと気が済まない誰かの奥底に眠る、薄暗い感情そのものだった。
端役で出た映画が地上波で初放送された日、俺はボイトレ後家に直帰し、テレビの前で待機した。人気漫画の実写化だったので公開前から話題は大きく、今回の放送もやはりSNSやネットはこの話題一色になった。
俺は片手にケータイ片手にパソコンのマウスを持って映画そっちのけでネットをパトロールをした。
俺が演じたのはトランスジェンダーの役で、出演時間に反しキーキャラクターだったことからも俺のことをつぶやくものも多く、バラエティの女装の写真を俎上に挙げる人も多かった。話題になるのが女装とはいかがなものかと一瞬思う自分もいるが、売れるものから売れという成瀬の言葉を心に思い留まるのだった。
『内海って子、絶対トランスジェンダーのこと理解してないと思う。わかってたら、あんなわざとらしい演技はしない』
そう、何かを悟ったような口ぶりで語る誰かのコメントに、同意を示す言葉が溢れている。
綺麗なバラには棘がある。自分を守るために。
本当だろうか?誰かを傷つけなければ守れない自分を、正当化する意味は?
もしも本当に彼女が少数派への理解がある大度な人間ならば、こんな風に俺を吊るし上げる残酷性が理解できないのはなぜだろう。
『そもそもセンセーショナルな役を作ればいいと思っている感じが嫌だ』
『トランスジェンダーはネタにするものじゃないよ』
賢らしい発言をする人も、同様に。
時間を無駄にした気分でいると、ふと成瀬のコメントが目に入った。驚きで、目を見開きケータイを顔に寄せた。ちらつく画面に、簡潔な文章。
『俊の演技はどんどん良くなってる』
たったその一言だったが、彼のオフィシャルなコメントは直ぐに拡散され、あの成瀬が褒めた後輩、というだけで話題になった。いつの間にか悪意にまみれた言葉は埋もれていき、成瀬と俺の関係で話題はもちきりになったのだった。
そのお礼をしようと思っていた矢先、成瀬から食事に誘われた。何故かはわからないが、成瀬は俺のことをやたらと気にかけてくれる。メールにはメールを、留守電には折り返しを、こちらから詰めた分を彼はきちんと返してくれるのだ。それが成瀬の仕事上の流儀なのか人間性の美徳なのか将又その両方なのかは知りえないけれど、俺の存在が憧れの人の心の何処かにあるという幸福感はあまりに大きかった。
その反面、彼のマネージャーはそれが気に障るようで、一度として好意的な視線を貰ったことがなかった。
前回同様に成瀬が予約を取ってくれたのは、都内にある高級焼肉屋だった。個室に入ったときは少し肌寒いくらいだったが、火が入るとそうでもなくなった。食事処とは思えないほど閑静な空間で、言葉がないと落ち着かない空気感すらあった。
話題を探してネットでフォローされたことを思いだして、お褒め頂きましてありがとうございますと軽く頭を下げれば、成瀬は端正な眉を少し下げた。照れとも、困惑とも取れる、線の細い笑い方をする人だ。
「俺はSNSって自分で動かすことなんて滅多になかったからさ。コメントなんて書いていいものかどうか、悩んだんだけどね」
ファンの間では彼のSNSは宣伝用と専ら有名で、時折撮影の話やプライベートな話が出るとファンが欣喜雀躍とする。実力派だからこそできる神秘性のある運営方法で、俺のように一日一ツイートは半ば義務のようになった新人とはわけが違う。ツイッター芸人と自虐的な発言をしたところ、わかっているなら俳優業に力を入れろと的外れな正論を返されたこともある。
「表情だけであそこまで演じ切れるのは純粋にすごいことだし、その容姿を生かせる役は貴重。あの衣装もメイクも可愛かったよ」
出演時間のすべてで女性用の服を着用し、メイクもほぼフルでしていた。軽いメイクは当然いつもしているが、女性のメイクは訳が違う。重たいつけまつげの感覚は今でもまだ思い出せるくらいだった。
俺は多少複雑な気持ちになったものの、
「ファンには大好評でした」
あの役以降、俺自身女装やらぶりっ子の役やらのお鉢が回ってきているのは当然わかっていた。長身のイケメン俳優は腐る程いても、華奢で甘い雰囲気をした俳優はそこまで山ほど程いるわけじゃないお陰で競争相手が少なく、一度キャスティングされると長く続くのだ。
「母親似のルックスに感謝してます」
塩だれをくぐらせたタンは分厚く、なのに歯ごたえが良かった。口に入れたまま話したせいか少し言葉がまごついたのを、成瀬は不満とみたらしく、くすくすと笑う。
「俊からみれば不本意な仕事かもしれないけど、売れるものから売っていくのは芸能界に限らず当然のことだから、成長過程だと思って」
理由はわからないが、成瀬の表情は少し明るい。普段に比べ饒舌なうえに、言葉の内容も妙に明るいところがある。
成瀬がハラミを皿に取ってくれたので、それは甘辛いたれにくぐらせる。程よい辛さに、白米が進む。
「成瀬さんがやりづらかった仕事ってありますか?」
トングの似合わない彼は、性格を表すように肉を敷き詰めて並べて焼くので、連れてきてもらった身として焼く係を買って出たい俺は言い出すタイミングを完全に失っている。
「やりづらかった役っていうわけじゃないんだけど、一回金髪にしたことがあってさ」
すぐに作品名が頭に浮かんだ。口にすると、成瀬は意外だという表情になって、よく知ってるねと目を大きくした。
「成瀬さんの出演作品は、ほとんど見ました」
「それは恥ずかしいな」
本当に照れたように笑うので、こっちまでどぎまぎしてしまった。
「あの作品、原作のラストを無視して別の犯人作ったから原作ファンを敵に回して、大爆死したんだけどね」
あっけらかんと口にした成瀬の感情の薄い表情に、俺は思わず吹き出す。成瀬はやっと自分の茶碗を手にしたというのに、手を止めて顔を上げた。
「いや、今だから笑えるけどさ、あれで俺、初めて髪染めたんだよ。正統派っていうイメージを打破するためにってバージンヘア捧げたのに、大爆死だからね。ファンからは似合わないだのイメージ壊れるだの好き放題言われるし、本当にいいことがなかった」
憮然とした表情で話す彼の口調はいつもと同じはずなのに、不満そうな口許と言い方のせいで、まるで弟でも見ているような気持になった。
「俳優って難しいよ。役になるときはどんな役にもなり切らないといけないのに、あくまで成瀬唯というキャラクターも維持しないといけないんだから」
彼は何気ないように言ったが、俺ははっとした。最近引っかかっている物に近かったからだ。
ファンから、たまには黒髪にしてほしいというコメントを貰ったばっかりだ。俺だってそうしたい気持ちはあるけれど、チャラい役ばかり回ってくる立場上、黒髪にするのはハードルも高いし、面倒事も増える。チャラくてうざいといわれることもある。そういう役を演じているだけなんだけど、とはさすがに返せない。
立場上、言いたいことをすべて口にできるわけじゃないし、内海俊という商品である以上、中川俊としての意思は尊重できない。それでも世間は内海俊と中川俊は同一人物としてみている。
そのとき、突然個室の扉が開いて、騒がしい声で一人の男性が入ってきた。
「やー若者たち、たっぷり食ってるか?」
遠慮のない大声と共に成瀬の隣にどすっと座り込んだ男。原田という名前が頭に浮かんでくるまでに、多くの時間はかからなかった。
「え、どうされたんですか?」
成瀬が戸惑いながら、首に回された手を辛うじて受け入れている。しかし正面から見ている俺には、端正な顔が歪み崩れたのが分かった。
「さっき、女将さんから上にお前がいるって聞いたからさ。ちょっと邪魔しに来た」
女将さん、余計なことを、と思ったのは、俺ではなく成瀬だろう。
原田は中堅の俳優で、舞台からのたたき上げだ。そのせいかは定かではないが、成瀬のように事務所に全力で守られ管理されてきた者に比べて、フットワークも軽くノリも軽い。軽快でオブラートのない発言が受けて、最近では俳優業以外にもバラエティー番組などでよく見かける。
堅実で真面目さが売りの成瀬との相性がいいとは思えないが、そういう者同士が共演するのが映画の面白いところだ。原田と成瀬がデコボコバディを演じたのは、二年ほど前の話だ。
「お、君が噂の、内海君?女装しなくても美人だね」
俺は自分に向けられる軽い言葉に、なるほどと納得する。真面目な成瀬には、いくら多少の実績があっ ても初対面に対してこの軽い言葉を使う人間は、全く信頼に値しないだろうことはよくわかった。
「はい。内海俊といいます。よろしくお願いします」
わざわざ長テーブルの向こう側にまで行って正座し直して、手を差し出した。彼はすっかり出来上がっていたせいか手にも熱を持っていた。分厚くて、がさがさとした肌触りに、何故か背筋がぞっとした。唐突な悪寒だった。
この人の軽いノリや駆け出しの俺を見定めようとする目線には真っ向から対抗したい気持ちもあったが、成瀬の立場もある。腰を低くした体勢で、内心で反抗的な気分になる。遜ったのは、権力のありそうな彼に愛想笑いの一つくらいくれてやってもいいだろう、そう判断したまでだ。
「チャラそうに見えて、意外としっかりしてんのね」
見た目で判断されることにテレビに出る人なら多少なり思うところがあるはずなのに、ビジュアル至上主義の発言が出るところも、なんだか浅はかな人に感じる。
「演技力もあるんでしょ?」
成瀬の方を向いて、彼の声は大きい。ひっそりとした窓から声が押しやられ裏路地に響き渡っているのではと心配になった。
「えぇ。難しい役をこなしています」
断定的な口調できっぱりと言い切った成瀬に、俺は心臓の奥から彼への強い信頼を感じる。成瀬を見ると、彼は薄い唇の端を持ち上げるだけの笑顔を見せてきた。
真っ直ぐな瞳は美しい。いつも物憂げに、控えめに言葉を選ぶ彼の心の湖に自分が反射したのが分かって、故にその湖面の美しさを知る。
成瀬は今、同年代では比肩できる者がいない。それは界隈の人間誰しもが認めることで、名前を売る ために芸能関係者が一丸となって作り出す実態のない形骸化した賞を、彼は片っ端から受賞し続けてい る。何々が似合うとか、何々にしたいだとか、ファンの妄想の岨道伝いにありそうなはりぼても多いけれど、どこの局でも朝から昼にかけてのワイドショーで取り上げてくれるのだから、名前を売るきっかけにはなっている芸能界は一見華やかだけれど内側は仄暗い場所という社会認識を、俺はあながち間違っていないと思う。蓮の花が咲く池の、緑の葉に蓋をされた水深は見ただけではわからない。薄暗く根の深く張った水の中を隠すように広がる深緑の葉と、一切の汚れを知らない鮮やかな紅の花。鍾美の花。ほんの一握りの成功者の底に沈めこんだ、名もなき誰か達。
成瀬は間違いなく咲きほころんだ花だけれど、彼の瞳には暗鬱や憂鬱が見えていて、無垢に咲き誇っただけの花ではなかった。
原田は焦点のずれた瞳で俺を見て、何かを嘲笑う様に鼻を鳴らした。
「お前さんが呟いてから、暫く話題になってたよな」
言外に、原田は俺の売名を非難しているらしい。確かに、成瀬の宣伝が否定コメントを薙ぎ払ってくれたのは事実だった。美しい花が頭をもたげれば、誰もがその視線の先を探るだろう。
しかし、成瀬の表情は曇る。俺が思っていた以上に、成瀬唯は人間としては不器用なのかもしれない。 彼の処世術は一辺倒で、上手な転び方も相手の良心を攻撃する手腕もない。
「成瀬さんが呟いてくれたおかげで、演技が下手とか、演技が気持ち悪いとか、顔が生理的に無理とか、そういう暴言が手のひら返しされてて笑いました」
場をとりなすために自虐的な笑いを浮かべて言うと、原田は手をたたいて笑う。酔狂なやつだ、と内心罵ることで自分の気を静める。成瀬はすっかり不信感に濡れた表情で、時が過ぎるのを待っているようだった。
「まだまだ結構なこと書き込みをされているんだな。でも、悪いことは言わない。地上波で作品が公開された時のSNSはあまり見ない方がいいぞ。参考にもならん」
彼は豪快な声で話すので、内容が内容だけになんとなく落ち着かない。矛先が不特定多数であれど、曖昧な言葉は時折身内をすら切りつけてしまう。
「金を払うファンならともかく、身銭を切らないで作品に手を伸ばす者の中には、否定的に入るものも 少なくない。その意見全てに付き合ってみろ、パンクするだけだ」
黙らせたいと思ったらしい成瀬が咄嗟に水を差しだすも、彼は目もくれずに拒否した。
原田が俺を見つめた目は座っていて、澱んでいるように見える。芸能界という場所で過ごした時間と経験の差を、見せつけようとする傲岸さが見えた。
「いいか、作品を作るのには金がかかる。かけられる金額は、収益として戻ってくる量に比例する。なのに、それを無料で得ようとする浅ましさを、もう少し自覚すべきだ」
言葉選びは下品だし酒焼けした声はどうかと思うけれど、言っていることは妙に腑に落ちた。無料コンテンツが増え、何の知識もない一般人が作品について個人の在り方について好き勝手言う時代になったのだ。視聴者の意見を一切汲み入れないといわないまでも、選別する意義はあるのだろう。
だから気に食わないのかもしれない、と思う。隣で華奢な肩を更にすくめて目線を泳がせている成瀬を、俺は哀れに思う。成瀬の、どうにか現実を飲み込もうと、理不尽をかみ砕こうとする姿勢には感心するけれど、いい子過ぎないかと思う面もある。優等生であろうとし過ぎて、内側から本音を殺すことを覚えすぎている気がする。
俺は成瀬の背中を追っているけれど、そのすべてを真似しようとは思わない。彼が抱いている生きづらさ、絶望感を、俺は寄せ付けたくないし、その前に壊してしまいたい。事務所に求められているものも、世間の印象も違うだろう。俺が目指すのは、成瀬が理性で押し殺す天衣無縫さだった。
「あとな、成瀬」
原田は成瀬の方を向き、凄むように彼の名を呼ぶ。本性を現した化け猫だ、と思った。ここでどんなに横暴を働かせても、俺と成瀬が話しさえしなければいいと思っているし、実際そんなことをされるわけもないと疑いもしない表情だった。
「先輩に水を差しだしてどうする。酒はどうした?」
「すみません、まだ、俺も内海も未成年なんです」
「はっ、何を弱気な。酒の一つも飲ませない先輩があるか」
そういって徐に立ち上がると、少し危うい足取りで店員を呼ぶ。
その瞬間、成瀬の表情が変わった。ページを一枚捲るように、怒りが首元から脳に達するのが傍から見て取れた。
「原田さん、それはさすがに」
俺たちは年齢を公表している。店員だって俺たちが何者かぐらいわかっているわけだし、実際余計なことをしないのは賢明な判断だ。なにより、成瀬はその結果として失う物の大きさを痛いほど知っている。芸能人が多く通う高校を卒業した成瀬は、同級生が去年未成年喫煙を週刊誌に撮られ、映画を降板している。名前を売るということは、自分を売ることと同義なのかもしれない。
「疑わしいことはしたくないんです」
成瀬は辛うじて笑顔を寄せ直し、原田の背に触れた。
呼ばれてしまった女将に成瀬が、原田を席に連れ戻して欲しいという声が聞こえてくる。
俺はなんだか疲れてしまって、その場で放心していた。ぼんやりと二つの背を見つめると、貯えに貯えた脂肪でサイズアップしている原田に対し、成瀬は背だけは高いのに必要な筋肉も脂肪もそぎ落とした華奢さで、見ていても不安なくらいだ。その成瀬が、細い身体を二つ折りにして原田に深々と頭を下げる。微かに、挨拶に来させたことを詫びている声も聞こえた。勝手に乱入されて、頭を下げなければいけない関係性なのかと思うと、やりきれなさを感じる。
戻ってきた成瀬は三キロぐらい痩せたようにやつれ、そうすると目元の隈が一層暗く見えた。俺に席に戻るようにいったくせに、彼の手が俺の髪に伸びる。
「ごめんね」
「成瀬さんのせいじゃないです」
彼の手に触れると、思っていたよりも指先が冷たかった。細長い指に絡めた自分の手の体温を彼に分けてあげることはできても、爪の表面がざらついているのはどうしてあげることもできない。俺は小さな後悔をしている。彼は俺にとって、完璧な存在だった。成瀬唯という俳優に憧れて、彼の背を追っていたかった。近づいた代償かどうかはわからないけれど、俺は今彼に対して憧憬よりも同情が強くて、その手の感情はむしろ彼を下に見ているような気がして耐えられない。目を眇めて微かにほほ笑んだ成瀬は俺を愛おしそうに見つめているけれど、彼は俺を買い被っているだけだった。まさか俺の心の奥底に仕舞った素直で冷徹な部分が原田の言葉に納得してしまったことなど、露ほども疑っていないはずだ。
広々とした個室に静けさが戻ってきたけれど、始めの清廉とした高級感はすでになくなっていた。雪が大地を埋めているように、俺は自分の醜い感情を成瀬の純真さを隠れ蓑にしていた。原田によって掘り起こされた正直な感情を、もう一度成瀬で埋めるのは無理がある。
「俊がいてくれてよかった」
成瀬はそう言って、絡めていた指先に力を入れた。解くには強い力で、俺は握り返すこともできずに曖昧に笑う。
やめてくれと心が悲鳴を上げる。俺は成瀬の期待にはこたえられない。