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売名  作者: なかはら
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2章

 マネージャー経由で連絡先を聞かれてから僅か三日後、成瀬本人から食事の誘いを貰い都内の高級料亭で落ち合った。

「すごいお店ですね…」

 都内の一等地の路地裏。静かな店内は広さに反して個室がいくつかあるだけで、俺の部屋より大きな和室の真ん中に、重厚なテーブルが置いてある。華奢な花瓶に生けてある名前の知らない花を見て、柔 らかな間接照明の明かりが実はとても暗いことを知る。

 事務所の上層部や共演した俳優に連れていかれた食事処はどれもこれも凄かったが、僅か一つしか年齢が違わない人の顔が利く店、と思うと、さすがに言葉が出ない。差を見せつけられた気も、少しする。

「今日突然で予約を入れてくれたのが、ここだったんだ」

 着ていた薄手のジャケットを脱いで、彼は穏やかに笑う。切れ長の目元を崩すと、柔らかさが出て近寄り難さが刹那、解ける。

 個室のど真ん中に向き合って座る。ただそれだけで、彼は美しい。すっと伸ばした背中と落ち着きのある仕草のせいだろうかと考えて、自分も同じように心がける。改めて、自分とはタイプが違うと感じ、そうなると妙な敵視がくだらないことに思えてきた。

「今日は来てくれてありがとう。これから一緒に活動も増えそうだし、親睦を兼ねて、一度ちゃんと話してみたかったんだ」

 お互い未成年なので、乾杯はウーロン茶になった。

「法に触れることは絶対にしない方がいい。身の為にね」

 身辺整理もしっかりしている、と思う。

「そうそう。まず、写真が欲しいんだ」

 彼は言うが早いか俺の隣にきて、遠慮がちに肩を抱いてきた。カメラを斜め上から、密着した身体を差し込ませるアングル。細くて長い腕の中で、俺は身動きも取れずに硬直してしまった。それはなにも成瀬に対する意識のせいではなくて、成瀬自身も慣れないことをしているせいで動作がぎこちなかったからだ。

「内海君も、同じように撮って」

 いわれるがまま、今度は顔を寄せるショットだった。近寄ると、彼のシャツからはやはり石鹸の香りがした。もっと鼻につく香水でもつけているかと思ったが、格好にしてもアクセサリーにしても、彼はあまり華美なことはしない性質らしい。質のいいブランド物を着こなすだけで、すらっとした身体が美しい商品になるのだ。

「それじゃ、明日か明後日にSNSにアップしておいて。場所は書いちゃだめだよ」

 薄々そんな気がしたけれど、要するに歌手活動の伏線を張っているらしい。

「内海君のSNS、偶に見てるよ。よく毎日、あれだけの内容が書けるね」

 全世界に公開をしているのは勿論俺自身とはいえ、面と向かってみているといわれると何となく秘密を知られた気分になった。

 一日に一回はSNSに言葉を載せることを心掛けている。内容は薄いが、その日一日にあったことのうち、一番面白かったことを書く。大抵は仕事でどこに行っただとか、リリースされた内容であればどういう撮影をしていただとか、ネタがなければ飯の内容や大学の話、時にはファンに逆質問なんかをしてみる。俺はまだまだ無名に近い存在なので、決して多くない固定ファンがご丁寧に返事をくれるくらいで、それでも生の声が聴けるのはときに参考になるし、好意的な言葉を貰えればモチベーションになる。

「成瀬さんの写真載せたら、コメントとか滅茶苦茶増えそうですよね。先輩を出しにするようで申し訳ないですけど」

 これは完全に俺の売名行為だ、と思って言うと、成瀬は先ほど運ばれてきた前菜の湯葉と豆腐の創作料理に手を付けながら笑った。品のある笑い方をするけれど、何となく薄暗い人だなと、内心不安に思う。

「まぁ、変な言い方だけど、この件に関してのエゴサーチはほどほどにした方がいいよ」

 成瀬の落ち着いた口調で「エゴサーチ」という言葉が出てきて度肝を抜かれた。小学生がお金について語るのを聞いているような、何となく虚しくなる感覚だった。

「成瀬さんでも、エゴサなんてするんですね」

 正直に呟く。数日前に行ったリサーチの結果を思い出し、どうかあの残酷な言葉が彼の眼に入っていないで欲しいと、祈るような気持ちになった。

 成瀬は少し目を細めた。

「あまりしないようにしてるけど、偶に反応は気になるよね。今日も、舞台の感想が気になって、うっかりやってしまったよ」

 成瀬は昨日から二週間、時代劇系の舞台に出演する。史実をコメディタッチに書き直したものだが、人気が高くチケットは落選祭りだった。

「どうでしたか?」

 表情を伺いながらおずおずと聞いてみると、彼は空気の通り抜ける涼やかな笑顔になった。

「今回の脚本は有名なお笑い芸人の方にも参加してもらって、演出もかなり凝っているんだ。殺陣のシーンがとにかく大変で、衣装も重たいしメイクも濃くてかなり苦労しているんだけど、その分力作だと思っている。

でも、見に来てくれた方のコメントのほとんどが、顔とか髪型の話とか、衣装の話とか、なんか容姿の話ばっかりでね。お客さんに求めることじゃないのかもしれないけど、それだけが見たいなら舞台の意味あるのかなって思っちゃうよね」

 淡々と、小さな小鉢をつつく仕草は幼くて、照明が影になって表情があまり見えない。

「容姿だけじゃ限界があるって自分で感じていたから、無理して舞台仕事入れて経験積んでいるのに、結局スペックなんかより容姿を売るしかないんだって思わされた気分がしたよ」

 成瀬はそこまで言ってから少しはっとしたように顔を上げて、眉にそっと力を入れた。

「ごめんね、なんかいきなり愚痴っぽくなってるね」

「いえ、むしろ冷静な意見を頂けました」

 俺はウーロン茶を一口飲んで、彼の憂鬱に心底同情する。

 大学で、本当に時折だけど声をかけられる。ほとんどの場合、芸能人という肩書に反応をしているだけで、特に俺に興味のないという顔をされる。肩書に、彼らは群がるだけだった。成瀬のファンの何人が、彼の俳優としての魅力を理解しているのだろう。容姿を好きになることが悪い訳じゃないけれど、視線の先にそれしかないと口にされてしまうと、こちらのモチベーションには成ってもらえないのが現状だった。

「俺だって、君の歌はすごいって社長はスカウトしてくれたのに、歌の仕事が来たのはこの件が初めてですから」

 結局、歌がそこそこうまい程度のタレントは、都内の事務所に掃いて捨てるほどいる。だからまずは、俳優という肩書で顔を売らせたのだ。

 その後、ちまちまと運ばれてくる懐石料理と共に、この機会にとばかりにあれこれ質問を繰り返したのだが、彼は面倒くさがらず全てに返事をしてくれた。

 成瀬は穏やかで、落ち着いていて、品があって、テレビで見せる顔とあまりに同じで驚いた。

「そっか、元アイドルってことは、前の事務所で演技仕事はしてこなかったんだね」

 金目鯛の煮つけの味に感動しながら、俺は頷く。

「でも、だとしたらセンスの塊だね。あの、ずぼらな主人公の弟役やったときの、チャラくて口の悪い演技、すごく上手だったよ」

 自分が出ていない作品までチェックしているのかと、少し驚いた。

「あれは自分の本性に近くて、正直共感しやすかったんです」

 その答えに、成瀬はうつむいて笑った。彼は声をあげて笑わない。そのため、それが愛想笑いなのか彼の琴線に触れられたのかは、測り兼ねた。それでも必ず笑ってくれるので、場の空気は一定の優しさに包まれている。

「チャラっぽい役ばっかりやってきたので、真面目なキャラクターとか影があるキャラとか、そういう演技力を必要とする役に出会ったことがないんです」

 グラスのお冷を飲むと、水まで澄んでいて甘かった。

「内海くんの甘いルックスを生かすには、明るくて裏表がない役の方が似合うからだろうね」

 優しいフォローを、彼がどんな意図をもって口にしたのかは分からない。ただ、彼の穏やかさは彼の意識のもとに作られているらしいと、会話の中で感じてしまう自分がいた。

「これからもし、自分から遠いキャラクターを演じるってなったとき、共感性なく演じるってことができるのか、不安があるんです」

 成瀬さんはそういう時、どうしていますか?

 成瀬は箸をおいて、手を組んだ。長い指が祈りの行為のように絡み合う。体の隅々まで綺麗な人だ、まるで作り物のよう。そりゃ、世の女性たちが彼を国宝のように扱いたくもなるのはわからなくもない。安っぽく、誰でも彼でも手に入る廉価版のような扱いはしたくない。誰の物にもならない、みんなの宝物。

「共感できないキャラクターでも演じているうちに情が移る。そしたら、自分の内側から自分なりのそういう部分を引き出せばいい。人間誰しも似たり寄ったりの感情を持つもので、それをどこに向けるか、どう表現するか、その違いに過ぎないんじゃないかな」

 成瀬の演じてきた役。数は多いが、どれも大抵、美しくて芯が通っていて、知的なくせに何処か歪んだ部分を持っている。気が強くて誰かの厄介者だが、他の誰かには寵愛されていることが多い。しかし、成瀬本人は癖などなく至って普通の、むしろ万人受けする性格だ。

 彼の発言か彼自身にも向いているとすれば、彼の内側にも役柄をなぞる暗さが眠っているのだろうか。

 想像できないな、と、詮索する気持ちをそっと心の中に隠す。

「内海君て、今大学生なんだよね。学生生活って、どんな感じ?」

 成瀬は明るい口調で話題を変えた。

「楽しいと大変が半々ですね。私立文系なんて楽だ楽だって言われてたけど、仕事と重なると響きますし、抑々そんなに勉強が好きってタイプでもなかったので」

 正直に言う。

「社長の、チャラい見た目できちんと学歴があるとギャップがあっていい、って言葉で、進学が決まりました」

 ほとんど強制だった、とは、さすがに言わないでおいた。

「そっか。いいな」

 彼は諦観をちらつかせる笑顔でそう言った。

「俺は大学進学を考えていた時に、連ドラが決まったからさ。それも、半年スパンのやつで、進学は無理だなって察した。元々理系だったし、何方も疎かになったら意味がないからね」

 少し長い前髪が頬にかかると、彼はミステリアスな雰囲気に包まれる。わかりすぎる相手より、少し掴めないくらいの方が美しい。それは作品にも言えることだが、品性と才能に恵まれた彼の形容し難く見え隠れする暗鬱はとても美しかった。

 夜は早い解散になった。

「明日も公演があるんだ」

 そう、申し訳なさそうに言う彼に、むしろこちらが頭を下げた。一日二公演をこの華奢な身体でこなす苦労など、俺にはまだわからない。

「あの」

 彼の言う、力作という言葉が引っ掛かっていた。

「明日、成瀬さんの舞台の見学に行ってもいいですか?」

 客席とは別に、様々な理由で関係者のみの席が存在するのだが、事務所に頼めばほとんどの確率で見学に行けることになっている。正直に言うと俺はマネージャーから、誰のどの舞台でもいいから見学に行くようにと何度も尻を叩かれていた。

 成瀬は街灯の明かりの下で頷いた。

「勿論。明日でも、明後日でも。ただ、来たら、楽屋あいさつに来てね」

 夜の時間ができたので、帰路にあるレンタルショップに寄って、成瀬の準主演映画を借りた。

敢えて明かりを消した部屋のテレビで、俺は布団を肩にかけた状態で鑑賞した。彼が演じた中で一番狂気的な、知能犯罪者の話だ。猟奇的な視線、傲慢な自尊心を幾度となくのぞかせ、警察を翻弄させて愉悦に浸る姿は、成瀬の美しい表情によって一層艶美に感じられた。

 彼はこの役を演じる際、己の何処にこのキャラクターの共鳴を呼び起こしたのだろうか。傍目にみれば彼は素晴らしい「役者」として目に映るだけだった。

 それでもふと気になって、ネットで作品名を検索してレビューを見る。作品への評価とは別に、演者へのコメントが半数近くあった。主演がベテラン俳優だったせいか名指しで品評されているのは主に成瀬で、キーマンなうえに表情で語るしかない役柄、文句のつけ所は多かったのかもしれない。とはいえ有象無象の眼高手低達に容赦のない言葉をぶつけられていることに、戦慄する。本気で作った作品を感情論に生半可な知識を張り付けて否定をされたら、参考になどならない。

役柄を通して成瀬を毛嫌いした誰かが、カメラに向けて作ったアイドルの笑顔にほれ込むのだとしたら、役者はどうも損な役回りらしい。

 



 社長に予告されていた通り、バンドグループのギタリストが不倫騒動で炎上騒ぎとなり、光の速さで事務所から謹慎の発表があった。奇しくも一カ月後から全国ツアーの開催を控えていたことと、その相手というのが売り出し中の若手アイドルだったこともあり、ことが大きく騒がれた。

 人の不幸を蜜だといわんばかりに群がる輩より、賢らしい顔で道徳的に説いているコメントのほうが鼻につく。それらしい言葉をくちにすれば正義なのかと思うとうんざりした。芸能人の過ちは許されない。それは事の重大さ云々の前に、商品であるという前提があってこそだろうと思うと、裏側の透ける表側しか持っていない現実を知る。

 ソファに身を沈めてネットニュースを斜め読みしていると、次のツアーは当事者を抜きにして代理のギタリストを入れるという決断になったというから、驚いた。それと同時に、胸の奥がざわつく感覚が広がる。ファンが漏らす「ボーカルがやらかしていなくてよかった」という本音をなぞれば、バンドのボーカルに代理など絶対にありえないだろうと想像することは難しくないけれど、ギタリストなんてどうにでもなってしまうのかと思うと、そう遠くないところに不安を感じる。

 グループ名は有名。ボーカルの顔も知っている。でも、ギタリストの名前なんて初めて聞いた。勿論顔なんてわからない。それでも、代償の大きさは一般人の比ではない。免許を取得したばかりのころ、運転中にパトカーを見たら落ち着かない気分になった。授業中に教師が傍を通ると自然と背筋が伸びる。間違ったことをしなければいいのはわかっていても、ケチが付いたら反論の余地もないことを、無いはずの経験から学んでしまっている。

 音楽には精通していないので、本当のところはわからない。でも、ギタリストの変更はどれ程の差があるのだろう。代理であるといわなければ、誰にも分らなかったりするのだろうか。追いかけて本気のファンであった人たち以外には、ことの風化と共に忘れ去られる事実なのだろうか。

 ネット上に溢れる言葉は身勝手だった。被害者面を匿名の文言に託して、その失望は何パーセントの期待の裏返しなのだろう。

 呼ばれてもいないのに説教しだすヒーローには、せめて誰かを救っていけと言いたい。この事実に傷ついた人がいて、遠い場所だとしても苦しみを持つ人がいるのだから、感情を揺さぶられていない人が持論で事実を分断しようなどとしないで欲しい。

 少なくとも、結果論としてお鉢が回ってきた俺と成瀬の運命が少し動いたこと、そしてそれが心を躍らせるだけではないことを、俺は予感していた。




 所謂お披露目曲は簡単に決まった。社長の鶴の一声、いつものことだった。ワンマン社長なんて珍しいものではない。実力の世界。圧倒的な魅力も、推してもらえる運も、事務所選びの慎重さも、出会える人の確率論も、全部実力という一括り。どれか一つだけでもうまくいけば存外しがみ付ける。

 決定した曲は過激な恋愛ソングで、英語で繰り返されるサビが印象的だった。数回有線で流せば、なんとなく頭には残るだろう。同じ事務所の先輩にあたるロックバンドのギタリストが作ってくれたというから、笑顔で「かっこいいです」と繰り返したけれど、歌唱力を売るには少々軽い気はしなくもない。一曲聞き終わってからほのかに漂う、雰囲気カッコイイなところは恐らく、成瀬のイメージだろう。きちんと歌詞を和訳してみると、公共の電波に乗せるのは憚れる過激な歌詞が多くて、おまけに気障すぎて笑える。自分がこれを歌う姿を想像すると、アイドル時代の、明日は明るい系の曲の方がましな気さえした。

 でも、な。

 俺は隣で歌詞カードを真剣な眼差しで見つめる成瀬を横目に眺める。長いまつげが白い肌に僅かな影をつくり、その何とも言えない隙間が美しい。昔、演技講習を受けた時に色気に迫力はいらないといわれたことを思いだす。何処か儚い間隙を作れと言われた。そこに他人の入る隙間があるように、と。

 その意味を、傍で実感する。

 この情報が解禁されたときには、成瀬のファンは発狂するだろう。

『成瀬くんのイメージぴったり、ほんとにかっこいい』

『こんな風に誘われたい。どこにとは言わないけど』

『歌うますぎるし、ソロで聞きたかった』

 頭に想像したSNSの反応が自分でも生々しく見えて、内心うんざりした。

 成瀬と食事をした後のSNSはかなり盛り上がった。社交的ではないと公言する成瀬が後輩を食事に連れて行った、という話題はファンにはたまらないものだったらしい。おこぼれの形で、俺への好意的な言葉もいくつか散見された。見ていて気分がよくなって、深入りしたところで、今度共演するかもねという鋭い指摘に心臓が大きく脈打った。

一方で成瀬のファンから、彼を使った売名を快く思っていないとする意見もあった。それ故に、俺に攻撃的な言葉もいくつか見受けられた。

 歌詞カードを渡されてから、成瀬は微動だにせず歌詞を何度も目だけで追っている。長いまつげがしなやかに動き、小さく囁くように唇が歌詞を載せているのはわかった。彼はこの歌に、どんな自分を引き出すのだろう。

あれ以来、俺は時間ができる度に、成瀬の過去作品を片っ端から見続けている。見学に行った舞台で見せた精力的で迫力のある演技と映画で見せる怜悧なキャラクターの使い分けに、俺はすっかり魅了されてしまったのだ。

そうしながら、そういえばこんなにも演技について学ぶことを意識したのは初めてだ、と気づいた。売れたいという闘志、アイドルのなりそこないと思われたくないという思いはあったけれど、自ら行動に出ることはなった。

デモテープを貰った後は、ダンスレッスンを受けることになっていた。事務所の地下に作られたレッスンスタジオで、振り付けを覚えていく。

 肩書の多さに何一つ特徴を捉えられなかったが、とにかく実力派のダンサーという人の言う通りにダンスをこなしていく。今日の練習と、あとは時間がないのでMV撮影前日に通しで数回練習するしかないといわれ、目が回りそうになった。アイドル時代の練習時間を思うと、ありえない過密日程だった。しかしそうはいっても、ダンス経験者の意地とアドバンテージによって、何とか食らいつく。

 鏡張りの部屋は広く感じる。そこで手拍子に合わせて身体を動かしながら、鏡越しに成瀬を見る。

 ダンス経験はない、とさっき言っていた。確かに最初の十五分くらいは完全に身体と意識がばらばらに動いているように見え、動作をこなすだけで苦労していた。しかし、同じ動作を繰り返しているうちに、どんどん形にしていく。はじめは持て余していた長い手足を使いこなすカウントを覚えたようで、表情を作るところまで進んでいる。

 さすがはトップスターだ。何もかも器用に、そつなくこなす。

 やがて成瀬が次の仕事があると言って都内のスタジオに向かってしまったので、俺はダンサーの人からいくつかの課題を貰った。

「しかし、内海くん、筋がいいね」

 年齢は三十代といったところだろうか。背が高く、細身だがのぞいた腹筋は綺麗に割れていて美しかった。アスリートの身体だった。

「元アイドルっていうから、てっきりお遊戯会経験者だと思ってたよ」

 彼の表情には馬鹿にした色はなかったので、これは彼らからしたら当たり前の差異ということだろう。動きにくい衣装で、マイクを片手に笑顔も振りまきながら笑顔でいるのは中々気の配ることだらけで、アイドルにとってそのお遊戯会が作品だったのだが、彼らからすれば同じ「ダンス」と括るつもりは毛頭ないようだ。

「ま、当時はそうでしたよ」

 プロからすればそうだ、とすぐに納得したのは、上京してから世界との差を実感したからで、今でもあのぬるま湯の中でダンスだ歌だと胸を張っていたのだとすれば、それは確かに向上心の限界だ。いまなら、わかる。

「歌も上手いんでしょ?」

「いえ、まだまだです」

 流れる汗をタオルで拭い、内心で成瀬への感謝を込める。

 彼に格の違いを見せられたことが、俺にとって間違いなく必要な衝撃だったのだ。社長は直々にスカウトした経緯から、俺への期待を幾度となく口にした。どこぞのお偉いさんに、俺を売り込んでいる姿を見たこともある。彼は地方から発掘した俺にシンデレラストーリーを期待しているのだ。運は良かった。でも、間違いなくその運は俺に胡坐をかかせた。大々的ではないが、仕事は途切れない。むしろ、地盤を固める慎重な仕事選びは、堅実な実績作りには申し分ないものばかりだった。

「なんか、最近やる気がすごいね」

 レッスン終わりに自分で頼んでいたボイトレに向かうと言うと、マネージャーが相好を崩して車を出してくれた。

 成瀬の舞台の見学のとき、彼も隣で一緒になって鑑賞していた。その時にのぞかせた真剣な表情。鑑賞 後には舞台のイロハについて教えてもらった。さすがに舞台経験者、俺の知らない、素人にはわからない細かな芸や工夫について教えてもらうと、一層成瀬の努力に見合わない悲哀を知るのだった。

 相変わらずの安全運転。慣れると、安心感も悪くない。窓の向こうの歩道を歩く半そで姿の人たちはまだ暑そうだけれど、茜色の空を横切る名前も知らない鳥を見送りながら、背景になった空の高さに秋が来る気配を感じる。

 


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