1章
書いたはいいものの、どうしようもなくなったので、供養します。
見てもらえると嬉しいです。
事務所から呼び出しされたのは、八月の頭のことだった。断続的だけれど長引いた梅雨が何とか終焉を迎え、晴れた空に雲一つなく、容赦のない太陽が照り付けていた。
マネージャーから直ぐに事務所に来るようにと連絡を受けたとき、俺はまだベッドでうだうだと、起きるのが惜しくて何度も寝返りを打っている最中だった。一人暮らしをしているアパートの一室、寝起きでクーラーのタイマーも切れていたせいで空気がこもり、喉を潤いしたいのに冷蔵庫から出しっぱなしにしていたスポーツ飲料はぬるく、甘ったるさが乾いた口にべたついた。
昨晩は大学の友人と試験終わりを祝って友人の家で夜通しのゲーム大会をし、始発での帰宅だった。当然眠りにつく頃には、外で蝉の鳴き声と新聞配達のバイクの音がしていた。
指定の時間と、自分の状況と、この後するべきことを逆算し、慌ててベッドを這い出て洗面台で歯磨きをする。鏡に映った寝ぐせだらけの金髪は、何度もカラーとブリーチを繰り返したせいで痛み、きしんでいる。左手で触ってみると、硬い髪質も相まって、手のひらにちくちくと刺さるようだった。根本には地毛の黒髪が伸びてきている。次の役も反抗期の高校生役だから、そろそろ美容院の予約もとらなければと考えながら口をゆすぐ。少しつけすぎたミントの広がる口内に、水が薄っすら甘く感じた。
クローゼットから、最近よく着ている無地のスキニーパンツと黒い薄手のジャケットを取り出して羽織る。しがないとはいえ芸能人という肩書があると派手な格好をすると思われがちだが、俺はそんな無理に目立つようなことはしたくない。大学では比較的大人しい人とだけ関わるようにしている。売れるための雌伏の時期だ、派手なことでぼろを出すわけにはいかない、とマネージャーに口うるさく言われている。
リュックに手を伸ばし、昨晩帰宅してから何も整理していないことに気付いて、中身を床に散らばせる。経済の必修のテキスト、教授公認のカンニングペーパー、英語の辞書に、所謂楽単で有名な文学史の年表、時間を計るのに使った時計。天文学で必要だと直前になって教えられ慌ててコンビニで買った、電卓。
財布、鍵、音楽プレイヤーだけを拾ってリュックに投げ入れ、玄関で靴を履く。廊下には今朝脱いだ靴下が、抜け殻のように落ちていた。
高校時代に比べると大学はテストの回数は減ったし楽な授業も増えたけれど、その分この二週間は地獄だった。レポートに追われ、一度に訪れる試験の数も高校の比ではなく、仕事をセーブしなかったら間違いなくいくつかの単位は落としていただろう。
「テストさえ受ければ、どうにかしてあげられるよ」
二週間前、専攻している経済学部の教授のところを訪ねたときに言われた。必修科目の出席日数が足りなかったのだ。仕事の時もあった。超端役だというのに沖縄の撮影で一週間授業に出られないこともあったし、舞台の通し稽古は最優先とマネージャーにいわれた。
でも、面倒で行かなかったのが最終的に響いた。あるドラマの打ち上げで二時まで都内の飲食店で、未成年だから飲めないというのに、いろんな人に顔を売って来い、と帰してもらえずに苛ついて、そのまま寝過ごし自主休講にしたのだ。
教授は分厚いレポート用紙の塔を前に、白々しく頭を下げに来た俺をあしらうような態度を隠さなかった。大学の広告塔代わりに入学させた実力不足の肩書き有名人に、別に単位程度くれてやるといった感じだった。低レベルなところで意思疎通ができたもので、俺は頑張りますと屈託のない笑顔で返した。軽薄な役をよく演じている。貼り付けるような笑顔は得意なタイプだ。切れ長の目と派手な髪。男性にしては高い声。作り出すイメージとは恐ろしい。
駅までの道を早歩きして、何とか数少ない急行電車に間に合った。手すりに背を持たれ、額に浮いた汗を袖で拭う。昼過ぎの電車には学生が多く、騒がしい。制服姿は部活ごとの大きめのリュックやエナメル鞄を持っていて、私服姿の学生は皆軽装だった。それぞれの夏を謳歌しているのだろう、短い袖や裾から除く肌は日に焼けた健康的な色をしている。
俺は辺りに人がいないことを確認してから、自分のSNSを開く。ここ数日は試験を頑張っているといった内容ばかりアップしていたので、ファンからは横一列に、頑張ってください、応援しています、なんて言葉が届いているだけだった。べつに面白い反応など期待はしていないし、誰かへ返事を返すことはトラブル回避の観点から事務所に禁止されている。これはあくまで既存のファンへの、細やかなファンサービスに過ぎないのだ。親近感だよ、と社長は言っていた。
「手の届かない芸能人としてお高く留まるんじゃなくて、同じ人間だという親しみを感じてもらうんだ」
よくわからない理屈によって、俺はプライベートの切り売りをしている。
しかし、呼び出しってなんだ。窓の外の景色を見るとはなしに見ながら、考える。なにかやらかしたかと、ここ数週間のことを思い出してみるも、だとしたらもう少し深刻な雰囲気を醸し出す連絡を、あのマネージャーは送ってくるだろう。彼は芸能界を生きていくには致命的なほど感情が分かりやすく、文面ですら直ぐに読み取れるので、指標になると言えばなるのだ。元々は彼も俳優だった。売れなかったんだと、端正な顔で微かに笑っていた。
事務所の入り口で、そのマネージャーに捕まった。
「内海くん、遅いよ。それに連絡はきちんと返して」
この暑いのにスーツにきっちり細身な身体を包み、彼は青白い顔を歪ませている。神経質な対応を見ていると、確かに表舞台には向いていない。
「寝てたんだよ」
「起きてからも返してないじゃん。迎えに行こうかと思ったんだから」
「てか、俺今日、貴重な休日よ。俺は昨今の若者なので、休日に事務所呼び出しはどう考えても特別手当の必要性を感じるんだけど」
さすがに元タレントだけあって、彼はスタイルがいい。隣に並ばれるとコンプレックスへの刺激がこの上ない。ねめつけるように彼を見上げると、彼は嫌な顔をつくった。
「そういう交渉は俺じゃなくて、直接社長に言ってね」
「なんで?」
「社長の呼び出しなんだから。ほら、早歩き」
マネージャーに寝ぐせを直されながら社長室に向かうと、何故かもう一人、重厚なソファーに腰を下ろしていた。
成瀬唯。本名と聞いた時は驚いた。事務所を移籍してきて初めて会ったときは、もっと驚いた。都会の事務所にはこんなにも綺麗な人がいるのだ、と。
まず、色気のある切れ長の涼しい目に意識を奪われる。日本人離れした彫りの深い横顔は遠目で見ても惹きつけるものがあり、ドアップに負けない白い肌や潤いを纏う唇で、いくつもの雑誌を重版させた。
うちの事務所の稼ぎ頭だ。子役として小学生時代から俳優業をこなし、四年前に連続ドラマで演じたインテリ不良役が大当たりして、一気に知名度を上げた。容姿は一級品、演技力も高く映像外で悪い噂のない清廉潔白な雰囲気も評価されて、若手ナンバーワンといわれるところまでのし上がった。
廊下に比べて社長室は涼しく、促されて成瀬の隣に腰を下ろすと、微かにシャンプーのさわやかな匂いが漂ってきた。
「内海、昨日までテストだったんだって?」
遅くなったことを詫びると、社長はずいぶんと機嫌よくそういった。マネージャーが弁明してくれていたのだなと悟り、実はと切り出す。
「映画の撮影や舞台が重なって、授業に出られないことが続いてしまって。試験頑張らないと卒業に響くっていうんで、ここ二日ほとんど徹夜で試験だったんです。正直、昨日の夜とか解放感でほとんど記憶ないんです」
試験に苦労したことに関しては誇張はしたが、嘘ではない。
横から視線を感じて一瞥すると、成瀬が感情のない目でこちらを見ていた。真顔、という表現に近い。クールな顔立ちといえば聞こえはいいが、愛想を振りまかなければ近寄り難い。立場上のこともあり、隣の居心地は当然悪かった。
「そうかそうか。学業との両立は大変だろうけど、大学卒業すれば仕事の幅が広がるからな」
社長はそういうと、成瀬を見て莞爾とした表情を見せた。
「実は二人に、あるプロジェクトを担ってもらいたい」
閑話休題、今日俺たちを集めた理由を、社長は話し出した。
「二人とも、歌は得意だよね?」
返事を求めた問いではなかったので、小さく頷く。
元々俺は、小さな地方の事務所でご当地アイドルをやっていた。幼少期からダンスを習っていた関係で、そこに目を付けた地元の観光組合が選抜したメンバーでグループを組ませた中に、俺も入っていた。地元の特産品や観光地をPRする目的で、休日はショッピングモールや道の駅で絶妙に惹かれない字余りの歌を歌っていた。
そこをたまたま通りかかった今の社長に声をかけられた。中学二年生の時の話だ。
隣で、成瀬の頷く気配を感じた。遠慮がちに、静かに話を流す仕草だった。
社長は俺と成瀬を交互に見て、頷いた。
「実は来年公開の成瀬主演映画の主題歌に内定していたバンドが、スキャンダルを起こした。まだ世間には公表されていないけど、直に出る。勿論、主題歌の話は立ち消えだ。そこで、話が来たんだ。成瀬のソロデビューの機会にしないかと」
社長はもったいぶった口調で話すのがもどかしいくらい、だんだんと高揚してくる気持ちが鼓動を速めた。
「勿論、成瀬のソロも捨てがたい。でも、それだけじゃ勿体無いだろう?」
それは事務所主体の考えだ、とも思ったが、勿論黙って聞く。この後の提案が俺にとって悪い話じゃないだろうことは、想像に難くなかった。
「二人にユニットを組んでもらおうと考えている。それぞれの仕事量を考えればそう長い活動は無理か もしれないけど、成瀬には俳優としての顔意外も売ってもらいたいし、内海はまず顔を売ろう」
単純明快。戦略、というやつだった。
それでも、社長の顔に広がる笑みに引っ張られるように、自分の表情も明るいことを自覚する。荏苒と過ごしていた日々に、一番求めていた光を射し込まれた気がして、何かを口にしたい気持ちだったが、それが素直な喜びなのか誰かに向けた感謝なのか、自分でもわからなかった。喜びというのも様々な感情で絡み合った糸で作り上げられていることを、俺は自分の中に実感する。
しかし、俺の感情が熱を孕む分だけ、隣との温度差は直ぐ浮き彫りになった。
「けど社長。成瀬は今のスケジュールでもかなり厳しいのに、そんなに手を伸ばすとどれも半端にならないかと不安なのですが」
成瀬の隣で立っていた彼のマネージャーがそう、進言した。小柄だが気の強そうな真っ直ぐな表情と穏やかじゃない表情に、成瀬が少し言葉を探したのが分かる。
「今も、来月開演の舞台の稽古が詰まっています。この講演が終わると、直ぐに映画の撮影で、年末にはスペシャルドラマの番組宣伝が詰まっています。まだ俳優としての地盤も固まっていないのにあれこれ手を出すのも、いかがかと思います」
言葉遣いは丁寧だったが、突っぱねる色は強かった。成瀬側からしたら、知名度のない俺と組むなどメリットがないと言いたげだった。
社長は顔を上げ彼のマネージャーと真っ直ぐ目線を合わせた。穏やかさに見せかけたスナイパーの冷静さが、傍から読み取れた。
「勿論、俳優業は最優先だ。ただ、このご時世、役だけが好かれる、役者として尤物であるだけじゃ売れきれない。現に、人気俳優といわれる人たちは役柄とは別に、個性を売りにしてバラエティを通してお茶の間に浸透しているだろう。そういう唯一無二の色があってこそ、演技も輝く」
社長の言い分は要するに、拒否権はないけど納得してほしい、という横暴なものだった。
成瀬は逡巡するように目線を下げたが、やがて納得したように
「精一杯やらせていただきます」
と、言葉少なに返した。
彼は歌唱力に定評があり、世間にも浸透している。去年やった歌手の自叙伝を映画化した際に披露した歌が話題になり、音楽番組にも呼ばれた。生歌が安定していて、自流のアレンジや小手先の遊びをしなかったことも評価され、歌手デビューも囁かれていた。
不満だろう、と思う。どう考えても俺は彼のお荷物になる。そう思うと、笑顔の一つも浮かべない成瀬に対し、申し訳なさと同時に勝ち気な性格故、漠然とした敵愾心を感じる。
「成瀬さん」
その後、雑誌の撮影があるという彼が退席するのを、一瞬引き留めた。
「こういう機会を頂けて光栄です。勉強させていただきます。よろしくお願いします」
自分の声が部屋に響いた。内心で、自分の白々しさを厭う。
「こっちこそ、楽しみにしているよ。これからよろしくね」
傲慢さのない柔らかな声と共に差し出される手は無駄がなくほっそりとしていて、まさに芸能人の手だと感じた。手を取ると、細い指先は冷たかった。
憧れの人でもある。画面越しにも、非の打ちどころのない立ち居振る舞い、どんな役でもやりこなす演技の幅の広さ。端正な顔立ちからインテリなキャラクターが多く、冷たさと残忍さを感じさせる演技は格別だった。
部屋を出て行く成瀬の背中を見送りながら、でも憂鬱そうな雰囲気を纏った人だ、と思う。人の目に晒される部分はとてもきちんと整えられているのに、内側は電気もつかない部屋のようで、一緒にいて落ち着かない気持ちにさせられる。まるで役を引きづっているようだ。そんな気がした。
中川俊。俺の名前だ。芸名は、内海俊。社長が付けた。
名前に華がないといわれた時は少し面食らったが、東京のでかい事務所の人に会う度、その言葉の意味を知っていく。生まれつきの顔に違いがあるように、持った才能に差があるように、美しい名前は生まれながらのスター性である。
確かに、成瀬唯なんて名前で生まれてくれば、意識高く生きていけるかもしれない。アイドル時代は本名で活動していたわけだから特別自分の名前をつまらないとは思わないが、しかし中川俊が一流の芸能人らしい名かといわれれば、また別の問題だろう。
それにしたって、川から海に出世しろといわれた時はちょっと寒かった。子供時代の宝物を汚いと一蹴された気分で、痛みより嫌悪感が勝った。
帰りはマネージャーが車で送ってくれた。
「この話って、いつから持ち上がってたの?」
俺は後ろの席からマネージャーに声をかける。片手で、事務所のホームページを開いた。
「俺も今日、初耳だったよ」
彼の運転はとにかくのろい。本人は安全運転のつもりだろうが、速度制限を一キロ単位で守る運転はむしろ暗黙の了解に反していて、後続車の苛つきはバックミラー越しの表情から見て取れた。
「別にいいけど、なにを考えてるんだろうね。社長の頭の中にどういうビジョンがあるんだか知らないけど、絶対こけるでしょ」
自分のプロフィール欄を眺めながら、本音をぶちまける。
趣味の欄に、カラオケ、ダンスと書いてある。仕事に繋がるから、と、社長が決めた。嘘ではないけれど仕事以外で歌うことも踊ることもないので、趣味という言葉には多少違和感がある。
「俺と成瀬さんじゃタイプが違うし、アーティストとしての路線も売り方も違うっしょ」
まだ黄色の段階でゆっくり減速し、赤信号で止まると同時にマネージャーが振り向いた。
「君の為に、本当は成瀬君だけでいいプロジェクトにねじ込んでもらったんだから、文句を言わない」
「わかってるよ」
「あのね、この世界、チャンスがもらえることにもう少し感謝した方がいいよ」
それに、と、彼の説教は続く。
「まったく系統の違う君たちがそれぞれの個性と強みをうまく生かし合えば、お互いにとって追い風になる。悪い話じゃないでしょ」
「んなことわかってる。正統派とサブカル系は飽和状態だから、マルチ系を育てたい。社長の理想だろ?」
交差する信号が黄色になったので前を向くように促し、ため息交じりに外を見る。やはりゆっくりとアクセルを踏まれた国産車の滑らかな走り出し。
「内海君はアイドルしてたんだし、この仕事は得意な方でしょ?」
「まぁそうだけど」
やはり煮え切らない気持ちで言葉を返すと、マネージャーがわざとらしいため息をついた。
「じゃぁ、内海君はどんな仕事がしたいの?チャラい役はもうやりたくないって、つい最近までごねてたじゃん」
「別にやりたくないとは言ってないだろ。ちょっと、飽きたって言っただけ」
事務所を移籍して四年目。演じたキャラクターはどれも、明るい髪色で奔放な発言をする学生ばかりだった。理由はわかっている。自分の、華奢で小柄な身体付きや切れ長の目元がやんちゃなイメージに近いのだろう。容姿が好き、とファンに言われれば悪い気はしないが、それを悪辣に言われることも少なくはない。
「本当に、社長に甘やかされたよね。チャラい役なんてそりゃ魅力的なキャラクターであることは少ないけど、刑事ものとか医療系の物に比べれば科白も簡単だし、準備もしやすい。きつい撮影も少ない。学校に通っているうちはうまく仕事のコントロールもしてるんだよ」
彼の言い分はもっともだが、内心の澱となったものを聞いてほしかっただけなのに、なぜこうも正論で返してくるのだろう。
憮然とした気持ちで言葉を返さなくなった俺をバックミラーで確認し、マネージャーは説教を止め、とにかくと話を戻した。
「成瀬君が超正統派なだけに、内海君も難しいだろうけど、社長の見る目は確かだから。俺は信じてるよ」
ハンドルを右に切り、遠心力が左にかかる。抗わずに身体を傾けたまま、俺は細面のマネージャーのシャープな顎のラインを目でなぞる。
「マネージャーも社長にスカウトされたんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃ、審美眼があるとも言い切れないんじゃない?」
芸能界なんて、売れる方が珍しい。
マネージャーは暫しの沈黙ののち、
「そういう毒舌なところをバラエティで出せると、一部のファンがつくよ」
アドバイスなのか忠告なのか、どちらとも捉えにくい口調だった。
個性の的確な出し入れを求められるのはどこにいても同じだ。
地方アイドル時代は、およそ十人グループの上から二番目で、影のブレインという立ち位置だった。上は高校生、下は小学生までいたグループだったから、キャラクター付けというよりは役割分担の意味合いが強かったので、負担はあまりなかった。
「でも、仕事は順調なんだろ?」
俺が引き抜かれたタイミングで、グループは解散になった。皆それぞれ事務所を移動していった中、当時高校二年生で最年長だった琳は、そのまま芸能界を引退した。
未練はないと言って受験勉強に本腰を入れ、今は有名国立大学の四年生。大手の広告代理店に内定も決まっているというから、寂れたアイドルをすっぱりやめた彼の選択はおそらく正しかった。
「順調といえるのかどうかはわかんないけど、事務所が次に俺をプッシュする気なのはわかる」
あくまで部外者に過ぎない琳に、事務所の企画を口外するわけにはいかない。婉曲に音楽関係の仕事をするかもしれないとだけ話すと、彼は表情を明るくした。
「それは朗報じゃないか?」
「そう?」
琳から欲しいものはないかと聞かれて買ってきてもらったポテチをかみ砕く。当時コンソメ味が好きだったのを記憶力の良さで覚えていくれているので言い出せないが、実は今は海苔塩派に改宗している。
「だって俊、歌もダンスもかなりのレベルだったじゃん。俳優業より、そっちの方が好きなんだろ?」
琳の言葉に違和感を抱きながらも、反駁するほどの明確な意思が自分でも見つけることができなかった。
「まぁ、ね」
本当はマネージャーが苛立っていた意味を理解している。俺は今、目的不足なところがある。日々はそれなりに忙しくて、環境にはそれなりに恵まれていて、それ故にビジョンが曖昧で仕事をこなすだけの日々になっているところがあった。
売りになるものを磨くとか、がむしゃらに何かを追ってみる、なんて青っぽいエピソードの一つでもあれば、それは十分な推進力になるというもので、事務所に敷かれたレールを歩いているだけの俺をマネージャーが歯痒く思うのも無理はないのだ。
頭では理解をしているし、この状況に満足していてはだめだという焦燥感はあるのだけれど、大学と事務所を往復し、ロケだ撮影だと言ってはスタジオや地方に出かける日々はそれなりに忙しくて、そのことだけで頭がいっぱいになってしまう。
「まずは、もう少しまともな食生活したら?」
琳によってポテチの袋を取り上げられる。
「なんで?」
「どうせまだ、カップ麺とコーラとポテチで生活してるんでしょ?生活も不規則だろうし、この部屋の荒れ具合もどうかと思うよ。芸能人としては最低じゃない?」
部屋に散らばった洋服や大学の教科書、台本や趣味のCDを見渡し、彼は呼吸に近いため息をこぼした。昔から俺は整理整頓は苦手で、琳はきちんとしないと気が済まないタイプだった。形ばかりの楽屋 でも、彼が俺の荷物や服を整理をしていたことが何度もあった。
「表に立つときが芸能人なんだから、私生活にまで文句付けんなよ」
俺は近くに落ちていたティッシュの箱から一枚取り出し、指先をぬぐう。そのティッシュを彼の方に投げつけると、彼は顔をしかめた。ひらひらと、ティッシュが舞う。
「全く。昔のお前はどこに行ったんだよ」
「昔の俺って、どんなイメージだったの?」
ベッドに寝転んだまま尋ねる。琳はそうだなと、考える仕草を見せた。
「頭の回転が速くて、皮肉屋なところもあるけど気の利いたことも言えるし、みんなの纏め役なところがあったよな」
言葉を選びながら、浮かない程度に俺を持ち上げる。無理をしていない笑顔にふと昔を思い出し、安心感に彼の肩に寄り掛かる。
彼の方こそ、最年長に相応しい存在だった、と思い出す。こうやって素直に人を褒め、最年長なのにいじられキャラを甘んじて受け入れ、俺を含め年下組にとってはこれ以上ない兄貴分だった。そう言えば堅実な雰囲気は少し、成瀬に感じた雰囲気に似ている。
「なぁ、成瀬唯について、どう思う?」
さりげなさを装って尋ねる。
「成瀬唯?」
琳は丁寧な発音で成瀬の名を口にする。
芸能人の名前はもう、商品名みたいなものだ。やはり、俺は内海俊になってよかったのかもしれない。
「イケメン」
「もう少し、まともなこと言って」
「スタイルがいい」
「え、嫌み?」
とにかく身長が伸びなかったことが悩みの俺が、中学時代にどれ程牛乳に固執したかを知っているだろうに。俺が凄むと、琳は顔を背けて笑った。
「でも、まずその二つに意識が持ってかれるよね。同じ事務所なんだっけ。いい俳優さんじゃない?なんとなく素顔は見えにくいけど、ミステリアスな役が多いからそこも魅力的だよね」
ふうん、と相槌を打つ。俺の感想から嫉妬を引いただけの印象に、何となく面白くはない。
「こんな汚い部屋には住んでないだろうね」
極めつけに痛い言葉を言われたので背中を蹴飛ばすと、彼は痛いと言いながら振り向き、俺の髪に触れた。
「でもさ、俊が演じているような役を成瀬唯が演じられるかって言われると違うじゃん」
「そうか?」
「そうだよ。俊が演じるとさ、生意気なキャラが何だかんだ愛嬌を感じさせる。それって、俊の容姿が生きているおかげだし、そういうものって成瀬唯みたいな端正な顔立ちの人には無理なことでしょ?」
昼間の成瀬の横顔を思い浮かべ、それはそうかもしれないと思う。そうすると急に自己肯定感が上がるのだから、自分でも単純な性格だと思う。
琳はにっこりと笑い、そういうものだよと真剣な表情で言った。
「お前が東京に行くっていったとき、俺は嬉しかった。お前は環境にさえ恵まれれば必ず成功すると思ってた」
「だからまだ、成功まではいってないと思うけど」
「するさ。必ず」
彼の言葉は力強く、裏付けなんてない願望のような言葉だというのに、ひどく心強さを感じた。ファンは母数こそ多くないものの出演作品に比例して逓増しているし、SNSへのコメントも格段に増えているが、いつかいなくなるファンよりも確かな味方は心強い。
琳が帰ってから、俺は電気を落とした部屋の中で、SNSに「成瀬唯」と検索をかけた。
彼のファンと思わしきアカウントは比較的好意的に、時々妄信的に成瀬を持ち上げている。容姿が抜群で真面目なキャラクター、演技力も同年代の中では群を抜いていることもあり、ライト層の受けも悪くないらしい。写真付きでその容姿を称えるものから、作品を通して演技力を絶賛するコメントも多い。人気者。そんなあっさりした単語が頭に浮かんだ。
一方で匿名の掲示板を開くと、こちらは妬みと僻みと暴言が折り重なっていた。それこそ、役と本人のキャラクターが混在した決めつけや、感情的なだけで中身の薄い誹謗中傷がどこまでも続いていた。
彼の演技の癖を指摘するものもある。読んでみると何となく共感する部分はないでもないけれど、たとえどんなにいいアドバイスも公然で指摘するのはいじめと図は変わらない。
さすがに気分が悪くなり、画面の電池を切る。明りを失った部屋では感覚が研ぎ澄まされる。薄い夏用の布団の生ぬるさと、効かせた冷房の口から吐き出される冷たい空気。足を出すと寒いけれど、布団の中の生ぬるさも居心地がいいかといわれると別だった。
『唯くんの顔がマジでドストライク過ぎる。結婚してほしい』
印象に残ったツイートが、正体不明の声で脳内で再生される。好意も不用意に形にすると、悪意との垣根が無くなる。
明日は、雑誌の撮影がある。映画で共演したアイドルの子と対談形式になっていたが、グラビア撮影で彼はきっと、やたらと俺に触れてくるのだろう。元アイドルとして言えるのは、アイドルの子たちはメンバー同士の距離感の近い撮影に慣れ過ぎているせいで、人との距離感が初めから妙に近いのだ。それは心の距離を縮める時の有効手段でもあり、受け入れてしまえばなんてことのない触れ合いだった。