夏の夜を進むはTACネーム「スパイダー」
「俺を置いていけ」
肩を貸している同僚がそう呟いたことを理解できるまでに、数秒を要した。
周囲で鳴き声の大合唱を奏でて会話を遮る青蛙は迷惑でもあり、有り難くもあった。
おかげで追手に足音を悟られずに済むからだ。
「俺はもう助からない、無理だ、自分でもわかる」
日本時間〇二三五、あぜ道をよたよたと歩く自分たちが搭乗していた二足歩行戦車は撃破された。
星が瞬く夜空と同じ、敵味方の歩行兵器が暗闇に光る爆発に散る戦場から脱出できたのは、幸運としか言えない。
「お前だけでも逃げてくれ、このままじゃ二人とも死ぬ」
水田が広がるあぜ道は梅雨の季節だからか、非常にぬかるんでいる。足元の泥が歩みを遅くした。ブーツにまとわり付く泥は、まるで数キログラムある重りのようだ。
「せめて、せめてお前だけでも助かるんだ」
古ぼけた外灯が照らしている、少し先にある身を隠せる森林までもう少し。
整備された道路も見えた。横っ腹に鉄の破片を食い込ませた大男を連れていなければ、数十秒で辿り着ける距離だ。
蛙の大合唱に紛れて聞こえるのは、自分たちの足音だけ。
「後ろからあいつらの足音が聞こえるんだ。せめて楽にしてくれ。頼む、頼む……」
生暖かい空気と不安定な足場が、一歩毎に気力と体力を根こそぎ奪おうとする。
こんな所で死ぬつもりはない。ぜいぜいと息を殺しながらまた一歩、さらに一歩と進む。
「――なぁ、俺を置いていかないよな?」
やっと森の入口についた。硬い地面に足をつけた瞬間、がくりと姿勢を崩しかけた。だが、まだなんとかなる。足裏の泥を細かい凹凸がある黒い地面で擦り落としながら歩く。
「――俺を見捨てたりしないよな?」
一瞬、体力の限界から頭が上がる。かはっと息を吐き、頭上を見上げた。
満天の星空の中に動く光が見えた。赤と緑の光、人工物が放つ光だ。つまりは航空機が飛んでいる。
この地域で友軍が制空権を確保したという情報はない。
「――頼む、置いていかないでくれ、死にたくない」
脇腹に付着している生暖かい液体が、ダークグリーンの制服を濡らしている。この量はまずい。青蛙の歌唱劇から抜けたから、同僚の小さい言葉が明瞭に聞こえる。
「――俺は死にたくない、俺も一緒に連れていってくれ」
無論だ。そう返事をしたかったが、自分の喉も掠れていて言葉を発せられなかった。辛うじて出たのは「あ、ああ」と呻く声だけ。それに紛れて、月明かりだけが照らす道の先から、水が流れる音が聞こえてきた。
「――俺たちは相棒だろう、仲間だよな? 他の仲間も待ってるんだ」
仲間、敵の作戦で分隊はバラバラになった。数と地形を利用した圧倒的な攻撃。嫌らしい砲撃による各個撃破。歩行戦車乗りにとっての地獄が顕現していた。
できる限りの応戦を試みたが、無駄だった。最後に残った自分と同僚が操る機体は、側面からの不意打ちに倒れ、横倒しになった。
そこから自力で脱出し、息も絶え絶えのサブパイロットを引きずり出せたことは、せめてもの救いだった。
「――見捨てないでくれ、嫌だ、死にたくない」
地獄に垂れ落ちた雲の糸を片手で掴み、もう片手で仲間を引き上げている。だが、両手が揃っていなければ、上には登れない。
「――妻が待ってるんだ、息子もだ、もう一度だけでも会いたいんだ」
暗闇の先に橋が見えた。幅の狭い木製の古びたそれは、向こう側が見えないほどに開いた谷を挟んでいる。その下から、ちょろりちょろりと水流が聞こえる。
「――これを越えたら、味方の陣地があるよな」
その通りだ。答えるのも辛く、息を大きく吸って満身の力で足を踏み出す。
橋に辿りついた。ぎしりと音が鳴ることに恐怖心が湧くが、橋を渡り出す。本当にあと少しで、追撃を逃れられる。
「――ああ、助かる、お前の幸運のおかげだ」
安堵の声。それに覆い被さるように、大きな鉄の足音が聞こえた。思わず足を止める。肩が震えた。同僚の怯えが伝わる。
ちらりと橋の下、数十メートルは下にあるだろう漆黒の小川を見下ろした。
そこには緑色、闇夜に光り輝いてエメラルドの宝石にも見えた二つ一組の光が、数個、数十個見えた。それが移動する毎に、鉄の足が生み出す音が響く。
「――い、嫌だ、こんなところで死にたくない、助けてくれ」
震える同僚を引っ張りながら逃げようとする。すると当然、木製の橋が小さくはない音を立てた。
横目で見た眼下の光たちが、一斉にこちらを向く。
蜘蛛の糸が、ぷつりと切れた――