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愛レス  作者: たけピー
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幸せな最期

見事大学受験に受かった望夢と瞳。一方で芽傍は、自身の母親が実の父親に殺されていたという報道を見て真相解明に動く。さらに瞳は、彼氏にまとまりつく包丁を持った女から逃げる羽目に…。芽傍と瞳の運命は⁈

9 幸せな最期


「やったーーー‼︎」

 瞳は受験票を片手に飛び跳ねた。目の前には4桁の数字が並ぶどでかい表が掲げられている。その真ん前は、瞳ように歓喜する者と、泣いたり落ち込んだりしている者の二者でごった返している。

 瞳は再度自分の受験票の番号と掲示されている受験番号を照らし合わせて同じものがあるか確認した。間違いなく瞳の番号も含まれている。そう、瞳は第一志望の大学に合格したのだ。

 瞳は自宅に電話をかけた。「もしもしママ⁈受かったよ!ありがとう!うん!」

 瞳は電話を切ると、未読のメッセージを確認した。それは望夢だった。

『無事に合格したよ!瞳はどうだった⁇』

 瞳はにこりと笑うと望夢に電話をかけた。

「あ、望夢?合格おめでとう!あたしも受かったよ!」

『やったな!おめでとう!』

「ありがとう!ねえ、玲奈も受かったみたいなの。それで、今から玲奈と久米沢でランチしよってなったんだけど、望夢も一緒にどう?」

『いいけど、本郷はいいのか?嫌がらない?」

「望夢も誘えたら誘うって言ってあるから大丈夫だよ!じゃあ、12時に久米沢駅集合でいい?そっからモールに移動しよ!」

『りょーかい!』

 そして予定通りの12時を過ぎた頃、三人は久米沢のモールのフードコートに到着した。

「おれ、荷物見てるから二人先に選んできていいぞ」と望夢は促した。

「ありがと!じゃあ玲奈、行こ?」瞳は荷物を置いて立ち上がった。

「うん!本橋くん気が効くね!」

 二人を待っている間に望夢は何を食べるか考えた。

「やっぱりここのフードコートだと、カツ丼が好きだな〜」

 と独り言を言いながらカツ丼屋に目をやると、バイト服を着て厨房に立つ芽傍の姿が見えた。望夢はびっくりした。合格発表の日にバイト⁈

「お待たせー!」瞳は玲奈と一緒にどんぶりをトレーにのせて持ってきた。「じゃあ今度は望夢、行ってらっしゃい!」

「おう」と望夢は立ち上がるとまっすぐカツ丼屋へ向かった。

「カツ丼1つ」

「はいカツ丼おひとつ…って、本橋」芽傍も驚いた。

「よ!今日もバイトか?合格発表は?」望夢はトレーと箸を準備しながら尋ねた。

 芽傍は器にご飯を盛った。「行ってきたよ。合格だった」

「おめでとう。すぐにバイトなんて偉いな!」

「こうしないと生活できないからな。入院してた間の家賃もあるし、時間があるときに貯めないとな」

 芽傍は豚カツをご飯にのせてソースをかけた。

 地震のせいで怪我をして入院した芽傍が退院してからおよそ1ヶ月。芽傍は受験勉強とアルバイトで手一杯の生活を送っていた。

 望夢はしみじみと頷いた。「大変だな。でも無事に合格できて良かったな。どこ受かったんだ?」


「「早稲田⁈」」

 カツ丼を持って戻った望夢から聞いた瞳と玲奈は仰天した。

「さっすが芽傍くん!頭良いもんね!」瞳は働く芽傍をチラ見して言った。

「入院してたのにちゃんと受かるなんて。やっぱり、頭が良い人は次元が違う!」玲奈は舌を巻いた。

「ほんとなー、おれなんて国立だけど頭悪いとこだし。いただきまーす!」望夢は吐き捨てるように言うとカツに食らいついた。

「私も。瞳も芽傍くんも凄い!」玲奈はうどんをすすった。

「いやいやーそれほどでも!」瞳は頭を掻いた。「でも、自分のベストを尽くして志望校受かれたなら良かったじゃん!」瞳はそばをすすった。

「ま、そうだな」望夢はゴクゴクと水を飲んだ。

「でも、やっぱり離れ離れになるのは悲しいね…」と玲奈。「もう毎日瞳と会えなくなっちゃう」

「そうだね…。でも、毎日連絡取り合おうよ!たまにお出かけもね!」

「もちろん!」

「「イェーイ!」」二人は手を握り合った。

「えへん!おれもだけどな!」望夢は瞳を見た。

「望夢は家近いからいつでも会えるじゃん」

「そっか。そうだな」

 三人は笑った。

「そうだ!卒業祝いにみんなで旅行しない⁈」瞳は目を輝かせて提案した。「芽傍くんも入れて!」

「え?芽傍も?」「芽傍くん…?」望夢と玲奈はうーんと唸った。

「ん?ダメ?」瞳は首を傾げた。

「いや、ダメじゃないけど、あいつ、来るのか?」

「それ。来なそう」

「そんなの誘ってみなきゃわかんないじゃん!」瞳はずるずるとそばをすすった。

「まあなー。でも、ただでさえ生活苦しそうだから、来ない可能性大だろうな」

 望夢は芽傍の方を見た。こうして話している間も、芽傍はせっせと働いている。

「そっかー。でも誘わないのはあんまりじゃない?」瞳は声を潜めて言った。

「そう?うちらが一緒に出かけてても気にしないでしょ?てか気づかないんじゃない?」玲奈は芽傍は見やった。

「おれもそう思う」

「いやー、芽傍くん鋭いから気づくんじゃないかな?一応誘ってあげた方がよくない?」と瞳は訝しげに言う。

 望夢も玲奈も芽傍の鋭さはよく知っている。それもそうだと頷いた。

「じゃあ、芽傍くんに聞いてみるね!今忙しそうだから、メッセで聞こっと」

 瞳はあくせく働く芽傍を見ると、スマホを取り出した。

「瞳も芽傍と連絡し合えるのか」望夢は驚いた。

「まあね!入院してたときに教えてもらったの!はい、送信完了!」

 瞳は二人に画面を目せつけた。

「来れるといいね!やったー!楽しみ増えた!」玲奈は両手を上げて喜んだ。

 そのとき、瞳のスマホから着信音が響いた。

「あ、ごめん、ジョーだ!」

「「ジョー?」」望夢と玲奈は首を傾げた。

「うん!彼氏!ちょっと話してくるね!」

 瞳は席を立って少し静かな場所へ移動した。

 マイペースな瞳に望夢と玲奈は笑うしかなかった。

「また彼氏変わったのか」望夢は興味なさそうに呟いた。

「遊び上手だこと」玲奈の言い方には皮肉と嫉妬がこもっていた。

 そんな瞳のことはさておき、望夢はカツ丼を堪能した。あくせく働く芽傍をチラ見しながら、あっという間にカツ丼を平らげた。「ご馳走さま!」




 仕事が終わり、小さなアパートの部屋に帰宅した芽傍は、そこでやっとスマホを見た。

 仕事をするに当たって買った格安スマホ。入院中に瞳と望夢ともSNSを交換し合ったが、結局この1ヶ月、亜久間絡みの妙な事件もなく、ほとんどやり取りはしていなかった。だから普段、そんなにスマホを見る習慣はなかった。あとは、ニュースの記事を読むのに使うくらいだ。

 芽傍は唐突な瞳からの文面に少し戸惑った。

『卒業したら、私、望夢、玲奈で旅行しようってなったんだけど、一緒に行かない?』

 芽傍は寂しげな目でスマホを見つめると、返信を打った。

『凄く行きたいけど、生活費貯めるのに精一杯で厳しい。誘ってくれてありがとう』

 芽傍は送信ボタンを押そうとしたが、どうも突っかかり、最初の文『凄く行きたいけど、』だけ削除して送信した。

 芽傍はその流れでニュースを開き、ここ最近の出来事をチェックし始めた。特に訳はないが、もともと政治や事件に興味があるのだ。

 上から1つずつニュースを飛ばし読みしていた芽傍だったが、ある記事でスクロールする指が止まった。

『練馬区の民家で白骨化遺体発見。40代男性を逮捕』

 それには、なんと見覚えのある男性の写真が添えられていたのだ。芽傍は目を見開いてその写真を拡大した。

 記事には動画も添付されており、芽傍はすぐさま再生した。

『練馬区の民家で白骨化した遺体が発見されました。発見されたのは先週の3日、20時頃。この家に住む一人暮らしの男性、芽傍健二郎容疑者が逮捕されましたー』

 画面に映される男性の顔と名前を見て、芽傍は驚愕した。それは自分の父親。自分を捨てたあの父親だった。芽傍は食い入るように画面を見つめた。

『ー現場となったのは、芽傍容疑者が暮らす一軒家の庭。遺体発見の1時間前、酔った芽傍容疑者が女性に暴行を加え、駆けつけた警察官が事情聴取すると、昔埋めた女に似てたからムカついたと、遺体遺棄をほのめかす発言をしたことで発覚。警察が自宅を調査したところ、庭から白骨化した遺体が発見されました。この遺体はDNA鑑定の結果、行方不明とされていた芽傍容疑者の妻、芽傍藍さんであると判明しました。遺体は推定、死後10年は経過していると見られ、警察は詳しい動機を調べていますー』

 芽傍のスマホを持つ手がガタガタと震え、ガタンと床に落っことした。

 …母親は出ていったのでなかったのか…⁈自分が父親に殴られている間も、ずっと、ずっとあの庭に…⁈

 芽傍は決意の目つきでアパートを飛び出した。




 受験を終え、家でじっくりくつろぐ瞳。お菓子を摘みながらスマホでアニメを観ていると、通知が鳴った。芽傍からの返信だ。

 瞳はアニメを一時停止して芽傍の返信を読んだ。

「やっぱり無理か…」

 瞳は慣れた手捌きで目にも止まらぬ速さで返信を打った。

『そっかー…残念!じゃあ時間あるときにお食事でもどう?望夢も一緒にね!そのくらいなら大丈夫だよね?』

 と打って、瞳はアニメ観賞を再開したが、いつまで経っても返信は来なかった。

 瞳はアニメを観終えると、望夢に電話をかけた。

 家でクロの子、バーベナをなでていた望夢はスマホを取った。

「どうした?」

『芽傍くん、生活苦で厳しいって。代わりに望夢込みで食事でもどうって聞いといた。返事まだ来ないけど』

「やっぱりそうか。ま、色々と世話になったし、食事くらいは奢ってやってもいいかもな!」

 バーベナはゴロンとお腹を向けた。

『いいと思う!』

「それで、旅行はどうするんだ?3人で行くのか?そもそもどこ行くんだ?」

『どうしようね?どうせなら日帰りじゃなくて何泊かしたいよね!』

「同感。おれは小遣いいっぱいあるからどこでも行けるぜ!」

『頑張って貯めてたもんね!玲奈も貯金はいっぱいあるみたいだから、うんと遠出できそう!』

「いいねー!」

 お腹を向けたバーベナは尻尾を勢いよく振った。

『なんなら今後行けるかわからない所がいいよね!』

「そりゃあそうだな!」

『じゃあ、ハリウッドとか行っちゃう⁈』

「おい!」

 望夢はバーベナをなでる手を止めた。バーベナはキョトンとして尻尾を振らなくなった。

「いくら何でも遠過ぎるぞ!」

『え、ダメ?』

「絶対ダメだ!行くだけで1日、帰りも1日かかる!それに行き来だけで数万円かかる」

『なーんだ、小遣いいっぱいって言うから、そのくらい余裕かと思った』

「いっぱいって言っても20万くらいだけどな?」

『いいじゃん!あたしの4倍あるじゃん!』

 じゃあなぜハリウッドに行こうと思った?貯金5万でハリウッド行ったら帰れねえぞ!望夢はやれやれと首を振った。

『じゃあ、玲奈とも相談してみるね』

「ああ。そうしてくれ」

 望夢は通話を切ると、不安な気持ちでまたバーベナをなでた。

 大丈夫かこの旅行?




 日が沈み、すっかり寒くなった冬の夜7時。かなりの大雨が降っていた。上着も羽織らず、傘も持たずに家を飛び出た芽傍は、震えながらびしょ濡れで警察署を訪れた。

 大雨の中、大急ぎで飛び込んできた芽傍を見た警官たちは驚いた。

「どうかしました?」一人の警官が歩み寄って尋ねた。

 芽傍は呼吸が整うのを待つことなく答えた。「はい!今日のニュース!民家で遺体が見つかった事件!容疑者の息子です!」

 途切れ途切れで説明する芽傍に一瞬キョトンとする警官。しかしすぐにピンときた。「ああ!芽傍健二郎の⁈」

「そうです!彼に会わせてください!お願いします!」

「落ち着いてください!」警官はまあまあと宥めた。「こっちに来てください。身分証での確認と、面会の理由を教えていただきます」

 芽傍は案内された部屋で学生証を差し出した。警官はそれを受け取ると、担当の刑事に確認してもらうと言って一度離れた。数分後、戻ってきた警官は芽傍に学生証を返した。ついでにタオルも持ってきてくれた。

「本人確認ができました。芽傍健二郎の息子さんの、芽傍ゆうさん」

「はい。そうです」芽傍は頭を拭きながらしぶしぶその事実を認めた。

「面会したいとのことですが、やはり事件の真相を聞きたいといった感じですかね?」

「はい。全部聞きたいんです」

「そうですか。現在、お父さんは取り調べの最中です。我々とて真相を聞きたい所存ですが、口を割らないものでして」

「そうですか。なら、なおさら僕が話したいです。僕が促せば話してくれるかもしれません」

 と言ったものの、芽傍自身、そんな保証はなかった。むしろ、自分を追い出した父親が、自分に真相を話すとは考えにくい。しかし何もせずには究明できない。

「なるほど。担当の者に伝えます。ですがその前に、あなたとお父さんの関係についてお尋ねしてもよろしいですか?」

 警官はメモとペンを用意した。

 芽傍は話そうと思ったが、ある閃きで思い止まった。「いえ、後でお話ししたいです。今は別居状態なので、覚えてないことも多くて。父と話せば思い出せることもあるでしょうし」

 警官は「ほー」と頷いた。「別居、ですか。あなた、高校生ですよね?」

「はい。詳しくは後ほどお話しします。父に会わせてください。お願いします」芽傍は丁寧に頭を下げた。

 警官は頷いた。「わかりました。ではお待ちを」

「すみません、紙と、ペンをお借りしてもいいですか?父に話すことを整理しておきたくて」

「ええ、どうぞ」

 警官は紙とペンを芽傍に渡すと、一度出ていった。

 その間に、芽傍は紙に何かを書いてポケットにしまった。

 数分後、警官が戻ってきて、芽傍を呼び出した。連れて来られたのは透明な板で仕切られた一対一の面会室だ。板の中央は会話ができるように網目状になっている。そして両サイドには椅子が1つずつ置かれている。

 芽傍はその部屋に踏み込んだ。板で仕切られた向こう側には、二度と見たくも会いたくもないと何度も思った血縁上の父親が腕を組んでどっかり座っている。鋭い目つきも訝しげな顔も昔のままだ。

 芽傍は固唾を呑んで父親、いや、殺人犯の正面に立った。

 容疑者はジロリと芽傍を見上げた。芽傍も睨み返した。先に声をかけたのは芽傍だ。

「すべて話してもらおうか?いつ母を殺したのか、なぜ殺したのか」

 容疑者は何の罪悪感もなさそうに脚を組んだ。「まさかお前が生きていたとはな」

 皮肉か嫌味か。どちらにしても再会の喜びではないことは確かだ。

「生きてたさ。…自分でも意外だけど」芽傍は皮肉を込めて言った。「僕のことはどうだっていいだろ。母のことを話せ」芽傍は少し強めの口調で再び促した。

 容疑者は首を振った。「断る。お前に話したところで何もならない」

「黙秘するのか。そうか」

 ここで芽傍は切り札を取り出した。さっきポケットにしまった紙だ。容疑者は芽傍を睨んだ。芽傍はどうだ?と言わんばかりに紙を見せつけてやった。容疑者は目を凝らしてそれを読んだ。

 それには小さい文字でこう書いてあったのだ。

『真実を話せ。拒むなら、自分が虐待されて追い出されたことを報告する。結局お前は刑務所行きだ。でも真実を話してくれるなら、虐待のことは言わないでやる。少しは罪が軽くなる』

 まだ真相が明らかになっていない事件となれば、この面会も録音、録画されている可能性がある。だから芽傍こうして言い分を書いておいたのだ。これなら録音されていても関係ないし、録画されていても字が小さくてバレることはない。芽傍の機転を利かした計略だ。

「ったく。ずいぶんとずる賢くなったな?」容疑者は皮肉を込めて褒め称えた。

「誰かさんに似てな」と芽傍も皮肉で返した。「お前が母を殺したことはもう自白済み。どっちみち刑務所行きだ。少しでも罪を軽くしたいなら、大人しく白状するんだ」

 容疑者は不機嫌そうにため息を吐くと、おもむろに語り始めた。

「…殺すつもりはなかった。ありゃ事故だったんだよ!口論がきっかけで、ついカッとなって瓶でなぐっちまったんだ」

「何の口論だ?」芽傍が問いただす。

「お前を育てるかどうかだ!」

 容疑者、健二郎の言葉に芽傍は驚愕した。「…どういうことだ⁈」

「俺とあいつは結婚してたけど、もともと子供を産む気は二人ともなかった。でもお前ができちまった。気づいたときには手遅れで、堕ろせなかった。そしてあいつはしぶしぶお前を産んだ。ここまではすでに話したな?」

「ああ。それで?」

「あいつ、最初は育児をめんどくさがってたけど、育ててるうちにどんどん愛着が湧いたらしい。俺にまで強要するようになった。ご飯をあげろだのおむつを変えろだの。俺はどうしてもやる気になれなかったし、お前を産んでからあいつとヤる回数も減ってた。そんであるとき喧嘩したんだ。あいつは、父親ならもっと協力してほしいと言ってきた。でも俺はもともと子育てなんてしたくねーし、俺の金や時間をお前に費やしたくはなかった」

「それで殺したのか?」芽傍は我慢できず問いた。

 容疑者は首を振った。「わざとじゃなかった。カッとなって瓶で一発殴ったら、力がこもりすぎて……あいつは動かなくなった」

 芽傍は椅子を蹴飛ばした。ガタンという大きな音が響いた。

「…なぜ埋めた?」

「そりゃ捕まりたくなかったからだ!救急車だって呼んだら俺が疑われるだろ?」

「隠蔽か」芽傍は叩くように両手をついた。「じゃあ、なぜ僕を育てた⁈」

「本当は育てたくなかったよ」元父親はあっさりした口調で言った。「捨てようと思った。でもどっかに捨てて、死体が見つかれば、DNA鑑定ですぐに特定される。お前を捨てることにもリスクがあった」

「埋めようとは思わなかったのか?」

 容疑者は一瞬口ごもった。「……考えなかったわけじゃない。でも、生まれてたての赤ん坊を殺して埋めるなんて、さすがにそこまで残酷なことをする気にはなれなかった」

「そうか」芽傍は複雑な気持ちだった。「一応、人の心はあるんだな」

「殺したかったわけじゃないからな。捕まりたくなかっただけだ。だからお前には、母親はお前を捨てて出ていったと言い聞かせて育ててきた」

 芽傍は容疑者を殴るつもりで仕切り板に拳を打ち込んだ。「…お前のせいで17年間、ずっと誤解して生きてきたんだぞ‼︎母さんは自分を捨てたって!僕を置いて家を出て行ったって‼︎なのに!なのに‼︎」

 芽傍は何度も仕切り板を叩きながら怒鳴った。

「この悪人め‼︎母を返せ‼︎母を返せー‼︎」

 ここで警官が3人入ってきて芽傍を抑え込み、部屋の外に出した。部屋の外に引きずられていく間、芽傍は狂ったように自分を捨てた元父親を罵っていた。罪人は内心不明の表情で、引きずられていく芽傍を睨んでいた。

 その後、芽傍は警官たちに宥められた。そし落ち着いた頃には力が抜け切ったようにぐったりしていた。

「大丈夫ですか?」先程の警官が尋ねた。

 芽傍はゆっくりと頷いた。

「あなたのお陰で事件の真相が明らかになりました。ご協力感謝致します」警官は深々と頭を下げた。

 芽傍は反応しなかった。とにかくここから離れたい、その気持ちが強かった。

「では、別居する前のゆうさんと、お父さんとの関係はどういったものか、教えていただけますか?」

 芽傍は差し出されたお茶を一口飲んで、考えながら説明をした。

「ー同居してた頃は、特に問題はなかったです。

 ー愛情とかは感じませんでしたが、17年間育ててくれました。

 ー喧嘩はよくしました。…いえ、暴力はありませんでした。

 ー家を出て行ったのは自分の判断です。…はい。ギスギスしながら暮らすなら、一人で生計立てた方がマシだと思ったので…」


 警察署を出て、久米沢に帰ってきた芽傍は、河原で両膝をついた。川は雨の影響でカサが増えており、流れが激しく、ザバザバとけたたましい音を立てている。

 街灯が無く、真っ暗な河原で、芽傍は地面を思いっきり殴ると、そのまま土を掴んだ。そしてこう問いかけた。

「知ってたんだろ⁈」

 真っ暗な河原に、新たなシルエットが刻まれた。膝をつく芽傍の真後ろにそびえ立つ黒い女性のシルエット。

「ええ」亜久間は淡々とした口調で答えた。

「なぜ言わなかった⁈なんでだ⁈」芽傍は掴んだ土を川に放り込んだ。

「あのときのあなたに言っても、信じなかったでしょう?」亜久間は堂々として言い返した。

 芽傍は「くっ…」と呻くような声を出すと口を閉ざした。

「あのときのあなたには生きる気力すらなかった。今と違ってね。そんなあなたに、お母さんはあなたを愛してた、なんて言って信じたの?」

 芽傍はもどかしさに苛まれたが、認めざるを得なかった。

「そうよね?だからあなたに見つけさせたのよ。お母さんが殺された事実を」亜久間の堂々とした言い方は、残酷にも聞こえた。

 芽傍はしゃがみ込んで、両膝で目を覆った。

「もう少しだから、頑張りなさい」亜久間の口調は少し優しくなったように感じられた。「お母さんがあなたを待ってる。お母さんから、信実を聞きなさい」

 それだけ言うと、亜久間は消えていた。

 芽傍は膝に埋めた顔を上げた。雨と涙で湿るその目には、決意、悲しみ、怒り、後悔……ありとあらゆる感情がにじみ出ていた。




 雨が上がり、まだ湿り気が残るコンクリートの道を歩く学生たち。その中に、イヤホンを装着してノリノリで歩く望夢が混じっていた。母の影響でハマった織家れいの曲でモチベーションを上げまくる。受験も終わった後の学校は、卒業式に向けてのんびりダラダラ過ごせばいいから気軽だ。

「よっしゃ!今日も気合い入れて…」

 ドカッ!

 唐突な衝撃によってつんのめる望夢。せっかくの気合いが抜けてしまった。

「おす!」と瞳はいつも通りの威勢のいい挨拶。

 望夢はカーッと口を開けて振り返った。「お前はいつもいつも邪魔しやがってこんちくしょー!」

 瞳はへへっと笑う。「邪魔じゃなくてかまってあげてるんだよ?」

「そんなにおれに気があるのか、ふーん!」

「んなわけないでしょが!」と言いながら楽しそうに瞳は笑う。「ところで、旅行の件なんだけど、」

「おう、どうなった?」

「玲奈と話して、温泉がいいんじゃないかって話になったの」

「温泉かー」望夢は景色のいい中、湯気をふんだんに巻き上げるのどかな温泉をイメージした。「いいかもな!」

「でしょ!玲奈にハリウッドは無理?って聞いたら、非現実的って言われた。あはは!」

「だろうな」瞳の天然ボケに呆れてツッコむ玲奈の姿は容易に想像できる。まともな人がメンバーにいてよかった。

「でさ、今3人じゃん?しかも女子2人に対して男は望夢だけでしょ?それだとちょっと不安かなって…」

「え、あ…。ああ、そうだよな。おれみたいな男が一緒じゃ不安だよな」望夢は大人しく認めた。

「違う違う違う違う!」瞳はブンブン頭を振った。「人数比が合わないってことだよ!望夢、男1人じゃいづらいかなって」

 望夢はうーんと宙を見た。「大丈夫っちゃ大丈夫だけど、たしかにもう1人男いた方が気楽かもな」

「だよねー。ってことで思ったんだけど、うちの彼氏、連れていく?」

「え?まじ⁈」

「まじ」瞳は真顔で返した。

 あまりにも大胆な発想に望夢は戸惑った。「それはー、やめた方がいいんじゃないか?おれも本郷もお前の彼氏とは友達じゃないし、彼氏連れて行くなら2人で出かけるべきじゃね?」

「そっかー、望夢も玲奈と同意見かー」瞳は附に落ちない。

 本郷、良い仕事してんな。望夢の本郷玲奈に対する好感度が上がった。

「そんなにダメ?ジョー、かっこよくて凄く良い人だよ⁈」

 かっこよくて良い人。そんなやつが来たら自分の出来損ないさが引き立っちゃうじゃないか!なおさらダメだ!

「だとしても、3人中2人が初対面の人を混ぜるのはどうかと思うぞ!おれは1人で良いから!大丈夫だから!」望夢はマジになって反論した。

「そう?じゃあ3人で行こっか!」

「3人で温泉だー‼︎」

「「イェーイ!」」二人はハイタッチを決めた。




「おはよう!」教室に入って瞳は、先にいた玲奈に挨拶した。

「おはよう瞳。今日は遅かったね?」

「ごめんごめん、ちょっと寝坊しちゃって!」瞳は自分の机に鞄を置いた。「来るときに望夢と合流して、昨日話したこと聞いてみたの。そしたら望夢も玲奈と同じ意見だった。だから3人で温泉!」

「まあ、普通そうだよね」玲奈は苦笑した。

 なんか本橋くんの方が瞳よりまともになってない?とまで玲奈は思った。

「本当は芽傍くんが来れたらベストなんだけど」瞳は芽傍の席を見た。

 芽傍は珍しくまだ来ていない。いつもならとっくに来て本を読んでいるのに。

「芽傍くんの退院祝いも兼ねて、盛り上がりたかったね」玲奈も残念そうに言った。

 そんな話をする二人の耳に妙な話が入り込んできた。

「ー芽傍容疑者のやつでしょ?あの事件怖いよねー…」

「あれやばい!自宅に死体埋めるとかどんなサイコパスだろ⁈」

「単純に葬式するお金がなかったとか?」

「なんか今朝の報道だと、喧嘩になって父親が母親殺しちゃって、それを隠蔽しようとしたってのを父親が自白したとか」

 と口々に語る女子たち。

 瞳は玲奈と顔を見合わせると、女子たちに体ごと向けて話に入った。「知ってる!あの事件やばいよね?」

「ほんとだよね。事件自体がエグいのに、容疑者の苗字がクラスメイトと同じだから頭に残っちゃう!」

 女子たちはうんうんと頷いて芽傍の席を見やった。

「こういう事件で知り合いの名前出ると、関係ないってわかってても反応しちゃうよね!」と一人が笑う。

「それな」「あるある〜」と誰もが口を揃えた。

 瞳も玲奈もそれには同感だった。

 しかし一人だけ、不審な表情を浮かべている。「…でもさ、あれ都内のニュースだよね?だとしたら…ありえんじゃない?」

 笑っていた女子たちの顔が途端に暗くなった。

「…そういえば、“芽傍”って苗字も珍しいもんね…」

 女子内に蔓延する不審な空気。

 ここでさらに男子も混ざってきた。

「でもよー、公開されてた容疑者の顔、あいつに似てなくもなかったぜ?」そう言い放ったのは鬼頭だ。

「オレもそれ思った」と鬼頭一味の一人、神谷が頷く。

 他の男子らはマジかよー!と引いたリアクション。

「あいつ転校してきたときからおかしかったもんな〜。でも家族がそれなら納得だな!」

 鬼頭の皮肉に男子らは共感を示した。

 瞳も怪しいとは思ったが、これが事実かはともかく不審がられる芽傍をかわいそうに思った。そこで踏み出してこう発言した。

「まあまあ!偶然だよ偶然!仮に本当だとしても芽傍くんは悪くないしね!」

「うん!そうだよ!決めつけるのは良くないよ!」玲奈も賛同してくれた。

「じゃあ、本人に直接聞いてみるか?」と鬼頭はめちゃくちゃな発想を述べた。

「それは勝手にどうぞ。でも、こういう事件をネタにするあんたみたいなやつは最低」瞳は鬼頭に思いっきり顔をしかめた。

「うっせーな!」と鬼頭は語彙力のない反論をした。

 ここでタイミングよくチャイムが鳴り、生徒たちが席に着いた。まだ芽傍の姿が見当たらないことに瞳は疑問を抱いた。

 そのまま担任の木下先生が入り、ホームルームがスタート。

「みんなおはよう。今日は芽傍くんが事情により欠席です」

「事情?」「事情とは?」「何?」と一同は首を傾げる。

 木下先生はその反応を見て慌てて付け足した。「“家庭の”事情です」

 さっきまで芽傍事件トークで盛り上がっていた一同に戦慄が走った。

 ホームルーム終了後、玲奈は瞳のそばに来てささやいた。「やっぱり、あり得るかも…?」

 瞳は頷いた。「だね…。だとしたら、旅行に誘っても来るはずないもんね…。不謹慎なことしちゃった…」

 玲奈は「…たしかに」と呟いた。




 その日の放課後。

 学校の玄関口で望夢とたまたま鉢合わせた瞳は、芽傍に関する疑惑と、芽傍が家庭の事情で欠席していたことを話した。

「…そうなのか…。あの事件、ここから近いもんな?」

「うん。だからこの近辺だといっそう騒がれてるよね。もし芽傍くんの家族なら、かわいそう…」

「辛いだろうな。でも、まだ確定じゃないし、そうだったとしてもおれらにはどうにもできない…」

「そうだね…」

 冷たいコンクリート張りの地面を歩いて、二人は校門を出た。そして駅の方へ曲がろうとして方向転換すると、男性とぶつかりそうになり、瞳が「ひゃっ!」と小さく呻いた。

「おいおい、びっくりし過ぎだろ?すみません」と言って、望夢は避けて通ろうとした。

「違うの!」瞳はびっくりしたまま止まっている。

 望夢は「ん?」と足を止めた。

 男性はニコニコしながら瞳を見つめると、安心感のある声でこう言った。「遅かったから、迎えに来ちゃった」

 唖然とする瞳と、なんとなく察する望夢。望夢の察しは的中した。

「ジョー!渋谷で待っててって言ったじゃん!先生に見られたら怒られちゃうよ!」瞳は校舎の方を気にしながら注意した。

「だって、早く会いたかったんだもん」ジョーと呼ばれた男性は無邪気に返した。

「もう…」瞳は顔を赤らめた。が、すぐに我に返って望夢に紹介した。「望夢、この人があたしの彼氏、ジョー。ジョー、幼馴染の望夢」

「初めまして。望夢さん」男性は恭しく頭を下げた。

 望夢はジョーをまじまじと見た。爽やかな整った顔と、細身だがガッチリした程よい肉付きの体。そして180cmは超えているであろう高身長。まさに女性が望む“イケメン”を具現化したような存在だ。

 望夢はこの男性の出来の良さに思わず声が裏返った。「どどどどーも初めましてっ!」

 瞳はおかしくて笑った。「なんであんたが照れてんのよ?」

「ち、違うよ!あまりにも…」望夢は改めてジョーを見つめた。「…かっこよくて」

「でしょー!おまけに成績もよくてスポーツ全般得意なんだよ!」瞳は大はしゃぎで説明した。

「マジかよ⁈」望夢は舌を巻いた。「瞳にお似合いだな」

「ほんとー⁈」瞳は嬉しそうにジョーの隣に立った。

 成績も顔もスタイルも良い瞳に、この男性はぴったりだ。望夢は色々と羨ましかった。

「ああ。相性抜群…」望夢は自分だけ身分違いな気がして萎えた。

「えへへ!褒め上手になったじゃん望夢!これからデートなの。渋谷集合だけど、彼せっかちで」

 ジョーはクスッと笑った。「待ってるくらいなら迎えに行きたいなって。そしたら目的地行くまで一緒にいられる時間が伸びるし」

「もー!ジョーったら!」

 遠慮なくイチャつく二人。

 望夢はムカっとしたが作り笑いをした。「いい彼氏さんじゃないか!楽しんでこい!」

 翻訳すると、『はいはい、おれが到底敵いっこない男だなー!とっととそいつ連れて渋谷でイチャつくきやがれゴラァァァ‼︎』である。

「ありがと!じゃ、行こ?」瞳はジョーの腕を自分の腕に挟んだ。

「望夢さん、ありがとうございます!なんだ瞳、だらしないとかドスケベとか見栄っ張りとか言ってたけど、良い人じゃん?」ジョーは微笑んだ。

 瞳のヤロウ、言ってくれるじゃねえか…。望夢はニコニコしながら歯ぎしりした。

「あはははは!じゃーねー望夢!」

 瞳は大慌てでジョーの腕を引っ張って行ってしまった。

 …瞳、さすがだな…。色々気に食わないことはあるが、望夢は瞳の恋愛の充実具合を讃えた。




 渋谷の夜は、昼間よりも人が少なくなるなんてことはない。昼でも夜でも平常運転だ。ハタから見れば毎晩が騒がしい夜であって、それゆえ騒がしい夜という概念がここには存在しない。

 そんないつも通りの夜の渋谷で、瞳は彼氏のジョーと楽しい時間を満喫した。こじゃれたお店でディナーを取ると、カラオケで3時間歌いまくった。その後、ゲームセンターでエアーホッケーやシューティングゲームやクレーンゲームを飽きるまでやりまくった。

 思う存分遊んだ二人は、一休みのつもりで小さな公園のベンチで寄り添って座った。

「こんなに楽しかったこと今までないなー」瞳は星空を見ながら呟いた。

「俺もだよ。瞳とならいくら遊んでも飽きないね!」

 そう言うとジョーは瞳の手を握った。

 瞳はドキッとしたが、握り返した。そして試しにこんなことを言ってみた。

「ジョー。ジョーとなら、あたし結婚してもいいかも?」

「…ほんと?」

「うん!」瞳は笑顔で頷いた。

 ジョーも笑った。「凄く嬉しいよ。でも、そんな簡単に決めていいの?まだ若いんだし、まだまだ色んな人と出会うはず。まだ早いんじゃない?」

「そうだけど、もう散々会ってきたし、ジョーはその中でも別格だよ!」そう言うと瞳はさらに強く手を握った。

「ありがとう、瞳。じゃあ、ちゃんと仕事に就けたら、結婚しよう」

「うん!待ってる!」

 そして二人を見つめ合い、自然と目を閉じた。徐々に唇が近づいていく。もう接吻すれすれ…というところで、瞳は妙な寒気を感じた。

 瞳は目を開いた。すると、ジョーの真後ろ、茂みの奥に、髪の長い何者かが立っているのが見えた。ちょうど街灯が当たっておらず、全身真っ黒でよく見えない。ただ、真っ黒な全身一箇所だけ、光を反射していた眩しく光っている……刃…包丁だ…‼︎

「いやっ‼︎」瞳は叫んでベンチから飛び退いた。

 ジョーは驚いた。「⁈ごめん!息臭かった⁈それとも鼻毛出てた⁈」

「違う‼︎あれ‼︎」瞳は指差した。

 ジョーは振り返ると、彼もまた目にした。こちらを向き、包丁を振りかざして立つ女性らしき影を。

「逃げよう‼︎」ジョーは叫んで瞳の腕を掴んだ。

 瞳は引かれるがままに走った。

 真っ黒で街灯だけが頼りの街中を二人は疾走した。瞳は何度か振り返ったが、あの女はしばらく追いかけてきた。

「着いてきてる‼︎急ごう‼︎」

「うん!」

 ジョーが掴んでいた腕を離し、二人は速度を上げた。体育も得意な二人は体力も脚力をなかなかだ。

 二人は全力で走って駅まで戻ってくると、立ち止まって後方を確認した。女の姿はない。どうにか撒いたようだ。

「はあ…はぁ…さっきの誰⁈知ってる人⁈」瞳は息切れしながら尋ねた。

 ジョーは頷いた。「ああ…以前付き合ってた人だよ…」

「えっ⁈」瞳は仰天した。

 ジョーは深呼吸した。「振ってからもずっと付きまとってくるんだ!最近は見かけなかったからもう懲りたのかと思ったけど、まただよ…」

「どうして付きまとってくるの?何かトラブル?」

「俺としてはトラブルはなかったつもり。振るときも言葉に気をつけて丁寧に振ったつもりだし、物やお金の貸し借りもしてない…」

「…どうして振ったの?」瞳は首を傾げた。

「…見ての通り、彼女過度のメンヘラで。束縛が酷くて、耐えきれなかった…」

「そうなのね…。そしたら、ただの逆恨みか…」瞳はブルッと身震いした。

 ジョーが頷いた。「…こんなことになってごめん!大丈夫?怪我とかはない?」ジョーは優しく瞳に触れた。

「ううん、大丈夫。気にしないで!凄く楽しかったよ!」瞳は気を遣わせないように笑顔を見せた。

「なら良かった。今日はもう解散しよう?また今度会おう。まだ危険かもしれないからね」

 ジョーは周囲を見回した。

「そうだね。じゃあまた!楽しみにしてる!あの女に気をつけてね!」

「ありがとう!またね!気をつけて!」

 二人は手を振り合って別々の電車に乗った。

「…ごめんよ、瞳…」電車内でため息を吐くジョー。

 そんな彼を、隣の車両から、さっきの包丁女が見つめていた。




 それから1週間が経った。

 芽傍はやっと登校再開し、また教室で一人、本を読み始めた。

 教室に入った瞳は久々に見た芽傍を見て喜んだ。「おっはよー!」

 芽傍は本から目を上げると「おう」と返した。

 瞳は例の事件のことが気になっていたが、さすがに触れるべきではないと判断した。「急に休んじゃって心配してたよ!大丈夫?」

「ああ。大丈夫だ。すまない」芽傍は本を置いて答えた。「旅行の件も、誘ってくれたのに、悪いな」

「いやいや、気にしないで!あたしこそ悪いタイミングで誘っちゃった気がしてて。ごめんね」

「そんなことはない。気にするな」

「ありがとう。それで、旅行行けない代わりに、望夢と三人でお食事でもどうかなーと思ったんだけど?」

「あ、ごめん。返事し忘れてた。それならいつでもいいぞ。なんなら今日でも」

「なに?待ちきれないとか?」瞳は冷やかした。

「別にそんなんじゃ…」

「ふふ!いいよ!今日行けるなら行こうよ!望夢が大丈夫なら!」

「わかった」

 結局、その日の放課後、三人は渋谷のカフェに入った。クラシックの音楽が流れるヨーロッパ風のオシャレな店内で、各々飲み物とサンドイッチを注文した。注文した物はすぐに届き、まず三人は紅茶とコーヒーを堪能した。

「美味しいー!」砂糖を何本も溶かしたコーヒーをすすった瞳は満足げに言った。

「砂糖の味だろ?」と芽傍がツッコみながら紅茶をすする。

「それな」と言って望夢は砂糖を一切入れずにコーヒーをすすった。「にっが!やっぱり苦手だわー!コーヒーも紅茶も!」

「子供だね〜」瞳はからかった。

「うるせえぞ。でも、ほんと急だな。今日三人で集まるなんて」と言いながら、望夢はコーヒーに砂糖を溶かしまくった。

「芽傍くんが今日がいいって。ねー!」瞳は頬杖をついて芽傍を見つめた。

 芽傍はカップを置くと、深刻そうな顔で語り出した。「僕のために時間を作ってくれてありがとう。それと、これまで何度も世話になった。感謝してる」

「なんだよ、急に堅くなって」とサンドイッチを頬張りながら笑う望夢。

「どうしたのいきなり?」瞳もにやけながら尋ねた。

「…別に。お礼って、言えるとき言ってたおくもんだろ?いつか言えばいいって思ってると、そのいつかが訪れなくなったりする」

 二人はポカンとした。

「なんか、らしくないな」

「でももっともなこと言うのはいつも通りだね」

 芽傍は首を振った。「ごめん。気にするな」

 芽傍は野菜多めのヘルシーなサンドイッチにかじりついた。

「変なの。先週ずっと休んでたし、何かあったのか?」望夢は何となく尋ねた。

 瞳はテーブルの下で『それは聞くな』という意味を込めて望夢の足を力いっぱい踏んづけた。望夢は「あたたたたたたい‼︎足つったー‼︎」とごまかして叫んだ。

 芽傍はカップを置いて、こう切り出した。「実は、母が死んでたことがわかったんだ」

 芽傍の自白に、二人は愕然とした。

「家を出てったきり会ってないって話しただろ?でもあれは父親の嘘だったんだ。母さんは、家の庭に…」芽傍は口をつぐんだ。

 そこで、瞳が代弁した。「…埋められてたんでしょ?」

「そうだ。やっぱり報道で知ってたんだな」

 望夢は目線を上げた。「庭に埋められてた…?ってえー⁈あのニュース、お前の家族かよ!」

「しっ!声大きいよ!」瞳は口に指を当てた。

「あ!ごめん!」

「別にいいよ。もう解決はしてるし」芽傍は落ち着いてトーンで言った。

「自白したって言ってたもんね?」と瞳。

「ああ。僕が直接出向いて、自白させた。あとは判決が出るのを待つだけだ」

「…お疲れ様です」望夢は精一杯同情と敬意を込めて投げかけた。

「本当に、大変だね…」瞳も潤んだ目を芽傍に向けた。「お母さんは?ちゃんと埋葬してあげられるの?」

 芽傍は頷いた。「今度、簡単にだけど葬儀を上げて、納骨してもらう。今はその手続き中だ」

「そっか。よかったな!」望夢は微笑んでいいのかわからず、微妙な表情をした。

 瞳も同じような表情をしていた。「困ったことがあったら何でも言ってね!あたしたちなら力になるよ!」

「ありがとう」

 ピロロロロロ…と鳴り響く着信音。

 瞳はスマホを取り出した。「あ!ちょっとごめんね」

 瞳は席を立つと、少し離れた位置で電話に出た。

「もしもしジョー?元気?あれから大丈夫?」

 わざわざ席は立ったものの、その声は望夢と芽傍にもしっかり聞こえていた。

「…ジョー?」芽傍が首を傾げる。

「ほら、瞳の彼氏だよ」望夢は答えた。

「…うちの生徒か?」

「いや、他校だ」

「…そうか」芽傍はすっきりしない様子だ。

 望夢は感づいた。「そっか、お前が話してた男もジョーだったもんな」

 芽傍は頷いた。「偶然だろうけど、落ち着けない名前だな」

 芽傍が病院で過去の悲劇を話したとき、その主犯が城之内、通称ジョーという元親友だったと明かした。それと結びつけてしまうのだ。

「大丈夫大丈夫!この前会ったけど、イケメンで親切な人だったぞ!」

「…僕も最初はジョーをそう思ってた」

「…あー、そっか…」望夢は苦笑いして瞳に目をやった。

「そう。とりあえず問題なさそうでよかった!でもまたいつ追いかけてきてもおかしくないから、警戒しといた方がいいよ!…うん!…えっ⁈あたしも今渋谷だよ⁈…この後?いいよ!会おう!」

 瞳は電話を切って戻ってくると、笑顔でコーヒーをすすった。「ふー!」

 望夢と芽傍は瞳を不審そうな目で見つめた。

「…なに⁇」

「なんか、妙なワードが聞こえてきた。追いかけるとか、警戒とか」望夢が首を捻った。

「あー。言ってなかったか!この前のデートのとき、包丁を持ったジョーの元カノに追いかけられたの」

 コーヒーと紅茶を口にしていた望夢、芽傍は同時にブーッと吹き出した。瞳は反射的にのけぞって回避した。

「ちょっと!」と怒る瞳。

「お前!何でそんな大事なこと言わないんだよ⁈」と望夢は声を荒らげた。

 一時取り乱した芽傍は、すぐに冷静を取り戻した。「…その、ジョーって人は、やばいやつだったりしないよな…?」

「もー!そんなことないよ!ジョーはいい人だし、元カノ振るときも考えて振ったって言ってたもん!」瞳の怒りは火の粉から烈火に燃え上がった。

「…そうか。すまない」芽傍は落ち着かせようと素直に謝った。

「でも、その相手が包丁を持って追いかけてくるのは大問題だな」望夢は論点を戻した。

 瞳は頷いた。「わかってる。だから、まだ警戒は解かないでって言っておいたよ」

「それで大丈夫だといいけど…」望夢は心配になった。

 芽傍もうーんと唸った。

 瞳は時計を見た。「どうにかなるよ。警察に届けは出してるみたいだし。この後、ジョーと会うことにしたから。今ちょうど渋谷にいるみたいなの」

「この後⁈大丈夫かよ⁈」望夢は心配になった。

「急遽決めたし、あたしたちがどこで会うかはあの人知らないはず。それに、久々に会いたいもん!」

「いや、やめておいた方がいいんじゃ…」望夢は顔を曇らせた。

 芽傍は無言で考え込む様子だ。

「あたしの勝手でしょ⁈ジョーのこと悪く言わないでよ!」瞳の怒りはもうマックスだ。

「別に悪く言うつもりはないよ!ただ、気をつけろよって話」と望夢は弁明した。

「だからジョーを信用してないってことでしょ⁈二人して酷い!もういいよ!あたし行くね。払っといて」

 瞳は自分が注文した分ぴったりのお金を置いた。

 瞳は芽傍を見た。「…芽傍くん、今日までありがとう。大学でも頑張ってね」

 それだけ言うと、瞳はしれっと店から出ていった。

 天井を見つめる望夢と頬杖をつく芽傍。

「…ったく瞳はすぐカリカリするんだから。大丈夫かな…?」と不安を漏らす望夢。

「心配だな…。そのジョーって人は、他にどんな特徴がある?」芽傍は真面目な顔で尋ねた。

「え?たしかー…身長が高くて…あ、スポーツ万能って言ってた!」

「スポーツか…」芽傍は下を向いておでこをさすった。どうしても、あのジョーが頭に浮かぶ。「…そんな気がしてならない」

「可能性ありか…」望夢はぞっとした。

「もしそいつが僕の知ってるジョーなら、一緒にいてとんでもないないことが起きてもおかしくない…」

「もう起きてるしな…」望夢は低いトーンで呟いた。

 芽傍は顔を上げた。「…片山を見張ろう。手遅れになる前に」




 望夢と芽傍は会計を済ませると、すぐに瞳を探した。しかし彼女の姿はどこにもなかった。よっぽどジョーに会いたくて一目散に駆けていったのだろう。数分間、二人は店の近辺を探し回った。

「どこ行ったんだ?」望夢は交差点の真ん中で周囲を見回した。

「この辺は店が多いし人もたくさんいる。見つけるのは困難だ。…そうだ、SNSはどうだ?何か呟いてないか?」

「あ、そっか!えーと、」望夢はスマホを取り出して瞳のアカウントを確認した。「2分前に呟いてる!『これから渋谷でおでかけ♫』。画像付きだ!」

 芽傍はスマホを覗き込んだ。

「…この場所、あの道をまっすぐ行ったとこだ!」芽傍は道路を指差した。

「行こう!」

 二人は大急ぎでその場所へ向かったが、当然、たどり着いたときには瞳はいなかった。

「また何か呟いてないか?」と芽傍。

 望夢はスマホを確認した。「『今からカラオケ』だって!この場所は…カラオケはち公か!」

「行くぞ!」

 徒歩1分ほどで、二人はカラオケはち公に到着。

「いらっしゃいませ!2名様ですね?お時間はいかがなさいますか?」

 気前の良い店員さんに望夢は困惑した。芽傍が“ここは任せろ”と合図した。

「10分くらい前に、背の高い男性と女性のカップルが入店しましたよね?」と尋ねる芽傍。

 店員は頷いた。「10分前ですね?はい。入店されました」

 芽傍は冷静に話を続けた。「その二人、知り合いなんです。近い部屋で入室させてもらえません?」

「近いお部屋ですね。かしこまりました!では、先程の2名様は516号室なので、お客様は517号室でご案内致しますね」

「お願いします」

「お時間はいかがなさいますか?」

「二人は何時間で入ってます?」

「1時間です」

「じゃあ、1時間でお願いします」

 望夢は芽傍にグーポーズをした。

 二人はエレベーターで上がり、516号室を覗いた。モザイクのかかったガラスではっきりとは見えないが、瞳は服装ですぐにわかった。

「ビンゴ!やったな!」望夢は喜んだ。

「これで何があってもすぐに対応できる」

 二人はしばらく部屋を覗いていたが、通りがかる人々から不審な目で見られた。

「……なあ、まずくね?」と望夢。

「だな。さすがにガン見は良くないな」芽傍は扉から顔を離した。

「て言うか、別に問題なさそうじゃね?二人とも楽しそうじゃん!ジョーも大人しいし。てかあれ、お前の知ってるジョーか?」

「うーん、見づらいな…」

 ただでさえモザイク状のガラスなのに、おまけにジョーは扉に背を向けているため、顔が確認できない。

「じゃー、とりあえず部屋入らねえ?んで、たまに覗く感じにして」

「そうしよう」

 と、二人は部屋に入った。

「……」「……」

 気まずい…。望夢はたじろいだ。寄りによって芽傍と二人でカラオケに入るなんて…。

「…せっかくだし、なんか歌うか?」

「そういうノリか?」芽傍は単調にツッコんだ。

「嫌か」

「人前で歌うのは得意はない」

「じゃー、一緒に歌う?」

 うーんと唸った。

 望夢は立て続けに数曲、芽傍でも知っていそうなメジャーでノリの良い曲を歌った。芽傍は手拍子したりリズムを刻むこともなく無言で画面を見つめていた。けれども、ある曲で望夢がマイクを向けるとワンフレーズだけ歌ってくれた。それ以降、合いの手を入れるようになった。

「良いじゃん!そのノリでこい!」望夢はテンション爆上げで盛り上がった。

 その後、芽傍も芽傍らしくバラードを歌うと、二人で1曲歌うことにした。大ヒット曲の『ユーエスエー』だ。

 二人ですっかりノリノリで歌っていると、10分前のコールがかかってきた。

「もう1時間か!はえーな!」望夢はスマホの時計を見て驚いた。

「いい加減片山のことも見てやらないとな」

「あ!そういえば!」

 二人は部屋を出て瞳が入室した516号室を覗いた。

「あれ?いない⁈」

 そこにはもう誰もいなかった。瞳とジョーが使っていたグラスとマイクが、テーブルに放置されていた。

「1時間も経たずに切り上げたんだな」芽傍は飲み物が入ったままのグラスを見つめた。

「マジかー!やらかしちまった!」

 とたじろぐ望夢。芽傍は冷静な態度で飲み残しのグラスを持ち上げた。緑色の液がシュワシュワと泡をたてている。メロンソーダだ。

「…炭酸がまだ強い。退室してからそんなに経ってないぞ!」芽傍は言い切った。

「じゃあ、急げばまだ追いつけるか⁈」

「かもしれない。行こう!」

 二人はエレベーターに乗って下りると、会計を済ませ、外に出た。もう空はだいぶ暗くなっていた。

 二人はキョロキョロと辺りを見回したが、瞳とジョーの姿は見当たらない。

「くそっ!遅かったか!」

「まだ近くにいるはずだ。別れて探そう!見つけたらすぐに連絡をくれ!」

「了解!」

 望夢と芽傍は別々の方向に走っていった。




 その頃、瞳とジョーは、仲良く手を繋いで歩道を歩いていた。

「お腹空いたなー!何か食べよ?」瞳はジョーに寄り添った。

「あはは!さっきお友達と食べてきたんじゃないの?食いしん坊だな〜」

「サンドイッチ1個とコーヒーだけだもん!」

「そっか。じゃあ時間も時間だし、晩御飯にしよう!」

「イェーイ!どこにする⁈」

 ジョーは一瞬考えて、すぐに思いついた。「オススメのお店があるよ?人通り少ない道にあるから、あまり有名じゃないけど」

「ほんとー?おいしいの?」

「すっごく!知る人ぞ知るお店って感じ!案内するね!」

 瞳はジョーに連れられて、人の少ない裏通りを歩いた。

 …なんか、気味悪い…。瞳は嫌な予感がして、ジョーの手を強く握った。

 ジョーは短く笑った。「大丈夫?手が汗ばんでるよ?」

「あ、ごめん!」

 瞳は手を離してハンカチで拭いた。「…ねえ、本当にこんなとこにそんなお店あるの?」

「もうすぐだよ!ほら!あそこに見えた!」

 ジョーが指差す方向に目をやった瞳は、はっと驚愕した。瞳の表情から異常を察知したジョーは改めて自分の指差す方を見た。

 髪の長い女が立っていたのだ。手には細長い物を持っており、それが街灯で煌めいている。…そう、あの女だ。

 ジョーは瞳の手を引いて来た道を逆走した。瞳も死にものぐるいで走った。女は包丁を掲げながら「ウー!ウー!」と呻いて追いかけてくる。

「人のいる道に出よう‼︎そしたらきっと諦めるはずだ‼︎」

「うん‼︎」

 二人は先程のカラオケからまっすぐ伸びる通りに戻ってきた。すぐに止まらず、ある程度距離を稼いでから振り返った。

 女も裏通りから出てきた。二人のことはマークしており、人がいようとお構いなしに包丁をかざしたまま向かってくる!

「駄目だ‼︎行こう‼︎」ジョーはまた瞳の手を引っ張った。

 瞳は後ろを振り返りながら走った。「人がいても気にしないなんて!殺人を見せ物にする気⁈」

「正気じゃない‼︎振り切るぞ‼︎」

 二人は全力で走った。女も全力で追いかけてくる。

 そんな二人を、道路の反対側から望夢は視界に捉えた。「あ!瞳…!」

 瞳の腕を掴んで走るジョーと、後ろを気にしながら走る瞳。これはまさか…誘拐⁈

 その頃には、二人と女との距離はだいぶ開いており、望夢は追いかける女には気づかなかった。

 望夢は急いでスマホを取り出した。「芽傍!瞳を見つけた!ジョーにどっかに連れていかれてる!さっきのカラオケの前の通り!ああ!また連絡する!」

 望夢はスマホをしまうと、二人を追うことに集中し、足を速めた。

「…あれ⁈どこ行った⁈」一瞬スマホに目をやった瞬間、二人の姿は消えていた。

 望夢はとにかく二人が向かった方向に走った。




 数分後。

 望夢は入り組んだ路地を走り回ったが、二人は見つからなかった。

「…たくっ!…ちくしょう…!どこだよ…瞳!」望夢は電柱を殴った。

 すると…。

 望夢の目の前を瞳が走って横切ったのだ。両手で顔を覆って、泣きながら…。

「⁈」望夢はおい!と声をかけたが、瞳は行ってしまった。追いかけようと思ったが、ある考えが望夢を引き止めた。

 …瞳がいるということは、ジョーも近くにいるに違いない…!あいつに何かされたなら、今すぐに捕まえるべきだ‼︎

 望夢は瞳が走ってきた方向へ急いで向かった。すると、路地の途中に長身の男が背中を向けて立っているのが見えた。…ジョーだ!

「たあーーー‼︎」望夢は叫びながらジョーに突っ込んだ。

 ビクッとして振り向いたジョーだが、その瞬間に飛びかかってきた望夢によって視界が塞がれた。「うわあっ‼︎」

 望夢はジョーの体を脚で挟んで動きを封じると同時に、ジョーの頭を自分の胸に押しつけて目をくらませた。ジョーはジタバタともがいた。

「大人しくしやがれ‼︎」

 ジョーは建物の壁に望夢を打ちつけた。何度も何度も打ちつけた。

「ぐへっ!ごほっ!」望夢は呻きながら堪えたものの、とうとうジョーを離してドテッと地面に落っこちた。

 ジョーは望夢を見下ろした。「…え?望夢さん?」

「気安く呼ぶな‼︎瞳に何をした⁈」望夢は再びジョーに飛びかかり、抑え込もうした。

「うっ‼︎落ち着いてください‼︎」ジョーは必死で抵抗した。

 そこへ騒ぎを耳にした芽傍が駆けつけた。

「本橋!やめろ!」

 芽傍はジョーとゆうを引き離した。

 望夢はムッとした。「何でだよ⁈瞳が泣かされてたんだぞ⁈」

「だとしても、この人は“ジョー”じゃない!」芽傍は動揺するジョーを見て言った。

「…え?違うのか⁈」望夢は芽傍とジョーを交互に見た。

 芽傍がジョーに向き直った。「いきなりすみませんでした。人違いをしてしまって。てっきりあなたが悪い人なのかと思って警戒してました。申し訳ありません」芽傍は深々と頭を下げた。

「あ…そうでしたか!いえいえ」ジョーはすんなり納得して頷いた。

 望夢も深く頭を下げた。「ごめんなさい‼︎いきなり襲いかかってしまって!」

 ジョーは首を振った。「いいんですよ。意図せずとも、瞳を危険な目に遭わせてしまったのは事実ですから。殴られても文句は言えません…」

 望夢は余計申し訳なくなった。いきなり襲ったのにあっさり許してくれるなんて。やはりこの男、よく出来てる。

 ここで芽傍がこう切り出した。「あ、初めまして。片山と本橋の同級生の芽傍ゆうです」

「どうも。西川譲です」とジョーも自己紹介した。

 西川譲。たしかに芽傍が話していた城之内とは別人だ。余計な心配であった。

 ある程度安心できた望夢だが、まだ心残りがある。

「…ところで、瞳はどうして泣いてたんですか?」

 譲は悲しそうに目を落とした。「…瞳と別れたんです」

 その発言で、空気が重たくなった。

「どうして⁈」望夢は驚いて尋ねた。

「俺といると、彼女が危険な目に遭うからです。さっきも包丁を持った女に追いかけられたんですよ。その人、俺の以前の彼女で…。逆恨みして、ずっと付け回ってくるんです…。警察にも相談してますが、現れたり現れたなかったりで、なかなか捕まえることができなくて…。このまま関わっていては、命に危険が及ぶと判断したので、別れることにしたんです…」

「命の危険…」芽傍は噛み締めるように繰り返した。

 望夢は瞳と古い仲ということもあって、聞いていて辛かった。せっかく瞳にぴったりな相手が見つかったと思ったのに…。でも、譲の言う通り、ここは別れるのが無難だ。

「…瞳のために、ありがとうございます」望夢は丁寧に頭を下げた。

 譲は首を振った。「いえいえ!お礼なんてとんでもない!むしろ非難されるべきですよ!というか、まだあの女が近くにいるかもしれないので、お二人も俺のそばにいない方がいいですよ…」

 親切に訴える譲は、本当に悲しそうだった。

 芽傍は望夢の肘を小突いて行こうと合図した。望夢は頷いた。

「お騒がせしました」芽傍はまた頭を下げた。

 望夢も合わせた。

 譲はやはり「いえいえ。こちらこそすみません」と申し訳なさそうに謝った。

 望夢と芽傍は、例の女がいないか警戒しながら渋谷駅まで歩いた。

「とりあえず一安心だな」と望夢は呟いた。とはいいつつも、切ない気持ちの方が大きいためその声には元気がない。

「そうだな」芽傍も同じ心情で返した。

「あ、そうだそうだ!瞳に連絡入れないと!怖かっただろうな!」望夢はスマホを取り出した。

 芽傍は望夢のスマホに手をかけた。「もう少し後にした方が良いと思う。心配なのはわかるが、振られたばかりで落ち込んでいるに違いない…」

「…それもそうだな…」望夢はスマホをしまった。

「すまなかった。僕が勘違いしたせいで事態がややこしくなった」芽傍は申し訳なさそうに言った。

 望夢は首を振った。「気にすんな!結果的に瞳に危険が迫ってたわけだし、譲さんのことも知れてよかった。もう会うことはないけど」

「…どうかな?…これで解決ならいいけど…」

「縁起でもないこと言うなよ。とにかく帰って休もうぜ!カラオケ、楽しかったぜ!」望夢はニヤリとした。

 芽傍は照れを隠すように目を背けた。「…あんなにはしゃいだのは久々だった。楽しかったぞ」

「ははっ!じゃ、またな!」

「じゃあな」

 悲しみと安心感が入り混じる気持ちを抱いたまま、二人は別々の改札を抜けた。




 その日の夜、23時を過ぎた頃。

 望夢は瞳にメッセージを送った。打ち込んでは消して、また打っては消してを繰り返して。よく考えてから送信した。

『大丈夫か?あの後、芽傍と渋谷を適当に歩いてたらたまたまジョーさんにあって、話を聞いたよ。ジョーさんは何も悪くなかった。疑ってごめん。また女に追いかけたて怖かっただろう?どうしても困ったら、いつでも話聞くぞ!』

 この文章で良かったかな?と送ってから不安になる望夢だったが、意外にもすぐにピロンと着信が鳴った。

 望夢は開いて見た。

『ありがとう。あたしも怒り過ぎてごめん。

 うん。悲しいけど、譲はあたしのために振ってくれたから、いつまでも引きずるわけにはいかない』

 望夢はほっとして返信を打った。

『前向きなのは瞳のいいとこだ!今日はゆっくり休みな!夜遅くにごめん』

 と望夢は送った。

 …ピロン。

『大丈夫だよ。ありがとう!』

 望夢はベッドにスマホを置いて寝そべった。きっと瞳は今も泣いてる。自分にも心配をかけないようにわざと前向きを装っているはずだ。でもそれは瞳の優しさ。そう思い、余計に励ましたり、問い詰めるたりはしなかった。

 とにかく、もう終わったのだ。あの男と関わらなければ包丁女の脅威に怯える必要もない。望夢は安心して目を閉じた。




 翌朝。

 いつも通り望夢をいじりながら登校した瞳は、教室の扉を開けた。

「おはよう!大丈夫なの⁈」と玲奈が駆け寄る。

 もちろん例の事件のことだ。玲奈にもメールで伝えていた。

 瞳は無理矢理笑みを浮かべた。「うん!譲とは別れたから、もう追いかけられる心配もないよ!」

「そう…。別れちゃったんだね…」玲奈は残念そうに言った。

 瞳はやはり笑顔で頷いた。「仕方ないよ!譲はあたしのために決断してくれたから!悲しいけど、ありがたく受け止めなきゃ!」瞳は拳を作って気合いを見せつけた。

「そうなのね!なら、うちは応援するよ!」

「ありがと!」

 そのとき、クラスの女子数名が瞳に寄ってきた。

「ねえね瞳ちゃん大丈夫⁈」「何があったのー?聞かせて!」「彼氏ってどんな人⁈」「その女は何者なの⁈」

 いっせいに問い詰める女子群に瞳は困惑し、横目で玲奈を見た。

 玲奈は申し訳なさそうに「…ごめん。1人に話したら、すぐに広まっちゃった…」ち告げた。

 瞳はため息を吐いた。「仕方ないね…。みんな、もう終わったことだから気にしないで!」

「えー!」「気になる〜!」「隠さないでよー!」と女共は大ブーイング。

「はいはい下がって!」玲奈が声を張り上げた。「そんな人に話すようなことじゃないの!瞳の気持ち考えてあげて!」

 広めたのは玲奈、あんただけどね?と瞳は思った。

 女子たちはしぶしぶ諦めて下がった。瞳と玲奈は胸をなで下ろした。

 しかし、これだけでは済まなかった。昼頃にはクラス中に、女子のみならず男子間にも瞳の話は広まってしまったのだ。

 昼休み、玲奈と話す瞳に、男子数名が詰め寄った。鬼頭一味だ。異変に気づいた瞳はキョロキョロと男子らを見回した。

「…何か用?」

 瞳が尋ねると鬼頭は鼻で笑った。「別にー?ただ、とうとうやらかしたんだなーと思って」

「は…?」

 鬼頭はニヤリした。「ビッチ片山がとうとう女の怒りを買ったか!それも包丁を持った女に追いかけるなんてな!」

 男子らは笑った。「こりゃ黒歴史だな!」「ビッチおつ〜!」「遊んでばっかでバチ当たったんだな!」

 瞳の中でメラメラと怒りが燃え上がった。

 しかし先に言い返したのは玲奈だった。「やめなよ‼︎瞳は何も悪くないんだから‼︎確かにちょっと遊び過ぎな感じはあるけど、瞳のせいじゃない!」

 あのー玲奈?庇うならちゃんと庇ってよ。というかあたし遊んでないし!

 鬼頭は玲奈を睨んだ。「どーだかなー⁈片山がコロコロ彼氏変えてたのは有名だからなー⁈」

「ちょっと!彼氏は何人かいたけど、コロコロってほどじゃないよ!平均レベル!」と瞳は言い返す。

 実際、瞳の元カレは譲を含めて3人程度。卒業間際の女子高生なら決して珍しくはない。

「はいはい言い訳は結構!お前みたいな遊び人は懲らしめられないとわかんねーもんな!」

「そうだそうだ!」「男をもてあそぶんじゃねえ!」「どうせ援交とかしてたんじゃね?キモ!」

 口々に言い放つ男共に、瞳は怒りのみならず、悲痛な感情まで湧いた。傷をえぐられるとはこのことだ。

 クラスの女子たちは助けようとしない。見て見ぬふりか、もしくは内心同感しているのだろう。瞳は追い詰められていた。

「いい加減にしなよ‼︎」玲奈は精一杯言い返したが、男共は嘲るだけだった。

 二人は限界だった。黙って堪えるか、ブチギレてこいつらをコテンパンにするかの2択だった。

 しかし、まだ心強い味方が残っていた。

 突然、鬼頭は首を掴まれ、振り向きざまに顔面にパンチを食らった。

「うっ!」鬼頭はよろめいた。

 顔をさすって目線を上げると、芽傍が仁王立ちしていた。

「…謝れよ」と芽傍。

「…なんだと?」

 鬼頭は姿勢を直した。取っ組み合いが始まる!クラスメイトたちは覚悟した。

「謝れと言ってるんだ‼︎」芽傍はさらに命令した。

「イヤなこった!」と鬼頭は一蹴する。

 芽傍は近くにあった椅子を蹴り上げた。椅子はガタン!と床に倒れた。

「何でなんだお前はー‼︎」芽傍はこれまでにない声量で怒鳴った。

 クラスはしんと静まり返った。

「…何でそうやって人を傷つけることばかりするんだ⁈お前に人の心はないのかー⁈」

 鬼頭は鼻で笑った。「俺は気に入らないやつを懲らしめてるだけだ。お前も、本橋も、どいつもこいつもな!つーかお前、しょっちゅう片山の味方してるけど、なんだ?まさか、こいつが好きなのか?」

 クラスメイトたちは息を呑んだ。芽傍は動じず、鬼頭を睨んだ。

「…どうだっていい。…お前にとっては気に入らなくても、みんな一生懸命生きてんだ‼︎…お前はどうだ⁈必死で生きてるのか⁈ただぼんやり生きて、人を痛ぶってるだけじゃないのか⁈」

「なんだと⁈」

 鬼頭は芽傍を殴った。吹っ飛ぶ芽傍。眼鏡が床に転がり落ちた。鬼頭はさらに掴みかかってまた殴った。何度も何度も殴り続けた。

 そこにさらなる救世主が現れた。

「鬼頭‼︎」

 教室中に鳴り響く怒号。一同はいっせいに声の主に目を向けた。

 担任の木下先生だった。いつも生徒には君付け、さん付けの優しい先生が、初めて呼び捨てした瞬間だった。

 木下先生は二人の間に割って入って鬼頭の腕を掴み、二人を引き離した。

「おい!邪魔すんじゃねー」

 と逆ギレする鬼頭の足を木下先生は踏みつけた。

「いってー!」

 尖った靴の爪先が鬼頭の小指にヒットした。鬼頭は「いってえーーー‼︎」と叫んで足を抱えうずくまった。

 教室に戦慄が走った。中でも、芽傍が一番唖然としていた。

「鬼頭!」木下先生は言い放った。「芽傍くんの言う通り!どうして人を傷つけるの⁈いい加減にしなさい!あんたにとってはどうでもいい人たちでも、みんなそれぞれ悩みがあって、乗り越えようと生きてるの‼︎あんたにそんな人たちの気持ちがわかるの⁈」

 木下先生はまっすぐ鬼頭の目を見つめて尋ねた。鬼頭はうつむいて答えなかった。

「あなたがからかってる人たちは、みんなあなたより頑張ってる人たちだから‼︎よく考えなさい‼︎」

 木下先生は鬼頭に背を向けると、芽傍に手を差しのべた。「さ、保健室に行きましょう」

 芽傍はその手を取ると、一緒に保健室に向かった。

 保健室で、木下先生は芽傍の腕に丁寧に包帯を巻いてくれた。芽傍は黙ってその様子を見ていた。

「ごめんなさい…。もっと私が早く来ていれば、こんなことにならなかったのに…」

 芽傍は首を振った。「いえ、充分です。正直、驚きました」

 木下先生はにこりと笑った。「当然よ。あなたもみんなも、大事な生徒だもん。いじめるやつには容赦しないんだから」

 芽傍は申し訳ない気持ちになった。「先生、ごめんなさい。ずっと失礼な態度とってて…」

 木下先生は微笑んだ。「気にしないで。あなたが色々と抱えてたのは知ってたけど、私も理解するのに時間かかっちゃって。教師なら、もっと教え子のこと見極められないとね」

 木下先生はチョキっと包帯を切って机に置いた。「これでよし!まだいられる?キツかったら帰ってもいいのよ?」

「大丈夫です。最後までいます」

「さすが、立派ね!大学も無事に受かったことだし、頑張ってね!」

 芽傍はぎこちなく頷いた。

 教室に戻ると、瞳が駆け寄ってきた。

「芽傍くん!ごめん‼︎ほんとにごめんね‼︎」瞳は手を合わせて何度も謝った。

 玲奈も隣で頭を下げた。

「気にするな。自分でしたことだ。鬼頭にも良い薬になっただろ」

「そうかも。本当にありがとう」瞳は芽傍の手を両手で握って見つめた。

 芽傍は照れ臭そうに目を逸らした。

 そんな二人を見て、玲奈はドキドキしていた。




 その日の放課後。すっかり暗くなり、部活を終えた生徒たちが下校する時間。瞳と玲奈は二人で校門に向かって歩いていた。

「じゃあね!お疲れ瞳!」

「お疲れ様!また明日ね!」

 瞳は手を振って離れ、久米沢駅に着いて電車に乗った。揺られること約1時間。尾長駅で降りて無事家にたどり着いた。

 瞳は家に入るとすぐに鞄を置き、お風呂に入った。そしてパジャマに身を包むと2階の自室のベッドにダイブした。

「今日もお疲れ様!あたし!」

 そしてスマホをいじろうと取り出したとき、前からやろうと思っていたある作業を思い出した。

 瞳はSNSを開くと、譲とのやり取りを開いた。そしてついつい見返すあの日々のやり取り。ふざけあったり、相談したり相談に乗ったり、デート前に連絡を取ったり。何不自由ない充実した毎日だった。しかしそんな彼とは、もう会うことはない。

 瞳はゆっくりとした指遣いで譲とのやり取りを削除した。大事な思い出だが、残っていると見る度に思い出して辛くなる。

 瞳はスマホをベッド上に放り投げた。そして自分を抱きしめるように両手で両二の腕を掴み、膝を曲げた。無意識に涙が出ていた。

 …譲。あなたは完璧だった…。

 瞳は目を閉じた。…その瞬間。

 ゴンッ!

 と鈍い音が部屋に響いた。瞳はビクッ!として飛び起きた。

「何⁈」

 瞳は部屋を見回した。当然誰もいない。外で何かが倒れたのだろうか?と思って外を覗こうと窓ガラスに顔を近づけると、その異変に気がついた。ガラスにヒビが入っている…⁈

 ゴンッ!と瞳の顔面に向けて石が飛んできて、窓のヒビを大きくした。

「ヒャッ‼︎」瞳は飛び退いてベッドから落っこちた。

 …恐る恐るベッドに這い上がって外を見下ろすと…。瞳は驚愕した。

 あの女が…包丁女が、地上から瞳を見上げていたのだ。

 瞳は慌ててカーテンを閉め、窓から遠ざかって部屋の壁に背中をつけた。その後も窓ガラスから鈍い音が数回立てられた。

 瞳は恐怖に震え、スマホを手に取った。そして電話履歴を調べた。譲との通話履歴はまだ消していなかったのだ。瞳はその履歴をタップして譲に電話をかけた。

 プルルルル…

 ゴンッ!

 プルルルル…

 ゴンッ!

 交互に鳴り渡る呼び出し音と窓に石が当たる音。

「譲!お願い‼︎出てよ‼︎」

 しかし呼び出し音は延々となり続ける。瞳は恐怖のあまり、声にならない叫びを上げて耳を抑えた。




 翌朝。この日は曇り空だった。

 学校に行く準備を整えた望夢は時間ギリギリまでスマホをいじっていた。すると…。

 ピロリン!

 SNSの通知が鳴り、望夢はすぐに確認した。瞳からだった。

『もう家出ちゃった?まだなら、迎えに来てくれない?』

 望夢は不思議がった。急にどうしたんだ瞳?自分に迎えに来てほしいなんて、いつからこんな寂しがり屋になった?望夢はクスッと笑って返信を打った。

『いいけど笑

 どうした急に?』

 瞳からは『ありがとう』とだけきた。

 なるほど。これは話せない事情があるか、単純におれに甘えたいのどっちかだな?どう考えてもも後者はなさそうだから、前者だろう。

 望夢はスクール鞄を肩にかけて家を出ると、瞳の家に向かった。望夢が玄関前に立つと瞳はすぐに出てきた。

「おはよ」

「おう」望夢は見た瞬間に察した。いつもより元気がない。何かあったに違いない。

「来てくれてありがとう。行こう」瞳は歩き始めた。

「う、うん」望夢は附に落ちないまま後ろを着いていった。

 いつもお喋りな瞳なのに、今日は話そうとしない。

「…なあ、大丈夫か?」望夢は思い切って尋ねた。

「…うん、大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」

 瞳は望夢に顔を向けず、首を振って無事を強調した。

 …ダメだあたし。こんな暗い顔してたら返って心配させちゃう。元気をアピールしなきゃ!

「そうか…。ならよかっー」

「えいっ!」瞳は突然振り返って望夢をどついた。

「ってえー⁈」

「駅まで競争!よーいドン!」

 と言って瞳は全速力で走り出した。

 望夢はキョトンとしたがすぐに走って追った。あの落ち込んだ様子はただの演技だったのかよ⁈ちくしょー心配させやがって!

 二人は電車に駆け込んだ。

「はぁ…はぁ。ったくお前はほんとおふざけが過ぎるぞ!」望夢は優しく頭にゲンコツした。

 瞳は笑った。「えへへへ。騙されてやんのバーカ!」

 …よかった。上手くごまかせた。

「朝、急に向かいに来てなんて言うから心配したぞ!」と望夢は優しくマジギレした。

「まさか聞いてくれるとは思わなくてー!でも意外に聞いてくれたから迎えに来てもらっちゃった!てへっ!」

 もちろん、本当は例の女を警戒して迎えに来てもらったのだ。

「このヤロー!男に恥かかせやがって!」

「え?なに?あたしが寂しくてあんたに甘えてると思った⁈ごめーん、それはありえないから!」

 ケラケラ笑う瞳に望夢はイラッとしながらも、冗談を言えるくらい元気を取り戻したのだと安心した。

 しかし作り笑顔の奥で、瞳は怯えていた。

 …駄目。やっぱり望夢には言えない。芽傍くんにも。二人とも助けてくれようするから、危険に晒しちゃう…。二人に頼らずどうにかしなきゃ。望夢、お迎えありがとう。




「ありがとうございました!またお越しくださいませ!」

 西川譲はレジで頭を下げてお客を見送った。

 その直後、また入店音が鳴った。

「いらっしゃいま…せ?」譲は唖然とした。

 入店したのは瞳だった。制服姿だ。学校終わりにまっすぐ譲のバイト先へ向かったのだ。

 譲は顔をしかめた。「…もう会わないと約束したはずだ!」

「ごめん。電話何回鳴らしても出てくれなかったから、来たの」

「俺といると危険だ!早く帰るんだ!」

 瞳は首を振った。「そうじゃないの!」

「なに?」

「会わなければ解決ってわけにはいかなかったの。あの女、昨日家に来たの…」

 譲は息を呑んだ。

「…窓に何度も石を投げられた」瞳は思い出すだけで泣きそうになった。

「…じゃあ、彼女の狙いは俺じゃなくて、君だったのか…⁈」

 瞳は頷いた。「だからどうにかしたい。今時間大丈夫?」

 譲は厨房を振り返ると、小走りで駆け込んで「休憩入ります!」と声をかけた。

 そして二人は店の裏で話し合いを始めた。

「…訳がわからない。どうして瞳を恨むんだ⁈それにどうして家の場所を知ったんだあいつは⁈」譲は取り乱していた。

「わかんない…。でも知られた以上、そんなこと気にしてられないよ!あの女を捕まえたい!もう脅かされるのはうんざりなの!だから譲、手伝って!」

「もちろんだ!こうなったのは俺の責任だ。できることは何でもする!…いや…本当にごめん、こんな目に遭わせて…」

 譲はうなだれた。瞳はそんな譲を優しく抱きしめた。

「譲のせいじゃない。すべてあの女が悪い。二人で解決しよ?そしたらまた寄りを戻せるでしょ?」

 譲は目で頷いた。「…そういえばそうだな。彼女をどうにかすれば、俺たちは問題なく付き合える!」

 瞳は笑顔になった。「じゃあ頑張ろう!ねえ?あの女と連絡取れないの?譲から説得するなんて、無理?」

 譲は残念そうに首を振った。「彼女と別れた後、連絡先を全部削除したんだ。こっちから連絡は取れない。というか、仮に説得したとしても、素直に聞くような性格じゃないよ」

「そっか。…じゃあどうすればいいかな?譲、付き合ってたなら、あの女の弱点とかわからない?」

「弱点か…。彼女は耳を舐められるのに弱…」

「そういう弱点じゃなくて!てゆーかそんな関係までいってたの?」瞳は目を尖らせた。

「ごめんごめん。今のは聞かなかったことにして。えーと、言うまでなく彼女は嫉妬深い。俺が他の女と話してるだけで嫉妬して、自分以外の女とは話すなって言う性格だった」

「束縛が強かったのね」

「ああ。あと、言葉が汚くて、すぐに連絡くれなきゃ殺すぞとか、無視したら死んでやるとか、脅迫めいたことをよく言われたなー」

「つまりヤンデレか…こわ」瞳は身震いした。

「それだけじゃない。SNSはぜーんぶ監視されてた。学生の頃の同級生と撮った写真に女が写ってたら文句言うし、1日でも呟かない日があれば生きてる?って聞いてきたな」

「めんどくさ!」

「そうなんだよ!別れてから繋がりは断ったけど、きっと今もSNSは見られてるよ…!そうだ‼︎」譲は掌に拳を打ちつけた。

「どうしたの⁈」

「SNSを使えば、彼女を誘き出せるはずだ!」

「え⁈誘き出しちゃうの⁈」

「だから、あらかじめ警察に話しといて、彼女を誘き出して捕まえるんだ!」

「そっか!なるほど!それいいかも!」と賛同するも、瞳は首を捻った。「でも、本当にSNSで呟いて来るの?」

「確実に来る!瞳のアカウントもきっと見られてるよ?これまで彼女に追いかけられたとき、俺か瞳のどちらかが場所を特定できるような投稿をしてた。そうじゃないか?」

「あ!そ、う、い、え、ば!」瞳は思い返した。たしかに、渋谷で夜を過ごしたときも、カラオケに行ったときも、その場所の画像をSNSに上げていた。

「だろ?じゃあこれで決まりだ!彼女を誘き出して警察に確保してもらう!」

「オッケー!上手くいきそう!」瞳はガッツポーズして気合いを見せつけた。

「じゃあ、いつ決行する?」

「早い方がいい。明日でも、今からでも!」

「じゃあ、今夜にしよう。19時に仕事が終わる」

「そしたら、あたしは警察に事情話しておくね!絶対に成功させようね!」

 二人はまた抱擁して成功を誓い合った。




 …夢の中。

 望夢はある女性と手を繋いで草原を走っている。女性の顔は見えないが、風になびく髪から爽やかな香りが溢れ出ている気がした。望夢は幸せな気分だ。

 しかしお約束、いつまでもその幸せは続かなかった。徐々に景色は暗くなり、明るい草原がどんよりとした暗黒に飲まれていった。そして望夢は恐怖にかられた。

 手を握っていた女性がゆっくりと振り向く。望夢の鼓動が早くなる…。

 女性の顔は髪で隠れて見えない。その代わりに、女性は右手を掲げた。その手には、包丁…!

 望夢は慌てて駆け出した。女は「うー!うー!」と唸り声を上げながら追いかけてくる。望夢はさらに足を速めた。どこまで暗闇の中を突き進んだ。

 そしてあるところで見えない壁にぶち当たった。

「いてっ!」

 跳ね返って尻もちをつく望夢。両手を伸ばして前の見えない壁に触れる。逃げるのは無理と悟って振り返ると、女はすでにそこに立っていた。

 女が包丁を振り上げる。目を見開く望夢。そして振り下ろされる包丁…‼︎

 そこで夢が切り替わった。

 望夢はゆっくりと目を開いた。自分の頭から生えた長い髪が耳を隠すように肩にかかっていて、足元を見ると自分の膝下が剥き出しになっている。その姿は女だった。また望美になっていた。

 いきなり望夢は後頭部と背中を強打した。目の前には自分の胸ぐらを掴む川浦夏美が睨みつけていた。

『これ以上木晒くんに媚び売ったらただじゃおかないから!』

 視界がボヤけると次の瞬間、望夢はかわいいワイシャツとスカートに身を包んでいた。隣には憎き男(正確には男ですらない)、木晒悠斗が歩いている。

 すると今度は頭から水をかけられ、スカートは切り刻まれた。望美は『いやっ!』と叫んだ。川浦の満足そうな笑い声が聞こえる。

 望美は恐怖に怖気づき、真っ逆さまに落っこちていった。

 望夢は飛び起きた。

 自室のベッドの上。制服を着たまま寝落ちしていた。疲れていて、帰るや否やベッドに寝転んだらこの有り様だ。心臓は激しく打っており、大量に汗をかいていて、鼓動は猛スピードで脈打っていた。ただの夢なのに、異常だ。

 …何かがおかしい…。

 なぜこんな夢を見たんだ?瞳はもう安全なはずなのに、どうしてあの女が?それに女になり変わったあの日の夢まで…。

 望夢は汗を拭って、気分を切り替えようとスマホを手に取り、SNSを開いた。まず、川浦のアカウントを覗いたが、平凡な呟きばかりしていた。例のタチの悪い裏垢は探しても出てこないため、消されたのだろう。なんだ、問題ないじゃないか。何であんな夢を今さら?

 次に、望夢は瞳のアカウントを覗いた。そして、とんでもない呟きを発見した。

『このあと19時から譲と渋谷でお出かけ!久しぶりで楽しみ!』

 何してんだあいつ⁈もう会わないって決めたんじゃないのか⁈もしまたあの包丁女が現れたら…‼︎

 …⁈

 そう思った瞬間、望夢にある疑念が生まれた。さっきの夢は、ただの夢じゃない!

 望夢は急いで芽傍に電話をかけた。

「頼む!出てくれ!早く!」とスマホを急かす望夢。

 芽傍はその気持ちに答えた。『本橋?どうした?』

「芽傍!瞳のやつ、西川譲と出かけるって呟いてやがる!」

『ほんとか⁈』いつも冷静な芽傍も声を張り上げた。

「ああ!あと、あることを思い出したんだ!おれが女になったときのこと!あのときおれは、川浦に対抗して木晒をデートに誘い込んだんだ!」

『あの亜久間が化けてた男か。それがどうした?』

「つまり、おれは川浦に嫉妬してたんだ!それに川浦もおれに嫉妬して痛めつけてきた!」

 少し間をおいて、芽傍はこう解釈した。『つまり、恋愛沙汰の女の嫉妬は、恋敵の女に向けられるってことか?』

「そういうこと!だから、あの包丁持った女の狙いは西川さんじゃなくて…」

『片山の可能性もある。だとしたら、今もあの女が片山をつけ狙ってる可能性がある…⁈』

「そういうことだ!」

 二人は電話越しに背筋を凍らせた。

『…片山は⁈どこで西川譲に会うつもりなんだ⁈』

「今日の19時、渋谷だってよ!」

 望夢は時刻を確認した。19時30分!

「てかもう過ぎてるじゃねーか‼︎」

『まずい‼︎今から渋谷に向かう‼︎渋谷なら僕の方が近い!』

「頼む‼︎おれも今から向かう‼︎瞳の場所がわかったら連絡してくれ‼︎」

『わかった!』

 望夢はスマホをポケットに突っ込むと、財布と定期を掴んで家を飛び出した。




 19時50分。渋谷のとある公園。以前、瞳が初めてあの女に追いかけられたあの公園だ。

 瞳と譲は手を繋ぎ、緊張を噛み殺して待っていた。

「来るかな…?」瞳は別の意味で不安になった。

「来る…はず!」と譲は答えたものの、もう希望を失いかけていた。

 二人のそばに警官が一人近づいてきて、こう言った。

「張り込んでからもうすぐ1時間経ちますが、一向に怪しい者の気配はないですね」

 二人は頷いた。

「…すみません。確実に来ると思って…」譲は申し訳なさそうに言った。

 そのとき、警官の通信機が音を立てた。

「…はい?…わかりました!」警官は応答すると、二人にこう告げた。「済みません、別の事件が起こったので、そっちに向かいます!」

「仕方ないね…」瞳は残念そうに譲に言った。

 譲も頷いた。「どうぞ行ってください!」

 もともと物騒な町だ。どこで事件が起こってもおかしくない。来るかどうかわからない人物を待ち伏せるよりも、リアルタイムで起きている事件を優先するのは当然のこと。

 警官は会釈した。「すみませんね。落ち着いたらまた様子を見にきます」

 二人も頭を下げた。

 警官は少し離れた場所に止めていたパトカーに乗ると、サイレンを鳴らしながら走り去った。

 風ひとつない静寂が二人を包んだ。心の底から求めていたわけではないが、煮え切らないしらけた空気が公園を満たした。

「…来なかったね…」瞳は言葉が思い浮かばず、言うまでもないことを放った。

「来なかったね…」譲もしかり。「…帰ろうか。また今度、チャンスを伺おう」

 と言って譲は立ち上がったが、瞳はその手を引くようにして立ち上がった。

「待って!せっかくだしどっか行かない?あの女が来ないことはわかったんだし、今日は安心して遊べるじゃん!」

 瞳は満面の笑みで提案したが、譲は首を振った。「よしておこう。時間が経ってから来る可能性もあるし、俺と一緒にいるのをお友達は良いと思わないだろ?」

「それは…たしかに。そうだね…」瞳は認めた。ここは速やかに解散するのが賢明だ。

「じゃあ、また今度。会えたら」譲は悲しそうに別れを告げた。

「じゃあね。また会おう。必ず!」

 二人は抱き合おうとして手を広げたが、譲はそのまま硬直した。そのまま顔が恐怖に染まる。

 瞳は恐る恐る振り返った。そして嫌な予感は的中した。

 あの女が現れたのだ。全身黒い服に身を包み、手にはお供の包丁をしっかり握っている。

「逃げよう!」譲は瞳の手を引いた。

「もうまたー‼︎」瞳は恐怖のデジャブに嘆いた。

 二人は人の多い通りを目指して逃げた。毎度のこと、足が速い二人は難なく女を撒くことができる。今回も二人はどんどん女との距離を広げ、振り返ると女の姿は豆粒ほどに小さくなっていた。

 このまま駅に走って電車に乗れば逃げられる、と瞳は思った。しかし、譲は突然立ち止まった。

「何してんの⁈早く逃げよう‼︎」

 譲は背後の女を見つめると、何か思い直したような顔で瞳に向き直った。「ここで迎え撃とう!」

「え?」

「もううんざりだ!これ以上逃げてたまるか!一生追いかけてくるならつもりなら、ここで決着つけてやる!どうだ⁈」

 譲の決意に、瞳は共鳴した。「そうだね!でも、どうするの?」

「俺が時間を稼ぐ。ここで彼女を待ち受けて説得するフリをする。瞳は逃げたように見せて、少し離れた場所で110番してくれ!」

「わかった!気をつけて!」

 瞳は走りながらスマホを取り出した。

 譲は振り向いて女を待ち構えた。

 女は譲の前、10メートルほど間隔を空けて止まった。

 譲は深く息を吸い、落ち着きを保って語り始めた。「もうこんなことやめよう。不満があるなら話は聞く。彼女には手を出さないでくれ!」

 女は生気を失ったような目で譲を見つめた。

 その頃瞳は。

「事件です!さっき警察の方に待ち伏せに協力してもらった片山です!警察官が離れた直後に包丁を持った女が追いかけてきました!場所は…」

「うわーーー‼︎」

 突然聞こえた叫び声に、瞳はびっくりしてスマホを落っことした。譲の声だ!

 瞳は急いでスマホを拾い、譲がいた場所に戻って見ると、衝撃的な光景が待ち受けていた。立ち尽くす譲を抱きしめる女……一見そう思えたが、そうではなかった。女は譲を引き離すと、譲はマネキンのように身動きせず、地面に倒れた。女の持つ包丁と真下の地面が赤く染まっている。

 瞳は悲鳴を上げた。

 周囲にいた人々が慌てふためき、逃げ始めた。

『…もしもし?もしもし⁈大丈夫ですか⁈』電話先の警官が必死に尋ねる。

 倒れた譲が逆さまの状態で瞳を見た。「…瞳…にげ…ろ…」

 女はギロリと瞳を見ると、包丁を見せつけるように掲げ、一目散に走ってきた。

 瞳は譲に駆け寄りたくて仕方なかった。しかしこのままでは自分もやられてしまう。瞳は一瞬で逃げる選択を選んだ。

 逃げながら、スマホを耳に当てた。「友達が刺されました‼︎救急車を呼んでください‼︎ 公園から南の通りです‼︎今女から逃げてます‼︎パトカーもよこしてください‼︎」




 その頃。芽傍は渋谷駅を出て周囲を見回した。そして歩きながら望夢に連絡を入れた。

『渋谷に着いた。片山を探す』

 芽傍は瞳のSNSのアカウントを見てみたが、19時に譲と会うという呟きが最後になっていた。

 とりあえず、前回行ったカラオケの辺りを見てみようと思い、芽傍はそこに向かった。

 その道中、人混みができていた。急いでるのになんて騒ぎだ?

 芽傍は人かき分けながら道を進んだ。何事か気になったので人同士の隙間から確認すると…驚愕した。

 人が血を流して倒れている……まさか…‼︎…西川譲だ!

 芽傍は人を押しのけて犯行現場に立ち入った。警備員に近づくなと指図されたが、「知り合いだ‼︎話させてくれ‼︎」と無理やり譲のそばに行った。

「西川さん!どういうことですか⁈」

 譲はゆっくりと芽傍を見た。「…芽傍さん…瞳は…追われて…」

 片言だが芽傍はすべて察した。「片山が例の女に⁈二人はどこへ⁈」

 譲は二人が走った方向を指差した。「…瞳を…助けて…くれ…」

 芽傍は頷いた。「僕が必ず助けます‼︎どうか無事でいてください‼︎」

 芽傍は走り出した。走りながら望夢に電話をかけた。

「何だって⁈」詳細を聞いた望夢は電車内で仰天した。

「まずい事態だ…‼︎今片山を探してる‼︎早く来い‼︎この前のカラオケの通りを西にまっすぐだ‼︎」

「わかった‼︎すぐに向かう‼︎」

「ああ‼︎」

 芽傍が電話を切ると、望夢は早く早くと電車を急かした。

 …ったく‼︎何でいつも面倒くさい問題ばかり起こるんだ‼︎

 望夢は電車の壁を殴った。いつも問題が起こるときは大抵亜久間が関わっているが……もしや今回も?…

「違うわよ」と背後から亜久間の声がした。

 望夢ははっとして振り返った。亜久間が電車同士を繋ぐ扉に寄りかかっていた。

 望夢はすがるような目で亜久間を見つめた。「…もしお前の仕業じゃないって言うなら、瞳のこと助けてくれよ!あの女を止めてくれよ‼︎」望夢は訴えた。

「それはできないわ」亜久間は悲しそうに答えた。

「何でだよ⁈」

 亜久間は首を振った。「もうすぐわかる。これこそが、彼の望んだ“運命”だから」

「運命…?彼って?…芽傍か⁈」

 亜久間は頷いた。

 望夢は理解できなかった。「何が運命だよ‼︎相手は包丁を持った女だぞ‼︎譲さんはすでに刺されてて、このままだと瞳も芽傍も、やられるかもしれないだろ‼︎お前天使なんだろ⁈だったら二人を助けてくれよー‼︎」

 望夢は周囲を気にせず怒鳴っていた。

 亜久間は暗い表情で望夢を見つめて答えた。「そのつもりよ。二人とも助けるつもりよ」

「本当か⁈じゃあ二人とも無事なんだな⁈生きて帰れるんだな⁈」

「そうとは言ってない」亜久間はあっさり返した。

 望夢は混乱した。「…じゃあ、どうなるんだよ⁈瞳は⁈芽傍は⁈」望夢は亜久間の肩を掴んで問い詰めた。

「あの二人にとって、一番良い運命を迎えるわ」

 ここで望夢の頭に、芽傍の話がフラッシュバックした。…まだ死ぬときじゃない…使命がある…やること済んだら死なせてやる…。芽傍が亜久間から伝えられた言葉の数々。それらが意味するのは…‼︎

「…おい…まさか…まさかな!…芽傍が死ぬなんて言うなよな⁈」望夢はさらなる不安を覚えた。

 亜久間は答えない。

「あいつは、やっとまともに関われるようになったんだぞ⁈おれや瞳と、一緒に生きる希望を見つけられるかもしれないんだぞ‼︎」

 亜久間は首振った。「あなたは自分のできることをしなさい。これはゆう自身が決めたことなの」

 望夢の目が凍りついた。…芽傍が、自ら死を選んだだと…⁈

 望夢はまた亜久間の肩を掴んだ。「なあ!頼む‼︎あいつを生かしておくことはできないのか⁈なあ⁈天使だろ⁈おれが生きていけるよう後押ししたみたいに、芽傍だって助けてやれるよな⁈おい‼︎」

 電車がホームに入り、減速していった。

 亜久間は望夢の肩を掴み返し、勇ましい目で見つめた。望夢は動揺した。

「…とにかく瞳ちゃんのもとに向かいなさい。それからの展開はあなた自身で見なさい。ちゃんと真実を伝えるから」

 亜久間は消えてしまった。望夢は彼女を掴んでいた手を見つめ、握りしめた。

 電車の扉が開くと同時に、望夢は駆け出した。




 瞳は古びた倉庫のような建物のシャッターをくぐり、中に逃げ込んだ。そして木箱の後ろに隠れた。瞳自身、ずっと走っていたため体力の限界が来ていた。ここにしばらく隠れていればやり過ごせるかもしれない。そう願おう。

 瞳はスマホを開いた。通知がいくつか来ているので見ると、望夢と芽傍からだった。二人とも譲と会うという呟きを見て心配したようで、『何してる?危ないぞ!』、『あの女がまだ狙ってるかもしれないから気をつけるんだ!』と注意を促している。瞳は返信しようとしたが、打つのをやめた。二人を危険に巻き込みたくない。

 瞳はスマホを閉まって深呼吸した。どれくらい隠れていれば安全だろうか?女がまだ近くにいるとしたら迂闊に出ない方がいい。いや逆に、ここから離れているとすれば、今のうちに駅に逃げて電車に乗り込めばこっちのもんだ。…いやいや、あの女は自分の家を知っている。家に帰れたところで後々やってくるだろうし、むしろ、今自分の家に向かって待ち伏せを図っているとしたら…?

 どうしたいいの…‼︎瞳の目から涙が溢れた。どうしていいかわからないし、譲は今頃…

 瞳は涙を拭ってもう一度冷静に考えた。ここに警察を呼ぼう。譲が刺されたのだから、こうなれば本格的に調査してくれるはず。

 瞳は再びスマホを取り出し、番号を打った。1、1、…

 バリッ‼︎

「きゃっ‼︎」

 突然、木箱に刃物が振り下ろされ、鈍い音を立てた。瞳は飛び退いた。

 女が木箱の向こうから包丁を下ろしていた。わざと瞳を驚かしたようだ。口角が上がっている。

 女は包丁を抜くと、瞳に迫った。瞳は下がって下がって、壁に背中をつけた。この倉庫には前のシャッター以外に出入り口が見当たらない。つまり逃げ場がない。追い詰められた。

 女は叫びながら包丁を振りかざしてきた。瞳は横によけ、積んであるダンボールやガラクタを女に投げつけた。これには牽制の他にもう一つ目的があった。物をどかせば、どこかにくれた扉や裏口が現れるかもしれない。瞳は一心に物を掴んでは女に放り投げた。女は唸りながらうろたえた。

 手当たり次第に物を投げ、とうとう投げ切った瞳だったが、結局逃げ道は見つからなかった。物をどかした向こうは一面、コンクリートの壁であった。

 瞳は絶望して膝を着いた。

 …もうお終いだ…あたしはここで殺されるんだ…

 瞳はうつむいて何度も、ごめんなさい!ごめんなさい!と唱えた。

 女はそんな瞳にじわじわと歩み寄った。そして真正面で立ち止まると、包丁を掲げ、振り下ろした…‼︎

 瞳は身構えたが、痛みが走ることはなかった。恐る恐る顔を上げると、そこには…‼︎

 芽傍が立っていた。瞳と女の間で、瞳を庇うように立っている。彼の胸には包丁が深く突き刺さっていた。

「芽傍くん‼︎」瞳はこれまでにない叫び声を上げた。

 芽傍は包丁の柄を握る女の手を掴み、包丁を抜かせないようにした。そして苦しそうな声でこう言った。「…もぅ…やめ…ろ……だれ…も…傷…つけ…る…な…」

 瞳は無言で見つめた。女も声を上げなかった。

 その沈黙を、駆け足の足音が破った。

「二人から離れろー‼︎」

 望夢は掛け声とともに女に蹴りをお見舞いした。女はすっ飛び、包丁がゴトンと落っこちた。芽傍は力が抜けたように倒れた。瞳は芽傍を受け止めた。

 芽傍の胸から滴る血。望夢はこのとき彼が刺されていたことに気がついた。

「てめー‼︎よくも芽傍と瞳をー‼︎」

 望夢は容赦せず女を殴った。何度も何度も、気が済むまで殴り続けた。

 女はとうとう地面に伸びて動かなくなった。

 望夢は振り返った。瞳の腹部に頭を乗せて力尽きる芽傍。瞳は必死で声をかけた。

「芽傍くん‼︎芽傍くん‼︎お願い‼︎死なないでー‼︎」

 望夢は駆け寄った。芽傍の胸から絶え間なく流れ出る血が彼の最後を物語っている。…遅かったか…

「止血しないと!」望夢は芽傍の胸を抑えた。「とりあえず寝かせろ!楽な姿勢で!」

 瞳は芽傍を優しく地面に寝かせた。そしてスマホを取り出した。「救急車呼ぶね!」

「頼む!」

 瞳は二人から少し離れた。「…すみません、友達が刺されました!包丁を胸に刺されたんです!息はありますが…」

 望夢は流血を抑えるように芽傍の胸に手を添えた。「頑張れ‼︎まだ死ぬなよ‼︎」

 芽傍は微かに頭を振って見せた。「…無駄だよ…」

「何言ってんだ‼︎諦めるな‼︎」

「諦めてるんじゃない…受け入れてるんだ…」

 望夢の瞳孔が開いた。

 芽傍は望夢が添える手を握った。「…こうなる運命だった…。いや…亜久間が…こうなるようにしてくれたんだ…」

 望夢は必死に首を振った。「何でだよ⁈何で死を受け入れたんだよ⁈」

 芽傍は深く息を吐いた。「…僕がした契約は…自分の死を有意義にするものだった…。…亜久間がいなかったら…命を無駄にしていたよ…」

 望夢の目頭が熱くなった。「…無駄じゃない!…お前の命は無駄なんかじゃない‼︎」

 雫が芽傍の手に落ちた。

「…片山…瞳を守れた…。それに…友達も作れて……短かかったけど…生きてて良かった…」

 芽傍の握る手から力が抜けていった。望夢はその手を強く握り返した。

「…友達…ああ!おれたちは友達だ…!親友だ…‼︎」

 望夢は涙が止まらなかった。

 瞳は電話を切ると望夢の向かい側に膝を着いた。「今救急車が来るからね‼︎」

「はー…」芽傍は脱力するように息を吐いた。

「…やだよ…」瞳も目を潤ませた。「死なないで…ごめんね…あたしのせいで…」

 瞳は涙を拭った。

 芽傍は瞳を見た。「…気にするな…。瞳が無事で、嬉しい…限りだ…」

 芽傍は苦しそうに咳をした。望夢と瞳は、芽傍の手を強く握った。

「…望夢…」芽傍は声を絞り出した。「瞳のこと…大事にしろ…ょ……」

 望夢は大きく頷いた。「ああ‼︎絶対大事にする‼︎ありがとよ…‼︎」

「こちら…こ……」

 芽傍は、ゆうは目を閉じた。彼の胸に添えていた二人の手に伝わっていた鼓動は次第にゆっくりになり、ついに途絶えたのだった。




 気がつくと、ゆうはこの光景を見ていた。倒れる自分と、それを見て泣き崩れる望夢と瞳。

 …この世ともようやくおさらばか…。さようなら。

 すると見る見る景色が光に包まれ、ゆうは眩しさに目をつぶった。しかしそれは一瞬で、すぐに視界が見えるようになった。

 ゆうの前に女性が立っていた。見覚えはないが、ゆうはすぐに誰だかわかった。

「…母さん⁈」

 女性は頷いた。「待ってたわ。ずっと、会えるのを」

 母親はにっこり笑った。

 ゆうの心がうずいた。「…母さん。母さんは、僕を捨てたわけじゃなかったんだね…?」

 母は頷いた。「ええ。お父さんが話した通り。最初は望まずしてあなたができたの。ごめんなさい。本当に反省してる…。でもね、あなたが私の中で大きくなっていくに連れて、産みたいって思うようになったの。産んだときは、育てようって決心したわ!」

 母はゆうを抱きしめた。ゆうも抱きしめ返した。

「…一緒にいてあげられなくてごめんね!寂しい思いをさせてごめんね!これからはずっと一緒よ!」

「母さん…」

 抱き合う二人のもとに、亜久間と、アジェ、メモリーが現れた。三人とも祝福の笑みを向けている。

「よく頑張ったわ、ゆう」亜久間は讃えた。「あなたとの契約は完了したわ。もう自由よ」

 アジェは祝福と歓迎を込めて会釈し、メモリーはにっこりして「お疲れ様でした」と告げた。

 ゆうは頭を下げた。「…自由か…。ありがとう。感謝する」

 母親も深く頭を下げた。「ありがとうございました」

 待ちに待った親子の再会。幸せに満ちたこの情景は、延々と続いたのだった。

自らの命で瞳を救った芽傍は、生きていてよかったと自身の死を受け入れ、望夢を親友と認めて息を引き取った。そして天界で母親と再会し、亜久間から契約完了を告げられるのだった。

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