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愛レス  作者: たけピー
7/10

犬は愛の象徴よ

大地震が起こり、本橋家の飼い犬アミがいなくなり、見つけた頃には原因不明の死を遂げていた。これも亜久間の計らいだと知った望夢は憤る。これをきっかけに、家族は崩壊の危機に直面する…。

7 犬は愛の象徴


『全校生徒!机の下に隠れなさい!体育館、校庭にいる生徒は、中央に集まってじっとしていなさい!』

 けたたましく鳴り響く校内放送。ガタガタと激しく揺れる校舎。恐怖で机の下に固まる生徒たち。震度7の大地震が東北から関東一帯を襲ったのだ。

 揺れ続けること数十秒。揺れがようやくおさまったが、『まだじっとしていなさい!』と指示があり、生徒たちは身を潜めていた。

 3年A組の教室にて、望夢は町がどんな状態か気になり、我慢できずに立ち上がった。「やばっ!あの古い家半分崩れてる!」

『じっとしていろと言っただろ!』

 見透かしているように怒号する放送。望夢はドキッとして机の下に戻った。が、やっぱり気になって頭だけ突き出して外の様子をうかがおうとした。

『頭も出すんじゃねえ!』

 さらなる怒号で望夢は諦め、じっとした。

 安全が確認できたところで、『先生の指示に従って速やかに校庭に避難しなさい!』と指示が出た。

 生徒たちは慌ててざわざわし始めた。

「みんな!名簿順に並べ!余震があるかもしれない!グズグズするな!」源先生は落ち着いて指示を出した。

 避難する生徒でごった返す校内。あっという間に生徒で埋まっていく校庭。

 生徒が全員集まったところで、校長は、どこでどれほどの地震が起き、どれほどの被害が出ているのか現状を説明すると、しばらく校庭にじっとしていなさいと指示した。

 不安で仕方ない生徒たちは仲良し同士で集まって気分を紛らわせた。

 望夢は独りでキョロキョロしていると、校門から救急車がサイレンを鳴らして入ってきた。

 そのとき、「望夢ー!」

 振り返ると、瞳が走ってきた。

「無事でよかった!」

「おう!お前は大丈夫か?」

「うん!でも、芽傍くんが大怪我して…」

「え⁈」望夢は仰天した。「芽傍が⁈どうなった⁈」

「地震が起こったとき、うちのクラス化学の授業で実験室にいたの。芽傍くんがいた場所、実験道具をしまった棚の前で、それが芽傍くんに倒れてきて…」瞳はそのときの恐怖がまだ抜けていないようで、言葉を詰まらせた。

「じゃあ、あの救急車が…」望夢は指差した。

「そう。今、木下先生がそばで見てる」

 救急車から出てきた男たちは急いで校舎に入ると、数分で芽傍を担架に乗せてきた。

 二人は救急車の近くに行こうとしたが、先生たちが軌道を確保して生徒が集まるのを妨げていた。

「みんな下がれ!」

「見せ物じゃない!じっとしてろ!」

 望夢は首を伸ばして芽傍の様子をうかがった。そしてその姿に驚愕した。全身傷だらけの痣だらけで、血で染まった包帯から出血もしているのがわかる。C組の担任の木下先生がずっとそばについて声をかけている。

「芽傍くん!しっかりして!頑張って!」

 木下先生は救急隊に詳細を告げた。実験道具を置いた棚が崩れて下敷きになり、おまけに棚にあったビーカーや試験管の破片で切り傷を負ったという。自分で動くことはできないが意識はあり、命の危険はないという。

 芽傍は慎重に救急車に運ばれ、救急車はサイレンを鳴らして校門を抜けた。

 望夢はこれまでに感じたことのない胸のざわめきがした。転校してきたときから変わり者の芽傍。まだ100%好きとは言えない存在だが、望夢のピンチを何度も救ってくれた救世主である。友達でも他人でもない、憎もうにも憎めない、不思議な仲だ。

 その後、数回小さな余震があったが、もう大した被害も怪我人もなく、生徒たちは下校を命じられた。状況が深刻なため、特別に携帯電話の仕様許可が下り、家族に自身の無事を伝えるようにと指示が出た。さらに帰りは、極力独りではなく、友達やクラスメイトと一緒に帰るようにとも指令が出た。もちろん、塀や古い建物には近づかないようにとも忠告された。

 望夢は唯一と言っていい友達、瞳と一緒に帰った。幼馴染の二人は家が近く、一緒に登下校するには最適な相手だ。

「一緒に帰るからには、しっかりボディーガードよろしくね!」瞳はわざとらしく望夢に向かってウィンクした。

「どうやって地震から守るんだよ」望夢は呆れて言い返した。

「そっか!あはは!」瞳は状況に合わない笑い方をした。

 呑気なやつだなーと望夢は思った。

 けれども瞳はすぐに真面目な顔をした。「…芽傍くん、大丈夫かな?」

 望夢は頷いた。「致命傷ではないらしい。意識はちゃんとあったから少し治療すれば治ると思う」

「よかった!」瞳はほっとした。「望夢も心配なんだね」

「別に」望夢は冷たく返した。

「いや、でもさっきだって救急車のとこ行って見てたじゃん?」

「それは…ただ見たかっただけだ」望夢は適当に返した。

「なにそれ?怪我人を見に行くなんて、心配してるか、人の不幸を楽しんでる野次馬かのどっちかだよ」

「じゃあ後者かな」望夢は無愛想に言った。

「ウソだね。望夢はそんな人じゃない」瞳はくるりと回転して望夢の顔を見ながら後ろ向きで歩いた。

「お前に何がわかる?」

「わかるもん。子供の頃から見てきたから。一時期はどーしよーもないやつだったけど、今は違う」

「そーかよ」望夢はわざと瞳と目を合わせないように真正面を見つめていた。

 瞳はクスクスと笑った。

「何がおかしい?」望夢はムカッとした。

「芽傍くんに似てる」瞳はさらに笑った。

「は?どこが?」

「素直じゃないとことか、自分に嘘ついてそうなとこ」

 望夢は否定しようがなかった。図星だったのだ。

 そんなやり取りをしているうちに、瞳の家が見えてきた。

「とうちゃく!“ボディーガード”ありがとー」瞳は皮肉を込めて言った。「もう地震、来ないといいね。望夢、気をつけてね」

「おう。瞳もな」

 瞳は手を振って玄関を閉めた。

 望夢は家に向かって歩いていくと、「アミー!」と大声で呼ぶ声がした。母親の声だ。見ると、家の前の公園で母が落ち着かない様子で歩き回っていた。

「母ちゃん?」望夢は声をかけた。

「あ、望夢。凄い地震だったけど、大丈夫?怪我はない?」

「おれは大丈夫だよ。それよりどうしたの?」

「アミがいなくなっちゃったの!」母は泣きそうだった。

「え⁈」

「地震があったとき一緒に庭にいたんだけど、怯えてワンワン鳴きながら飛び出してどっか行っちゃったの…」

「そんな…」望夢は唖然とした。

 本橋家には2匹の犬がいる。白いトイプードルのアミと、黒い柴犬のクロだ。

「一緒に探してくれない?」

「わかった!」

 望夢は家に戻ると鞄を置いた。部屋の奥を見ると、クロはいつも通りケージの中で大人しくしていた。ケージに閉じ込められてたからクロはいなくならずに済んだのか?

 望夢は自転車の鍵を取った。

「母ちゃん、おれ自転車でこの辺り探してみる!」

「お願い!」

 望夢はせっせと周囲をよく観察しながら自転車を漕ぎ、「アミー!」と度々叫んだ。

 駅に向かって走っていると、自転車に乗った親父とバッタリ遭遇した。

「お!望夢!」

「親父!」望夢はブレーキをかけた。

「どうした?地震、大丈夫だったか?電車が全部止まってて、自転車通勤で良かったぜ」

「おれは大丈夫だよ。母ちゃんも無事。それより、アミがいなくなった!」

「なに⁈」

「地震に怯えて飛び出したらしい!今母ちゃんと探してる!」

「わかった!おれも探す!」

 親父も自転車を大急ぎで走らせた。

 こうして本橋家による大捜索が始まった。各々近所の人や道行く人に聞き込みしながら熱心にアミを探した。

 そうこうするうちに手がかりを掴んだのは、望夢だった。

「アミー!どこ行ったんだー⁈」望夢は自転車は漕ぎながら叫んだ。

 その声をすれ違い様に聞いた老人が、望夢を引き留めた。

「お兄ちゃん!もしかして、犬探してるんかい?」

「あ、はい!そうですが?」

「さっき、あっちに犬が倒れてたよ!」老人は道の先を指差した。

「マジですか⁈どんな⁈」

「白くてちっちゃいトイプードルだ」

 望夢の鼓動が早まった。

「ありがとうございます!」望夢は会釈して自転車を急いで漕いだ。

 約50メートル進んだところで、望夢は白い物体を視界に捉えた。急ブレーキをかけ、自転車を離して地面に倒すと、その物体にゆっくりと近づいた。それは真っ白だが、一部、赤く染まっている。近づいてもびくともしない。

 アミだった。アミは死んでいた。

 望夢はスマホを出して両親に伝え、アミを自転車のカゴに乗せて家まで戻った。慌ててもどうしようもないのに、望夢は焦っていた。

 家に着き、自転車を止めると。

「望夢!」玄関で待っていた母が駆け寄ってきた。

 親父もちょうど自転車を止めたところだった。

 望夢はアミをカゴから下ろし、地面に置いた。両親はアミの無残な様に釘付けだった。

「…そんな……」母親は膝を着き、アミを優しくなでた。「…どうして…⁈」

 母の目から涙が溢れた。

 親父も「かわいそうに…」とささやきながら涙を流していた。

 望夢も突然過ぎて、言葉が出なかった。ただひたすら、悲しい、なぜ?、という気持ちが湧き上がるばかりだった。

 天国に飛び立ったアミに届かんばかりに、母の泣き声が響いた。




 重い気分でリビングで過ごす三人。母親のすすり泣く声と、テレビの小さなボリュームだけが部屋に音色をつけている。もちろん、喜ばしい音色ではない。テレビではどのチャンネルでも地震の報道ばかり。すでに十数人の死者が確認されていること、絶えない病院への搬送者、交通機関が止まり帰宅が妨げられた人々…。悲しいことばかりで本橋家はすっかり沈んでいた。

 望夢は絶望してソファーにドカッと腰を下ろしてうつむいた。するとカチカチと音がした。ケージに閉じ込められたクロが足音をたてながら、望夢を見て尻尾を振っている。地震があったことをもう忘れているようだ。アミがいなくなったことは気づいていないのだろう。無頓着なやつだなーと望夢は思った。

「アミ、埋めるか?」沈黙を破ったのは親父だった。「庭で良ければ、すぐに埋めてやった方がいいんじゃ…」

「駄目‼︎」母はそんなにと問いたくなるほど怒鳴った。「そんなの絶対駄目!ちゃんと業者に頼んで火葬してもらうの!」

「そうか…わかった」親父は素直に頷いた。

 それから母親は、何も言わずにダンボールに入れたアミの遺体を持ち上げると、階段を上がって2階の部屋にこもった。

「母ちゃん、大丈夫かな?」望夢はぼそりと呟いた。

「アミのこと、大事にしてたからな。しばらくは立ち直れないだろうな。そっとしといてやれ」親父は冷蔵庫を覗きながら言った。

 望夢は無言で頷いた。

「晩御飯も作る気力ないだろうから、俺がやる。何かあるかな…?この肉でいっか。あとー…あ、醤油がねえ。望夢、醤油買ってきてくれねえか?」

 親父は財布から五千円札を出して望夢に渡した。

「わかった」

「ついでにお惣菜も3個くらい買ってきてくれ」

 望夢は買い物袋を片手に家を出た。2階に目をやると、母親のシルエットが見えた。カーテンで閉ざされていて顔は表情は見えないが、シルエットだけで嘆いているのが充分わかる。ほぼ家にいる母はいつもアミと一緒だった。自分の娘のようにかわいがっていた。そんな家族のような存在を失ったのだ。慰めてあげたいが良い言葉が思いつかない。それに今はどんな言葉をかけても功を奏さないだろう。今自分にできるのは、醤油とお惣菜を買うことだけだ。

 望夢は自転車を走らそうとペダルに足をかけた。その瞬間、目の前に亜久間が現れた。ちゃっかり自転車のカゴに両肘を乗せている。

「なんだ、びっくりした。久しぶりだな」

 最後に会ったのは過去の世界で両親に会ったとき。それから1ヶ月ほど経っていた。

 亜久間はニヤリとした。「久しぶり。久々に課題をクリアしてもらおうと思って」

「課題?あー悪いけど、今はそれどころじゃないんだ。犬が死んで母ちゃんも病んじゃって」

「ええ。知ってる」亜久間は腕を組んだ。

「落ち着いてからでいいだろ?今度にしてくれ」望夢は亜久間をよけて自転車を発進しようとした。

 亜久間はグリップを掴んで止めた。「もう始まってるわよ」

「え?」望夢は意味がわからなかった。

「か・だ・い。次の試練。もう始まってる」

「いや、だから、今度にしてくれって。今忙しいから落ち着いたら……⁈まさか、課題って⁈」

「そう。これ自体が課題よ」亜久間はニヤリとした。

 望夢は過去最高に亜久間に対して嫌悪感、不信感を覚えた。「…お前がやったのか…?お前がアミを、殺したのか⁈」

 亜久間は意味深な笑みを浮かべた。「どうでしょう?それはさておき…」

「さておくな‼︎」望夢は怒鳴った。「母ちゃんが悲しんでんだぞ‼︎どういうつもりだ⁈」

「あらあら。すっかり母親想いになったわね。嬉しいこと」亜久間は微笑んだ。

「ふざけるな‼︎これまで色んなことされてきたけど、今回は最悪だ‼︎どうしてこんなことをした⁈」

「そこまでピリピリするとは思わなかったわ」亜久間は自転車の荷台に腰かけた。「じゃあ聞くけど、あなたにとってアミはどんな存在?」

「ペットだけど?」

「ペットね。ただのペット?」

「ただのっていうか、母ちゃんのペット」

「母親のペットが死んだことに対して、怒ってるの?」

「ああ!おかしいか?母ちゃんが大事にしてた犬を殺されたから怒って当然だろ!アミを返せ‼︎」

「ふーん」亜久間は興味なさそうに唸った。「お母さんには悪いけど、これもあなたのためなの。というか、あなたの家族みんなのため、ね。あと、一度死んだ者を生き返らせることは私でもできないわ」

「そんな…」望夢は唇を噛み締めた「…どういうことだ⁈どうして飼い犬を殺すことが家族のためになるんだ⁈」

「いずれわかるわ」亜久間は立ち上がってまた望夢の正面に来た。「家族の絆を本物にするのよ」

 望夢はポカンとした。「…意味わからん。両親の気持ちならこないだみっちりお前に叩き込まれたぞ?」

「仲よしの男女が、結婚してからも夫婦円満とは限らない」

 望夢は亜久間の言葉が全然理解できなかった。今は、ただの悪魔にしか見えなかった。

「…もういい。買い物行ってくる」

 望夢はうんざりして亜久間にぶつかるつもりでペダルを漕ぐと、彼女は煙となって消えた。

 この時はまだ、家族が更なる危機に直面することを、望夢は知るよしもなかった。




 翌朝。

 ニュースではまだ震災の影響や瓦礫撤去の中継を報道していた。交通機関は安全が確認でき次第動くとのこと。

 たまたま土曜日だったため、学校は休みだった。親父は、交通機関が止まる中、自転車で通勤できる距離ということで、急遽出勤することになった。母は部屋にこもったまま出て来ない。

 親父と適当に朝食を済ませた望夢は、玄関で親父にスマホを渡した。「親父、忘れてるよ!」

「お!あぶねえあぶねえ。サンキュー!」

 親父はスマホを胸ポケットに入れながら踵を踏んで靴を履いた。そして望夢に振り返った。

「じゃ、行ってくる。母ちゃんのこと、頼んだぞ。犬の火葬業者には連絡入れてあるから、明日来てくれる。晩御飯はまた何とかするから、母ちゃんに無理すんなって言っといてくれ。望夢は母ちゃんの面倒と、最低限の家事さえやってくれればいい。頼んだぞ!」

「うん」望夢は勇ましく頷いた。「行ってらっしゃい!」

「行ってきます」親父は出て行く間際に望夢をもう一度見ると、託すように頷いて扉を閉めた。

 リビングに戻ると、クロがカチカチと足を踏みしめながら尻尾を振って望夢を見つめてきた。そうか、こいつの散歩に行かないと。母ちゃんは行く気力ないだろうし。自分が最後に行ったのはいつだっけ?母ちゃんは普段行ってるのか?

 そんなこと気にしても仕方ない。クロを散歩に連れていこう。その前に、母ちゃんの安否確認だ。

 望夢は階段を上がって母の部屋の扉をノックした。返事はない。まだ寝ているのだろうか?

 ゆっくり扉を開けて覗くと、ベッドに腰かけて座る母の姿があった。まるで魂を抜かれてしまったようにぼんやりと宙を見つめている。昨日の服装のままで、どうやらお風呂には入っていないようだ。ちゃんと寝たのかどうかも怪しい。

「母ちゃん、」具合はどう?と聞こうと思ったが、良いはずがないのでやめて、用件だけ伝えた。「クロの散歩行ってくるね?」

 母は「うん」とだけ言って頷いた。

 望夢は心配で、少し話題を振ってみた。「クロの散歩最後に行ったのいつ?」

 母は少し間を空けてから、「覚えてない…」と答えた。

 明らかに様子が変だ。いつもの母ちゃんじゃない。

「そっか。うん。じゃあ、行ってくる。ゆっくりしてて」

「よろしく…」母は相変わらず宙を見つめていた。

 望夢はクロを持ち上げた。クロは嬉しそうに脚をバタバタと動かした。久々に触ったがだいぶ痩せている。望夢は玄関にクロを持っていき、首輪とリードをつけた。

 玄関を開けて外を見てみた。空は曇っていて、お散歩日和とは言えないが、仕方ない。

「行ってきまーす!」

 母に聞こえるように声を張って、外に出た。一歩外に踏み出した瞬間、クロは凄い勢いで走りだした。

「っお!おいっ‼︎おい‼︎待て‼︎待てっ‼︎」望夢は引っ張られながら怒鳴った。

 十数メートル進んでクロは止まってくれた。望夢はイライラしてクロを蹴飛ばした。

「キャイン!」

「引っ張るな!言うことちゃんと聞け!」

 望夢はどこへ行こうかと考えた。とりあえず、昨日アミを見つけたとこはやめておこうと思った。なんせ胸が痛む。

 とりあえずいつもの公園でいっか。望夢は親父とトレーニングに使っている最寄りの公園に入った。すると、クロと同じ柴犬を連れたおばさんがいた。

 それを見た途端、クロはまた暴走した。猛スピードで走ってぐいぐいと望夢を引っ張った。「おい!うわっ!」

 望夢はつんのめりながら柴犬おばさんのそばでに来た。クロはくんくんと柴犬の匂いを嗅いぎ始めた。

「こんにちは。あら、本橋さん家の息子さんね?」おばさんは優しく話しかけてきた。

「はい。久しぶりです」望夢も無理矢理、笑顔を作って返事した。

 この柴犬おばさんとは望夢も顔見知りだが、あまり好きではなかった。一度捕まると話が長いからだ。

「昨日の地震、大丈夫だった?」おばさんは尋ねた。

「大丈夫でしたよ」アミが死んだことはあえて言わなかった。また話が長くなる。

「家族はみんな無事かい?」

「はい」

「そー。よかったよかった。うちの旦那なんか、地震でよろめいてタンスに頭ぶつけちゃってねー、今包帯巻いてんだよ」

「それは、お気の毒に」望夢は適当に返した。

「でしょー?ニュース見ててもね、電車が止まってるとか、死者が何人とか、行方不明が何人って、悲しいニュースばっかりで…」

 この辺りから望夢は聞き流していた。

 その間、クロは柴犬に跨られていた。

 立ち話すること約10分。ようやく解放された望夢はクロを引っ張って公園を出た。

 それから数分後、ある大きな家の前を通りかかった。近所は少し有名なお金持ちの一軒家だ。その家の庭で大型犬が寝ているのに望夢は気がついた。黒いシェパードだ。…まずい。クロは他の犬に吠える癖がある。クロが気づく前に行こう。と思って望夢はリードを引っ張った。しかし時すでに遅し。クロは大型犬を視界に捉えるや否や、ワン!ワン!とけたたましく吠え始めた。

「おい!クロ!よせ!」

 大型犬はカッと目を見開き、飛び起きるとこちらに向かって吠え返してきた。

「やっべ!」望夢はなお吠え続けるクロを抱き抱えると一目散に走った。

 シェパードは怒り狂い、走って追いかけてきた。リードで繋がっていたがいとも簡単に外れてそのまま敷地外まで飛び出したのだ。

「助けてくれええええ‼︎」

 望夢は全速力で走ったが、もともと徒競走が得意ではなく、すぐに追いつかれてしまった。シェパードは望夢のお尻に食らいついた。

「いってえええええ‼︎」

 数分後。なんとか犬を追い払った望夢。ぶつぶつと文句を垂らしながらクロをぶっ叩くと、したくもない散歩を続行した。

 しばらくして、ピンクのフリースにデニムのショートパンツ、黒タイツというファッションのエレガントな女性とすれ違った。

 クロは望夢同様、女性に反応する癖がある。そんな女性を目にしてほっておかないはずがない。望夢はクロの目線に気づき、身構えた。

 クロは女性のお尻目掛けてジャンプした。

「させるか‼︎」望夢はすかさず間に手を伸ばした。

 クロは望夢の手に阻まれて女性への接触を妨げられた。

 ざまぁ!と望夢が思うのも束の間、クロの飛び上がった勢いで手が女性のお尻にタッチしていた。「…あ…!」

「っ‼︎この獣物‼︎とやっ‼︎」

 女性の防衛本能がはたらき、望夢はキック、パンチ、肘鉄の3連コンボをお見舞いされた。

「あーれまー!」

 望夢は力尽きて鼻血を垂らしながら地面に倒れた。

 そんなこんなで色々あって、望夢はクロを連れて帰った。クロはまだ歩きたがったが、望夢は無理矢理家まで引っ張った。

 家に上がった望夢は、イライラが募ってクロを洗う気になれず、足だけ拭いてケージにポイと戻した。

 そのとき、ちょうど母が階段を下りてきた。相変わらず眠気と悲しみが入り混じったような顔だが、動けるだけいいか。

「大丈夫?朝ごはんはこれから?」望夢は尋ねた。

 母は首をゆっくり振った。「お腹空いてない…」

「そう」

 母はリビングの椅子に座って、窓辺に飾られた数々の写真を見た。望夢が産まれる以前から撮ってきた写真が飾られていて、何枚かにはアミやクロも写っている。

「…懐かしいね」母は呟いた。

 望夢は「ん?」と振り返った。

「アミ、望夢が7歳の時に飼ったの、覚えてる?犬が欲しくて、お父さんが結婚記念日に買ってきてくれたの。望夢も嬉しそうだった。アミが家に来てから、お父さんとは喧嘩も減って、毎日幸せだったわ」

 母はそう語りながら涙をこぼした。「…あの子がね、家の絆を築いてくれたの…」

 母はしくしくとなき始めた。望夢も幼かった頃のアミとの思い出が蘇り、胸が痛んだ。

「何でんなの…?」母は誰ともなく問いかけた。「…何でアミだったの?せめて、死ぬのがアミじゃなければ…」と言いながら母はクロを見下ろした。

 母はクロのことが好きではなかった。クロは親父がかわいそうで連れて帰ってきた野良犬の柴犬だ。家では飼わずにしばらく置いとくだけという約束で、近所や職場で声をかけて里親を探したのだが、結局見つからず、そのまま飼うことになった。クロはアミとも仲が悪く、よく喧嘩していた。さらにクロはトイレのしつけができていないため、余計に母の気分を害した。しかも、親父は仕事、望夢は見てきた通りめんどくさがりのために二人がクロを散歩に連れていくことは滅多になく、長らく母がクロの散歩も担当していた。

 思い返せばクロが家に来てから夫婦喧嘩が増えていた。母はずっとストレスをためていて、今回の事件を機に完全に力が抜けてしまったのだろう。

 この日、母はたまにお茶を飲む程度で、あとは寝るかぼーっとしていた。望夢はどうしようもなく、テレビを見たりスマホをいじって過ごした。

 夕方になって親父が帰ってきた。震災の影響で帰りが早まったという。

「母ちゃん、大丈夫か?」

「一応。まだぼーっとしてて食事をまともに取らないけど」

「そっか」

 親父はすぐに夕食に取り掛かった。あまり重いものは作らず、母でも食べやすいように卵のスープや厚揚げなどのあっさりした食事にした。

 クロにはいつも通りドッグフードをあげた。クロはちびちびとそれを食べた。




 次の日。

 親父も仕事がなく、望夢と二人で家のことをやった。母は相変わらず口数が少なく、たまに泣くこともあった。

 その日のクロの散歩は親父が行くことになった。

「クロ、ずいぶん痩せたな」クロをケージから持ち上げた親父はボソリと呟いた。

 それでも散歩が大好きなクロは、元気に歩いた。

 夕方になって、火葬業者から「これから伺います」と電話が入った。間もなくインターホンが鳴り、望夢が出ると、スーツの男性が「初めまして」と名刺を渡してきた。親父は料理の手を止め、業者の前にアミを運ぶと、望夢と二人で経緯を話した。母は涙を流しながらそばに立っていた。

「そうでしたか…。誠にお悔やみ申し上げます」業者さんは深々と頭を下げた。「私、責任を持ってアミちゃんを供養させていただきます」

 家族三人も頭を下げた。

 陽が沈んだ夜に、もくもくと煙が上っていった。その煙の下で、4人は手を合わせた。

 火葬が済んだら声をかけると告げられ、三人は家内で待つことにした。母はまた写真の前で泣いた。親父は無言で料理を続行して、望夢はニュース番組を観た。相変わらず震災のことばかりで、痛ましい報道しか流れてこない。

「…信じられない…」泣きながら母は呟いた。

 望夢も親父も聞いていたが、あえて言葉は返さなかった。

「…本当に、死んじゃったのね…」母はすすり泣いた。

 望夢は無視するのもかわいそうで、「突然だったよね…」とだけ言った。

「…悲しいな」親父も低いトーンで言った。「今頃天国で、お前にありがとうって言ってるぞ?」

「……」母はもう何も言わず、ひたすら泣いていた。

 アミの遺体を焼いた煙は、どこまでも天高く上っていった。




 その翌日から、学校は再開した。

「おはよう!」「おう!」朝、望夢は瞳と挨拶を交わすと、二人で電車に乗り込んだ。

「そうだったんだ…」アミのことを聞いた瞳は悲しんだ。「かわいそうに。また会いたかったな。教えてくれればよかったのに」

「それどころじゃなかったよ。地震のせいでもバタバタしてるし、母ちゃんは病んじゃうし」

「そっか。そうだね」瞳は頷いた。「望夢、お母さんのことでも何でも、困ったら相談してね!」

「なんだよ急に?」

「相談できるような相手、あたししかいないでしょ?」瞳は皮肉を込めて言った。

 望夢はイラッとしたが笑みを浮かべて「そうだな。よろしく頼む」と返した。

 瞳は笑顔で頷いた。

 二人は校舎の階段を上がってそれぞれのクラスに分かれた。

 3年C組の教室にて。チャイムが鳴り、木下先生が教卓の前に立って一同挨拶をした。ホームルームの始まりだ。

「みんな、地震で今まだ落ち着かないと思うけど、元気ですか?」

 みんなボチボチといった感じで頷いた。

「今日は欠席の連絡が1人入ってて、あとはみんないるわね?」

 一同がクラスを見回すと、たしかに一席だけ誰も座っていなかった。瞳ははっとした。それは芽傍ゆうの席だ。

「芽傍くんなんだけど、あの後病院に運ばれて、手当てを受けてるの。意識は戻ったらしいけど、肋骨にヒビが入ってて、自力で歩けないみたいなの」

 クラスはざわざわした。

「先生、」瞳が手を上げた。「退院はいつなんですか?」

「順調に回復すれば、1ヶ月くらいで完治するみたい。早く元気になってほしいね」

「ま、あいつ普段から元気なさそうだけどな」鬼頭がつまらない冗談をかまし、数名が笑った。

「こら!」木下先生はクラスを制した。「鬼頭くん、言っていいことと悪いことを考えなさい。今回の震災で怪我をした人はたくさんいるの。亡くなった人も大勢ね。からかうのは失礼よ」

 瞳は鬼頭の顔色を伺ったが反省している様子は見えなかった。

「それに、芽傍くん、いつも元気がないわけじゃなくて、自分の気持ちを表に出すのが不得意なだけなんだよ。だから意地悪しないで。無事に帰ってこられるようにみんな応援してあげてね」

「「「はい!」」」

 クラスメイトたちが返事する中、瞳はくいっと首を傾げた。

「じゃあ、何か連絡ある人?いない?じゃあ終了」

 一同は起立、礼をしてホームルームが終了した。

 教室から出た木下先生を、瞳は「待ってください!」と引き止めた。

「芽傍くんの入院してる病院って、どこですか?」

「ああ、久米沢中央病院。すぐそこよ」

「中央病院。ありがとうございます!」瞳はは頭を下げた。

「あら片山さん、もしかしてお見舞いに行ってくれるの?」木下先生はニヤリとした。

「はい、時間があれば」

「偉いわ。あなたは本当に友達想いね!」

「そんな!」瞳は照れた。「と言うよりも、芽傍くん、お見舞いに来てくれる人、いなそうな気がして」

「…どうして?」木下先生の笑顔がすっと消えた。

「以前、たまたま何ですけど、芽傍くんがアパートに入っていくとこを見たんです。凄く小さくて安いアパートで、もしかしたら一人暮らしかなーと思って」

 木下先生は無表情で瞳を見つめた。

 瞳は気まずくなった。なんかまずいこと言っちゃったかな?

「片山さんはほんとに友達想いね。今の予想については、プライバシー的に詳しく話せないけど、お見舞いに行ってあげたら絶対に喜ぶと思う。いつも通り冷たい反応だろうけど、内心は喜んでるはずよ」

「そうですか。わかりました」瞳は頷いた。

 木下先生は笑顔で頷いた。「芽傍くんのことが気になるのはわからなくないわ。なんせ個性的だもんねー。私も芽傍くんのこと色々考えちゃって、この前夢にも出てきたの」

「夢に⁈」

「うん。それも妙な夢でね。女の姿した本橋くんがガムテープで手と口を縛られて走ってきて、案内された場所に行ったら芽傍くんが傷だらけでしゃがみ込んでたの。心配して声かけたんだけど平気って言われて、そしたら本橋くんが『私から話すのでそっとしてあげて』って言って芽傍くんに着いていって、そこで目が覚めちゃったの。あの傷だらけの芽傍くんは、今回のことへの暗示だったのかなー?」木下先生は腕を組んで考えた。

「うーん、不思議ですけど、芽傍くんよりも女の本橋の方が気になります」瞳はニヤニヤしながら言った。

 木下先生もクスッと笑った。「まあ、夢だからね。とりあえず、芽傍くんのこと、よろしくね!」木下先生は振り向き様にそう言い残した。

「はい!ありがとうございます!」瞳は頭を下げた。




「というわけでー、芽傍くんのお見舞いに行くことになりました!」

 その日の帰り道、瞳は望夢に説明した。

 望夢は「うーん」と唸った。「芽傍どうこうよりも、おれが女だったってことが引っかかるんだが…」心当たりがあるのがなおさら歯痒い。

「やっぱそこだよね。まあまあ、夢だからそこはね!」

「そーだな…」

 望夢にとってはただの夢ではなくて、悪夢だった。

「完治1ヶ月か」望夢は何とも言えない気分だった。

「ちゃんと回復できるように、お見舞いに何か持ってこうよ?」

「え?おれも行くの?」望夢はキョトンとした。

「行こうよ?何度も助けてもらってるんだし、芽傍くん家族もいなそうだから、行ってあげなきゃかわいそう」

「たしかにそうだけど、おれも今は色々大変だから、ちょっと難しいかも」

「大変て?ワンちゃんの葬儀は終わったんでしょ?」

「葬儀というか火葬な。それは済んだけど、まだ母ちゃんが落ち込んでて、おれと親父で家のことやってんだよね」

「そうなんだ。でも大事な家族が死んじゃったら、無理もないよね」

「家族か…」望夢は目線を落とした。

 ここで瞳の家が見えた。

「そーいや、あいつ、家族いないのか?何でだ?」

「さー?わかんないけどいない可能性高いかも」

「いないとしたら何でいないんだ?転校してきたことと関係あんのかな?」望夢は眉を寄せた。

「どうだろ?理由はどうあれ、あたしたちが知るべきことじゃないよ」

「そうだな…」

「とにかく、時間作れたら、一緒に芽傍くんに会いに行こうよ?」

「わかった。恩返しするチャンスだよな」

 望夢と瞳はお互いに手を振って別れた。

 望夢が玄関を扉を開けた途端、狂ったような怒鳴り声が聞こえてきた。さらにキャンキャンと怯える悲鳴も。望夢は驚いて思わず目をつぶった。何事か、望夢は恐る恐る廊下を進んでリビングに入ると、母がクロの首根っこを掴んで壁に押しつけていた。

「いい加減にしろよ‼︎」母はさらにクロを怒鳴った。

「…た、ただいま…」望夢はか細い声で言った。

 母はちらりと望夢を見ると、「お帰りなさい」と小さな声でささやいた。

「どうしたの?」望夢は緊迫した顔で尋ねた。

「こいつがトイレじゃないとこにおしっこしたんだよ!」

 クロを掴む母の手にさらに力がこもった。

「それだけ?いつものことじゃん?」

「いつもいつもだから怒ってんだよ!」

 母はクロを壁にゴン!と押しつけた。クロはキャイン!と泣き喚いた。その容貌は明らかに望夢の知っている母ではなかった。

「…さすがにやり過ぎだよ。もう離してあげなよ?」

「これくらいしないと懲りないよこいつは!」

 母はクロの顔を叩いた。クロはキャンキャン!と悲鳴を上げた。

「ただいまー!何事だ⁈」

 玄関を開ける音とともに親父の声がして、一目散にリビングに入ってきた。

「どうした⁈」親父も目をまん丸くして尋ねた。

「こいつがまたトイレ外したんだよ」母は狂気に満ちたような低い声で言った。

「それだけか⁈おい離せ‼︎」親父は母の手からクロを奪って抱きしめた。「大丈夫かー?ほら、よしよし!」

 母は抵抗しなかったものの、ものすごい形相で親父を睨んでいた。親父はそんな母を睨み返してこう尋ねた。

「散歩には言ったのか?」

「…行くわけないじゃんそいつの散歩なんか」

「じゃあ仕方ないだろ!散歩は犬が用足す時間でもあるんだ!連れてかなかったなら我慢させてたんだからお前が悪い!」

「ふざけないでよ‼︎」母は金切り声を上げた。

 望夢はビクッとした。

「あたしのせいにしないでよ‼︎そもそもあんたが飼い始めたんだから自分で世話しろよ‼︎」

 親父は数秒、母を見つめた。「仕事があるから、俺には無理だ…」

「じゃあ飼うなよ‼︎」母は間髪を容れず怒鳴った。

「じゃあ見捨ててればよかったって言うのか⁈かわいそうだから連れてきたんだ!もともと飼うつもりじゃなかった!」親父は必死で弁明した。

「理由がどうあれ、こいつの世話をあたしに押しつけてるのは変わりねーだろ‼︎ふざけんなよ‼︎」

 母はクロのケージを思い切り蹴飛ばすと、ドカドカと歩いて階段を駆け上がった。

 無言で目線を交わし合う望夢と親父。親父の腕の中で怯えるクロ。二人の耳にすすり泣く母の声が微かに聞こえていた。

「…クロの散歩言ってくる。ご飯、準備しといてくれ」

 親父は自信なさげな声で望夢にそう告げると、クロを玄関に連れていった。

 望夢はその場にしゃがみ込んだ。何をする気も湧かない。立っているのもめんどくさく感じた。

 どうなっちまうんだ…母ちゃん…?




 翌朝。

 久米沢で降りた望夢は望夢は一人で学校に向かっていた。細い目を無理矢理開こうと目を何度もパチパチしていた。明らかに寝不足だ。

 そんな状況でも空気が読めないやつがいるのがこの世の中。

 ドン!と望夢は背中からタックルを食らった。

「おすっ!」瞳が威勢のいい挨拶を決めた。

「ん」望夢は一言だけ返した。

「?どうしたの?元気ない?」

「寝不足っす」望夢は眠そうな声で言った。

「そうなんだ!ごめんごめん!珍しいね」

「それがよ、親が夜中もずっと喧嘩しててよ」

「あ!昨日近所で言い合いしてたの望夢の両親だったんだ!」

「そうそう」望夢は大きなあくびをした。「ずっと犬のことで喧嘩してて、もうまいっちまったよ」

「犬か。結構ダメージ大きいんだね」

「母ちゃんにはな」望夢はまたあくびをした。

「無理しないでね。望夢も入院することになったら、話し相手玲奈しかいなくなっちゃうよ」瞳は笑みを浮かべながら冗談をかました。

「いやこのままだとマジで入院してもおかしくないぞ」精神的な意味で。

「そんなこと言わないで!頑張ろ!じゃ、あたし先行くね!」

 走り出した瞳に望夢は「おう」と覇気のない返事をした。




 授業が始ってからも望夢は苦労の連続だった。国語の授業では居眠りして怒られ、体育の授業では走っている途中でふらついて倒れた。家庭科の授業ではミシンを使いながらウトウトして盛大に縫い間違った。休み時間には廊下で鬼頭に衝突してしまい怒鳴られた。

 家に帰ればクロに当たる母の怒号が響いていて、親父が帰ってきても喧嘩ばかり。内容もいつも同じことで、クロがどうのこうのばかりだったが、そのうち発展していき、結婚して失敗だったなどと言うようになっていた。晩御飯は親父が作ってくれるものの、鉛のような飯でまったく味わえなかった。

 これが毎日続いた。学校では寝不足で思うように動けず。家に帰っても平穏はなかった。むしろ家にいる方が辛かった。

 ある夜。望夢はベッドで枕に顔を埋めていた。相変わらず両親の口喧嘩が聞こえてくる。

「うぅ…」望夢は唸った。耐えられない、こんな生活。

 何もかも、あの亜久間とかいう女の仕業だ。あいつがアミを葬らなければこんなことにはならなかったんだ。

「そうピリピリしないで」いつの間にか椅子に座っていた亜久間が宥めた。

 望夢は枕に顔をうずめたまましかととした。

「らしくないわよ?我慢強いんじゃなかったの?プロフィールに書いてたでしょ?」

 それは望夢が亜久間と出会う前にやっていた出会い系サイトのプロフィールのことだ。これといった特技のない望夢は、適当に我慢強いとだけ書き込んでいた。

「うっせーな‼︎」望夢はイライラを爆発させた。「人んちの犬殺して家族をめちゃくちゃにするのがそんなに楽しいか⁈」

「面白半分でやってると思う?」亜久間は真面目な顔で言い返した。「あなたと家族のためだし、むやみに殺したわけじゃないから」

「どんな理由でも殺すのは犯罪だろ‼︎それに家族のためとか言ってるけど、どこがどう家族のためなんだ⁈めちゃくちゃじゃねーか‼︎」

 望夢はそこまで言い切るとベッドから飛び降りて自分の机の上の物を床にぶちまけた。

 亜久間が微動だにしなかった。「望夢、これまでと同じこと。あなた自信で乗り越えるのよ。そしたら家族は一つになれる」

「アミがいた頃は幸せだったよ…」望夢はうつむいて泣きそうな顔を隠した。

「アミちゃんがいた、からね?」亜久間が言い直した。「いずれにしてもアミちゃんがいなくなればこうなってた。それが早まっただけ。時間の問題なの。犬の寿命は人より短いから、いつまでもこの幸せは続かなかったのよ」

 望夢は返す言葉もなかった。亜久間の言ってることが本当かどうかもわからない。ただ悔しさと怒りしか感じられなかった。

「だからって殺すなんて…」

 ここでふと、望夢の頭に芽傍ゆうのことが浮かんだ。

「もしかして、芽傍が怪我したのもお前のせいか?」

 亜久間は首を振った。「いいえ。それは私は無関係」

「本当か?」

「だって、今芽傍くんが死んじゃったら意味ないもの」

 望夢は亜久間の顔を見つめた。

「…芽傍とは、どんな契約を交わしたんだ?」

「それはあなたが知る必要ないわ」

 望夢は亜久間を睨みつけた。「芽傍、よくおれに絡んでくるよな?芽傍にも鬼畜な試練を課してるのか?」

「どうでしょう?」亜久間は相変わらず表情を変えない。

「あいつ一人で色々抱え込んでそうだけど、お前のせいなんじゃないのか?」

 ここで亜久間はニヤリした。「それは否定できないかな」

 望夢にさらなる怒りが湧いた。「芽傍をどうするつもりだ⁈」

「黙りなさい!人のことを心配するその真心は褒めてあげる。けど、今は家族のことを最優先しなさい!」亜久間はど真面目な教師のような強い口調で言い放って、消えてしまった。

「うあああああーーー‼︎」望夢は怒りのあまり咆哮を上げた。




 ガラガラガラ。

 ある日の夕方。久米沢中央病院にて制服姿の瞳は病室の扉をゆっくり開けた。すると入って左側のベッドに、芽傍は寝ていた。

 瞳が慎重に近づくと、芽傍は目だけ瞳に向けた。

「…片山?」驚いた芽傍はそう言うと、はーはーと落ち着きを取り戻すように息を数回吐いた。

「こんにちは」瞳笑いかけた。「調子はどう?心配で来たの」

「ありがと…」芽傍はまた息を数回吐いた。「まだ痛みが残ってる。くしゃみとか咳すると余計痛むし、自分で歩けないからじっとしてるしかない」

「辛いね…」瞳は同情した。「これどうぞ。今は食べれないと思うけど、元気になったら」

 瞳は差し入れのお菓子の袋をベッドの脇に置いた。

「わざわざいいのに…。すまない」

「いいえ。本当は望夢と一緒に来たかったんだけど、今は忙しいみたいで、1人で来たの」

「本橋か…。あいつも来てくれるつもりなのか」

「うん。だけど地震のせいで犬が死んじゃったみたいなの。それで両親の仲が悪いみたいで、最近元気ないの」

「両親か…」芽傍は呟いた。「あいつも大変だな。頑張れって伝えてくれ」

「うん!」瞳は笑顔で頷いた。

 瞳は胸が温かくなるのを感じた。それはこれまで芽傍と接する際に感じていた後ろめたさとは相反するものだった。

「やっぱり、芽傍くん、優しいね」

 芽傍は瞳に目を向けた。「…そうか?」

「うん。望夢のこと助けてくれたこともあるし、ずっと良い人だと思ってるよ」

 芽傍は無言で天井を見た。照れてるのかな?と瞳は思った。

「早く元気になって、学校来てね。望夢には、芽傍くんみたいな友達、必要だと思う」

「友達か…。どうかな…?」

「違う?」

「…僕はまだそうは思えないし、本橋も思ってないと思う…」芽傍はまたスー、ハーと呼吸をした。

「芽傍くんにとって、“友達”って何?」瞳は不思議そうに尋ねた。

「…さあな」と芽傍は言った。「逆に、片山にとっては何だ?」

「あたしはー、関わりたい人、好きな人全員」瞳はにっこり笑った。

「…そうか…僕にはその考えは無理だ…」

「芽傍くんは、どうして人と友達になりたがらないの?」瞳は軽い気持ちで尋ねた。

「…怖いからかな…」

「怖い?」

「この話、また今度でいいか?“友達”って言葉自体、そもそも好きじゃないんだ…」

「そうなんだ…ごめん」

 芽傍は微かに首を振って大丈夫の意を示した。「なんか、すごい真面目な話してんな」

「たしかに!」瞳はクスクスと笑った。「話弾むようになってきたじゃん!」瞳は優しく芽傍の肩を叩いた。

「いてて!」芽傍はうめいた。続けて数回咳き込んだ。

「あ、ごめん!」瞳は手を合わせて謝った。

「っえへ、えへん…。お前はもっと慎め。言葉も行動も」

「気をつけます!」

 芽傍のダメ出しに瞳は大きく頷いたのだった。




 空がすっかり暗くなった頃。無事に芽傍のお見舞いに行けた瞳はルンルン気分で家に向かっていた。

 家の前の公園に差し掛かったとき、しょげた望夢の姿が目に入った。公園のベンチに諦めたようにどっかり座っている。また怒られて追い出されたのかな?

 瞳はおもむろに近づいて肩をポンポンした。「大丈夫?」

 望夢はちらりと瞳を見て、また頭を下げ、「…ぁぁ」とだけ言った。

 瞳は望夢の家の方を見た。

「また喧嘩?」

「そう…。耐えられない…」望夢は頭を抱えた。

 瞳も隣に座った。「今日、芽傍くんのお見舞い行ってきたの。望夢が大変だって話したら、頑張れって、言ってたよ」

「…頑張れ、か」望夢はため息を吐いた。

 瞳はうつむく望夢は顔を覗き込むんだ。「芽傍くんも頑張ってる。望夢も頑張ろ!第三者のあたしが言える立場じゃないけど、応援してる!本当に!」

 望夢は首を振って両手で顔を覆った。

「……離婚するって…親父と母ちゃん…」

「え……」瞳はかける言葉が見つからなかった。「…そんな…」

「どうかしてる」望夢は異様に低い声で言った。「たかが犬1匹で離婚なんて…」

「まだ確定じゃないんでしょ?きっと考え直してくれ…」

「いや無理だ」望夢は首を何度も振った。そしてまた両手で顔を覆った。「…こんなことで離婚話するんなら、いっそ離婚した方がいいよもう」

「何言ってんの?両親でしょ?そんな…」

「この程度で離婚するんなら、その程度の仲だったってことだ!」望は言い切った。

 瞳はもう言い返さなかった。

 望夢はゆっくり顔を上げて空を見上げた。

 …おれが見てきた二人の絆は何だったんだ?結局、あの二人は何で結婚したんだ?こんな形で終わるなら、いっそ最初から……

 星1つない真っ暗な空に、望夢はこのまま吸い込まれたいような気持ちになった。

「…クロのこと、保健所に連れて行こうと思う」望夢は決意したように言った。

「そう…。だけど、保健所って、引き取り相手がいないと…殺されちゃうんでしょ?」

「ああ。でも、家では生きていけそうにないし、家族もめちゃくちゃだから。クロだって、このまま生きてるの辛いと思う。もう食事もしなくなったし…」

 しばしの沈黙。

 瞳はこう返した。「望夢がそれでいいならいいと思う」

 望夢は無言で頷いた。

「…あたし、もう行くね。何もできなくて、ごめん」

 瞳は立ち上がって歩き出した。しかし、一旦立ち止まった。「でも…」

 望夢は瞳を見た。

 瞳は振り向いた。「…クロちゃんを保健所に連れて行っても、何も得られないと思うよ」

 二人は見つめ合った。望夢は返す言葉がなく、ただ見返すしかなかった。

 瞳は目を逸らした。「余計なこと言ってごめん。でも、よく考えて決めた方がいいよ…」

 瞳は歩いて自宅に向かった。

 望夢は掌で両眼を覆ってうつむいた。…よく考えろって…他にどうしろって言うんだ?…おれはどうしたらいいんだ?……




 翌日の昼間。

 望夢は自転車のカゴにクロを乗せて走っていた。クロはカゴの中でブルブル震えている。望夢はあまりスピードを出さずに安全運転を心がけ、とある保健所にたどり着いた。

 中に入ると、受付にペンを滑らせる中年男性が座っていた。男性を片腕でクロを抱える望夢を見ると、用件を概ね察した。

「いらっしゃい。お預けかな?」

「はい」望夢はクロを両手で持って前に突き出した。「この子をお願いします」

「はいよ。じゃあ…」男性は明らかに乗り気ではない手振りで、紙切れとペンと取り出した。「ここに必要事項を書いて。あと本人確認できる物を見せて」

 望夢はその紙をまじまじと見た。名前や住所、電話番号は定番。その他、犬の犬種と名前、それに飼い犬か拾ったのか等。飼い犬ならなぜ飼えなくなったのかを記載する欄もある。

 望夢はペンを取ると、すべて正確に書き記し、飼えなくなった理由には『家族関係の乱れ』と記入した。

 受付の男性は差し出された学生証と紙を見合わせた。男性の目線が上から下へとどんどん下がっていく。そして一番下の飼えなくなった理由で目が止まった。そして望夢に目を向けた。

「…お家ではもう飼えないんだね?」

「……はい。無理…です…」望夢はぎこちなく答えた。

 男性はいいだろうという感じに頷くと、「じゃあ、その子をこのケージに入れて」と言って、持ち運びできるケージを床に置いた。

 望夢はクロを下ろした。「さあクロ、入るんだ」

 望夢はケージの入り口を開けた。クロはケージの中を見つめたが、入らずに望夢に振り向いた。

「クロ、入れ」望夢はクロのお尻を押して無理矢理入れようとした。

 そのとき、奥の方から『ワオーーーン‼︎」と鳴き叫ぶ声がした。望夢はクロを押す手を止めた。

 さらに『ワンワン‼︎』『キャン‼︎キャン‼︎』と狂ったかのような犬の鳴き声が次々に聞こえてきた。

 受付の中年男性はそれには無反応で、クロのことを見つめていた。その目が何とも悲しそうだ。

 望夢は男性のその目に気づき、「あのー、」と無意識に声が出ていた。

 男性は望夢に目を移し、「なんだい?」と尋ねた。

 望夢は本心に任せて言葉を発していた。「引き取った犬たちを見てもいいでしょうか?」

 男性は「もちろんだよ。おいで」と頷き、受付を出て歩いていった。

 望夢はクロを片腕で抱いて後に続いた。

 いくつかに分けられた犬の保管場所。廊下との境に鉄柵が設けており、まるで刑務所のようだ。数え切れない数の犬が檻に閉じ込められている。犬たちが望夢が通る度にすがるように鉄柵に手をかけて尻尾を振っている。一方、無頓着で檻の奥で諦めたように寝そべっている犬もいる。

 廊下の奥に進むにつれて、鳴き叫ぶ声が大きくなっていった。それはもはや鳴き声とは言わず、遠吠えと言うのが相応しい。

 男性は一番奥の檻の前で足を止めた。望夢は恐る恐るその檻を覗いた。十数匹の手入れされていない犬がせわしなく歩き回っていて、命乞いするように吠えている。どの子も毛が伸び放題だったり痩せ細っていたりして、檻から血に飢えたゾンビのように手を伸ばし、耳を覆いなくなるような凄まじい遠吠えを奏でている。

 望夢は呆気に取られてその光景を見つめていた。犬たちのその声が、もはやレクイエムのように感じられた。この光景は、望夢の脳内に一生忘れられることのない記憶として焼き付けられた。

 クロはおびただしく震えていて、望夢の腕に振動が伝わってきた。望夢はクロを慰めるようになでた。

「明日殺処分される子たちだ」男性は力の抜けた声で言った。

「…殺処分…」望夢は繰り返した。

 男性は頷いた。「昨日だって数匹処分されたばっかりなのに、切りがない。震災の影響で飼い主を失った犬たちも多く運ばれてくる…」

 男性がそう話す間も、犬たちの悲痛に満ちた鳴き声は鳴り止まなかった。

「人の都合で飼われて、人の都合で手放される。勝手だと思わないか?人間ってのはどこまでも自分勝手な生き物だよ…」

 揺さぶられていた望夢の心がついに弾かれた。目に焼き付くこの光景、男性の言葉、震えるクロ、すべてが自分自身に訴えているように感じた。叶うなら全員、ここにいる子たち全員の命を救ってあげたい。でもそれはできない。わかってる。だけど、けれども、少なくとも1匹は救える…‼︎

「…やっぱりやめます」望夢はのたうち回る犬たちを見つめて言った。「この子は連れて帰ります」

 曇っていた男性の顔が、微かに綻びた。「そう言ってもらえて嬉しいよ。その子、大事にしてやってくれ」

 望夢は頷くと、保健所を出て、クロを自転車のカゴに乗せ、込み上げてくるものを堪えて自転車を漕いだ。




「はぁ…はぁ…はぁ…」

 車が絶えず行き来する車道の縁で、望夢は自転車を止め、サドルに腰かけたまま電柱に片手をつけて呼吸を整えていた。荒い運転をした訳でもないのに呼吸が乱れている。

 望夢はゆっくりと視線をクロに移した。自転車のカゴの中で落ち着いた様子で座っている。クロは望夢を見つめ返した。

「…お前、どうしたい?」望夢は問いかけた。

 クロはもちろん答えない。

「…お前はどうしたいんだよ⁈なあ⁈」望夢はカゴを叩いた。

 クロはビクッとして縮こまった。

「お前の人生だろ⁈生きたいとか死にたいとかあんだろ⁈なあ⁈頭悪いのは知ってるよ!けどよ!保健所は嫌、うちでも懐けない、じゃあどうしたいんだよ⁈おい⁈どうしてえんだよ‼︎」

 望夢はカゴをガサガサと揺すった。

 クロはビクビク震えた。

 望夢ははっと我に帰った。「…ごめんよ。…犬だもんな…飼い主が決めてやらないとダメだよな…」

 望夢は優しくクロをなでた。「…でもお前は手がかかるからな。お前を飼える人なんて…」

 そのとき、ある老人が望夢に歩み寄った。「大丈夫ですかぁ?具合でも悪いんですか?」

 望夢はふっと顔を上げた。

「…望夢?望夢じゃないか!」老人はたまげて声を上げた。

「?爺ちゃん⁈」望夢もおったまげた。

「おう!そうだ!おい花子!望夢だ望夢!」

 爺ちゃんは駐車場の方に呼びかけた。すると、買い物袋を下げた花子お婆ちゃんが「おやー?」とこちらに向かってきた。

 望夢は感無量だった。目の前にいるのは見慣れた白髪混じりの爺ちゃんと婆ちゃんだ。そういえば、この道は二人の家に行く通り道だ。

「でもどうした?自転車で、犬まで乗せて、こんなとこまで」爺ちゃんは眉間にシワを寄せた。

「それが……話すと長いんだ。家族がバラバラで、こいつを保健所に引き取ってもらおうと…」

 二人はポカーンとした。

「…まあ、とりあえず家に来なさい。細かいことは家でゆっくり聞かせてくれない?」婆ちゃんはにこやかに言った。




 築60年以上の古びた本橋家の実家にて、望夢はコーヒーの入ったカップを差し出された。クロは平たいお皿に入れられた水を飲んでいる。

「あ、ありがとうございます」

「ジュースを切らしてて、出せるものがそれくらいしかなくて。ごめんなさいね」婆ちゃんは謝った。

「まさかばったり会うとはな」親父はビールの蓋を開けながら言った。

「本当にびっくりだよ」

 望夢は飲み慣れないコーヒーをすすった。当然、苦かった。それでも苦い顔をしては失礼と思い、何食わぬ顔でちびちびすすった。

「それで、どういう訳だ?犬を保健所に入れるって?」

 望夢は震災後に起こったすべてを話した。

「…なんてこった」爺ちゃんは失望したように呟いた。

「そんな…酷過ぎる」婆ちゃんも残念そうに目線を下げた。

 爺ちゃんはビール缶を握り締めた。クシャッと缶が歪み、入っていたビールが飛び出た。「雄一のやつ、何してんだか!自分で連れ帰ってきた犬ならちゃんと世話しろよな!」

「それもそうだけど、問題はそこじゃないでしょあなた?二人が離婚するのを止めないと」

「わかってらー!」親父は潰れた缶のビールを口に注ぎ込んだ。

「どこから話すべきかねー?どうして離婚話なんかになったのか…」

「とりあえず、望夢、」爺ちゃんは向き直った。「クロを保健所に引き渡さなかったのは正しい判断だ」

「ほんと?」

「もちろんだ!犬だって大事な家族なんだ!粗末な扱いしたらバチが当たる!」

 爺ちゃんはまた新しいビールを開けた。

「あなた、落ち着いてちょっと」婆ちゃんは爺ちゃんをなだめ、望夢に目を向けた。「剛の言う通り。この子を保健所に入れても何も解決しない。この子だってそれで嬉しいとは思わないわ」

 望夢はクロに目をやった。嬉しそうに尻尾を振っている。

「でも、こいつトイレも決められたとこでできないし、食事ももうしないし、うちで飼えそうにないんだ…」

「それはきっと、愛情不足じゃないかしら?」婆ちゃんは言った。「雄一と玲子さんは喧嘩ばっかりで、クロのことはそっちのけなんでしょ?クロは愛情を感じてないのよ。愛情がないとストレスを感じる。食事もしないし、トイレも辺り構わずやっちゃう。違うかしら?」

「トイレは小さい頃からできてなかったよ。もともと野良犬だからね」

 望夢は苦いコーヒーをすすった。

「そーかそういや拾ってきたんだったな!」爺ちゃんがまた口を開いた。「ならクロ、嬉しかっただろうな!拾ってもらったとき!」

 望夢は親父がクロを連れて帰ってきたときのことを思い出した。その日は雨が降っていた。親父は仕事帰りに首輪なしでうろつくクロを見つけ、連れてきた。クロは痩せ細っていて雨でびしょ濡れだった。親父はすぐに体を拭いてやり、ドッグフードに焼き鳥を乗せてあげた。クロは貪るように食べてあっという間に平らげた。母は良い顔はしていなかった上にアミとも喧嘩する有様だったが、親父は見捨てるのはかわいそうだと言ってクロを大事に育てた。あの頃のクロはとても幸せそうだった。

 しかし、時が流れて、親父は仕事が遅くなった。次第に家にいる時間が減り、クロの世話は母がしぶしぶ見るようになっていった。誰に責任があるのかと言うと、やはり親父だし、母が憤りを感じるのも無理はない。

「…うん。たしかに、クロ嬉しそうだったよ」

「じゃあ、雄一と玲子さんが仲直りすればかクロは問題なさそうね」

「そうなんだけどそれが問題なんだよ。あの二人はクロがいる限り喧嘩し続けるんだ。クロがいても仲直りできない」

「なんかややこしいな」爺ちゃんはうーんと首を傾げた。「クロを手放さずに二人が仲直りできりゃいいんだけどな」

「おれはもう、別にいいけどね」望夢は吐き捨てるように言った。「仲直りしなくて」

「どうして?」婆ちゃんが悲しそうな顔をした。

「こんなことで離婚するなら、その程度の仲だたってことだよ。そんな親に育てられても嬉しくないし、一緒に暮らしたいとも思わない」

 爺ちゃんも婆ちゃんも口を閉ざした。しばしの沈黙が食卓を包んだ。

「…望夢…そんなこと言わないで…」婆ちゃんは目を潤ませた。

「…ばか……馬鹿野郎‼︎」爺ちゃんが立ち上がって拳をテーブルに打ちつけた。

 望ははっとした。

「…たしかに離婚話持ち出した二人が悪い!だけどな!だからって二人の仲がその程度のもんだったなんてこたあねえ!あの二人にもな、ちゃーんと愛はあんだよ!」

「あなた、落ち着いて」花子はなだめた。

「雄一が初めて玲子ちゃんを連れてきたときはもーどうしようもなく嬉しかったぜ!あんなへたれだった雄一が、綺麗な女の子連れてきたんだからよ!そのときあいつこう言ったんだ!『もうプロポーズは済ませてる。彼女の両親にも挨拶に言った。俺が一生大切にするって何度も頭下げてきた』ってな!」

 爺ちゃんはゴクゴクとビールを飲んだ。

 婆ちゃんはやれやれと思いながら望夢に笑いかけた。

 爺ちゃんは口元を手の甲で拭った。「雄一は自分にとって大切なものをどこまでも大切にする!それは玲子ちゃんに対しても同じだ!それに望夢!お前も大事にされて今日まで生きてきたんだ!だから両親を蔑むようなことはぜーったいに言っちゃならねえ!」

 黙って聞いていた望夢の目から涙がこぼれた。

 「あなた、もう充分よ」婆ちゃんがなだめること3回目。

「大事なことだからよ。望夢、よく聞け」爺ちゃんは落ち着いた口調に戻って腰を下ろした。「親ってのはー、子供を育てるもんだし大事にするもんだ。でもな、それは子供だって同じことなんだ。親だって子供から教わるし、子供だって親を大事にするものなんだ」

「子供が、親に、教える…?」望夢は繰り返した。

「そうだ。俺たちも雄一から色々と教わったもんな?」爺ちゃんは婆ちゃんを見た。

 婆ちゃんは「そうねー」と頷いた。

「何を教わったの?」

「例えば、雄一が受験生だった頃だ。大学受験な。雄一にとって大事な時期なのに、俺たち喧嘩しちまってよ!はっはっはっは!」

「今だから笑える話よね」婆ちゃんは照れ臭そうに頷いた。

「だな!なんで喧嘩してたかももう覚えてねえ。とにかく、そんな大事な時期だってのに俺たち大喧嘩してよ、そんとき雄一、どんな態度取ったと思う?」

「二人に説教したとか?」望夢はダメ元で答えた。

「いーや。何もしなかった」

「え?」望夢は口をポカンと開けた。

「俺たちには何もしなかったし、何も言ってこなかった。ただひたすら、机と向かい合って必死で勉強してたんだよ」

 爺ちゃんはビールをゴクゴクと飲んだ。

 望夢は納得がいかなかった。「それで何を教わったの?」

 爺ちゃんはカツンとビール缶を置いた。「あの時期あいつは、帰ってきたら自分の部屋に直行して、すぐに勉強してたんだ。もともと勉強嫌いでなかなか受験勉強も始めなかったあいつが勉強、勉強。俺たちが居間で言い合いしてても気にも止めなかった。いや、気にはしてただろうな。でも何も言わなかったんだ。そんであるとき、どうして急に勉強しだしたか聞いたんだ。そしたらあいつな…」

 爺ちゃんはニヤリとして婆ちゃんと目を見合わせた。婆ちゃんもにっこりしている。

「…何て言ったの?」望夢は尋ねた。

「あのときの言葉は今でも忘れねえ。『好きな人ができた。結婚したいから、何がなんでも志望校入って良い仕事に就きたい』ってな」

「すげぇ…」望夢は息を呑んだ。初めて親父を誇らしく思った。さらに涙がこぼれ落ちた。

「だろ?俺もあのときは負けたーって思ったぜ!スポーツも勉強もろくにできなかった雄一があんなこと言ったんだぜ?」

「ほんとに感動したわー」婆ちゃんもしみじみと思い返した。

「それ聞いて、俺たちは喧嘩をやめたんだ。雄一が頑張ってるのに、喧嘩なんかしてちゃ申し訳ないってな」

 このとき望夢は普通に泣いていた。自然と涙が込み上げてきては目から溢れ出ていた。

「つまりな、望夢、今お前にできることを精一杯やるんだ。両親はその姿見て考え直してくれるよ」

 婆ちゃんは望夢にティッシュを差し出した。望夢は受け取って目に押しつけ、「はい」と返事した。

「あの二人だってお互い大切だし愛し合ってんだ。ただ、今はその気持ちを忘れちまってる。それを思い出させてやるんだ、望夢!お前が見放したら二人はバラバラだ!でもまだ間に合う!お前が二人を繋ぎ止めるんだ!」

 爺ちゃんは望夢の肩に手を添えた。望夢はまた「はい」と返事した。

「大丈夫よ望夢」婆ちゃんも優しく言った。「雄一の子だもの。あなただって大事なものを守る力は絶対にある。応援するから」

 望夢はさらに「はい」と頷いた。涙は止まらず、ティッシュ1枚では足りなかった。

 クロは心なしか尻尾を思いっきり振っていた。




 本橋家の玄関前で、望夢はクロを自転車のカゴに丁寧に入れた。

「じゃあ、お邪魔しました」望夢は頭を下げた。

 爺ちゃんと婆ちゃんは並んで望夢を見送った。

「また来な!」爺ちゃんは望夢の肩をポンと叩いた。

「気をつけてね!いつでもいらっしゃい!」婆ちゃんも微笑んだ。

 望夢はサドルにまたがった。「落ち着いたらまた来るね!」

 望夢はペダルを漕ぎ始めた。

「クロのこと、大事にしてやってな!」爺ちゃんは望夢の後ろ姿に叫んだ。

「おお!任せといて!」望夢は振り向いて手を振った。

 爺ちゃんと婆ちゃんは、望夢の姿が見えなくなるまで手を振った。

 望夢が完全に見えなくなると、爺ちゃんは家に飛び込んで受話器を掴み、老人とは思えない速さで番号を打った。

「もしもし雄一?留守電か。…俺だ。剛だ。まだ仕事中か?今望夢が家に来たんだ!全部聞いたぞ!お前にはがっかりだ!実の子を苦しめやがって!後で折り返しよこせ!」

 婆ちゃんはそんな爺ちゃんを見て微笑んだ。

 望夢は安全運転でできるだけ早く自転車を漕いだ。クロはカゴの中で大人しく望夢を見つめている。

 望夢は赤信号で自転車を止めた。

「もうすぐ家だぞ」そしてクロを優しくなでた。

 クロは嬉しそうに望夢の手をなでた。

 今の望夢にはどうするべきかはっきりわかっていた。ようやく答えが出たのだ。

 数分後、望夢はクロを抱えて家に入った。

「お帰り。どこ行ってたの?」リビングで寝そべっていた母は上半身を起こして尋ねた。

 望夢は正直に話そうと決めていた。

「…クロを保健所に連れていこうと思った」

 母はキョトンとした。「…そうだったの…」

「うん。でもやめたんだ」

「どうして?」母は真顔で尋ねた。もう本当にクロのことはどうでもいいようだ。

「…できなかった。残酷過ぎて、クロのためにならないと思った」

「そう。でも、私はもう世話する気はないからね」

「わかってる」望夢はクロを見た。「だからおれが育てる」

「…は?」母の表情にようやく変化があった。あまりにも予想外だったらしい。

「母ちゃんも親父も世話しないなら、おれが世話する」

「あんた、高校生でしょ?無茶言うんじゃないよ」母は望夢から目を背けてまた寝そべった。

「やるんだ!学校から帰ったら散歩行って、ご飯もおれがあげる。たしかに無茶かもしれないけど、そこまでしないと、飼い主とは言えない」

 母はまた上半身を起こした。が、望夢と目は合わせなかった。

「…あんたね、簡単に言ってんじゃないよ?子供でも犬でも、面倒見るのは大変なんだから!やる気があればできるってもんじゃないから!」

「わかってるよ!」望夢は声を張り上げた。しかし落ち着きは保っていた。「できるところまでやりたいんだ!親父や母ちゃんがおれにしてくれたように!そのくらいしないと、親父や母ちゃんの気持ちはわからないし、何もせずにクロのこと見捨てるのは無責任なだけだし!おれはやる!母ちゃんに迷惑かけないから!自分で全部やるから!」

 母はここで再び望夢の目をしばし見つめた。そして挙句にこう言った。

「…勝手になさい。やりたいだけやって思い知ればいいわ。泣こうが喚こうが、全部自分の責任だからね?」

「ああ。そのつもりだ。何もしないで後悔するよりずっとマシだ」

 望夢はクロをケージに入れて優しくなでた。

 母はそんな望夢を見つめていた。




 次の日から、望夢は学校が終わるとすぐに帰宅するようになった。

「ただいま!」

 そして家に入ると即行で私服に着替え、クロのもとに行くとケージから持ち上げて首輪をつけ、散歩に出た。

「行ってきまーす!」

 散歩中はいつも通りだ。世間話大好きおばさん。その飼い犬に跨られるクロ。犬に会う度に吠えるクロ。女性に飛びつくクロ。望夢はリードを強く握りしめて怒りを抑えた。

 落ち着け自分。しつけすればきっと直る!

 家に帰ると、クロを浴室で丁寧に洗い、バスタオルで綺麗に拭いて、ケージに戻した。

 夜にはご飯をお皿に盛ってやった。いつも通りドッグフードだ。しかしクロは食べなかった。

 やっぱり駄目か…。でも爺ちゃん婆ちゃんの言う通りストレスが原因なら、そのうち食べてくれるかな?でもそんなの待ってたら先に餓死するんじゃないか…?というか、そもそもドッグフードが美味しくないとか⁇

 望夢は試しにドッグフードをひとかけら口に放り込んだ。途端に望夢はむせた。「げっへ!げっ‼︎まっず‼︎」

 こんな不味いもの食べるはずがない。今日までよくこんなものを我慢して食べていたものだ。自分が毎日こんな飯出されたら餓死する方がマシだと思うだろう。

 望夢はスマホで犬が食べられる物を調べてみた。するとお米やパンは大丈夫という情報を得たので、残っていた食パンをあげてみた。

「クロ、お食べ」

 クロはくんくんと望夢が差し出したパン切れの匂いを嗅ぐと、舌で舐め取るように口に含み、もぐもぐと美味しそうに食べた。クロは食べるペースを上げていき、食パン1枚を完食した。

「なるほど。問題は味か」

 望夢はさらにスマホで調べた。

「ただいまー」その間に親父が帰ってきた。

 親父はクロのもとへ行くと、「遅くなってごめんな!よしよし!散歩行こっか!」とクロを持ち上げた。

 望夢は「もう行ったよ」と言ってやった。

 親父は「お?」と驚いた。

「もう行ったよ。これからはおれがクロを世話する」

「…なんだ急に?できんのか?」

「任せといて!親父は無理すんな!」

 親父はポカーンと望夢を見つめた。「…そういえば、お前、爺ちゃんと婆ちゃんに会ってきたんだろ?爺ちゃんから電話があってな」

「ああ、行って来たよ?」

「…すまねえな。望夢に苦労さえちまって…」

「全然。というか、俺はまだまだ苦労が足りないよ…。んじゃ、風呂入ってくるわ」

 親父は浴室に向かう望夢を不思議そうに見つめた。

 その翌日も望夢はすぐに学校から帰ると、地元のスーパーに自転車を走らせ、袋いっぱいに食材を買い込んだ。すべて自分のお小遣いで買ったものだ。

 家に帰ると、まな板と包丁で不器用ながらも買った食材を細かく刻んだ。人参やじゃがいも、きのこにキャベツ。さらに細かくした鳥の胸肉も混ぜて、それらを小さな鍋で煮込んだ。

 充分に煮込んで冷ましたそれを器に盛り、クロに差し出した。最初、クロは見たこともない食事に動揺したが、恐る恐る口にしてみた。結局、ドッグフードよりは食べたが、野菜は種類によっては残していた。

 望夢は毎日入れる野菜を変えて、クロの好みを研究した。

 リビングの母は、そんな望夢を不思議そうに見つめていた。

 望夢は散歩中も工夫を凝らした。犬の吠え癖を直す方法をスマホで調べて、試してみた。

「…『他の犬と接し慣れていないと警戒心が湧いて吠える』か。なるほど。解決方法は、『少しずつ距離をつめて慣れさせればいい。』」

 望夢は実践してみた。思い切ってゴールデンレトリバーにクロを近づけて見たが、お互いに威嚇して喧嘩になってしまった。

 そこでオリジナルの解決策を考案した。犬や女性とすれ違うとき、クロが吠える前にリードを強く握って、ジャーキーを見せつけた。スーパーで買った犬用のおやつだ。クロは自然と大人しくなる。障害物が通り過ぎるのを待って、それまでにクロが吠えなければそのおやつをご褒美として上げる、という方法だ。望夢はしばらくこれを続けた。

 トイレのしつけも頑張った。犬がトイレ以外のところで用を足したら怒らず、トイレシートの上でできたら褒める。これが基本的なトイレのしつけだ。しかしもともと野良犬のクロに教え込むのは至難の技だった。何度も間違ったところで用を足し、その度に望夢は掃除した。そして偶然でもトイレシートでできたときはうんと褒めた。

 こんな生活を続ける望夢に、さらなる問題が生じた。クロに凝ったご飯を与えるようになった望夢のお小遣いはどんどんなくなってしまった。

「まずい…。これじゃあ食事が買い足せねえ」

 自分のお財布を覗き込む望夢に親父が気づいた。

「望夢、お金足りなかったら言えよ?犬の世話に金掛けてちゃすぐなくなるだろ?」

「あ、うん。ありがとう」

 望夢はそう返したが、親父にも、もちろん母にも、頼る気はなかった。自分で育てると決めたから、すべて自分で成し遂げてみせる。そう考えていた。

 そのため、とうとう望夢はアルバイトを始めた。土曜日と日曜日の週2回、近くのファミレスで料理を運んだりお皿を洗ったり会計をしたりしてお小遣いを貯めた。仕事に慣れない望夢は、何度もお皿を割ったり、会計金額を間違えたり、お客さんを怒らせたり、店長に怒られたりした。

 日々の苦労は倍になったが、クロはどんどん元気になった。ご飯はガツガツ食べるようになり、散歩では吠えるのをやめ、トイレも指定の位置でできるようになった。準じて、見栄えも変わった。痩せ細っていたクロはむしろ太ってると思われるくらいに膨らんだ。

 母も少しずつ元気を取り戻していった。ある日、望夢がクロの散歩から帰ると、テーブルに出来立ての温かい料理が並べてあった。メインディッシュは望夢の大好物のカレーだ。厨房にはエプロンをつけて鍋をかき混ぜる母がいた。

 望夢はびっくりした。「母ちゃん、作ったの⁈」

「ええ。よかったら食べて」

 それだけ言うと、母はエプロンを外して自室に入った。

 望夢がありがたく頂いていると親父が帰宅した。

「ただいま。おっ?うまそうだな!」

「これ、母ちゃんが作ったの」

「ほんとか⁈」親父も仰天して、階段下から、明かりの漏れる母の部屋を見上げた。

 望夢は満足だった。以前よりも忙しくなって疲れは増えたけれど、確実に良い方向に進んでいる。あとは、このまま離婚話がなかったことになってくれれば完璧だ。




 そんなある日。

「いらっしゃいませー!」入店音に望夢は威勢よく応えた。「2名さま…え⁈」

 驚いたことに、入店したのは親父と瞳だった。

「親父、瞳、どうして?」

「お前の働きぶりを見に来たんだ」親父はニッと笑った。

 瞳もニコッとした。「それに、売り上げに貢献したいし。聞いたよ?ワンちゃんのために頑張ってるって。通りで最近帰るの早かったんだねー。言ってくれればよかったのに」

「ごめんごめん。いや、言っても余計な心配させるだけかと思ってさ」

「むしろ教えてくれない方が心配だよー。この前だって落ち込んでたし。幼馴染ならそのくらい話してくれなくちゃ!」

「わりーわりー。今度ゆっくり話すよ。とりあえず席に案内する」

「よろしくー!」

 望夢は二人を4人用の広いテーブルに案内した。

「注目は?」

「あたしこれ」瞳はメニューのパスタを指差した。

「おっけ。親父は?」

「一番高いのを頼む」親父はメニューを見ずに告げた。

「一番高いのだと、黒毛和牛の特大ステーキだけど、大丈夫?」

「俺にはちと重いな。でも望夢の稼ぎになるなら頑張るぞ!」

 望夢は苦笑した。「親父、高いもの頼んでもおれの給料は変わんねーよ?」

「あ、そっか!」

 三人は笑った。

「じゃあ、普通のハンバーグ定食で」

「ハンバーグ定食で。かしこまり!」

 望夢は厨房に入った。

 料理が来るまで、瞳は親父にいくつか質問してみた。

「最近はどうですか?奥さんは」

「玲子な、まだ家にこもりっきりだけど、掃除とか、皿洗いとか、料理も少しずつやってくれるようになったぞ」

「それはよかったです!」

「望夢が頑張ってるくれてるからな。よく成長したもんだぜ。クロも元気になったし」親父は厨房に立つ望夢を見た。

「クロちゃん、お家で暮らしていけそうですか?」

「もう問題なしだな。クロも立派な家族の一員だ」

 二人でそんな話をするうちに、望夢が両手で料理を運んできた。

「お待たせ致しまし…とおっ‼︎」

 望夢はバランスを崩してそのまま倒れてしまった。料理は親父にぶちまけられた。頭に乗ったパスタがまるでカツラみたいだ。

「なーにやってんだばっかヤロー‼︎てめーに払う金はねー‼︎」上機嫌だった親父は豹変し、怒鳴り散らした。

 望夢は慌てふためき、何度も頭を下げた。

 瞳は大笑いするのを堪えるのに必死だった。




「ただいまー」

 深夜、望夢はバイトから帰宅した。

「おう、お帰り」寝巻きに身を包んだ親父がクロを脇に抱えてなでていた。「今日は大変だったな」親父はからかった。

「ほんとにごめん」

 親父にパスタとハンバーグをぶちまけた望夢は何度も頭を下げ、新しい料理を運び直すことで許しを得た。帰り際、親父は「美味かったぞ!ご馳走さん!」と言ってきっちり定額支払ってくれた。望夢は恩に着て、店の外でも頭を下げて見送った。

「クロ、ずいぶん膨らんだな」親父はクロを両手で持ち上げて目を丸くした。

「でしょ?食事ちゃんとするようになったからな」望夢は得意げに言った。

 しかし親父は不安そうだ。「いや、にしてもずいぶん大きいぞ?まるで…」

 言いかけた親父はクロのお腹に目が止まった。小さな体とはアンバランスにぼってりと膨らんだお腹。さらに疑わしいのは、膨れたお腹の一部が、まるで野球ボールでも入っているかのように盛り上がっていること。

 望夢は親父と顔を見合わせた。

「いや…太ってるだけでしょ…そんな…」

 望夢も歩み寄ってクロのお腹に触れた。丸みを帯びた膨らみは、微かに動いた。

「…うそ……」

 途端に、望夢に罪悪感が沸いた。

 クロは妊娠していた。

 数十秒後、母をリビングに呼んで家族会議が開かれた。

「なんてことかしら…」母はテーブルに両肘をつき、頬をこすった。「どうして?いつ身籠ったの?」

「心当たりがあるのは散歩中。話の長いおばさんが連れてる柴犬が、クロに跨ってた」望夢は沈み込んだ様子で答えた。

 母はやれやれと首を振った。「散歩中はちゃんと見てなきゃ!よその犬に跨らせるなんて言語道断!自分で世話するとか言っといて、全然責任ないじゃない‼︎」母は声を張り上げた。

「まあまあまあ!」親父が止めた。「全部望夢のせいにするのはよせ。あのおばさんだって自分の犬ちゃんと見てねーし、抵抗しなかったクロだって悪いだろ?」

「何言ってんの!犬が自分で抵抗できると思う?無理だから飼い主が見ておくものでしょ!小さい子と同じで、自分で良し悪しの判断ができないから飼い主がしつけする責務があるの!」母は目線を望夢に移した。「あなたにはまだ早過ぎたわね!」

「…ごめんなさい…」望夢は本気で反省していた。

「そうだけどよ、少しは褒めてやれよ」親父がまたなだめた。「望夢はよくやってくれてんだろ?クロは元気になったし、クロのために仕事までするようになってよ」

「頑張ってるから許されるなんてことはありません」母は言い切った。

 親父は母を睨んだ。「お前は文句ばっかだな!自分は世話する義務ないとか言って人に世話させといてよ!ちょっとは…」

「はっ⁈前から言ってるけどもとはあんたが飼ったんでしょ⁈あんたこそ私に任せっきりだったくせによく言うわよ!」

「自分できるときはやってただろ!」

「できるときじゃなくていつでもやりなさいよ‼︎そういうとこよ‼︎…」

「お前だって…」

 クロはケージの中で縮こまっていた。

 望夢は息苦しくなり、何も言わずに家リビングを出た。玄関を出て、どこへともなく歩いて家から遠ざかる。両親の言い合いが聞こえなくなり、家が視界からなくなるまで。望夢は振り返らずに歩き続けた。気づけばいつの間にか走っていた。

 駅に近づいたところで望夢は足を止め、両手を膝について呼吸を整えた。しかしいつまで経ってもまともな呼吸はできなかった。苦しかった。疲れのせいではない。すべてを投げ出してどこかに行ってしまいたい気分だ。

「…何で…何でこうなる…」望夢の目から涙が溢れた。「…振り出しに戻ったじゃねえか…なんにも変わってねーじゃねーかよ‼︎」

 望夢は人目も気にせず、夜の町で叫んだ。そして膝から崩れ落ちた。

 その様子を、少し離れた場所から亜久間は見守っていた。




 放課後の病院の廊下を歩く瞳。制服姿で片手に紙袋を下げている。2度目の芽傍のお見舞いに来たのだ。

 ピロン!と着信音が鳴り、スマホを見ると、望夢からメッセージが来ていた。

『相談いい?』

「え?」瞳は驚いて一瞬立ち止まった。あの頑固で強がりだった望夢が相談を求めてくるなんて。この頃素直になって来たのかな?

 瞳はニヤッとして、『今から芽傍くんに会うから、その後ならいいよ?』と送った。

 すぐに『待ってる』と返事が来た。

 瞳は病棟の扉を開けた。

「よ!調子どう?」入院患者にも潔く挨拶を交わす瞳である。

 芽傍はいつも通りのテンションで「まあまあ」と答えた。「また来てくれたのか。悪いな」

「気にしないで!これどうぞ!」瞳は差し入れの紙袋を置いた。「芽傍くんの好みわからないから好きそうな物選んでみた」

 芽傍は手を伸ばして紙袋を掴んで中を見た。ドライフルーツが入っている。

「嫌いじゃないけど、なぜドライフルーツ?こういうときは誰でも好きそうなクッキーとか持ってくるだろ普通」と冷静にツッコむ芽傍。

「なんか、芽傍くんっぽいなって思って」瞳はテヘッと笑った。「サバサバしてるから。ドライだけに、なんちゃって!」

「帰れ」芽傍は真顔で返した。

「冗談だって!今日も望夢と来たかったんだけど、最近元気なくて。さっきも相談したいって送ってきたし」瞳はスマホを見せた。

「なんかあったのか?」

「あったんだろうね…。いい方向に行ってたって聞いたのに…」

「ほう」

「あ、今話せるかも?話してみる?」瞳は望夢のアカウント画面を芽傍に見せてスマホをフリフリした。

「いや、今は…」

 芽傍が答える前に瞳は通話ボタンを押していた。

 ベッドに寝そべる望夢。突然着信音が鳴り、はっとしてスマホを手に取る。発信源が瞳だと把握すると、3コール目で応答した。

『もしもし?』

「望夢、今芽傍くんと一緒だよ!」

 瞳はスピーカーをオンにしてボリュームを上げた。

「元気か?」芽傍から声をかけた。

『おお…久しぶり。…いや、だいぶきつい…』

 望夢のため息がスマホ越しに聞こえた。

「…大丈夫?相談したいって言ってたけど?今聞こうか?」瞳は提案した。

『え?今?芽傍もいるだろ?』望夢は動揺した。

「だめ?」と瞳。

『……いや、まあいい。実はな…』

 二人は望夢の話を深刻な面持ちで聞いていた。

「…なるほど…」瞳はため息を吐くように呟いた。

「やっかいだな」芽傍も考え込んだ。

「ああ。それで悩んでる。おれなりに頑張ったのに、結局両親の仲は逆戻り。どうすりゃ良いんだか…」

「うーん、難しい!」瞳は頭を抱えた。

 芽傍はやはり平静を保っている。「本橋、クロの子はどうする?飼うのか?」

『いや』望夢は天井を見つめている。『その気はない。今朝親父とも話したけど、母ちゃんはクロの子を育てる気はないだろうし、親父も仕事で面倒見る余裕がない。おれは…無理ではないけど、正直もう犬はこりごりなんだ。犬のせいで親父と母ちゃんが喧嘩してるから、犬が消えればそのうち元の生活に戻れるんじゃないかと思う』

「じゃあ、中絶するの?」瞳は悲しそうに尋ねた。

『いいや。中絶ってなると金かかるし、もうだいぶ大きくなってるから、うちで産ませるよ。そしたら近所の人に譲ろうと思ってる』

「そうなんだ!いいかもね!」瞳は安心して微笑んだ。

 しかし芽傍は深刻そうな顔をしていた。

「本橋」おもむろに呼びかける芽傍。

『ん?』

「…僕の勝手なお願いなんだが、できれば…飼ってやってほしい…」

『……どうして?』望夢は落ち着いて問いかけた。

「たとえ親が意図せず産んだとしても、その子に責任はないからだ」

 一時静寂に包まれる病棟。その静寂は望夢の部屋にも共鳴していた。

『……どういうことだ?』

 瞳も理解できず首を傾げた。

「望まずして生まれてきたことを知ったら、子供は悲しむ。一生その悲しみを背負って生きていくことになるんだ」

 芽傍の言い方にはすべてを悟っている雰囲気があった。望夢は言い返しにくかったが、思い切ってこう言った。

『犬はそんなこと気にしないだろ?自分の親がどうして産んだとか考えないし、悲しいとか思わないだろ』

「犬だって生きてるんだぞ。感情はある。それに、人にとって一番身近な生き物だから、人の気持ちもよく理解する。長年犬と過ごしてきたならわかるだろ?」

 芽傍の言うことは最もで、望夢は言い返せなかった。瞳も納得したように数回頷いた。

『…でも…でも、うちはどうなる?家族は?犬がいたら…もう…もう…』望夢は言い切る前に泣き出した。

 芽傍はなおも落ち着いた様子でスマホを見つめていた。「本橋、お前なら大丈夫だ。今のお前なら、家族をまとめあげられる」

『…う…ど、どうやって…?』望夢は泣きながら尋ねた。

「一度いい方向にもっていけたんだろ?もう一度できるはずだ。何もしてやれなくて済まないが…」

 望夢のすすり泣く声が病棟を包んだ。

「…望夢、頑張ろ?」ここで瞳が奮い立たせた。「あたしも応援してるから。望夢なら乗り越えられる。信じてる!」

 瞳は見えないとわかっていながらガッツポーズをスマホにして見せた。

『う…う…ぁ…ありがと……』望夢は声を絞り出した。

「余計なこと言って済まない」芽傍は単調な口調で謝った。「クロの子を育ててほしいっていうのは僕の願望に過ぎない。よく考えて自分で決めるといい。頑張れよ」

『お…ぅ…ありが…ぅ…』

 望夢は通話を切った。

 望夢はうつ伏せで枕を握り締めた。止まらない涙が枕を染め上げていく。

 どうしたらいい?どうしたらいいんだ⁈望夢は自分に問いかけた。震災後に起こった出来事が一つずつフラッシュバックしてきた。家族が割れて、離婚の危機に陥って、爺ちゃんに激励されて、元の家族に戻れそうになって、また崩れて…

 何度も思い返すうちに浮かぶ考え…それは。

『今お前にできることを精一杯やるんだ』

 爺ちゃんの言葉が頭から離れなかった。

 …今できること…!

 望夢は枕を強くぎゅっと握り締めた。




『望夢、クロのお腹を見るに、もういつ生まれてきてもおかしくないから、しっかり見とけよ。俺は仕事休むわけにもいかねえから立ち会えない。悪いな』

 出勤前に親父が言い残した言葉が望夢の頭でループしていた。不安で仕方なかった。当然出産の補佐なんてしたことがない。望夢はひたすらスマホで犬の出産方法や出産前の様子を調べた。

 この頃にはクロを散歩に連れていくのをやめていた。お腹が重くて歩くのが精一杯だし、散歩中に破水したら大変だ。クロはケージの中で寝たきりの生活を送っていた。食べるときとトイレのときくらいしか動かない。

 望夢はたまたま冬休みに入っており、家でクロの見張りに務めていた。せっかくの休みでも出かけるのを我慢し、家にこもってずっとクロのそばにいてやった。

 そしてとうとうその日が来た。

 その日、クロは落ち着きがなく、匂いを嗅ぎ回ったり、床を掘るような仕草をしたりと、落ち着きがなかった。便の回数が多くなり、食欲もなかった。正しく出産の兆候だ。

 望夢はすぐ気づけるようにクロのそばで待っていた。そしてとうとう、クロはヒーヒーと苦しそうな声を上げた。子供が出ようとしている!

「来たか!頑張れクロ!」望夢は励ました。

 そこへ2階にいた母が駆け下りてきた。

「始まった⁈」冷静に望夢に尋ねる母。

 望夢が「ああ」と答えると、母はすぐさま石鹸で手を洗って、望夢の隣に来ると、クロのお腹に手を当てた。

「動いてる!ほら!綺麗なバスタオル2枚持ってきて!早く!」母は望夢を急かした。

「了解!」望夢は慌ててバスタオルを引き出しから引っ張り出した。

 母はそれを丁寧に敷き、クロをその上にのせた。

「…手伝ってくれるの?」望夢は尋ねた。

 母は頷いた。「子供を見捨てるわけにはいかないよ。それに、あんたがいい加減なやり方して流産なんてしたら大変でしょ?男一人に出産なんて任せられるもんじゃないよ。だから任せなさい。子犬のことは産まれてからどうするか考えればいいから」

 望夢は感動した。「ありがとう!」深く頭を下げて礼を述べたz

「礼なんてまだ早いよ。ほら、頭が見えてきた!」

 母の言う通り、クロの下半身から卵くらいの丸い物が出てきていた。

「頑張れクロ!」望夢は応援した。

「踏ん張って!」母も励ました。

 十数分後。

 疲れ切って寝そべるクロのお腹で泣き声をあげる子犬の姿があった。目は開き切っておらず、体毛はまだ短い。リスくらいの大きさの小さくて元気な赤ちゃんが無事に誕生した。

「やった…」望夢はほっとした。「ありがとう母ちゃん!」

「いいのよ。母親として仕事をしたまでだから」

 その夜、帰ってきた親父もクロの子を見て仰天した。

「ちっちぇーなー!望夢!よくやったぜ!」親父は笑顔で褒めた。

 望夢は首を振った。「母ちゃんが助けてくれたんだよ。おれ1人じゃ無理だったよ」

「そうか…ありがとよ母ちゃん!」親父はキッチンで料理をする母ちゃんに会釈した。

 母は別に、という感じで首を振った。

「クロも頑張ったなー!」親父はクロをなでた。すると、あることに気づき、顔をしかめた。

「…これ、もう1匹いねえか?」

「え?いやまさか…」望夢もクロのお腹を触ってみた。するとたしかに、硬くて丸い何かがお腹にある。「…ん⁈」

「どうした?見せてごらん」母も来て、クロのお腹をさすった。「…なんだこれ?たしかに何かあるけど、子犬にしては小さくない?」

 3人はうーんと考えた。

「デキモノでもできちまったか?」と親父が言う。

「だとしたら、すぐ病院に連れていった方がいいよね…?」望夢は急に心配になった。

「そうだな。よし。まだ病院やってるよな?望夢、車乗れ!」親父は車の鍵を手にした。

「おう!母ちゃん、子犬のことよろしく!」

「ええ。いってらっしゃい」

 望夢はクロを抱いて、親父が運転する車で病院へと向かった。




 診察室で獣医さんは書類とモニターを交互に見た。親父と望夢は固唾を呑んで言葉を待った。

「これは、乳腺腫瘍ですね」獣医は暗いトーンで伝えた。

「「腫瘍⁈」」二人は声をそろえた。

「はい。長らく妊娠や出産といったメスとしてのはたらきをしていないと、こういった腫瘍ができてしまうんです。今は妊娠していたということですので、それ以前にでき始めていたものがここまで成長したのでしょう」

「てことは…」親父は顔を曇らせた。「ほっておいたら、死んじまうのか?」

「そうですね。このままですと…」

「取り除けないんですか⁈手術して!」望夢は問い詰めた。

 獣医さんは首を振った。「取り除くことは可能です。ただ、残念ながら、」

 獣医さんはモニターの画面を切り替えた。

「肺を写したものです。見ての通り、腫瘍がすでに転移しています。これほど転移してしまってますと、元の腫瘍を取り除いても腫瘍は成長し続けるので、転移は止められないんです。もっと早い段階で除去できていれば防げましたが、これほど転移しているとなると、もう手遅れです。お気の毒ですが」獣医さんは残念そうに首を振った。

「そんな…」望夢はどん底に突き落とされたような絶望を感じた。

「…あと、何日なんです?」親父は尋ねた。

「1週間から、長くても2週間でしょう」

 ……。

 絶望追いやられた望夢はクロを抱きしめ、親父の車に揺られた。親父は終始無言で運転した。

 その夜、望夢は自分のベッドの上でクロをなでていた。もう短い命だからと、ケージから出してやったのだ。クロは大人しく丸まっている。その目は望夢は見つめている。自分に余命宣告がされたことを悟っているように感じられた。

「ごめんな…何もしてやれなくて…」

 クロが顔を上げる。

「何でこうなっちまったんだろう…。お前のために頑張ってきたけど、結局救えないなんて…。神様は意地悪だな…」望夢はしみじみと感じた。自然と涙がこぼれた。

 クロはお座りの姿勢になった。

 望夢はクロを抱きしめた。「ごめんな…いっぱい意地悪しちゃって。もっと大事にしてやれば良かったよ…」

 クロは尻尾を振って涙で濡れた望夢の頬をなめた。やっぱり、自分の状況を理解していないのだろうか?

「よしよし」望夢はクロを優しくなでた。「明日も散歩行こうな。ご飯も好きなものいっぱい入れてやるぞ」

 クロはさらに元気よく尻尾を振った。




 それから望夢は毎日欠かさずクロを散歩に連れて行き、普段より長めに歩いてやった。ご飯にもクロの好物や高めの肉を入れてあげた。クロは痩せこけていた頃が嘘みたいに元気になっていた。子犬もすくすく成長した。

 ある日の散歩中、ばったり瞳に出会った。

「かわいいー!クロちゃん、大きくなったね!」瞳はクロをなでた。

「ほんとな…」望夢は覇気のない声で言った。

「それで、赤ちゃんは?」

「無事に産まれたよ」

「よかったー!よしよし!」瞳はさらに激しくクロをなでた。「飼うの?」

「親と相談したけど、やっぱり人に譲ろうと思う」

「そうなのか。でも、家族で決めたなら、いいと思うよ」

「うん。子犬のことはいいんだけど、実は…」

 望夢はクロに下された余命について話した。

「…かわいそうに…」瞳のなでる手が緩やかになった。「せっかく元気になったのに、お別れなんて、寂しいね…」

「ほんと…。今日まで頑張って育ててきたのに。頑張るのが遅かったかな?」望夢はクロを見つめた。

 瞳は首を振った。「そんなことないよ!望夢はよく頑張った!アルバイトまでして散歩もちゃんとしてたんでしょ?正直、望夢が誰かのために必死になってるの初めて見たよ」

「それ褒めてるのか?」

「褒めてるよ!見直したもん!」瞳は親指を立てた。「クロちゃん、感謝してると思う。自信もって!」

「ありがとう」望夢は自然と笑顔になった。

 その日以降、元気だったクロに変化が生じた。散歩では歩くペースが下がり、食事の際も苦しそうに食べ、徐々に痩せていった。尿の回数は増え、鼻水が頻繁に出た。下痢や嘔吐も当たり前になった。

「よしよし。無理すんな」望夢は横たわるクロを優しくなでた。

 望夢は腫瘍が悪化した際の症状をすでに調べていた。クロの症状はすべてそれに当てはまった。

 そして、いよいよ別れの日がきた。

 冬休みがもうすぐ終わる頃のある夜、望夢の部屋でクロは寝たきりになり、呼吸のペースも下がっていた。

 望夢はクロを傍らで見守っていた。

「いい子だ」望夢は優しくなでた。「よく頑張ったな。もう無理すんな」

 クロが目だけ動かして望夢を見た。ズーという苦しそうな呼吸が部屋に響く。

「…ごめんな。もっと早く大事にしてやらなくて…ごめんな…」望夢の目から涙がこぼれた。

 …ズー…とクロはひたすら呼吸をする。

「産まれ変わったら、きっと幸せになれるよ…もっといい飼い主に育ててもらうんだ…おれとはお別れだ…」

 ……ズー…。

「ごめんな、こんなだらしなくて…ごめんよ…」

 ………ズー…。

 クロの呼吸はどんどんペースが下がっていた。最後の力を呼吸に費やしているように思える。元気に尻尾を振ったり、女性に飛びついていたクロも、もう望夢を見ることだけが精一杯だった。

 望夢はクロの目を見つめ返した。するとクロは意味深に2回瞬きをして、ゆっくり目を閉じた。

 呼吸の音は止み、部屋は静寂に包まれた。

 望夢は頬に滝のように涙を流し、クロに覆いかぶさるように抱きしめた。

「お疲れ様、クロ」

 その姿を、親父は邪魔しないように密かに覗いていた。親父も涙を流すと、手で拭って階段を降り、階段下に置いといた袋を持つと、リビングの母の元へ向かった。

 母はアミの写真を埃取りで丁寧に拭いていた。

「ケーキ、買ってきたけど食べるか?」親父は袋を掲げた。

 母は振り向いた。「あら?急にどうして?」

「どうしてって、そりゃ、今日は結婚記念日だろ」親父は少し照れ臭そうに言った。

 母の口元が緩んだ。「そうだったわね…」

 親父はケーキをテーブルに置いて、ソファに腰かけた。「済まなかった。犬のことをお前に任せっきりで」

 母は掃除の手を止めて親父を見た。

「お前に負担かけてたことにまったく気づいてなかった。本当に済まない」親父は頭を下げた。

 母は笑った。「ほんと、鈍い人ね」

 母は埃取りを置いて親父の隣に座った。「私もごめんなさい。何でもかんでもあなたのせいにしすぎたわ。私も取り乱してた。ごめんなさい」

「気にするな!」親父は母の肩に手を回した。「気にしなくていい。それより、二人で望夢に謝んないと。俺たちが喧嘩してる間もずっとクロの面倒見てくれてた。でも今さっき、逝っちまったらしい。まだ高校生なのに、重たいもん背負わせちまった」

「…そうね。かわいそうなことしちゃった」母は顔を覆った。

 親父は母に回した手をポンポンとした。「あいつ本当によくやってくれたよ。いつの間にか立派になったもんだぜ」

「本当ね…」

 そのとき、階段を下りる音がした。二人が目をやると、望夢がクロの遺体をダンボールに入れて持ってきた。望夢はもう涙は流していないものの、目の周りが赤く染まっていて、涙を必死で拭いたことが伺える。

「…クロ、眠りについたよ」望夢は二人に告げた。

「お疲れ様!」と親父。

 母は無言で頷いた。

 望夢も頷いた。「アミのときの火葬の業者に来てもらいたいんだけど、番号教えてくれない?ちゃんと見送りたいんだ。お金は自分で払うから」

 親父は首を振った。「何言ってんだ!犬でも火葬には数万かかんだぞ!出してやるよ!望夢、お前は充分頑張った!もう無理すんな!クロのことはみんなで見送ろう!」

「そうね。それがいいわ」母も賛同した。

 望夢は頷いた。「ありがとう!あと、もう一つお願いがあるんだけど…」

「なんだ?何でも言ってみろ」親父が促した。

「…クロの子、飼いたいんだ。うちで産まれたんならちゃんと世話してやりたいし、このままじゃクロに申し訳ない…。おれに責任があるし、うちで飼いたい!自分で面倒見るから!二人には迷惑かけないようにするから!お願い!」望夢は深々と頭を下げた。

 両親は顔を見合わせて頷いた。

「ああ!お前がそこまで本気なら、いいぞ!俺もできることは手伝うからよ!」

「望夢にだけ負担させるのは悪いから、私たちも面倒見るわよ」

 望夢は頭を勢いよく上げた。「本当に⁈」

「ええ。家族の一員として、みんなで世話してあげましょ」母は微笑んだ。

「そうだな!このままよそにやるんじゃクロも悲しむもんな!」親父もニコリした。

 望夢は感無量だった。「…ありがとう…ありがとう…!」

「そうだ、うちで飼うんなら、名前決めないと!望夢がつけてあげたら?」母は勧めた。

「そうだね。考えておくよ」

 その後、望夢はクロの埋葬と両親の結婚記念日のために花屋へ赴いた。そこで赤やピンクや紫色の細やかな花を見つけた。その花の名前はバーベナといった。

「バーベナ。良い名前だ」




 その後、本橋家では仲直りも兼ねて結婚記念日が盛大に祝われた。家族3人と新しい家族のバーベナに加え、ビデオ通話で望夢の祖父母、剛と花子を参加した。家族崩壊の危機に陥っていた本橋家は、見事に家族団欒を取り戻した。


 その様子をどこかで見守る亜久間とその使いたち。

「今回も大成功ですね!」メモリーが称賛した。

 亜久間は微笑んだ。「そうね。今回はほとんど望夢が一人でで頑張ったわ」亜久間は足元を見下ろした。「あなたたちのお陰よ」

 彼女の足元では白いトイプードルと黒い柴犬が嬉しそうに尻尾を振っている。

 すぐそばでアジェは呆れた顔をした。「人間との契約のために犬を犠牲にするなんて、お前はどこまでもやるな」

「この子たちの了承は得てしてるから問題ないわ」亜久間は2匹をなでた。

「そういう問題か」アジェは呟いた。

「何はともあれ、望夢さん、ずいぶん成長しましたね!」メモリーはピョンピョン飛び跳ねた。

「でしょ?私の目に狂いはなかった」亜久間はまた望夢を見下ろした。

 テーブルに置かれたケーキの前で、望夢がバーベナを抱え、その両側に祖父母が映ったスマホを持つ両親が立った。記念写真を撮っているのだ。

「もうあなたに教えることは僅かよ」亜久間は囁いた。「それじゃあ、ラストスパートね」

自らの努力によって家族を繋ぎ止めた望夢。亜久間は望夢の成長を褒め、ラストスパートだと意気込む。

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