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愛レス  作者: たけピー
4/10

イヤらしい目で見ないで!

相変わらず性欲任せな毎日を送る望夢の前に、突如憧れのAV女優雫元るいが現れ、家に泊めてほしいと頼まれる。望夢はチャンスとばかりに家に連れ込むが…。

4 イヤらしい目で見ないで!


「ぬおおおおお!」

 本橋望夢はあるコンビニ内で鼻の下を伸ばし、イヤらしい表情で微笑んでいた。彼の前に散在するのは雑誌の数々。週刊誌や漫画、新聞に女性向けのファッション雑誌。それから何といっても望夢のお目当て、大人向けのエッチな本だ。

 現在時刻は8時10分過ぎ。久々に早く学校に到着したものだから、望夢は校門をくぐらず、近くのコンビニに立ち寄ってこうして悦に入っているのだった。なんせ彼は、"学年一の変態"の称号を持つ男であるのだから。

 望夢は列をなす大人向けの本のうちの一冊を手に取ってパラパラとめくり見ていった。その食い入るような顔はバナナを前にするサルそのものだ。望夢の興奮度はどんどん上がっていった。

 しかし、望夢は急に手を止め硬直した。後ろに妙な気配を感じたのだ。店員だろうか?恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、幼稚園からお節介になっているうざい女だった。その女、現行犯の現場を抑えたとでも言いたげな嬉しそうな表情で腕を組んでたたずんでいる。その様子が鬱陶しいったらありゃしない。

「なんだよ?」望夢はガンを飛ばした。

 片山瞳はふふっと笑った。「み〜ちゃった〜。ま、いつものことだけどねー」

「なにニヤニヤしてんだよこの変態が!」

「いや変態はそっちでしょうが」

「おれは、男の楽しみを堪能中なの!女は口出ししないの!あっち行った!しっ!しっ!」

 望夢は飛び回る虫を払うかのごとく手をヒラヒラさせると、書棚に向き直って先ほどの一冊に手を伸ばした。

「ちょっとー?異性の友達の前で躊躇なくそんな物開くなんて、サイテ〜」

 瞳は挑発的な手法によって礼儀を教え込もうとした。しかし望夢は完全しかとである。

 瞳はイラッとして右まぶたの上がピクッと痙攣するのを感じた。そして止むを得ず、制裁手段に突入した。

「店員さーん、この人まだ子供のくせに大人向けの雑誌開いてますよ〜!店員さーん!おーい!…」

「うっせーなー!」

 望夢はイライラして本を乱暴に書棚に戻すと、一直線に自動ドアに向かい、コンビニから出て行った。

「も〜」瞳はうんざりなのと勝ち誇った気持ちの両方を含んだ皮肉な表情でその後ろ姿を見送った。




「ったく!瞳のやつ!いちいち人に干渉すんじゃねえっつーの!」

 望夢はぶつぶつ文句を言いながら教室の扉を開いた。

「どうしようったってこっちの勝手だろーが!……ん?」

 見ると、教室の隅の方に男子らが集まっている。いったい何事だろう?望夢は近づいて確認した。

 集まる男たちの中央の男子が何やら雑誌を開いており、それを覗き込んでいるのだった。その雑誌というのが…

「ぬおおお‼︎18禁‼︎」

 望夢が歓喜のあまり叫ぶと、男子らは一斉に口に指を当てて「しー!」と注意を送った。

「声がでけえよ!」

「あ、すまん」

 男子らは先ほど望夢がコンビニで見ていたような大人向けの本を校内に持ち込んでいるのだ。もちろんこれは不要物だ。だからバレてはいけないと、こっそり読みふけっていたらしい。

「たまんねーなー!」雑誌を持っている男子、田中がつぶやいた。「あ!この娘この娘!セイラちゃん!今おれが一番ハマってる女優!」

「「「おー!」」」男子たちは一斉に声を上げた。

「なあ?お前らのお気に入りの娘は誰だよ?」田中が目をキラキラさせてみんなに尋ねた。

 杉山が田中の手から本を取ってパラパラとページをめくり、お目当の女優を見つけてみんなに見せながら言った。「おれは日笠アヤちゃん!あのスレンダーなスタイルたまんねーぜ!」

「「「おー‼︎」」」

 今度は小坂井という男子が杉山の手から本を奪い、同じようにパラパラとめくってお気に入りの女優をみんなに見せて言った。「俺は正木ユメちゃんだぜ!元ガールズバンドボーカルってだけあって、ハスキーボイスがいいんだよね〜!」

「「「おー‼︎」」」

 さらに遠藤という男子も同じことをした。「オレは羽代めぐみちゃん!Gカップがそそるぜー!もともと舞台女優だったから、ルックスは抜群だぜ!」

「「「おー‼︎」」」

 ここで望夢も便乗して遠藤から本を奪うと、いつもの女子生徒や更衣室を観察しているときのテンションで言った。「おれはなんと言っても雫元るいちゃんだぜ!あのロリ顔の困り顔!サイコー‼︎それにあのスタイルも!胸も仕草も全部最高‼︎」

「「「おー‼︎」」」

 次の人物は本を取らずに、「先生はラナちゃんだな」と割り込むように言った。

「「「おー‼︎」」」

「ラナちゃんはかわいい!」「おれも好きだぜ!」「わかるわかる‼︎」

 ………。

「「「…⁈」」」

「ぎくっ‼︎み、源先生‼︎」一同が状況を察すると同時に望夢が叫んだ。

 男子たちは慌てて望夢から退いた。そして口々にこう言い放った。

「あ!望夢!なに学校にエロ本持ってきてんだ⁈」

「あーいけないんだー‼︎」

「校則違反ー‼︎」

「というか年齢違反‼︎」

「先生!本橋に罰を与えて下さい!」田中も混ざって望夢に罪を擦りつけている。

「おい、てめえらふざけんな‼︎同罪だぞ同罪‼というか︎田中!とぼけんじゃねえ‼︎持ち込んだのはおめえだろうが‼︎」と望夢は激怒。

「は〜?何のことかな〜?」としらばっくれる田中。

「なんだと⁈やるかてめえ⁈」望夢は本を田中にぶん投げた。

「もういい!お前ら全員同罪だ!」源先生が割って入った。「学校にこんな物持ってきていいと思ってるのか?本橋はもちろん、見ていたお前らにも罰を与える。こいつは没収しとく」

 男子らのテンションはガタ落ちだった。一方、この一連を見ていた女子勢はざまぁ見ろとでも言いたげな顔でニヤついている。

 源先生は取り上げたエロ本をパラパラとめくって見た。このとき男子らは思った。おいおい!何で見る必要があるんだよ!あんたも同罪じゃねえかよ!と。

「ほえーーー!」先生は奇声を発した。

 一同騒然。

「先生、どうしたんすか?」と杉山。

 先生は開いていた本をゆっくりと下ろして顔を露わにした。その顔は、まるで天に召されたかのような輝きに満ちている。

「ラナちゃーん!愛しのラナたん!この頃見ないなぁ〜って思ってたら、ようやく来たか!新作!『不倫少女のイケない夜』!」

「「「おーーー‼︎」」」

「よ!待ってましたー!」「きたきたー!」「ラナたん最高ー!」

 源先生に乗せられてはしゃぐ男子一同。それを見ていた女子一同は、一人残らず思っていた。

 男ってバカだな。

「えっへん!」

 先生は仕切り直しの合図のように大げさな咳をすると、盛り上がっていた男子たちは瞬時に静まった。

 源先生は本を閉じると、「こいつは先生がちゃーんと処分しとくからな」と真剣な顔で言った。

 処分するじゃなくて、自分のコレクションに加えるんだろ、このエロ教師が!とその場にいた全員が思った。

 ここで学校の鐘が鳴った。

「みんな、席につけ!」

 源先生の号令がかかると一同は席に着いた。起立し、挨拶が済むと、先生は話し始めた。

「みんな、見てたと思うが、男子が学校に似つかわしくない書物を持ち込んだ。よって、今日の放課後、お前らは残って教室の掃除!」

「「「えー!」」」

「えー!じゃない!自分でしたことには自分で始末つけろ!」

 普段は教師らしくないエロいおっさんだが、いざとなると最もな発言をするのが源先生である。男子らはしぶしぶ認めるしかなかった。

 続いて源先生は望夢に向き直った。「おい本橋?お前アダルトサイトとか観るだろ?」

 突然の遠慮のない質問に一同は唖然としたが、望夢は躊躇なく「はい。観ますよ?」と答えた。

 先生は真面目な面持ちで話を続けた。「禁止することはできないし観るなとも言いづらいが、先生として言うと、ちゃんと異性を尊重する気持ちを忘れないでほしいんだ。いいか?ああいったものでは、よく女性が男性の都合の良いように動いてたり反応したりするものが多い。でも、そういうのはすべて演出だし、そういう女の人たちも人格を持った一人の人間だということを忘れないでほしい」

 一同は真剣な表情で聞いている。女子の中にはその通りだと言うように頷いている者もいる。

 ここで田中が手を上げて尋ねた。「でも先生、なんか男子に対して言ってるようだけど、女子に対しては言えないんすか?女子だってそういうのに興味ないわけじゃないはずだし…」

「もちろん女子だって同じだ。ただ、女子の方がそういう分別は男子よりあるし、ああいった大人向けのものの大半は女性が被写体で、男が消費者だ。そうだろ?それに、女子に向かって大人向けの本やサイトを見たことあるかって聞くのは失礼だろ?だから男子に犠牲になってもらったんだ。悪いな本橋」

「………」先生、失礼なのは変わりないんじゃないっすかね?

「でも先生、」ある女子が尋ねた。「先生は授業中に男女問わず下ネタとかよく言いますけど、それは女子に対して失礼ではないんですか?」

 これを聞いた瞬間、教室中の全員が確かにそうだと顔を見合わせた。

「あ⁈…あははははは!そうだったかな〜⁇」先生はとぼけて頭を掻いた。

「そうっすよ!」と杉山。「ところで、男子全員掃除って言ってましたけど、先生だって参加しますよね?先生も見たんだから」

 一同はそうだ!そうだ!と口を揃えた。

「う!……ホームルームはここまで!」

 源先生は大声で叫ぶと、取り上げた本を手に持って足早に教室から出ていった。

「あ、逃げた!ずる〜い!」

 教室中から避難が殺到した。




 高校生の情報網が秀逸なのか、久米沢高校の三学年での噂の広まりが早いのか、それはわからないが、A組の男子生徒がこぞってエロ本を覗き読みしていたことは昼頃には学年中に知られていた。しかも、そのエロ本を持ち込んだのが望夢であるという誤報とセットで認識されていた。

「まったく、注意したのになー」瞳は皮肉な笑みを浮かべた。「まさか学校に持ち込むなんて」

「さすが本橋くん」瞳の親友、本郷玲奈もにやりとした。

 そのとき、クラスの男子の会話が耳に入ってきた。

「A組のやつらエロ本みてたのバレたんだってな」

「らしいな!」

「ばっかだよな!」

 同じ話題で話している。これを聞いた瞳は安心した。どうやらC組の男子生徒は"エロい方面に関して"は良識があるらしい。

 …と、思って聞いていたが…

「朝っぱらからみんなして寄ってたかって読むからバレんだよ。な?」

「ほんと。読むならトイレで読むとかさ、もっとバレないように読めよな!」

「オレはな、」神谷が一冊の本を取り出した。表紙には『受験マスター』と書いてある。「別の本の背表紙でカモフラージュしてるぜ!」

 背表紙を外すと、下着姿の女性が姿を現した。

「お、あったまいい〜!」「さすが!」「天才かよ!」

 周りの男子が褒めちぎった。

 やれやれ。結局C組の男子もA組と同類かよ。瞳はすっかり呆れた。

 それから話していた男子たちはそのままエロ本鑑賞に突入した。神谷がめくるページをみんなで覗き込む。鬼頭ら不良グループもみんな混じっている。

「まったく!これだから男子はねー」瞳はわざと男子らに聞こえるように言った。玲奈も頷いた。

 しかし、瞳はある人物のみ批難の対象としなかった。クラスの男子が教室の隅にこぞっている中、ただ一人、本を、大人向けの本ではなく夏目漱石の小説を読みふける青年がいるのだった。言うまでもなく芽傍ゆうだ。

 瞳は芽傍の方を見てにっこり微笑むと、芽傍と男子らを直線で結んだそのちょうど中央に立ってこう言った。「もー!うちの男子には芽傍くんを見習ってほしいわ!芽傍くんはちゃんと異性を尊重してくれる紳士だもん!ねー?」

 最後のねー?は芽傍に同意を求めたものだが、芽傍は瞳はじろりと一瞥しただけで、すぐに本に目を戻した。

「何言ってんだ片山?」神谷が反論した。「そいつだって男なんだから、オレらと変わりゃしねえよ!カッコつけてそうやってオレらに混ざってないけど、実はむっつりスケベなパターン!」

 男子らは大笑いしながらその通りだと口々に言った。特に鬼頭らは芽傍に向かって「むっつりスケベ!」「大人しくて実は性欲強いパターン!」「クールぶってんじゃねえ!」と挑発するように罵った。

 瞳はムカついて男子たちを睨みつけた。

 ………ガンッ‼︎

と、急に何かを打ち付ける騒音が教室中に響き渡った。クラス中の視線が芽傍の席に集まった。

 芽傍は立ち上がっていた。顔は下げ、拳を机に振り下ろした後だった。当然のこと、瞳よりも誰よりも、芽傍本人が一番ムカついていた。

 芽傍はゆっくり顔を上げて男子らを睨むと、こう呟いた。「…僕は、女なんか嫌いだ…」

 クラスに静寂が巻き起こった。ほんの数秒経つと、芽傍は読んでいた本を持って教室から出ていった。

 芽傍が居なくなった後、教室にいた誰もが彼の話をし始めた。教室中は、不思議少年芽傍ゆうの話で持ち切りになった。

 ほんの二ヶ月ほど前に転校してきたばかりの芽傍は、誰もが不思議がるミステリアス男子。基本友達を持たず、常に孤独で、その生き様は凛として花一輪の言葉がぴったり合う。成績は瞳と競えるほど優秀で、頭がキレる。彼自身は決して意地悪ではないと瞳は確信しているが、ときどき今みたいに怒りまかせに暴走することがある。そんな芽傍を、瞳は気になって仕方がない。

「やっぱり、怖い…」玲奈が瞳の隣でささやいた。

 瞳は芽傍が出ていった扉を見ながら、コクンと頷いた。

「なあ、あいつ、やばいよな?」

 鬼頭が仲間を寄せ集めて言った。

「やばいやばい…」「まじキチガイ!人間じゃねえ!」「頭おかしいぜ」

「な!ところでよー、あいつん家、学校のそばにあるって噂で聞いたんだけど、マジなのか?」と鬼頭。

「え、まじ⁈」「そうなの?」「聞いたことねえな」

「俺も聞いたぜ!」神谷が叫んだ。「駅と反対側にあるらしいぜ?」

 四人はそうなのかーと頷いた。

「じゃあ!今日の放課後、あいつの後つけてやろうぜ!」

「「「うへへへへへ!」」」

 いじめっ子たちはいじめっ子らしからぬ悪巧みを想像して嫌らしく笑った。




 その日の放課後。

 芽傍は校門から出ると、他の生徒の群集から離れて、一人だけ駅とは反対方向へ曲がった。大半の生徒は電車を利用して通学するため、望夢や瞳と同じ方角から登校して来て同じ方角へと下校していく。芽傍は数少ない"駅に向かわない組"の一人なのだ。

 そんな芽傍を、鬼頭ら五人組は校門の陰から頭を縦に5つ並べて見張っていた。

「よし!追うぞ!」

 鬼頭の号令で、五人は一斉に動き出した。

 そのときちょうど通りかかった瞳は、おや?と首を傾げた。好奇心旺盛な瞳は校門から出て鬼頭らが向かった先に目を送った。ぞろぞろと共に行動する鬼頭一味。その先には…「芽傍くん!」

 大変だ!

 さらに偶然は重なり、そこに望夢が通りかかった。いつもならもっと早く校門をくぐっているが、今日は居残りで掃除させられていたため、この場にタイミングよく現れたのだ。

 瞳は望夢の腕を掴んでこう言った。「芽傍くんが大変!」

「あ?なんだよ急に?」

 瞳は鬼頭たちと芽傍のいる方向を指差した。

「へー。尾行か?それが?」

「それが?じゃなくて、助けてあげないと!」

 望夢はめんどくせー!と表情で言った。「なんであんなやつ助けなきゃならねえんだよ?それに相手は鬼頭たちだぞ?助かりっこねえよ」

「鬼頭たちが芽傍くんの家突き止める前に妨害すればいいじゃん!望夢ならあいつらの気引けるでしょ?いつも怒らせてんだし」

「おれは怒らせてねえよ!あいつらが勝手に絡んでくるだけ!」

「何でもいいけど、とにかくあいつらの気、引けるってことでしょ?」

「おれがボコられるじゃねえか!んなのごめんだ!」

「芽傍くんがボコられるよりマシじゃん!」

「なんでだよ…」望夢は顔をしかめた。

 それは酷い。差別だ。

「だいたい、なんでおれがそんなことしなきゃいけねぇんだよ?」

「この間、芽傍くんに助けてもらったでしょ?その恩返しのつもりでどう?」

 この間というのは、望夢が下着泥棒の容疑をかけられて自宅謹慎にされた事件だ。犯人は学校の主事さん。瞳は芽傍の推理のもと協力して犯人を捕まえたのだ。

「まあ…確かにそうだけど…」望夢は渋い顔で認めた。

「じゃあいつ恩返しするつもりなの?」

 望夢は黙り込んだ。正直、恩返しなんてするつもりはなかった。極力芽傍とは関わりたくないのだから。しかし、もし芽傍の機転を効かした推理と行動力が無ければ、望夢はもう学校に居なかったかもしれない。退学させられるか、自分の意志で学校をやめることになっていたかもしれないのだ。確かに芽傍に対する恩は大きい。

「……しょうがねえなー。ったく!」

 望夢は鬼頭たちの後を追った。瞳はにっこり微笑むと、望夢に着いていった。

 自宅に向かって歩く芽傍。その20メートルほど後ろに鬼頭ら五人組。さらにその20メートルほど後ろに望夢と瞳の二人。鬼頭たちは芽傍を追い、望夢と瞳は鬼頭たちを追う。奇妙な二重の尾行活動が始まった。

 尾行することされること約10分。芽傍はどこへ行くのやらと追いかけていた鬼頭一味だったが、妙なことが起こった。芽傍は、駅の反対側に位置する名の知れたパン屋に入ったのだ。そしてものの3分ほどでパン屋の袋を片手に下げて出てくると、引き返して学校を通り過ぎ、久米沢の駅のそばまでやってきたのだ。

「おい神谷、お前が言ってたこと、本当かよ?」

「ほ、本当だよ!いや!本当かどうかは知らねえけど、オレがそう聞いたのは本当だよ!」

 五人組はお互い見合って首を傾げた。

「ねえ、望夢?いつまで追いかけてるの?早く鬼頭たちに突進しなよ?」瞳は後ろから声をかけた。

「それが、タイミングが難しくて。結構鬼頭たちと芽傍の距離が近くて、行ったら芽傍にバレちまう」

「いいじゃん!『そこまでだ!悪党ども!』って言って鬼頭たちに立ち向かってさ、芽傍くんに『早く行け!今のうちに逃げるんだ!』とかいう展開、熱くて良くない⁈」

「なに言ってんだし!そんなバカなことするか!」

 そうこうするうちに、芽傍は久米沢の駅に入っていった。

「おい!駅入りやがったぞ!神谷が聞いたのはデマらしいな!あいつパン買いに行っただけだ!」鬼頭は神谷を睨んだ。

「ちょっと!待てよ!駅を通って向こう側に出るんじゃないか⁈追い続けよう!」

 神谷の提案(という名目の間に合わせの言い訳)で、五人は粘ることにして駅に駆け込んだ。

 続いて望夢と瞳も駅に入った。何が何だかわからないが、芽傍の行き先がどうも気になる。二人は鬼頭一味を止めることはもう忘れ、鬼頭たちに続いて芽傍を尾行する身となっていた。

 夕方の駅構内はまあまあ人が多い。久米沢は乗り換え地点でもあるため、余計に混み合っている。

 案の定、鬼頭らは芽傍を見失っていた。

「どこ行ったあいつ⁈」

「もう電車乗ってどっか行っちゃったんじゃない⁇」

「いや、きっと駅の向こう側に出たんだ!」

 望夢と瞳も、芽傍どころか、鬼頭らをも見失っていた。

「くそ!どこ行ったあいつら⁈」

「電車に乗ってどっか行っちゃったのかな⁇」

「それか駅の向こう側だな」

 それから数分。鬼頭と望夢の二組は、どこだどこだと散策しているうちに、駅の曲がり角でばったり鉢合わせたのだった。

「うお‼︎」

「おわ‼︎」

 望夢と鬼頭はお互いの存在を認識すると一歩退いた。

「本橋!お前こんなとこで何やってる⁈」

「どうだっていいだろ!」

「まさか、俺らの後つけてたんじゃねえだろうな⁈」

「べ、別に⁈そういうそっちこそ、芽傍の後つけてたくせに!」

「何だと⁈」鬼頭は望夢の胸倉を掴み上げた。「やるかてめえ⁈」

「受けてたつぜ‼︎」

 五人組は一斉にポキポキと指を鳴らす。望夢もそれをやろうとしたが鳴らず、仕方なく腕まくりして威嚇してるつもりになる。両者は睨み合い、無言の合図に乗じて同時に殴りかかろうと腕を振り上げた。

「はいストーーーップ‼︎」

 瞳が望夢と五人組の間に割って入って遮った。両者は一瞬フリーズした。

「なんだよ瞳!」と望夢。

「邪魔すんじゃねえ!」と鬼頭。

「まったく!わからないの⁈」瞳は呆れて腕を組んだ。「あたしたち、芽傍くんに一杯食わされたんだよ!」

「「「あー⁇」」」望夢と鬼頭ら五人は揃って同じ声を漏らした。

「あたしたち芽傍くんを見失ったの!そうでしょ⁈なのに喧嘩してる場合⁈」

「「「あー」」」またしても六人は声を揃えた。

「やっちまったな」と望夢。

「ちーくしょーーー‼︎」鬼頭の怒りに満ちた声が駅構内に響き渡った。「このままじゃ気が済まねーー‼︎もとはしーーー‼︎てめえ一発殴らせろーーー‼︎」

「ぎゃーーー‼︎」

 さっきの威勢はどこへやら。望夢は悲鳴を上げると、大急ぎで駅構内を逃げ回った。瞳は必死でその後を追う。鬼頭はどこまでも追いかけてくる。他の四人がヘトヘトでついて来られないほど鬼頭は疾走している。ほんとに野蛮なやつだ。

 二人はしばらく人混みの多い駅構内を駆け回ると、ようやく駅の外に出た。外に出てからもしばらく走り続け、マンションの前の生垣の陰に身を隠した。

 鬼頭らは生垣の前を通ったが、二人に気づかず走り去った。

 これでようやく安心だ。

「はーーー!飛んだ災難だったぜ!まったく!誰かが芽傍を助けようとか言うからこうなったんだぜ⁈」

「はいはいそうですねー!悪かったわねー!…って、あっ!」突然瞳は驚いた。

「あー?今度はな…」

 と言いかけた望夢の口に瞳は手を当てて塞いだ。

「見て!」瞳は小声で呟くと、ある方向を指差した。

 望夢はその方向に目をやった。

 ……あっ‼︎

 芽傍が歩いていた。踏切の方から歩いて来て、今度は学校の方へと向かっている。結局どこへ向かうつもりなのだろうか⁇

 二人は顔を見合わせて、無言で「追う?」「追う!」というやり取りを交わすと、再び尾行を開始した。今度は気づかれないように、十分に距離を空けて慎重に後を追った。

 追いかけること約10分。青い壁の集合住宅が現れた。どうやら、ここが芽傍の住処らしい。

 望夢と瞳は塀越しに顔を覗かせてアパートの階段を上る芽傍を観察した。

「なーるほどね〜」と瞳は呟いた。「芽傍くんはあたしたちに後をつけられてるのに気づいてた。だからパン屋に買い物しに行ったように見せてから、人の行き来が多い駅に入ってあたしたちを撒いた。後は、望夢と鬼頭が鉢合わせれば、二人は自然と喧嘩を始める。そうすれば自分の身元はバレずに済む。そういう計算だったのね」

「つまり、あいつがパン屋と駅に入ってったのは、完全な偽装工作だったってわけか」望夢は納得して呟いた。

「そういうことだね。さすが芽傍くん」

 ニヤリとした瞳であったが、その口元はすぐに歪んだ。階段を上り切って玄関の扉のドアノブに手を掛けていた芽傍と目が合ってしまったのだ。

 望夢も目が合ったのを感じた。

「やべ‼︎」

 二人は急いで顔を引っ込め、その場から走り去った。

 芽傍は、「ふん」と鼻を鳴らすと、扉を開けて中に入った。




 長い一日を終え、望夢は帰宅するのが楽しみで仕方なかった。家に帰れば大好きなセクシー女優雫元るいが待っている!ベッドの下に隠した大人向けの本の中で、彼女が自分の帰りを待っている。日々のストレスや疲れを癒すものはそれしかない。恋人がいれば何よりなのだが、それがいないわけだから、大好きな女優で自分を慰めるしかないのだ。

 電車が望夢の最寄り駅にたどり着き、望夢はさらに気楽を感じた。家までは約10分。もう少しの辛抱だ。

「待ってろよ、るいちゃん!」

 長い道路にそびえる住宅地。その中に白い壁の家が見える。それが望夢の家だ。やっとリラックスできる!望夢は最後の帰路へと踏み出した。

 そのとき。

「やめてーーー‼」

 どこかで叫び声がした。

 望夢ははっとした。女の叫び声だ!望夢の女好きセンサーが全速で動く。

「助けてー‼」

 誰かが助けを求めている。誰かはわからないが、望夢にとってはそれが明らかに若い女性の声であることが重要だった。

 望夢はもう一度あたりを見回した。住宅地の向こうには古ぼけた、恐らくもう誰も住んでいない小さなマンションがある。声の音源はそこらしい。

 望夢はすぐさまそこに向かった。

 予想通りそこには女の人がいた。制服を着ている。女子高生だ。それと男。女性に黒い服装の男がしがみついている。

 その女子高生の姿をまじまじと見た望夢は驚愕した。「雫元るい!」

 その正体は望夢が大ファンであるAV女優の雫元るいだったのだ。それに気づいた望夢がじっとしてはいられるはずがない。身体が勝手に動いていた。

「その子に手出すんじゃねえ‼」

 望夢に天からの力が舞い降りた。途端に彼は、男に向かって走り込み、相手の右手をつかみ、そのまま背中に押し上げて放り投げた。男は勢い良く地面に激突した。そして望夢の決め台詞。

「いいかてめえ、やわな女の子に手出そうなんて考えんじゃねえ!そんな奴、この正義の味方、世の女性の守護神、本橋望夢が許さねえ!」

 望夢の(一時的な)強さを悟った男は、一声うめくと咄嗟に逃げて行った。

 望夢は少女に振り向いた。

「大丈夫かい?」声を低くしてかっこつけ気味だ。

 少女はこくんと頷いた。

 大きな目に困り顔。潤んだ瞳は綺麗な茶色。やはり雫元るいに間違いない。生で見ると改めて可愛いと望夢は思った。

「はい、ありがとうございました。危ない所でした」るいは頭を下げた。

「いや、無事なら何よりだ。また誰かに絡まれたら、いつでも言ってね」

 望夢は自身満々で言った。初対面の相手なのに、どうやっていつでも助けを求めるというのだろうか。それはともかく、望夢は可愛い子のためなら何でも出来てしまうのだ。だからあの大男を一人で投げ飛ばしてしまったのだろう。実際は投げ飛ばすには男3人係でないと無理だったろうに。

「きみ、雫元るいちゃんだよね?」

「あ…はい」少女はぎこちなく頷いた。

「おれさ、大ファンなんだよ!」望夢が満面の笑みで言うと彼女は微妙な笑みを浮かべた。素直に喜んでいる様子はない。望夢に対して何か嫌な予感を感じているのだろうか。だとしたらその直感は正しい。

「おれ、本橋望夢っていうんだ。これからも応援してるよ!」望夢はグーサインを送った。

「あ…」雫元るいは一瞬何かに驚いたようだったが、すぐに真顔に戻った。一向に笑顔を見せない。ずっと物寂しそうな顔をしている。

「あの…」少女は決まり悪そうに顔を下げた。

「どうしたの?なに?お礼⁈何してくれてもいいよ!」望夢は勝手に解釈して促した。

「あ…いえ、その…」るいは一瞬困った様子だったが、一息吐くとこう告げた。「本橋さん、凄く急で申し訳ないんですけど、本橋さんのお家に一晩泊めて頂けませんか?」

 むむ⁈今なんて言った⁈お家に…泊めてほしいだって⁈

それは⁈つまり⁈……


「本橋さん!今夜はお家に泊めて下さい。どうしてもお礼がしたくて。助けてくれた、ご・ほ・う・び♡」


「ほえーーー‼︎」望夢は興奮のあまり飛び上がった。女の子をお家に招いてお泊まりさせるなんて初めてだ!これは‼︎女神様がとうとう自分に微笑んでくれたのか⁈ついに、童貞という汚名を捨てる日が来たのか⁈

「あのー、すごい鼻血出てるんですけど、大丈夫ですか?」

「ん⁈あ!」望夢は鼻をつまんだ。

「どうぞ」雫元るいはそばに転げていたキャリーバッグからティッシュを取り出し、望夢に差し出した。望夢は「ありがとう!」と言って受け取った。瞳に対する反応とはまるで違う。

 望夢はティッシュを鼻に詰めると「大丈夫!いいよ!ついて来て!」と言って美少女を我が家へと招いた。




 狙い通り玄関の鍵は閉まっており、家は留守であることを物語っていた。今日は水曜日。母は近所の奥さんたちとお茶会。親父は飲んで来るため早くても22時帰宅。どうやら女神様はだいぶにっこり望夢に微笑んだようだ。

「よし、入っていいよ!」望夢は少女にそう言ってスリッパを出した。

その途端…

「ワン!ワン!ワン‼︎」

 白いトイプードルが吠えながら一目散に駆けてきたのだ。見知らぬ来客に威嚇している。

「こら!アミ!静かにしろ!」望夢は叱り飛ばした。

「うふ!かわいいワンちゃん!」

 るいは玄関でうずくまってアミに手を差し伸べた。アミはその手の匂いをクンクン嗅ぐと、安心したようにペロペロと舐め出した。どうやらるいを気に入ったらしい。

 こいつ、メスのくせに。

 望夢はるいを2階に連れて行き、一番奥の部屋へと招いた。そこの扉を開けると、男子部屋という名がふさわしい無法地帯が現れた。

「散らかってるけどゆっくりしてな」

 るいは一瞬戸惑ったが、「ありがとうございます。失礼します」と言って中に踏み入れた。

「あ、同い年だから硬くならなくていいぜ。望夢って呼んでな!」

「あ、はい。じゃあ…望夢」

「うん!」同い年の可愛い子から呼び捨てされるだけで望夢は興奮した。

 それから望夢はるいに飲み物や軽食を振る舞いながら、学校のことや恋愛の話をした。

「おれさ、モテねえから彼女いたことないんだよね」

「そうなんだ…」

「そう。しょっちゅうアタックしてたけどさ、どの子もダメでさ。あははははは!」

「………」

「ねえ?るいちゃんはさ、やっぱり学校でもモテたんじゃない?ね⁈」

「………望夢、私、なんだか疲れちゃった」

「…あ、そうだよね?ごめんごめん」

 疲れているのに無理に話に付き合わせてしまった。好感度が下がったな。もともと高感度ゼロの望夢は無駄に後悔した。

 望夢が地味に落ち込んでいると、るいはこんなことを切り出した。「泊めてもらうってだけで図々しいのにこんなこと頼むのも悪いんだけど…お風呂入りたいんだ。いいかな?」

 お風呂‼︎

 それを聞いた途端、望夢の血圧がグンと上がり、脈拍が早くなった。「いいよいいよ‼︎…でも、緊張するな〜!おれそういうの初めてだからさ!ただでさえ不器用なのに、そんなシチュエーションだと余計…」

「あのー、一緒入りたいとは言ってないんだけど…」

「あ…」

 くそっ!欲望のあまり妄想に釣られちまったぜ!

 るいはキャリーバッグの中に着替えを持っており、貸し出す必要はなかった。バスタオルと体を洗う用の小さなタオルも持っており、宿泊準備万端だった。もともと友人宅かどこかに泊まる予定だったのか、それとも最初から人を捕まえて泊めてもらう予定だったのか、それはわからないが。

 望夢はシャンプーやらボディーソープやらの説明をして彼女を洗面所に残すと、自分の部屋に戻った。

 それから数分後。

 望夢はなんだか落ちつかなかった。うずうずする。下の階からはシャワーの音が聞こえてきている。自分の家にAV女優がいて裸になっているなんて。興奮せずにはいられない。

 望夢はなんとなく手を洗いに行こうと思った。そう、なんとなくだ。

 洗面所にたどり着き、音を立てないようにゆっくりと扉を開いた。浴室の扉を見たが、当然中は見えない。扉にはめ込まれているのは型板ガラスのため、モザイクをかけたようにぼやけて見えるだけだ。それでも望夢は興奮した。目の前に大ファンであるAV女優が裸でいるのだから、それだけで優待離脱でもしそうな気分だ。

 望夢は手を洗った。石けんをたっぷりつけ幼稚園児のように丁寧に時間を掛けて洗う。その間、何度も浴室の方をチラ見した。

 ここで望夢にある邪念が湧いた。浴室の前に掛けてあるタオル。彼女が自分で用意していたものだ。これを隠してしまえば、彼女はタオルを欲しがって自分を呼ぶだろう。もしかしてそのタオルを受け渡しする瞬間に、その僅かな瞬間に、彼女の裸体を拝める、なんて…

 そんな考えを巡らす望夢への天罰だろうか、ガチャン!と玄関が開く音がした。

 …⁈

 まずい!望夢は慌てて洗面所の扉を閉め、鍵をかけた。くそっ!金曜日のこの時間帯には家には自分しかいないはずなのに、なんで今日に限って⁈親父か⁈母ちゃんか⁈せめて母ちゃんであってほしい。それならまだ許してもらえるだろうから。

「ただいまー」

 玄関の方から聞こえたのは親父の声だった。

 しまった…。望夢はうな垂れた。

「ただいまー!望夢?いるのかー?」

 いませーん!と言いたいがそうはいかない。どうしよう?望夢は頭を抱えて必死で考えた。洗面所の窓から外に逃げるのは可能だ。だが、るいはどうする?親父が彼女を見たら、勝手に家に忍び込んで浴室を拝借している住居不法侵入者だと思うだろう。さすがに彼女をおいて逃げるわけにはいかない。

 洗面所の扉がガチャガチャと音を立てた。そして扉の向こうから親父が呼びかける。「おーい!望夢か?母ちゃんか?何で鍵なんてかけてんだ⁈開けてくれ!」

「お、親父!」望夢は衝動的に叫んでしまった。どうにかして時間を稼がないと!

「やっぱり望夢か!開けろ!何やってる⁈」

「親父!何でこんな早いんだ?金曜は飲んでくる日だろ?」

「今日は仕事が夕方に終わったから飲む時間も早かったんだ。良いから開けろ!」

「嫌だ!」

「何でだ⁈」

「おれー…い、今!裸だもん!」

 扉の向こうで親父はポカンと口を開けた。「なに男のくせに男に裸見られるの恥ずかしがってんだ⁈」

「だって!だ、だって…成長期だから…」

「は〜⁈ふざけてんのか⁈お前いい加減にしろよな⁈」

 望夢は限界だった。これ以上変な理屈を並べたてる訳にはいかない。

 黙っていると親父は呆れて言った。「ったく!よくわかんねえけどよ、そんだったらとっとと服着るか、風呂場入るかしろ!」

 望夢は洗面所に真ん中に立って考えた。ここには扉が二つある。左の扉の向こうには裸の美女、右の扉の向こうにはデカゴリラ。どちらを選んでも確実に平手打ちが待っている。しかし、平手打ちは平手打ちでも、裸の美少女から受けるものとデカゴリラから受けるものとではビジュアル的にも体感的にも大いに差がある。大半の男は前者を選ぶだろう。よし!こうなったら!

 望夢は妙な覚悟を決めると、意を決して浴室の扉を開けようとした…

 そのとき、浴室の扉が勝手に開いたのだった。望夢が開ける直前に、向こう側からるいが開けたのだ。

「向こう向いてて?」るいが小声で頼んだ。

「え?おう!」望夢は言う通りに背中を向けた。

 その間にるいはかかっているバスタオルを取った。

「もういい」

 るいがそう言うので、望夢は振り返った。すると扉が完全に開け放たれ、望夢の目の前には、バスタオル一枚の美少女が立っていた。

「早く!」美少女は小声で呼びかけた。

 望夢は一瞬上の空であったが、他にどうしようもないのと、そしてせっかく招いてもらっているのに断るのは悪いという理由で浴室に踏み入れることにした。

「ご、ごめん!今開ける!いいって言ってから入ってな!」と望夢は父親の方に向けて言った。

 望夢は鍵を開けると急いで浴室に入り、「いいよ!」と叫んだ。

 扉が開く音がした。

 望夢はるいに気を遣って目線を上に向けていた。本能をくすぶられるが、ここは耐えねば!

 親父、どうか手を洗ってすぐに出て行ってくれますように!望夢は一心に願った。

 けれどもその願いは裏切られた。親父はしばらくそこに居座っていた。親父はコンタクトレンズを外しているのだ!

 さらに不運は続いた。

「望夢、」親父は急に呼びかけた。

「はい⁈」

「最近どうだ?」

「ん⁈」

「恋はどうなんだ?彼女はいつできる?」

「…」

「俺が母ちゃんと出会ったのは、今のお前くらいの頃だったな…」

「…」望夢は嫌な予感がした。これはもしや…

「俺が若え頃はよ…」

 出たー‼︎やっぱりそうだ!親父のパストストーリーの始まりだ!こんなに唐突に話し出すとは、だいぶ酔っているようだ。この状況であの話をされるなんて!タイミングが悪過ぎる!

 どうしよう?と慌てふためく望夢は、悪気はなかったのだが、ふと一瞬だけ目線を下げてしまった。するとバスタオル一枚で腰掛ける乙女が視界に映り込んだ。乙女は自分の左腕を前に伸ばし、その白く透き通るような肌を右手でなでるようにこすっている。腕につけた石鹸をのばしているのだ。そのあまりにもエロくてそそる光景に思わず見惚れてしまった。

 すると、鏡越しにその美少女と目があってしまった!そして次の瞬間…

「きゃー!」るいは悲鳴を上げた。

 まずい!と思うや否や、望夢はとっさの判断でそれを覆い隠すように声を裏返して「きゃー‼︎」と叫んだ。

 洗面所では親父が腰を抜かして洗面器に頭を突っ込んだ。

 ちくしょー…。望夢は、こうなっては仕方ない、どうにでもなれ!とやけになって裏声で叫び続けた。「ちょっとおやじー!急にそんな変な話しないでちょーだい!今日は疲れててそんな気分じゃないんだから!もう!」

 洗面所で父親は目をまん丸くして浴室の方を眺めていた。「望夢?どうしたんだおい?」

「早く出て行ってよー!上がりたいんだからー!」

 親父はまたポカーンとしたが、何だかその場に居づらくなって、洗面所の扉を開いた。

「今日は飲み過ぎちまったかな…」親父は今起こった出来事が現実だったのか曖昧になり、そんなことを思ったのだった。

「はぁー…」望夢はため息をついた。これで一安心…?

 と思った瞬間、前に立っていた美少女が勢いよく立ち上がったかと思うと、凄まじいスピードで扉を開け、望夢の頬を平手打ちした。女の子にしては力強い一撃で、望夢は洗面所の床に勢いよくうつ伏せに倒れた。

 これが、覚悟して挑んだ、バスタオル一枚の美少女の平手打ちか…。

 望夢は上半身を起こし壁に背中を預けて座り込むと、一遍に襲いかかってきた災難からの解放でようやく脱力したのだった。

 彼女の置かれた境遇はよくわからないが、何日も家においてはおけない。今日限りで出て行ってもらわないと。望夢はそう強く思った。




 数分後、望夢は洗面所を抜けて廊下から密かにリビングの様子をうかがった。運の良いことに親父はソファーの上でぐうすか寝ていた。これは不幸中の幸いだ。

 望夢の念願通り、親父が目を覚ます前にるいが浴室の扉を開ける音がした。望夢は扉をノックして、出るなら今の内であることを伝えた。こうして望夢はるいを自分の部屋に無事に戻した。

 浴室での気まずい出来事があったのと、下に親父が居ることもあって、二人は先ほどのように会話を交えなかった。気まずい時間が延々と続いた。

 るいは部屋の角に縮こまって考え事をしている様子だった。いつもの寂しそうな表情でひたすら床を見つめている。望夢は気まずさのあまり珍しく机に向かい、教科書を開いていた。それくらいしかやることがなかった。

 それから沈黙の一時間が過ぎてのことだった。

「そろそろ寝るね」唐突にるいは呟いた。

 勉強に頭が着いて行かずすっかり睡眠モードに入っていた望夢はビクッと飛び起きた。目をこすって時計を見ると、もう十一時になっていた。「おう。ええと…じゃあ今夜はおれのベッドを貸すよ。おれ床で寝るから」

 望夢は気を遣ってそう薦めたが、るいは相変わらずの寂しそうな表情で望夢をしばらく見つめた。そしてぶしつけにこう返した。

「いいの。私が床で」

「いやそれは…」

「いい!いいの。お願い」

「あ…」

 望夢はようやく察した。なぜ彼女がこれほど自分のベッドで寝るのを拒むのか。それは単なる遠慮ではない。女の本能というのだろうか、年頃の男のベッドで寝るのが嫌らしい。賢明な判断だ。

「ごめんね。私、異性苦手で」るいの悲しそうな顔が余計に悲しみを増した。「寝てる間に隣に入り込んできて…って妄想をどうしても振り払えなくて…ごめん」

「いや、いいんだ!そうだよね⁈うん!」

 くそっ!作戦がバレたか!

「でもさ、異性が苦手って言うんなら、なんでAV女優なんてやってるの?」

 るいの顔なら望夢は幾度となく見てきた。けれども今の彼女のそれは今まで見たこともないくらいに悲しい表情をしている。今にも泣き出すんじゃないかと思うほどだ。そして見事にそうなった。るいは涙をぼたぼたとこぼし、シクシクと泣き始めたのだ。木の床に次々と雫が落ちては弾ける。望夢は絶大な罪悪感に襲われた。

「ごめん!何にも考えずに軽々しく訊いちゃって!本当にごめん!」望夢は椅子から降りて土下座し、頭を床につけて許しを乞いた。

「…いいの…私こそごめんなさい」

 望夢はティッシュを箱ごと取ってるいに渡した。るいは有難くそれを受け取り涙を拭いた。

「わからないよね?」落ち着くとるいは話し出した。「どうして私がこんな仕事やってるのかなんて。ただ単に男に抱かれたかったから、そうとしか思えないよね?そうでしょ?みんなそう!みんな私をイヤらしい目でしか見ない!私の気持ちをわかってくれる男なんていないの!みんな言い寄ってばかり!だから男なんて嫌いなのよ!」

 ここで再びるいの目から雫が光って落ちた。望夢は固唾を飲んでその様子を見守った。

「私ね、やりたくてやってるんじゃないの。そうしないと、生きていけないの…」

 ここまで聞いて望夢はようやく事の重大さを悟った。

「そっか…。ごめん。嫌な思いさせちゃってごめん」望夢は頭を下げた。

 るいはコクンと頷いた。それが大丈夫という意思か単なる相槌かは望夢にはわからなかった。「いいよ。嫌な思いはもう散々してきたから…。泊めてもらってるのにこんなこと言ってごめんなさい」

「いや、君は悪くない!おれが悪かった!これからは安易に質問なんかしないし、距離を置くことにするよ!それでいいかな?」

 るいは無表情のまま頷いた。「ごめんなさい……じゃあ私、寝るね」

「お、おう。あ!待って!」

 望夢は一階に駆け下りると毛布を2枚持ってきた。そして1枚を絨毯の上に敷きもう1枚をその上に重ねて置いた。「床で寝るにも地べたじゃ悪いからさ。絨毯あるけどこいつ汚ねえし」望夢はにんまりとして言った。

 ずっと無表情だったるいの口元がようやく緩んで微かな笑みを浮かべた。「親切にありがとう」

 望夢は「へへっ」と照れ笑いした。

 るいは毛布の上に横になり、望夢は電気を消して自分の布団に入った。

「おやすみ」望夢がつぶやくと、るいも「おやすみなさい」と返した。

 しばらくして、悲しみを秘めたAV女優はすやすやといびきをかいた。

 望夢は色んな訳あって寝つけず、しばらく天井を見つめていた。ときどき、良からぬ感情からるいをチラチラと見てしまうが、ダメダメと自分を抑えた。

 望夢はふと、さっきるいに尋ねたこと、彼女がAV女優になった理由がまた気になった。そこでスマホを手に取って“AV女優 きっかけ”と検索してみた。

 すると、その職についた人の記事がわんさか出てきた。その多くは、元芸能人からの転身だった。女優をやっていたが売れなかった者、スキャンダルによって表舞台から追い出された者、逮捕されて表で活動できなくなった者など、きっかけは様々だ。

 望夢は複雑な感情を抱きながら、終始真顔でスマホを見入っていた。今朝の源先生の言葉の意味が、これ以上ないほどに理解できた。

 AV女優という職業は、自らの意志でその道に行った者ももちろんいるが、そうでない者も大勢いる。

 望夢はそのことを心に刻み、眠り落ちた。




 時刻は夜の一時。望夢はいつもの夢を見た。どこか知らない無限に広がる草原。そこにたたずむ自分と見知らぬ少女。顔はわからないが、自分の理想に違いないと確信していた。

 望夢は少女に近づくとその手を握った。すると少女がゆっくりと振り向いてきた。今夜こそ、少女の正体が明らかになるのか⁈望夢は期待で胸を高鳴らせ少女の顔がこちらに向くのを待った。

 だがおかしい。少女の顔が振り向くと同時に、周りの景色が徐々に暗くなっている。そして少女が完全に振り向いたとき、辺りは墨汁で浸されように真っ暗になった。

 少女の正体は雫元るいだった。ただその顔は本来の彼女よりずっと恐ろしかった。髪はぐしゃぐしゃにかき乱され、目は怒りに満ち、そこから血の涙が溢れて頬を赤く染めている。彼女はその恐ろしい形相で望夢を睨み、男のような低い声で「さわんじゃねーよー‼︎」と叱責したのだった。

「ごめんなさぁぁぁい‼︎」

 望夢は飛び起きた。はっとして夢だと気づくと、隣を見た。るいはぐっすり眠っている。顔は普段のかわいい彼女のままだ。望夢は夢であったことにほっとしたが、普段の自分の行為の軽率さをほのめかしている一種の正夢のような気がして、多少の責任を感じた。

「ふっふっふ…」

 耳元で笑い声がした。途端に寒気を感じて振り向くと、亜久間が満足気な笑みを浮かべて自分を見つめていた。

「なんだよ⁈なんかおかしいかよ⁈」

「だって私からのサプライズに良いリアクションしてくれたんだもの」

 望夢は全てを察すると同時に怒りが込み上げてきた。「お前の仕業なのか?いつもおれの最高に幸せな夢を邪魔してくるのは?」

「そうよ?今気づいたの?それどころか、今回の出来事も私が仕組んだのよ?」亜久間はるいに視線を落とした。

「やっぱりな」望夢はつぶやいた。「んで?今度はおれをどうするつもりなんだ?女の子誘拐の罪で逮捕させるとか?」

「あら何てこと言うの?せっかくヒーローになるチャンスを与えてあげてるっていうのに」

「ヒーロー⁇」

「ええ。あの子のボディーガード。そして恩人」

 亜久間は意味深な笑みを浮かべた。望夢はただそれを見つめるばかりだった。この女の言うこと、どうも信用し難い。

 亜久間は続けた。「明日はもっと大変なことが起こるから、覚悟しててね?だから今夜はちゃんと寝なさい」

 望夢が答える前に、亜久間は音もたてずに煙のように消えた。

 亜久間の仕組んだおふざけの展開が予想できない望夢は、暗闇に取り残された人形のようにしばしの間ぼーっとしていた。




 朝日が照らす静かな町で、小鳥のさえずりが響き渡る。その心地よいアラームで望夢は目覚めた。時計を見ると時刻は6時。起きて学校の支度しなければ。

 隣に目線を下ろすと、るいがちょうど上半身を起こしたところだった。望夢と同じタイミングもしくはそれより早くに目覚めていたようだ。

「おはよう」望夢が言うと、るいも「おはよう」と返した。

「床だったけど、ちゃんと眠れた?」

「うん」るいはいつもの寂しそうな顔で答えた。そしておもむろにこんな話を始めた。「私ね、寝てると必ず夢見るの。だから寝るの好きなんだ。現実のことなんか気にしなくて良いし現実では起こらないような面白い出来事が夢では起こるから」

「ほほー。確かにそうだね!」るいのそんな話を聞いて望夢は何となく元気が湧いた。

「望夢は?何か夢見た?」

 ぎくっ!望夢に湧き上がった元気が罪悪感へと変貌した。「…おーれーはー…特に何も!」

「そう」

 ここでるいは立ち上がって、窓を開けた。

「は〜いい天気。…あ‼︎」

 るいは短い悲鳴を上げると咄嗟にカーテンを閉めた。

「…ん?どうしたの⁈」また何かやっちまったか⁈自分、ほんと不器用過ぎる!

 尋ねる望夢にるいは「しーっ!」っと静かにするよう合図した。そしてカーテンの隙間から外の光景を眺めた。望夢もカーテンの隙間を覗いた。

 黒い服に黒い帽子、さらにサングラスをつけた男と、だぼだぼの白いズボンに茶色い上着を着てマスクをした男が、隣の家の前で話している。その男たちの会話が二人の耳に微かに聞こえた。


「昨日この辺に居たらしいっすよ?なんか男にかくまわれてて、そいつに投げ飛ばされたとかなんとか」

「男がいた?ってこたぁ、そいつの家にいる可能性が高え。一軒ずつ見ていくか?」

「でもそんなことしたらいかにも怪しいだろ?通報なんかされたら…」

「そりゃそうだな…」


 男二人はそんなやり取りをしながら歩いていった。

 るいはは壁にもたれかかって胸を撫で下ろした。

「あいつら何者なの?」望夢は尋ねた。

「悪い連中よ」

「どんな?」

「私みたいな仕事してる女性を誘拐するの!お金目的で」

「お金目的?」

「お金のために私たちを拉致して陵辱するの。その様子を撮影して売り払う。最低の連中…」

 望夢はぞっとしてるいを見つめた。「もしかして、昨日君を襲ってたやつの仲間か?」

 るいは無表情で頷いた。「私が前に住んでた所、あいつらにバレたの。それで家に帰れなくなって。あいつらから逃げてたら望夢と遭遇したの。でも、ここまで追いかけてくるなんて…」

 そういうことだったのか。まさか彼女がこんな危険な状況にいたとは…。

「警察に通報しよう!それが一番早いよ!」

 望夢は瞬時に思い浮かんだ解決策を直ちに伝えた。しかしるいは首を振った。

「警察にはとっくに言ってる。でも全然ダメ。あいつらを懸命に探してるわけではなさそうだし。警察はあてにならない」

「そっか…。じゃあ、一生隠れて生きるの?」

「あいつらが捕まるか、家族を見つけられればね」

「どういうこと?」

 るいは重々しい表情で望夢を見て、語りだした。「私がAV女優をやってるのは、家族がいなくて生計が立てられないからなの。幼稚園の頃から子役をやってたんだけど、小学生のときに親が離婚して、お母さんと暮らしてたけど、お母さんはギャンブル依存症で、私のことはそっちのけでパチンコばっかやってた。私が女優として売れることもなかった。それで高校生のときに大喧嘩して追い出されて…。芸能活動も不振でどうしようって悩んでたら、ある人から勧誘を受けたの…」

「それで、AV女優に?」

「うん。年齢的に違法なのはわかってたけど、秘密で雇ってもらえた。でも同級生にバレて、高校は退学になって。耐えられなくなってもう辞めたいってマネージャーに言ったら、ただでは辞めさせないって脅されて、プラベートでもあの連中に追い回されるようになったの。もう一人じゃまともに生活できない…」

 るいは目に涙を浮かべた。望夢は深刻な顔で聞いていた。

「なんて酷い話だ…」

 るいはカバンを肩にかけ、望夢に向き直った。「匿ってくれてありがとう。お世話になりました」そして丁寧に頭を下げた。

「待てよ!今はむやみに出歩かない方がいいよ!まだあいつら、いるかもしれないし」

 るいは首を振った。「これ以上迷惑かけたくないの」

「今度はどこへ行くつもり?」

「決めてない…」

 るいの顔はすっかり悲しみに暮れていた。望夢が耐えきれず、こう提案した。

「お父さんは?お父さんの住所はわからないの?」

「わかってたらとっくに行ってるよ」

「住んでたとこの役所で聞いてみれば?」

「聞いて教えてもらえるの?」

「たぶん…うーん…」

 望夢はスマホで調べ始めた。

「ほら!これだ!戸籍の附表を作ってもらえばいい!」

 るいはスマホを覗き込んだ。

 戸籍の附表とは、役所で有料で作ってもらえる現在の住所についての書類で、家族の住所まで記載されている。これを発行すれば生き別れの家族を探すことが可能だというのだ。

「なるほど…試してみてもいいかも?」るいの表情が少しだけ明るくなった。

「お母さんと暮らしてたときの住所はどこなの?」

「久米沢よ」

 久米沢。偶然にもそこは望夢が通う高校の位置する地区だ。るいを久米沢の市役所へ連れていって、そこで戸籍の附表を発行する。そしてそれでるいの父親の住所を確認してそこへ送り届ければ、万事解決だ!

「じゃあ一緒に久米沢市役所に行こう!」と望夢は提案した。

「え⁈一緒に⁈悪いから一人でいいよ!それに今日学校あるでしょ⁈」

「いいって!心配だし、おれ君のファンだし!怪我してほしくないんだよ!絶対無事に届けるから!お願いだ!」

 るいは望夢を見つめた。望夢はどうしても付き添わせてほしいと表情で訴えた。

「…わかった。お願いするわ。ありがとう…でも、歩くときは1メートル離れてちょうだい。お願いだから」




こうして望夢は雫元るいの護衛をすることになった。

 望夢は学校に「体調不良で休みまーす」と連絡を入れた。

 目的地までは約二時間。まだ出るには早い。しかし、るいがいることを両親に気づかれるのは時間の問題だ。なので、だいぶ早いが、二人は出発の準備に入った。

 まずは朝食を取った。望夢は一階に降りて食パンとハム、チーズを回収し、るいに渡して好きなだけ食べるように言った。自分は冷凍のドリアを温めて食べた。運良く両親はまだ寝ており、その目を気にする必要はなかった。

 朝食が済み、二人はいよいよ出発の準備に入った。連中は女性に目を光らせているだろうから、望夢はるいに自分の服を貸して男装させた。長い髪は上でまとめ、帽子をかぶることにした。望夢自身は滅多に使わないサングラスも貸して顔を隠した。

 次に、望夢は家の外に出て近辺を歩き回り、怪しい連中が居ないか確かめた。家がある住宅地には誰もいなかったが、そこから少し離れたアパートの前にタバコをふかした3人の男たちがいた。例の連中の仲間かはわからないが、先ほどの二人と格好が似ている気がしなくもなかった。

 駅まで向かう途中の坂道に犬を連れて暑い歩いている中年の男がいた。単に犬を散歩させているだけのようだが、それはカムフラージュかもしれないと望夢は思った。

 ゴミ捨て場の前を通ったとき、雑誌類に大人向けの本が混ざっていたので、望夢はほんの少々立ち読みした。

 その後、駅の方まで行ってみたが、さすがに人が多くて判別しにくい。駅前でタバコを吸っている男性や座り込んでいる男性を記憶に留めて、望夢は自宅に戻った。

 望夢から見てきたことを伝えられると、るいは、変装もしているし大丈夫だろう、出発しようと言った。早く父親に会いたいらしい。

 これで準備は整った。

 時刻は九時。上手くいけば十一時には目的地に到着できるだろう。

 二人は玄関を出て住宅地を歩いた。先ほどと同じで住宅地には誰も居なかったのでここは難なく通り抜けられた。

 続いて坂道に出たが、犬を連れた男性は見当たらなかった。自転車で通り過ぎていく人やおばあさんがいたが、それは問題ないはずだ。こうしてこの道も無事に通過したのだった。

 二人でそわそわしながら歩くこと十分。とうとう駅が見えた。

「やった」るいはつぶやいた。

「やったね。これで後は電車に乗り込めば…」

 と言いかけた望夢の肩を何者かがつかんだ。望夢のほぐれかけた緊張が一挙に締まり、勢いよく振り向いてその腕をつかんだ!

「なんだてめえぇ‼︎………って、おい‼︎」

 望夢がつかんでいたのは瞳の腕だった。登校中の制服姿の瞳とばったり鉢合わせてしまったのだ。

「ちょっと⁇あたしだけどなに⁈」

 なに⁈はこっちの台詞だ!まったく瞳のやつ!いつも何かしら邪魔しに入る!

「脅かすな!今忙しいんだよ!」

「あーそうなの?ごめんごめん。ところで、どなた?望夢のお友達?」瞳は男装したるいを見て尋ねた。

「まー、そんなとこ!」

「友達いたんだね」と瞳は笑った。

「うっせえ!お前には関係ない!んじゃ!」

 望夢とお友達は早足で駅に向かった。

 瞳は首を傾げた。明らかに様子が変だ。…怪しい…

 瞳がそう思ったとき、望夢のお友達の帽子が風に煽られ飛んでしまった。

 ……女⁈あのモテない望夢が女を連れて歩いている⁈それも男装させて⁈…謎めいている!謎に満ちている!

 さらに驚くことに…‼︎

 駅のあちらこちらから数人の男たちが二人の方に向かって走り出したのだ!

「しまった!」望夢は叫んだ。「行こう!」

 急いで帽子を拾うと二人は駅へ走り出した。男たちがこちらに向かって来る!その数推定6人。

 二人は駅に飛び込むと急いで改札を抜け、目的のホームに下りようとした。しかしその階段から連中の男が走って二人に向かってきた。

 二人は慌てて降りかけた階段を駆け上がると、反対側のホームへ下りた。こちらにも連中の男がいたのだろうが、望夢はあえて一番奥の階段を下りたので鉢合わせることはなかった。

ホームへ下りると電車が来ており、ちょうど『ドアが閉まります』というアナウンスが流れていた。二人はすかさずその電車に乗り込んだ。

 男たちがホームに下りてきた。そしてキョロキョロと見回して即座に二人を見つけると一斉に駆け出してきた。しかしギリギリのところせドアが閉まり、男たちはドアに衝突した。

 ドンッ‼︎

 電車は走り出した。連中の男たちは、発車した電車の扉の窓をバンバン叩いて二人に悪態をついていたが、まったく聞き取れなかった。

 二人はほっとため息をついた。

「はぁ……何とか助かったー…」

「ほぇ……危なかったね…」

 これでひとまず安心。しかし、別の問題が発生した。男たちは捲いたものの、二人は予定とは違う電車に乗ってしまったのだ。これでるいと父親の面会は先延ばしとなってしまった。二人はがっくりとうな垂れた。




 運の悪いことに、望夢とるいが乗った電車は特急で、しかも久米沢とは反対方向に向かうものだった。二人は目的地とはだいぶ離れた遠い地へ飛ばされてしまったのだ。

「どうする?また特急待って戻る?」望夢は駅の路線図を眺めながらるいに尋ねた。

「ううん。あいつらはそれを予期して待ち伏せしてるかも。せっかく遠くまで来たんだから、あえて別のルートで行きましょう」

「確かに。それは名案だね」

 望夢はスマホを使って新規のルートを考えた。「ここから一番近くて路線の張ってる駅は池袋。池袋から久米沢まで行くと大体一時間半。どう?」

「いいよ」

 こうして二人は遠回りして久米沢へ行くことにした。

 ピコン!

 望夢のケータイの着信音が鳴った。見ると、新しいメッセージが二通来ていた。一通目は瞳からだった。


『ねえねえ!どういうこと⁇一緒にいる人誰⁇何で追われてるの⁇』


 ちっ!と望夢は舌打ちした。瞳ときたら相変わらずの知りたがりだ。

「どうしたの?」るいが尋ねた。

「ん?瞳っていう同級生のやつが知りたがりでさ、メッセ送ってきた」

「それってさっきの女の子?」

「そうそう」

「望夢の彼女?」

「なわけ!」

「そう…」

 ようやく池袋に着いた頃、望夢のお腹がぐーぐー鳴り出した。

「へへ!お腹空いちゃった!」

「私も…」

 二人は乗り換えついでに池袋で昼食を取ることにした。

 望夢はるいに何が食べたいかと尋ねると、ラーメンと牛丼以外なら何でも良いと言った。そこで二人はファーストフード店に入った。

 望夢は女の子と食事をするのは初めてだった。ちょっとしたデート気分を味わい、望夢は嬉しかった。ただ、食事中に話しかけるのには抵抗があった。すでに安易な気持ちで質問をして泣かせている。男としてかなりマイナス点だ。もう迂闊に質問はできない。そこで望夢はプライベートではなく、よくありがちな質問をすることにした。

「さっきラーメンと牛丼は嫌だって言ってたけど、どんな食べ物が好きなの?」

「家では節約のためにインスタントのものばかり食べてたの。だからラーメンとか牛丼は嫌だったの。あと、カロリー高いものも嫌だな」

「…あ、そうなんだ!」それも先に言ってくれよ!でなきゃファーストフードなんかにしなかったよ!

 望夢は気まずさのあまり話題を変えることにした。「じゃあさ、るいちゃんはどんな男の人がタイプなの?」

「昨日も言ったけど男性は苦手。タイプとかないの。これまで仕事で色んな男に抱かれたけど、ときめき感じたことなんて無かったし」

「…お、おう…ごめん」

 何やってんだおれ…。どんどん印象下げてんじゃねえか!望夢はいかに自分が異性に対して不器用であるかを実感した。

「ごめん、おれトイレ言ってくる!」と言って望夢は退いた。

 用を足し、手を洗うついでにに、顔を洗い、鏡を見た。「頑張るんだ!おれ!」

 デートではないが、ここはどうしても彼女を楽しませたい。少しでいいから元気になってほしい。それが望夢の望みだった。

 望夢がトイレで気を締め直している間、るいのそばに男が二人たかっていた。食事中はサングラスを外しており、女であることがバレてしまったようだ。

「ねえ彼女?今暇?」

「オレたちとどっか行かない?なあ?行こうぜ⁈」男はるいの手を引いてぐいぐい引っ張っている。

「というかさ、君さ、AVに出てなかった?ね⁈出てたよね⁈」

 これを聞いたるいは、フォークを一本拾い上げると、自分を掴んでいる男の腕に突き刺した。男がぎゃあと悲鳴を上げてその手を離すと、るいは店から飛び出した。

 トイレから戻った望夢は戸惑った。テーブルからるいの姿が消えている。

「⁈」

 彼女もトイレに行ったのだろうか?と思って女子トイレの方をチラリと見ると、扉が開いて別の女性が出てきた。トイレにはいない。

 ならば、先に外に出て待っているのだろうか?そう思い、会計を済ませて店の外に出てみたが、彼女の姿は見当たらない。電話番号もメアドも聞いていなかったから連絡も取れない。そこで望夢は店の前でタバコを吸っていた中年の男に、こんな格好でサングラスした人が店から出て来なかったかと尋ねた。

「髪、上でまとめてたか?じゃあ、あの子だな!店から出てきて、男二人に追いかけられて、あの路地に逃げ込んでったよ」そう言って男は建物と建物の間の狭い路地を指差した。

 望夢は男に礼を言って、その路地に向かって駆け出した。

 路地の脇道に注意しながら探索していると、人通りのない脇道で三人の人影が見えた。一人はるいで地面に座り込んでもがいている。それを男二人がいじくっている。

 望夢は駆けつけて男二人に飛び蹴りを入れ、急いでるいを起こすと「逃げて!」と叫んだ。

 るいはどこかへ走り去った。

 男二人は態勢を整えると望夢としばし睨み合った。

「なんだてめえ‼︎」

 男一人が叫ぶと、望夢は身構えた。ここは男を見せるときだ!昨日の晩、男を投げ倒したのだから今回だってきっと追い払えるはずだ。

 そんな自信を掲げて、望夢は言い放った。「おれは久米沢高校三年A組本橋望夢!正義のイケメン!世の女性の味方!この世にはびこる不埒な男を決して許しは…」

 ボカッ‼︎

 名乗りをすべて言い終わるまでもなく、望夢の顔面に拳が飛んできてそのままふるぼっこにされた。昨夜舞い降りた天性の力は、再び舞い降りては来なかった。

「行こうぜ!」

 男二人組は望夢を痛めつけるのに飽きると、唾を吐きかけて去っていった。

 望夢は顔面痣だらけになりながら立ち上がると、るいを探しにふらふらと歩き出した。

 るいはだいぶ遠くまで逃げており、望夢は10分以上歩き回るハメになった。るいは人通りのない路地の脇に座り込んでうずくまっていた。

「大丈夫?」望夢は尋ねた。

 るいは答えず、下げていた目線を上げて辺りをキョロキョロ見回した。よく見ると今二人がいる街路は、ガールズカフェや風俗、キャバクラで溢れていたのだ。この場所に対する嫌悪感を示しているのだろうか?だとしたらここから立ち去れば良いのだが…

「行こう。ほら」

「…どうしてなの?」るいは呟いた。

「…え?」

「……どうして男と女の扱いって違うの?…」

 彼女は顔を下げており、前髪で目が隠れて見えない。その状態で絞り出すような声で発言しているため、妙な威圧感を感じる。

「いつだって冷遇されるのは女。女に言い寄るのは男。お金を出してでも男は女を求める。セクハラされるのも女………どうしてなの?なんで女は男に物みたいに扱われなきゃならないの⁈」

 望夢は黙っていた。正直それは大げさだと思ったが、余計に刺激してしまうと悪いので言い返さず、ただ黙って聞いていた。

 るいはまた涙を流していた。

「街に出れば誰かしら男が言い寄ってくるの!どうしてなの⁈どうして放っておいてくれないの⁈どうして‼︎ねえ‼︎………どうして…」

 望夢は気の利いた返答が出来ず、こう言った。

「早くお父さんに会いに行こう。お父さんなら君のことをわかってくれるから…」




 望夢は何とかるいをなだめ、池袋から離れて久米沢へと向かった。時刻は13時。すでに予定より到着は遅れている。ここから久米沢まではさらに一時間半かかる。もう今後はトラブルがないことを二人は願った。

 電車の中、るいは疲れたようで寝ていた。それでも望夢が声をかけるとすぐに目を覚ましたため、数度の乗り換えでも苦労はしなかった。

 望夢は疲れていたが、ふるぼっこにされた傷が痛むのでとても寝られなかった。ただぼんやりと電車の窓から外の景色がもうスピードで過ぎ去っていくのを眺めていた。今日は散々な一日だ。この景色のように、あっと言う間に過ぎてくれればいいのだが…。

 ふと望夢はスマホを見ると、またメッセージが来ていた。相手は瞳だった。


『ちょっとー!ムシしないでよーーー!こっちが心配してんのに!返信くらいしなさいよ!』


 望夢はまたも返信せずにメッセージを閉じた。

 そのうち、傷の痛みが和らいできて、望夢もウトウトしてきた。しかし、眠ってはいけない。

 そう言い聞かせる望夢の、後ろの窓ガラスに亜久間の姿が浮かび上がった。ガラスの中で亜久間はニヤリとして、呪文を唱えるように口を2、3度パクパクした。

 望夢は知らぬ間に眠りに落ちていた。

 二人してそのまま寝ること約2時間。ようやく望夢は目を覚ました。

「はぁ〜!………。………⁇…⁈」

 大きなあくびをしたその次の瞬間。自分の失態に気づいた。望夢は隣で寝ているるいの頭に自分の頭をもたせかけていたのだ!

「うひょっ‼︎」

 望夢は歓喜と動揺の入り混じった声を漏らした。すると、るいも目を覚ました。そして自分の頭に寄りかかる望夢のドアップの顔面を見るや否や、思いっきり引っ叩き、退いて距離を取った。

「ごめん‼︎悪気は無かったんだ‼︎ほんとにごめん‼︎」

 るいは望夢を見もせず、ひたすら電車の窓を無言で睨んでいた。

 このとき、車内の乗客の視線は望夢に集中していた。その中の一人である小さな男の子が「おかあさん、ちかん!」と叫んだ。

「こら!なんてこと言うの!指差さないのもう!」

 望夢は恥ずかしいこと極まりなかった。

 さらに、男性がるいに「お嬢さん、痴漢ですか?」と尋ねてきた。るいは「別に…」と返しただけで、望夢が痴漢の現行犯で通報されることはなかった。それでも気まずいことに変わりはなかった。

 望夢はそれよりももっとまずいことに気づいた。二人して寝ていたため、目的地である久米沢の駅を乗り過ごしてしまったのだ。

 望夢はるいにおずおずとその主旨を伝えると、るいは今さっきの痴漢行為をもう忘れたかのように「やっちゃった…」とリアクション。二人して電車から降り、引き返す電車に乗り換えた。

 時刻は15時半。またさらに到着が先延ばしになってしまった。




 こうして災難続きで二人が久米沢に着いたのは結局もうすぐ16時半になるという頃であった。

「はぁー。やっと着いた」望夢は電車を降りると両手を膝に当ててため息を吐いた。「そんじゃ、市役所に行こう」

 るいは微かに笑みを浮かべて頷いた。

 正直、望夢は彼女と早く離れたかった。男性嫌いというだけでかなり重荷だし、表情が堅くて話しかけづらいったらありゃしない。おまけに痴漢の免罪を被るところだった。とっとと送り届けておさらばしたいとこだ。

 望夢はスマホのナビで目的地を調べた。距離はおよそ2キロ。時間はやく約30分。やや遠いため、望夢はタクシーで行った方が良いかもと提案した。しかし駅にはもうタクシーは無かったので、二人は歩いて向かった。

 二人は市役所へ向かった。市役所の受付は5時まででギリギリのとこで戸籍の附表の写しを発行してもらえた。そこに記載されている父親の名前、緒方誠一郎の住所を確認すると、都合のいいことに久米沢に住んでいることがわかった。

「意外と近くにいたのね…」るいは嬉しさとも悲しみとも取れない微妙なトーンで言った。

「近くて良かったじゃん!」望夢は元気づけようとした。

 二人はナビを頼りに、るいの父親の住所へと向かった。

「もうすぐだ」10数分歩いた後、望夢は言った。「ほらあの橋!あそこを渡ればもうすぐだ!」

 クタクタの二人はほっとした気分で橋を渡り始めた。

 しかしそう簡単には渡れなかった。橋の上で男が数人並んで立ち、通せんぼしていたのだ。

「おい!どいてくれよ!」望夢は叫んだ。

「待って!」とるい。

「どうした?」

「あの連中!私を追いかけてる連中よ!」

 るいが叫ぶと先頭の男が歩み出て言った。「やっと追い詰めたぞ!捕まえろ!」

 それを合図に男たちがゆっくりジリジリと迫って来た。

「逃げよう‼︎」望夢はるいの手を取って引き返そうとした。しかしすでに遅かった。後ろからも追手が来ていたのだ。

「くそっ!挟まれた!」

「さあ兄ちゃん、大人しくその子を渡してもらおうか?」先頭の男が手を差し伸べてきた。

 望夢はるいを後ろにかばったが、後ろからも追手がいるので意味は無かった。ジリジリと二人は橋の中央に追い詰められていく。

 あともう少しだってのに!ここで終わりか⁈

 望夢は四方八方見回して逃げ道を探した。そしてあることを思いついた。橋の下は川だ。流れは緩やかだが結構深いと聞いている。逃げ道はこれしかない!

 望夢は恐怖を抑え、橋の手すりに上った。

「ちょっと⁈何してるの⁈」るいはパニック状態で尋ねた。

「ここに立って!」望夢は手を差し伸べて叫んだ。

「いや…嫌よ!」

「そうするしかない‼︎早く‼︎」

 るいは瞬時に決断を下し、望夢の手を取って手すりの上に立った。

「おいおいどうしたんだ?二人して死ぬ気か?バカな真似はよせ!」先頭の男が怒鳴った。

 望夢はるいに合図したら飛び降りるように伝えた。

「早く女を渡せ‼︎」

男たちが一斉に押し寄せてきた次の瞬間…

「今だ‼︎」

 望夢が叫ぶと、二人は歩道橋から飛び降り、襲いかかる男たちの手を間一髪で逃れた。

 先頭の男が橋の下を覗き込むと、二人の姿は無く、水面に波紋が広がっているばかりだった。




 望夢は川岸にるいを引っ張り上げた。小柄だが、水を吸った服のせいで重みが増しており、引き上げるのに一苦労した。

 この時期なら夕方でも十分明るいはずだが、この日は曇り空で辺りは真っ暗だった。それで望夢は近くにあった街灯の下までるいを抱きかかえてきた。

 るいは水に入った途端から動いてなかった。高い場所から飛び降りた恐怖のためか気を失ってしまったようだ。

 望夢は一応胸に耳を押し当てて、命に別状はないか確かめた。

 ……死んではいない。しかし呼吸していないとなればこのままではまずい。早く応急処置をとらねば!

 望夢は頭を凝らした。中学の頃に災害訓練で教わったことがあった。まずは心臓マッサージだ。

 と思って、早速行おうとしたそのとき、望夢はある深刻な問題に気づいた。

…胸。

 心臓マッサージは胸を押すもの。救命のためなら仕方がない。けれど、もし最中にるいが目覚めたら?男嫌いな彼女のことだから、きっと引っ叩かれるに違いない。

 そんなことを思って望夢は悩んだ。今悩んでいる間にも、るいのタイムリミットは進んでいる。やるしかない。彼女が死んでしまうくらいなら、引っ叩かれる方がマシだ。よし!

 望夢は「失礼します!」と一礼して、おずおずと両手をるいの胸に乗っけた。ちょうど両胸を両手で掴む形だ。

 おっと…

 この手は心臓マッサージのポジションではない。ただのわいせつだ。すかさず望夢は両手を合わせて胸の中央に置いた。そしてゆっくりと、強く、るいの胸を押した。

 ぬおおおおお!

 今自分は、おっぱいを押しているぞ‼︎………いやいや違う‼︎これは救命だ!立派な応急処置なのだ!

 そう自分に言い聞かせ、しばらく胸をギュウギュウ押していたのだが、るいは一向に目覚める気配がなかった。そこで第二の応急処置、禁断の処置を決行しなければならなかった。

 人工呼吸だ。

 望夢は緊張した。自分はファーストキスもまだだし、相手は大の男性嫌いだ。確実に恨まれる。だが、これは決して下心で行うものではない!人命がかかっているのだ!

 望夢はるいのあごを上げ、口を少しだけ開いた。いよいよだ…。初めてのキス…じゃなくて、人口呼吸!どうか意識を取り戻してくれ!嫌われたって知るもんか!

 望夢は照れと申し訳なさを抑え、ゆっくりと自分の唇をるいの唇に近づけていった………

 ところが、あと一センチで口付けするというところで、るいは目覚めたのだった。そのまま至近距離で二人は見つめあった。

「……………⁈きゃーーーーー‼︎」

 るいが叫ぶと同時に、望夢は頬に思いっきり平手打ちを食らった。

 るいは四つん這いで望夢から遠ざかり、何度もおえー!と聞き苦しい声を上げた。

 やれやれ。嫌な予感を察知していた望夢は、自分の不幸に心底呆れた。

「なんてことするの‼︎」るいはこれまでにないほど怒り狂った。「あれだけ男は嫌いって言ったのに‼︎私が倒れてるのを良い事に‼︎」

「おれは助けたかったんだ‼︎君の意識が無かったから‼︎」

「そんなもん待てば良かったでしょ⁈そのうち意識戻ったわよ‼︎」

「待って死んじゃったらどうするんだよ‼︎」

「ちゃんと起きたでしょ‼︎余計なお世話よ‼︎下心丸出しじゃない‼︎変態なのもいいとこよ‼︎」

 望夢はイライラした。本当に助けようしただけだし申し訳ないという気持ちもあった。なのにここまで言われるとは。

 もう限界だ!堪えていた不満が抑えきれなくなり、望夢はとうとう爆発してしまった。

「変態で悪かったな‼︎そうだよ!おれは変態だ!自分でわかってるさ!でもよ、それにしたってよ、男に体売るような仕事してるくせに、変態扱いすんなよな‼︎かわいそうだと思って助けてやってんのに、変態扱いされてそこまで文句言われちゃたまんねえぜ‼︎もう勝手にしな!ここから一人で行け‼︎」

 そう言うと、望夢は踵を返してその場を離れてしまった。

 るいを照らしていた街灯がチカチカと点滅し、そして消えてしまった。

 時刻は17時過ぎ。雫元るいは暗闇に一人取り残された。




 すっかり暗くなった夜の街を、雫元るいは一人で歩いた。

 夜の町を一人で歩くのはやはり怖かった。こんな状況で男に声を掛けられなかったことはない。夜の都会は彼女に取って猿の巣である。こんなことになるなら、さっきまで一緒にいた猿を叱り飛ばすのではなかった、とるいは後悔した。

 さらに問題が生じた。川に飛び込んだせいでスマホが壊れて使えなくなっていたのだ。これでは父親の自宅への経路がわからない。もう近いというのに。

 るいは不安は噛み締め、街灯と車のライトで明るく照らされた車道の縁を歩いていった。狭くて暗い道は怖くて歩けない。

 安全第一を選択した彼女であったが、それは無駄足となった。コンビニの前でたむろしていた三人組の男が彼女に目をつけたのだ。そして尾行を始めた。

 るいは少しずつ歩を早めた。三人組もそれに合わせて足速になった。そのうちるいは走り出していた。三人組も走って追いかけてきた。

「助けて‼︎」るいは叫んだ。けれども誰も反応してくれなかった。誰もが見て見ぬふりをした。るいはある男性の肩に手を置き助けを求めたが、不快そうな顔で睨まれて去られてしまった。

 るいは曲がりくねった路地に逃げ込み三人組をまこうとした。けれどもそれも誤った選択だった。ある曲がり角を曲がると、そこは行き止まりだった。引き返そうとしたが三人組はすでに立ちはだかっていた。

「なあ、俺たちと遊ぼうぜ!」

「大人しくついてくれば乱暴なマネはしねえよ?」

「さあ!こっちにおいで!」

 三人組はジリジリとるいを追い詰めていった。もう逃げ場はない。るいは再び後悔した。望夢が居てくれたらこんなことにはならなかった。変態でイヤらしかったが、何度も助けてくれた。だがそれを振り払ってしまった。そう思い、自身に下った罰を素直に受け止めようと、覚悟をして目を閉じた。そして男たちの勝利の嘲笑に耳をひそめていた。

 すると次の瞬間、その嘲笑がうめき声に変わった。さらに何かを殴るような音が聞こえた。目を開けると、一人の男性が三人相手に格闘していた。暗くて顔はよく見えないが、眼鏡を掛けている。望夢ではない。

「逃げて‼︎」男性は取り押さえられ、腹部に蹴りを入れられながら叫んだ。

 るいはその救世主に感謝し、路地を抜けた。

 助けに入った男はしばらく格闘したが完全に劣勢だった。三人相手では無理もない。しばらく一方的に殴られた。そして体力が限界に達し、とうとう倒れてしまった。

「舐めてんじゃねえぞ!」男の一人が叫んで倒れ込む男性に渾身の一撃を浴びせようとしたそのとき…

「あそこです!」

 路地の向こうからるいが現れた。続いて警察官が二人、その後ろから走って来た。三人組は向かっていって警察官二人を殴り倒し、そのまま逃げていった。警察官らはすぐさま立ち上がるとるいと男性に「そこを動かないで!」と言い残して、男三人を追って路地から姿を消した。

 るいは倒れている男性に「大丈夫ですか?」と尋ねた。

 このとき、るいはようやく男性の顔をしっかりと見ることができた。自分と同じくらいの歳の若い男性だ。きっと高校生だろう。

 男性は落っことした眼鏡を拾ってかけた。

「大丈夫です。そちらこそ大丈夫ですか?」男性の声は低く、響きがあった。

「はい。ありがとうございました」るいは頭を深々と下げた。

「こんな時間にどちらへ?夜に一人で出歩くのは危ないですよ?」男は服についた泥を払いながら言った。

「お父さんの家に。どうしても行かなければいけないんです」

 これを聞いて男は何かに気づいたような顔をした。そしておもむろにこう尋ねた。「…お名前は?」

「緒方るいです」るいは本名で答えた。

 それを聞いた男の表情からは、“やっぱり”と言う心の声が読み取れた。

 そして男性はこう言った。

「僕は芽傍ゆうといいます。お父さんの家までご安内します」




 望夢は完全に帰路に入っていた。もう雫元るいのことなどどうでも良かった。あんな恩知らずに振り回されるのはうんざりだ。だがもう解放されたのだ。何も気にすることはない。そう自分に言い聞かせて駅の改札をくぐろうとした。

「本当にそれでいいのかしら?」

 後ろから呼び止めた声は聞き覚えがあった。他でもない、亜久間愛だ。

 望夢は振り返った。「どうだっていいよあんなやつ!こっちはわざわざ付き添ってやったのに、その例があれかよ!まったく!」

「馬鹿ね!」亜久間は険しい表情で叱り飛ばした。

「は⁈なんでだよ⁈」

「あなた、あの子のファンなんじゃないの?好きなんじゃないの?あの子を無事に送り届けるって、約束したんじゃないの?」

 望夢は亜久間を睨んだ。「お節介もいいとこだ!おれはあいつとは無関係だ!振り回される筋合いはねえ!」

「振り回された⁈ついて行くって言ったのはあなたじゃないの?あなた、あの子を守りたくてついて行かせてもらったんじゃないの?それを平気で蔑ろにして、嫌味言っておいてきぼりにするなんて、最低じゃない!…いいわ。これであなたとの契約は破綻ね。あなたが到底異性を守れるような男じゃないってことがわかったから、これ以上言うことはないわ!一生彼女なんて作れないわね!それじゃあね!」

 それだけ言うと、亜久間は煙となって消えてしまった。

 ………。なんで?なんでだよ⁈なんでこんなボロクソ言われなきゃならねえんだよ‼︎

「ちくしょー‼︎」

 望夢は怒りと悔しさでいっぱいになり、改札機を蹴り飛ばした。

 そして絶望したかのように膝から崩れ落ち、しばらくうつむいていた…。




 時刻は18時。

 るいは芽傍について歩いていた。芽傍にはまったく迷う様子もなく、悠々と先を歩いていく。

「私のお父さんの家、知ってるんですか?」

「多分」芽傍はボソリと言った。

「たぶん、ですか?」

「はい。僕の家の近所に、緒方さんという人が住んでいて、以前離婚して、娘と離れて暮らしてると噂で聞きました。

 るいはハッとした。「私、噂になってるんですか⁈」

「いえ……噂というか、僕が偶然耳にしただけです」

 るいはうーんと首を傾げたが、一人でさまよっていても仕方ないため、信じることにした。

 ほんの3、4分で無事目的地にたどり着くことができた。隣同士の家とほとんど隙間のないくらい狭い空間に建てられた小さな家だ。表札には『緒方』と記されている。

 ……いよいよだ。るいは固唾をのみ、震える手でインターホンを押した。

 ピーンポーン…

 しばしの静寂の後、インターホンに答える声がした。

『はい?』

「あ…あの………るいです」

『………』

 数秒後、扉の向こうからこちらに向かってくる音がする。

 るいの鼓動が早まった。

 とびらがゆっくりと開き、中からひょっこりと中年の男が顔を覗かせた。

「るいなのか⁈」

「はい…」

 るいは男性の顔を見て間違いなく自分の父親だと悟った。思い出はわずかだが、顔も声色もしっかり覚えていた。

 父親の方はしばらく驚き隠せず口をぽかーんと開けて彼女を見つめていた。けれども急に眉にしわ寄せ、厳しい口調でこう尋ねてきた。

「何の用だ?」

「……」

 意外なリアクションにるいは縮こまった。

「…あの…助けてほしくて。またお父さんの娘として一緒に暮らしちゃ…だめ…かな…?」

「駄目だ!あと、お父さんと呼ぶな!とっくの昔に父親をやめてる」

「どうして⁈」

「駄目なものは駄目だ!帰れ!」

 そう怒鳴ると父親扉閉めてしまった。

 るいを絶望と静寂が包み込んだ。

 芽傍はいてもたってもいられず、強硬手段を取ることした。

「まだ諦めるのは早いです」

 るいは振り返って芽傍を見つめた。

 何をするのかと思えば、芽傍はインターホン再び押した。数秒待った。反応はない。またインターホンを押した。また数秒待った。やはり反応はない。

 芽傍のインターホンを押す間隔が徐々に短くなっていき、気づけば連打していた。扉越しにピンポン!ピンポン!と何度も鳴るのが聞こえてくる。インターホンが壊れるのも時間の問題だ。

 とうとう扉が再び開いた。

「おい‼︎うるさいぞ‼︎いい加減にせんか‼︎」

 芽傍はインターホン押す指を止めた。「彼女話を聞いてあげてください」

「何も聞きたくない!お前みたいな女を娘にするつもりはない!」

「どうして⁈」るいは叫んだ。「どうして嫌なの⁈ねえ!教えてよ‼︎」

 るいは全力で訴えた。

 父親はしばしるいを睨んでいたが、とうとう白状した。

「見たんだ。お前が本の表紙を飾ってるのをな。ただの本じゃない。大人の男向けの本だ!何を思ったかそんな仕事に就くなんてな!親不孝もいいとこだ!だからお前を二度と娘にする気はない!わかったか⁈」

「もう辞めたよ‼︎」るいの目から涙が滝のように流れていた。「もう辞めた‼︎これからは普通の仕事、探すから‼︎お父さんが育ててくれるならちゃんとした仕事見つけるから‼︎だからお願い‼︎」

「今頃悔い改めてもお前の過去は変わらん!帰れ‼︎」

「あの!」

 芽傍が踏み込んでるいの横に立った。

「ちゃんと話を聞いてあげられないでしょうか?彼女にはあなたが必要なんです。お願いします」

 父親はぶしつけな目で芽傍を見た。「なんだこの男は?こいつもお前の遊び相手か?」

るいは耐え切れなくなり、顔を抑えて走り去った。

「緒方さん!」

 芽傍は呼び止めたが、るいは行ってしまった。

 芽傍は鷹揚な父親に向き直った。「あんた、自分が何やったかわかってんのかよ⁈」

「お前には関係ないだろ!」

「あんたは何もわかってない!親なのに娘のことをなんでわかってあげようとしないんだ⁈」

「偉そうな口を聞くな!」

 芽傍は踏み出して目一杯拳を握り締めると、緒方氏の顔面を思いっ切り殴った。

「きさま…」

「あんたがいない間、彼女は独りで辛い思いをしてたんだぞ!彼女があんな仕事を始めたのも独りで生きていくめだ!それをわかってあげても良いんじゃないか⁈」

 父親は途方に暮れたように芽傍を見つめた。




 引き返してきた望夢はさっき飛び降りた橋のところまで来ていた。望夢のスマホは防水だったため、ナビの検索履歴を使うことができた。

「ここか。もうすぐだ」

 と呟いた瞬間、顔を真っ赤にさせて泣きながら逃げるるいが走っていく姿が少し離れた位置に見えた。

 ただ事ではないと察した望夢は、引き返して後を追った。




 その頃、部活が終わり、帰路に入っていた瞳。

「望夢、今どこで何やってんだろ?仮病までつかって休むなんて。返信もないし」

 と独り言をぼやいていると、道の反対側を全速力で走っていく望夢の姿があった。

「あ‼︎ちょっ!」

 瞳は声をかけようとしたが、望夢は行ってしまった。

 瞳はすかさず後を追った。




 るいは非常階段を駆け上がってマンションの屋上に出た。そして屋上を囲む柵を乗り越えようとして、それを掴んで登り始めた。

「るいちゃん!落ち着け!」駆けつけた望夢は一心に叫んだ。「君が死ぬ必要なんて無い!」

「どうすればいいの⁈」るいは態勢を変えず首だけを向けて問いた。「苦労してここまで来たのに!…なのにわかってもらえなかった!…もういや…もう…嫌だよ!…」

 そう言うとるいはぐいと両手を引いて柵を乗り越えようとした。

 させるか‼︎

 望夢は全速力で疾走し、るいを引っ張って手すりの上から降ろした。るいは必死で抵抗したが望夢は抑え込むんだ。

「るいちゃん落ち着け‼︎」望夢は叫んだ。

 葛藤の末、るいはようやく抵抗をやめて大人しくなった。そしてひたすらたしくしくと泣き始めた。

「るいちゃん…」望夢はるいの手を両手で握り締めた。「何があったの?話してくれない?」

「嫌だ‼︎」るいは叫んだ。

 そのとき、屋上の非常階段へ続く扉がバタンと開き、ぞろぞろと黒づくめの男たちが現れて屋上いっぱいに広がった。望夢たちを取り囲んだ。例の組織だ。

「くそっ!またお前らか!」望夢は顔をしかめて叫んだ。

 男たちがぞろぞろ動くのをやめると、その中からリーダー的存在の者が一歩進み出て言った。「雫元るい、大人しく俺たちについてきな。大人しくついて来れば悪いことはしないぜ」

 望夢はるいをかばうようにして立った。

「るいに近づくな!」望夢は叫んだ。

「ふははは…」リーダーの男は邪悪に笑った。「歯向かうとはいい度胸だ!やっちまえ‼︎」

 男たちは一斉に望夢に襲いかかった。10人はいる男の群勢が容赦なく拳を振るう。望夢は果敢に挑んだが敵が多過ぎる。そもそも望夢は喧嘩が得意ではない。勝敗は目に見えていた。

「もうやめてーーー‼︎」取り抑えられたるいが叫んだ。「わかった‼︎わかったから‼︎言う通りにするから望夢を離して‼︎私のことは好きにして良いから‼︎」

「何言ってんだ⁈」望夢は抑えつけてくる男たちの手に必死で抵抗しながら叫んだ。

「私なんかもうどうなったって構わない!これ以上望夢に迷惑はかけられない!」

「馬鹿なこと言うな!」望夢は叫んだ。「君は一人の人間だ!こいつらの好きにはさせない!」

「………」るいは涙浮かべて望夢を見つめた。

「つべこべ言うな!」リーダーの男が怒鳴った。「ったく!しょうがない、そいつを気が済むまで痛めつけてやりな!」

 男たちはさらに激しく望夢に拳を振るった。るいはもう抵抗してはいなかった。ただ自分のために痛みに堪える望夢の姿を見つめ、涙した。自分のために犠牲になっている申し訳なさと、何もして上げられない無力な自分に対する悔しさでいっぱいだった。…やはり自分がいなければこんなことには…

「るいちゃん!…ごめん!ごめんな‼︎」

突如、望夢は謝罪を始めた。地面に突っ伏し、男たちの蹴りや殴りに耐えながら、必死で謝っている。

「どうして謝るの⁈」るいは涙目で尋ねた。

「おれ…」望夢は地面を見つめていた目線をるいに向け、なおも暴力に耐えながら声を絞り出した。「おれ、もともとるいちゃんのことイヤらしい目でしか見てなかった!君が苦しんでるのに、それもわかってやらずに、言い寄ってばかりだった!ほんと、最低なやつだよ、おれ…」

 望夢の顔面左側に拳がヒットし、これ以上の自嘲を妨げた。

 るいの両目から雫がボタボタと涙が落ちた。

 そのときだった。

「るいーーー‼︎」

 男の叫び声がしたと思うと、るいの父親が飛び込んできて二人を助太刀した。

「お父さん‼︎」るいは叫んだ。

「娘に手を出すなー‼︎」父親は力の限り叫んで必死で対抗した。

 少し遅れて芽傍も屋上に上がり込んできた。

「二人を離せ‼︎」芽傍は命令した。

「はっはっはっは!ガキとおっさんがいい度胸だな!」リーダーの男は高笑いした。

 るいの父親と芽傍も勇敢に挑んだが、数で勝らなかった。

 とうとうるいの父親も芽傍も力尽き、立つことすらできなくなった。

「ったく!手間かけやがって!んじゃ、ずらかるとするか!おい女!大人しく着いてきな!」

「よせえーー‼︎娘に手を出すなーーー‼︎」父親は声を絞り出した。

 るいはハッとして父親に振り返った。

 そのとき、再び屋上の扉がバタンと開いた。そして警察がぞろぞろと出て来て瞬く間に屋上に広がり、組織の男たちと攻防を始めた。相当な人数の警察官が駆けつけたため、あっという間に男たちは取り押さえられ、手鎖をかけられて一人ずつ屋上から撤退させられた。

 これで悪夢は終わった。

 望夢、芽傍、るいの父親の三人は力尽きていた。ぐったりしてぴくりとも動かない。ひたすら荒い呼吸をしている。

「大丈夫⁈ねえ⁈」るいは望夢を揺すった。

「大丈夫ですか⁈」現場に残った警察官が二人に駆け寄った。

 望夢と芽傍はようやく目を開け、上半身を起こした。

「いたたたたた!大丈夫です…」望夢は声を絞り出した。

 無事を確認すると、警察官は説明を始めた。「女性から通報があって、ここで君たちが集団に襲われているとね。それで急いで駆けつけたんだ」

 望夢は首を傾げた。「女性って?」

「あーたしー!」屋上の中央にいつの間にか瞳が立っていた。「ほらね!あたしのお陰でしょ?どっかの誰かさんはあたしを無視し続けてたけど、あたしがいなかったら今頃どうなってたことやらね!まったく!」瞳は望夢にの頭に軽くげんこつを食らわせた。

「いてえよ!やめろ!」

 瞳は愉快そうに笑った。

 こうして雫元るいと悪の組織との闘いは幕を閉じたのだった。




 暴力と罵り声で染められたマンションの屋上に、ようやく平穏が取り戻された。男たちは全員警察に連れて行かれ、望夢たちは事情聴取を受けた。マンションの管理人も何がなんだかわからないといった顔で参上したが、追われていたるいがパニック状態になって慌ててこの屋上に来てしまったと望夢が説明したことで納得してもらえた。るいの口からは男たちの所業が語られたので、調査が進めば有罪判決で刑務所送りになるに違いない。

 この一連が済むと、三人と親子は地上に戻り、父親はるいを抱き締めた。

「あーるい!ごめんな!お前が苦しい思いしてたのにわかってやれなくて!」

 父親は芽傍から事の詳細を聞き、説得に応じて駆けつけたという。

 るいはこれまであったことを父親にすべて説明した。望夢の家に行ったこと、一緒に久米沢まで来たこと。仲たがいして芽傍に出会ったこと。なぜか芽傍が自分のことを知っていて家まで案内してくれたこと。

 話が済むと、父親は望夢と芽傍の前に来て、「娘を助けてくれて、どうもありがとうございました」と言って深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」るいも会釈した。

 るいの表情は会ったときよりも明るくなっていると望夢は感じた。

 こうしてるいの一件についてはすべて落着し、三人と親子は別れを告げた。

 しばしの静寂。三人は幸せそうな親子の後ろ姿を見送りながら、安堵感に浸った。

 望夢は芽傍に向き直った。「お前とは何かと縁があるんだな」

 芽傍は真顔で望夢を見つめ返すばかりだ。

 ここで望夢は疑問をぶつけた。「いくつかつっかかるんだけどよ、何でお前、るいちゃんのこと知ってた?それに、マンションにいるのもどうやってわかったんだ?」

芽傍はいっさい答えず、目を背けて「じゃあな」と言うと、踵を返して歩き出した。

「おい⁈」

 望夢は呼び止めたが、芽傍はしかとして夜の闇に紛れ、消えてしまった。

「ちっ!結局最後はあいつらしいな」と望夢は皮肉を呟いた。

 瞳はクスクスと笑った。




 それから数週間後、某動画サイトに、一本の動画が投稿された。動画に写っていたのは雫元るい。彼女はその動画でこう語った。


『私は今までAV女優として活動してきましたが、実は数日前に引退しました。支えてくださった皆さん、どうもありがとうございました。私はこれからも、一人の人間として、まっすぐ生きていこうと思います。さようなら』


 恭しく頭を下げるるい。コメント欄ではファンの人たちが驚きと悲しみを綴った。

 望夢はベッドの下に置いていた大人向けの雑誌を全てビニールテープでしばった。そしてるいの動画を頭の中で繰り返しリピートしながら、それを家の外のごみ置き場に置いた。

「強く生きれよ。るいちゃん」




 地上ではないどこかで、亜久間はニコリと笑った。

「今回も合格ね。よくやったわ。望夢。みんなもね!協力ありがとう!お疲れ様!」

 亜久間の後ろには大勢の黒服姿の男たちと、警察官の姿をした男たちが、満足そうに笑い合っていた。一瞬にして彼らの服は白いローブに変わり、背中からは翼があらわになった。

 杖を持った男が亜久間に近づいた。「上手くいってるみたいだな」

「ええ。順調よアジェ」亜久間は得意げに微笑んだ。

「さすが亜久間様!この調子で、望夢さんをもっともーっとナイスガイにしてあげちゃってください!」

「任せといてメモリー。まだまだよ。次の試練ももう考えてあるわ」

 亜久間の真っ赤な唇がニヤリとした。

異性を大事する気持ちを学んだ望夢。亜久間が仕掛ける次なる試練とは⁈

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