第9話
その場から走り去ったキャロラインは、人気のないテラスへとたどり着いた。
そこを目指していたわけではなく、気がついたら足がそこへ向いていた。学園内で、キャロラインのお気に入りの場所の一つだ。
小高い場所にあるテラスのベンチは、ちょうど乗馬場を見下ろす位置にあった。
(こんなときでも、無意識でエドワード様を求めているなんて。みじめで、傲慢だわ)
キャロラインはベンチに座り、いつものように乗馬場を見下ろすが、当然ながらそこにエドワードの姿はない。
いつも放課後に乗馬の訓練をするエドワードは、馬の世話も買って出ていた。ブラッシングする時に浮かべる優しい顔が、キャロラインのお気に入りだった。
彼がどんな思いで、努力していたかも知らずに。
ふと気づくと、2つ隣のベンチに、いつの間にかニコラスが腰掛けていた。キャロラインとは反対方向を向き、足を組んで座っている。誰か生徒や教師が近づいて来たら、遠ざけるつもりのようだ。
(そういえば……セドリック様が仰っていたわね。ニコラスを、忠犬だと……)
キャロラインはニコラスが犬になった様子を想像して、クスクスと笑った。
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ニコラスは驚いて振り向いた。
「……落ち込んでるかと思ったら。何ですか」
少しふてくされているようだ。ベンチを回り込み、キャロラインの隣まで移動する。
「心配してくれたのね」
「当たり前でしょう。あんな言い方をされて……」
キャロラインは体を傾け、ニコラスの肩に寄りかかった。
ニコラスは一瞬ぎしりと固まったが、自然な様子でキャロラインの肩に手を回して支えた。
「……私、全く気づかなかった。エドワード様があんな風に思っていたこと」
「あれが本心だと?」
「そうね。あんなに真剣で、切ない表情を見たのは初めて……。今まで、彼の何を見ていたんだろう」
ニコラスは腕の中のキャロラインをちらりと見た。
落ち着いた様子でぽろぽろと言葉を発している。
ニコラスに対してというより、自分自身に対して話しているのかもしれない。
「だけど……私が彼にとって、重荷でしかなかったことは、明白ね……。空回りして、ばかみたい。」
キャロラインは涙を堪えるように深呼吸をした。
「私から言わなきゃいけなかったのに、だめね」
「……誤解は解かないのですか」
「誤解?」
キャロラインはニコラスを見上げた。
「哀れんでいる、と言っていたでしょう。俺には、そんな風には見えません」
「ニコラス……」
「あいつが、可哀想だから婚約者にしたと?同情心から、毎日毎日顔を見るために乗馬場へ通ったと?……まさか。うちのお嬢様は、そんなに暇じゃない」
憤るニコラスに、キャロラインはつい笑顔になった。
「ふふ……ありがとう、私のために怒ってくれて」
「俺はただ……どんな形でも、貴方の気持ちを蔑ろにされることが、耐えられないんです」
幼心に、エドワードを婚約者にしたい、次期侯爵にしたいと思ったのは、哀れみからじゃない。
むしろーーー
「絶対に手に入れたい存在があったら、自分が持つ一番いい条件を提示するのは、子どもとしては当たり前ですよ」
キャロラインが当時持っていた全てのものの中で、いちばん価値があるもの。それが、自らの婚約者の地位だった。
「ふふ……そう思うと、すごく可愛いわね。駆け引きも何もない」
「そうです、宰相の娘としては失格ですよ」
冗談めかしてニコラスが言う。
それでも、ちゃんと手に入れた。初対面で、警戒されてもおかしくなかったのに、必死で説得したのだ。キャロラインの婚約者になる利点を。
思えば、そこが誤解の始まりだったのかもしれない。
「私……自分の気持ちに気づかなくて、一度もエドワードに伝えたことがないの。でも……最後にもう一度だけ、『交渉』をしても、いいかしら……?」
背筋を立て、前向きになったキャロラインに対し、ニコラスは大きなため息をついた。
(……はあ。本当は、複雑なんだが……)
ニコラスとしては、ずっと反対してきたエドワードとの婚約だ。ここで破棄になり……自分が次の婚約者になることが、一番理想のはずだった。
(だけどそれは、お嬢様が自分で選んだ時だ。こんな風に侮られたままでは、侯爵家として許せるものではない)
なにより、キャロラインが笑っていることが、ニコラスにとっては最重要なのだ。
ニコラスは微笑むと、キャロラインの頭に手を乗せた。
「次は伝え方を間違えないようにな」
兄としての台詞に、キャロラインは「はい!」と応えた。