二人を阻むものはもうない
俺たちはただ会話するだけだったのにそれに熱中してしまい、いつの間にか太陽も傾き始めていた。八重と話すのはスナック菓子を一つ食べてまた一つ、と手を伸ばすのと同じような心地よさがあった。もしくは試験前などに急に部屋の掃除を始めて終わった後、妙な心地よさとともに時計を見ると何時間も経っていた、というのと似たような感覚だと思う。
気持ちの問題だけで言えば俺はいつまででも八重と話し続けることは可能そうだった。
が、時間を意識したからか、不意に俺のお腹が鳴る。
その音を聞いて八重はくすりと笑い、俺は照れ隠しのように言う。
「……お腹空いたな」
「そうだね。ねえ、せっかくだし一緒にご飯作ろ?」
八重が甘くささやく。何気ない言葉なのに俺は彼女の言葉がたまらなく甘美なものに感じられた。思えば俺は今まで八重と一緒に何かをするということはなかった。常にお互い一方的に何かをするだけだった。というか俺が一方的に八重を知ろうとするだけだった。だから一緒に何かをするということがそれだけで魅力的に聞こえるのかもしれない。
「いいのか? 俺は何も作れないが」
「そういうことじゃないって。目的はおいしいものを作ることじゃなくて先輩と一緒に料理することそれ自体だから。失敗したらカップラーメンでも食べればいいよ」
「それもそうだな、八重と食べるなら何でもいい」
俺の言葉に今度は八重が顔を赤くする。
「そんなこと、はっきり口に出して言われる恥ずかしいな……。そうだ、ところで先輩はエプロンをつけているのとつけていないの、どちらが好き?」
「つけている方」
どっちが好きも何も、女子と一緒に料理すること自体初めてだがな。
でも、せっかく用意があるならその方が良かった。
「やっぱり」
そう言って八重は自分の荷物からエプロンを取り出す。よくマンガとかで見る白くてフリフリがついているようなやつだ。ちなみに現実では初めて見た。
八重が腰ひもを結んで身に着け終える。そして俺に見せるために手を上げたり下げたりしてみせる。
「じゃーん、どう?」
普段の八重からは想像もつかない子供っぽい言動だ。外側の、「作られた近衛八重」は歳とともに成長しても、彼女の内側の人格はずっと幼いままだったのかもしれない。
エプロンの裾が長くて元々八重が着ていたワンピースのスカートが正面から見ると隠れているせいで妙にエロく、無邪気さとのギャップがすごい。
俺の顔が赤くなっているのが見えたからなのか、八重はにっこりとほほ笑む。
「良かった、その反応もらっただけでわざわざ持ってきた甲斐があった」
「なあ、一つ聞きたいんだけどいつもそれつけて料理してるのか?」
「え、そんな訳ないけど」
「だよな」
俺のために持ってきてくれたんだと思うとそれはそれで別の嬉しさがある。
「じゃあ作ろう……てその前に何があるのかを把握しなきゃだね」
そう言って八重は冷蔵庫を開けて中身を確認すると、キッチンの上の戸棚をまるで自分の家かのようにごそごそとあさる。
「うーん……とりあえず野菜とカレールウがあるからカレーでいいか。お肉がないのは寂しいけど」
「それは残念だな。何なら俺が買」
「家から一歩も出ないで」
不意に八重の口からぞっとするほど冷たい声が漏れた。
一気にその場が凍り付く。思わず俺の心の中まで凍り付くほどだった。おそるおそる彼女の表情を見ると、ぞっとするほどの怒りと恐れに満ちていた。同時に聞いた者を有無を言わせず従わせるような強い圧力があって、絶対に俺をどこにも行かせないという彼女の強い意志を感じた。
俺は深く考えて言った訳ではないが、失言だったと思いつつもあまりの八重の剣幕にしばらく何も言えなくなる。やがて八重ははっとして元のにこやかな表情に戻る。
「す、すみません、つい取り乱してしまって」
そしてそんな自分を恥じ入るように頬を赤く染めている。
「い、いや、俺の方こそ軽率だった」
「気を取り直してカレー作ろう」
「お、おお」
しかしそう答えた俺の背中は嫌な汗でぐっしょりだった。でも確かに逆で考えたら俺は八重が買い物にでも行こうとしたら必死で止めるだろう。一度でもお互いが離れたらもう二度と戻ってこないかもしれない。
別に相手を信用していないという訳ではない。それ以上に俺たちの間にある関係が薄氷の上にあるものだということを分かっているからだ。
「じゃあまずはお米といで。二人だから二合でいいかな」
その表情は先ほどの八重と同じ人物であるとは思えないほど、無邪気な笑みだった。それが逆に怖かったが、それだけ俺に執着してくれていると思うと嬉しくもある。
俺がお米をといでいる間に、八重は着々と材料を集め、調味料などをちゃんと計りながら出している。
俺は一通りとぎ終えると、炊飯器に炊飯器に入れてスイッチを押した。
「それじゃあ次は私が渡す野菜を皮向いて切ってね。大きさは大体これくらいかな」
そう言って八重は指で〇を作ってみせ、分量を調整したと思われる野菜を手渡す。
「わ、分かった」
まあ野菜を切るだけなら俺でも出来るか。俺は明らかに北嶋の使いかけと思われるにんじんとじゃがいもをいくつか受け取り、水で軽く洗って皮をむく。
その間に八重は手早く玉ねぎを切って鍋で炒めている。その手際の良さは相変わらずそつがない。
俺は普通に皮を剥くと、まあまあ不格好ながらもどうにか野菜を切る。普段全然料理しないのでこんなものだろう。お互い隣で無言で作業しているだけであっても、相手が近くにいるというだけで安心感があった。もし八重がここで料理している間、俺が部屋でぼーっと待っていたらたったそれだけの距離でも寂しさを感じていたかもしれない。
「何か大きさ違うけど大丈夫かな」
八重はちらっと俺が切った野菜を見る。
「別にいいんじゃない? カレー食べるときに野菜同士の微妙な火の通り具合の違いとか気にしないよ」
「そうだな」
こうして一緒に料理していると新婚にでもなったかのようで楽しい。いや、今は新婚よりも強い絆で結ばれているが。
もっとも俺が野菜を切っている間に味付けなどの細かい作業は全部八重がやってくれていたので一緒に料理したというよりは、俺は手伝っただけだが。そんな八重の手際の良さのおかげで、野菜を鍋に入れると出来上がるまで待ちになる。
「しばらく待ちだね。どうする? シャワーでも浴びる?」
「うーん、外出して汗かいていたら先にシャワー浴びるんだが、そうじゃなかったら大体ご飯の後だな」
「じゃあまた話そっか」
俺たちは再び座卓に戻ってとりとめのない会話をした。会話の内容は相変わらず何でもないものだったが、正直八重の近くにいるなら俺は無言でも幸せだと思うし、それは八重も同じだろう。俺たちはカレーが出来るまで何でもないことを話した。
カレーの味は限りなく普通だった。もしかしたら八重との会話に夢中でそちらに意識がいかなかっただけかもしれないが。ただ、八重が「先輩が切ってくれた野菜おいしい」と言ってくれたので俺は嬉しかった。
食事を終えた後、俺はシャワーを浴びるためにお風呂に入った。ただシャワーを浴びるだけなのに、ほんの短い間でも八重と違う空間にいることが苦痛だった。こんなことなら一緒に入れば良かったな、とすら思う。俺はさっさとシャワーを終えると部屋に戻る。
するとそこでは八重が食パンを姫乃に食べさせて水を飲ませていた。ずっと拘束されて衰弱していたせいか、この事態がショックだからか抵抗らしい抵抗もしない。正直心の中でいないことにしていたので、少しだけ申し訳なさがこみあげてくる。
「悪いな、そんなことさせて」
「いいよ。ていうか先輩は私以外の女のこと考えなくていいから」
言葉のトーンは変わらなかったが、有無を言わせぬ圧力があった。
俺が来たせいかパンは残っていたが姫乃の食事(?)は終了し、八重は再び彼女の口を塞ぐ。
「でもここに置いておくと先輩と二人きりになっちゃって嫌だな。外に出す訳にもいかないし、とりあえず目につかなければいいか」
そう言って彼女は邪魔な物でも収納するように無造作にクローゼットの中に姫乃の体を転がす。そしてクローゼットの戸を締め直した。
「うん、これで良し。じゃあシャワー入るね」
「ああ」
俺はそれだけのことなのに少し寂しく思ってしまう。
女子のお風呂は長いという先入観があったが、八重はたった数分で戻って来た。やはり彼女も寂しかったのだろう。それでも俺には数時間ほどに感じられたが。
「お待たせー」
戻って来た八重は部屋着に着替えていた。俺はその姿を見て思わず息を呑む。
サイズが気持ち小さめなキャミソールに、丈が短いスカート。しかも明らかにブラをつけていない。部屋着だからある程度ラフなのは普通なのだろうが、それを見て俺は本能がくすぐられるのを感じる。
「どうしたの?」
八重は俺の反応の意味を分かっていながら、いたずらっぽく笑う。おそらくだが、今日の部屋着もあえてそういうものを選んだのではないか。
俺の勝手なイメージだが、八重は普段は部屋でもTシャツとスウェットみたいなもっと無難な服装のイメージがある。
「別にどうもしてない」
「どうする? 早めに寝とく?」
八重はささやくように言った。その声は蠱惑的で、音量自体は小さかったのに、耳にこびりついて離れなかった。
寝るといっても、部屋にベッドは一つしかない。姫乃は一人暮らしをしていたのだから当然であった。八重の意図を理解した俺が何も言わずに頷くと、二人して同じベッドに入る。
「まだ早いしもう少し話そう」
「うん」
俺たちはさらに数十分ほどそのまま話した。すぐ隣に薄着の八重が横になっているという事実にずっと俺の鼓動は早まりっぱなしだった。
とりとめのない会話をしているだけでも、目の前で動く八重の唇や、上気した眼差し、呼吸のたびに上下するのどぼとけ、時折体勢を変えた時にキャミソールからのぞく胸などを見ると俺はどんどん体が熱くなっていくのを感じる。
やがてどちらからともなく俺たちは手を伸ばす。俺も体が熱くなっていると思っていたが、八重の手も同じぐらいに熱かった。手を握り合うと、それまでどうにか防がれていたものが堰を切ったようにあふれ出した。俺はその感情の勢いのままに八重の唇を奪う。
そこから先は底の抜けたバケツから水があふれ出すように、お互い止まらなかった。俺は失った物全てを取り戻すため、八重は十五年の空白を埋めるため。
砂漠の旅人がオアシスを求めるように、飢えた獣が獲物を喰らうように、むさぼるようにお互いを求めた。