近衛八重の世界に色はない
翌日、俺は朝早く家を出た。背中に背負ったかばんに入っているのは衣類やタオルなど宿泊に必要なもの、そして俺の今の全財産である二十万円。これまでもらったお年玉のうち使い道がなくて貯金していたものだ。こうしてまとめてみると意外と貯まっているものだ。
「今日は珍しく早起きだな」
俺が起きてくると、父は俺の姿を見て少し驚く。基本的に俺は休日は昼前まで寝ているからな。次に会う時は俺は犯罪者になっていると思うと感慨深さと申し訳なさが同時に湧いて来る。
「ちょっと図書館で勉強しようと思って」
高二の夏と言えば、受験までまだまだ時間があるように見えて、早い人は予備校の夏期講習に行ったりして備えている時期である。
「そうか、やる気になったんだな」
父は少しだけ嬉しそうに言う。そんな父を見て俺は痛烈な罪悪感に襲われた。
おそらく父は今、無邪気に俺が何かの目標のためにやる気を出していると誤解している。本当はこれから全てを捨てようとしているというのに。そしてその中には当然父も入っているというのに。
「そんなこはとない。ただ、いい大学に受かれば後で何かやりたいことが出来たときも役立つと思っただけ」
罪悪感に襲われた俺は意味もなく謙遜する。そんなことをしても罪が減る訳ではないというのに。
「そうか、まあ何か必要なことがあれば言ってくれ」
父はこのまま俺が行方をくらませたらどう思うのだろう。その後俺が罪を犯していると分かったら。
それでも俺はやるのだろうか。
「頑張ってね」
朝食を作っていた母親も俺に笑顔を向けてくれた。やはりこれからやろうとしていることを考えてずきりと胸が痛む。
そこで不意に俺は理解した。今まで理屈では近衛が言ったことを理解していたような気持ちになっていたが、実感としてはよく分かっていなかった。が、今ようやく実感としても理解した。
こんな罪悪感に苛まれつつも、結局俺は近衛を誘拐してしまう。それは今持っている全てを自分でいらないと決めつけることである。
これまで大事なものだと思い込んでいた家族も、平穏な日常も、社会的な信用も近衛と比べると平等に大したことないものに思えてしまっている。
別に近衛を誘拐したからといって近衛の抱える問題が解決する訳ではない。ただ、俺が近衛と似た心境になるというだけだ。それで近衛の孤独感が薄まるのかどうかも確証はない。近衛の気持ちが俺に向くのかも分からない。それでも俺は確実に全てを失う。傍から見たら俺は意味不明な理由で自分が持っている全てをどぶに捨てているようにしか見えないだろう。
そこで俺の脳裏に「今ならまだ全てなかったことに出来る」という思考がよぎった。が、すぐに昨夜の近衛の悲痛な声が耳の奥によみがえる。ここで戻れば、俺は日常に戻るが近衛を闇の奥に捨てていくことになってしまう。そう思うと、強い罪悪感に襲われる。
近衛を捨てれば、特にとるに足らない、でもかけがえのない日常は守られる。
近衛に近づけば、全てを失い、しかも何かを得られるのかは分からない。
それでも俺の考えは変わることない。俺は家族の愛情すら受け取ることが出来ない不孝者なのだと思う。だが、近衛もずっと同じような痛みを抱えて生きてきたのだろう。俺は母に向かってあいまいに頷いて家を出る。
家を出ると、世界は本当に灰色になっていた。最初に会ったとき近衛はそう言っていたが、正直俺は大げさな比喩か何かだと思っていた。もちろん比喩ではあるのだが、今までは鮮やかに見えていた周囲の景色が急にひどくどうでもいいもののように思えた。それを灰色と表現するのであればそれは紛れもなく正しかった。
俺は世界に対して何も感じなくなっていた。
ただ、体の奥にうずくような鈍い痛みを覚えた。
夏の朝、まだそこまで気温も上がっておらず、気持ちよく過ごせる時間帯。
空も青く晴れ渡っている。
普通の人なら何となくいい気持ちになるかもしれない。
今日はちょっと頑張ろう、と思うかもしれない。
それなのに俺はこの世界を灰色にしか感じることが出来ない。これまでの自分の感性と今の自分の感性の差が痛みとなって表れている。
俺を苛むのは罪悪感だった。俺は別に道を踏み外した訳でもない。まだまだ人生を巻き返すことも出来るしそもそも後れをとっているというほどでもない。それなのに全てを投げ捨てることへの罪悪感。例えるなら友達からもらった高級なお菓子を残らずどぶに叩き込むような痛みだった。
一方でこれが近衛の見ている世界なのか、と考えると俺はにわかに共感を覚えた。昨日俺が近衛と電話して、近衛を助けたいと思った気持ちはあくまで近衛に対する好意から出たものだった。近衛の女性としての魅力。近衛への同情。その二つが合わさった感情だった。その感情は近衛と自分が違う立場、違う心境であることから来るものであった。
だが、今は近衛に激しい共感を覚えていたし、近衛と同じ位置にいるという気持ちがあった。この状態でずっとずっと生きて来たのだというなら、それはさぞ辛いものだっただろう。
そしてその次に来るのは痛烈な孤独だった。この世界でそんな気持ちを抱いているのは俺と近衛しかいない。おそらく近衛以外誰一人としてそれを理解してくれない。とはいえ、俺にはまだ近衛がいる。でも近衛には誰もいない。そう考えると俺はまだましなのかもしれない。
だから俺は砂漠で喉が渇いた旅人が水を求めるように近衛を求めた。そして俺にとっての近衛に、俺がならなければと思った。
目的地である北嶋のアパートに着くと俺は念のため、少し早めに入り口付近で待ち伏せた。そのためにわざわざ朝早く起きたのだ。
住宅地の中にたたずむ古いアパートは、築何十年か経っていそうな古いもので、壁もすっかり色あせていて、五階までしかない。おそらく家賃はそんなに高くないだろう。時折住民が出入りするのを物陰に隠れて見守る。
少しして、近衛は現れた。俺は彼女の姿に思わず息を呑む。
これまで制服姿の近衛しか見たことはなかったが、今日は薄い水色の肩出しワンピースだった。先ほどまで灰色だった世界に、唐突に色が出現したような気持ちにすらなった。モノクロの世界なのに、近衛の周辺にだけ色がある。
そしてふと髪に例の星型の飾りがついたヘアピンをつけてくれていることに気づいた。一度だけ彼女とデートした時に俺がいい、と言ったやつだ。しかし確かあの時は買わなかったはずだ。ということはわざわざ後から買いにいってくれたのか。そもそも本当に来るのかどうかすら分からない俺に見せるために。
俺はそんな彼女を見て鼓動が速くなるのを感じた。今すぐ飛び出していって話しかけたかったし、何なら抱きしめたくすらあった。俺はもう近衛と同じ境地に達したのだと、その感覚を分かち合いたかった。
が、それよりも先に近衛をさらわなければならないためすんでのところで堪える。残念だが今出ていくのはまだ早い。彼女と尋常の手段で一緒になれないということに俺はもどかしさを感じた。
近衛はそんな俺に気づかずに北嶋の部屋があるアパートの二階に上がっていく。それを俺はこっそりと後をつけた。とはいえ他に近くを歩いている人がいない以上、気配ぐらいは気づかれていたかもしれない。近衛が二階の廊下に上がると、俺は階段の陰に隠れて見守る。近衛がインターホンを押し、二三言やりとりした後にドアが開いて北嶋が顔を出す。
北嶋は半袖の白いブラウスに青色のロングスカートという近衛と違って地味だけど清楚な服装だった。もしかしたら彼女は近衛が来るのでいつもよりおしゃれな服を選んだのかもしれない。そう思うとかなり申し訳なくなるが、これからしようと思うことを考えると、そんなところに申し訳なくなっている自分がおかしかった。
俺はごくりと唾をのんだ。この行動をすればもう後には退けない。それでも本当の意味で近衛と一緒になるためにはやるしかない。
俺は荷物の中に隠していた包丁を取り出すと、内に眠る狂気に突き動かされるようにして足を踏み出すと、二人の元に駆け寄り、北嶋に包丁を突き付ける。
「えっ、天塚先輩?」
「声を上げるな」
俺の存在に気づいた北嶋の表情が戸惑いの声を上げ、続いて俺が構えた包丁を見て蒼白になる。それに釣られるようにして近衛はこちらを見た。
が、近衛は俺の手にある包丁を見ても何も反応しなかった。普通包丁を見て何も反応しない訳はない。ということは近衛は意図的に反応を殺したのだろう。それは素直な反応をすれば、彼女がこの状況を歓迎していることが表れてしまうからではないか。俺は彼女の意を勝手にそんな風に解釈した。
「しゃべるな。両手を上げてゆっくりと家の中に入れ」
俺の声は緊張のせいかいつもより低い。それが恐怖を与えたのか、北嶋は強張った表情で両手をあげると、ゆっくりと家の中に入り、近衛もそれに倣う。
俺は廊下の左右を見て誰にも見られていないことを確認して家の中に入ると、ドアを後ろ手に閉めてチェーンロックをかける。冷房がかかっているのか、中に入るとひんやりとした空気が体を包んだ。
「あの、先輩、これは一体……八重さんも何か知ってるんじゃ……」
北嶋が震える声でつぶやいたので、俺は包丁を首元にあてる。
近衛はそんな北嶋の声にも無反応だった。
「しゃべるなと言ったはずだ。家の中に入り、窓を閉めてスマホを出せ」
「は、はい……」
北嶋はかすれ声で頷くと中へ歩いていき、俺は包丁を構えたままそれについていく。そのとき俺は全く気付いていなかったが、俺は包丁を北嶋の背中に向けており、近衛はノーマークになっていた。とはいえ近衛は何かするでもなく無言で俺についてくる。
玄関を上ると廊下が続いており、廊下沿いに風呂場とキッチンがある。そしてその奥に北嶋の部屋があった。よくある一人暮らし用のワンルームキッチンの間取りである。
部屋は全体的に薄いピンクを基調としており、カーテンやベッドの上の布団がその色だった。ベッドの他にはごく普通の勉強机とその隣に棚と柱だけの簡単な本棚、そして部屋の中央に座卓がある。広さはおそらく六畳ほどで、木目のフローリングだった。今日は近衛が来るためだろう、きれいに片付けられている。
「窓は閉まっています」
そう言って北嶋は机の上のスマホを俺に渡す。俺はそれを受け取ると、電源を切ってポケットにしまう。
「そのまま座れ」
北嶋は手を挙げたまま床に腰を下ろす。俺は右手で包丁を構えたまま、左手でガムテープを取り出す。しかし包丁を構えたままでは彼女を拘束出来ないことに気づく。そこで今度は近衛に包丁を向けた。
俺に包丁を向けられた近衛は感情を殺した目でこちらを見返してくる。
「これで彼女の手足を縛れ」
「ごめんね……」
近衛は一言謝ると手早く北嶋の両手を後ろ手に組ませるとテープでぐるぐる巻きにする。その謝罪にはどのような気持ちが込められていたのだろうか。北嶋は顔をしかめたが特に抵抗しようとはせず、そのまま拘束される。
また、俺が頼みもしないのに北嶋の足を合わせると膝同士と足首同士を閉じさせてそちらも縛っていく。あまりの手際の良さと戸惑いの無さに北嶋も不審に思ったのだろう、
「八重さん?」
と疑問の声をあげる。一応俺は包丁を再び北嶋に近づける。北嶋は何かおかしいと思ったのだろうがしぶしぶ沈黙した。
その間に足を拘束し終えた近衛は最後にガムテープを北嶋の口に貼る。明らかに俺がやれと言った訳ではない行動に北嶋は何か抗議の声を上げようとしたが、すでにガムテープで口は塞がれていた。
「ごめんね、姫乃」
そんな彼女にもう一度、近衛はちっとも申し訳なくなさそうな表情で言った。




