近衛八重以外価値がない
「チャンス?」
予想外の返答に俺は思わず聞き返してしまう。
近衛がこの件でこちらに歩み寄りを見せたのは初めてではないか。
彼女の表情を見ると根負けしたという風にも、実は最初からそうしたかったという風にも見えた。
しかし俺と近衛の間に広がる断絶は深く、どちらかの妥協で容易に埋まるものとは思えない。チャンスと言っても一体どうするというのだろうか。
「おそらく、先輩は今のところ私のことを情報としてはある程度理解しているものの、感情では共感出来ていないという状況だと思うんです。ですから、まずは私と同じ状況に近づくことが重要だと思います」
「同じ状況?」
「はい、先輩は何だかんだ言ってもまだ俗世に未練を残していると思うんですよ」
「何か宗教みたいになってきたな」
とは言いつつも、近衛の言いたいことは何となく分かった。
俺もそこそこ情熱のない人生を送っているが、おそらく近衛に言わせればそんなのはまだ大したことないレベルなのだろう。周りのもの全てに関心がないだけでなく、灰色に見えるぐらいの心境にならなければ同じ土俵には立てない。それを「俗世に未練を残している」と表現したのだろう。
ただ、それは持って生まれた価値観である以上容易に変えられるものではない。俺はどうすればいいというのか。
一方近衛は宗教という言葉に反応して続ける。
「宗教ですか。正直、高校を出ても何も解決しなかったら宗教に足を突っ込んでみるのもありかなとは思っていたんですよね。私の問題って結局気持ちの問題ですし。それにもし洗脳的なことをされたとしても、最終的に神的な何かを信仰して幸せになれるならそれでいいかなとも思うんです」
宗教は宗教でもカルト的な宗教の想定で話しているな。
仮に洗脳されたとしてでも幸せを得たいというのは切羽詰まった近衛の一つの到達点なのだろう。現実で誰よりも色んなものを持っているように見える近衛が洗脳による幸せを受け入れてもいいという心境なのは皮肉な話だ。そうならないで欲しいとは思うが否定することは出来ない。
「いや、近衛みたいなタイプは多分洗脳されないし、逆に『こいつらに序列があるのが気に食わない』とか言って教団を破壊しそうな気がするんだが」
「ふふっ、それはそうかもしれないですね」
近衛は図星だったのか、少しおかしそうに笑う。
むしろ自分が教祖か神にでもなればいいのでは、と思ったがそれで問題が解決するとも思えないので口には出さない。近衛は他人の承認が欲しいタイプではないからな。ちなみに本人の意思をさておけば教祖の才能は十分にあると思う。
「それはいいです。話を戻しますが、先輩は俗世への未練を断ち切ってみましょう」
「どうやって?」
「ちょうどこれから夏休みがあるじゃないですか。夏休み中に私を誘拐してください」
近衛は真顔で訳の分からないことを言った。
当然ながら最初俺はその言葉の意味がよく分からなかった。これまでの話の流れからして、誘拐で愛の深さを表現するという訳ではなさそうである。問題は俺の愛の深さが足りないことではない。
「恐らくなんですが、いきなり罪を犯すということはある程度社会に対する愛着を投げ捨てないと出来ないと思うんですよ。つまり逆説的に、いきなり罪を犯す人はある程度私と似た心境と言えます。とはいえ、他人に迷惑をかけるのも忍びないので私をどこかに攫ってください」
近衛は冗談やふざけている訳でもなく、至極まじめにそう言った。
要するに何も持っていない自分と同じになるために全てを投げ捨てろということか。理屈は分からないでもなかったが、俺にはぴんとこなかった。本当にそれで近衛と同じ心境になることが出来るのだろうか。持っている物を全て投げ捨てた人は何も持っていない人と同じになるのだろうか。全く想像がつかない。
「でもそれって厳密には少し違くないか? 俺が自分の意志で、例えば学校とか家族とかを捨てたとしても、それは近衛の置かれている心境ではないだろう? 何も欲しくないのと、全てを捨てたのとは多分違う」
「それはそうですね。でも大丈夫ですよ。だって」
そこで近衛は言葉を切る。
そして続く言葉を強調するように少しだけ間を空けて言った。
「……もしそこまでしてくれたなら、私以外全部価値がないと思えるようにしてみせますよ」
近衛の表情は真顔だったが、俺は全身が凍り付くような恐怖を感じた。先ほどの坂下の時は所詮肉体的な恐怖に過ぎなかったが、今回は人生全てを持っていかれるのではないか、そういう恐怖だった。
不意に近衛との出会いや楽しかったデートの記憶などがよみがえる。確かにそれに比べれば元々俺が過ごしていた無気力な日常の価値は薄いと言えるかもしれない。
目の前には底の見えない沼が広がっていて、俺は自分からそこに飛び込もうとしている。それに対して最後に残った本能が警鐘を鳴らしている。そんな感じだった。
他人の心を手玉にとることなど造作もないという近衛の手にかかればすでに彼女が好きな俺をそういう状態にすることなど赤子の手をひねるようなものだろう。
「そしたら先輩も大体私と同じになりますよ」
とても正気じゃないな、と思ったが一方で俺はふと思う。もし今の発想が正気じゃないのならば、近衛は生まれ落ちたときから正気ではなかったのだろう。
俺は近衛の気持ちを想像しようとしたら訳が分からなくなり、心の中がぐちゃぐちゃになって何も考えられなくなった。まるで部屋の中につむじ風が侵入し、部屋の中のものの位置が全て変えられたようだった。
「……考えさせてくれ」
「それはやるかどうかをってことですか? それとも手段をってことですか?」
「……」
近衛は俺の心中を見透かしたように尋ねる。いたずらっぽい笑みを浮かべて。
「すみません、ちょっと意地悪なことを聞いてしまいましたね。とはいえ、失敗しても元も子もないので、もし先輩がさらいに来たら私は抵抗しないであげます。それで、もし夏休み中に攫うことが出来なかったらゲームオーバーです。私は先輩への期待を捨てます」
近衛はさっぱりした表情で言った。
近衛が本当に攫われたがっているのか、単に俺への希望を捨てたくて無理難題を吹っかけているだけなのか分からなかった。
ただ、俺は何となく前者のような気がした。
「さて、そういう訳ですが何か言いたいことは?」
「いや、別に」
頭の中で感情がぐるぐると渦巻いていて、俺はどうしていいか分からなかった。
「そうですか。見たところ、目立った外傷もなさそうなので、坂下君のことは問題にしないであげてください
「分かった」
正直、もはや坂下のことなどどうでも良かった。
「では私はそろそろ教室に戻ります」
そう言って近衛は立ち上がる……ように見せかけて、俺の耳元に口を近づけた。
「お待ちしてますよ、先輩」
「っ!?」
俺は初めて異性の声で性欲のようなものをくすぐられた、と感じた。耳からまるで異物が体内に侵入したかのような感覚が走る。それは快感と悪寒が入り混じった奇妙な感覚だった。脳はその言葉を聞きたいのに本能が必死で警鐘を鳴らしている。それを聞いてしまえばもう元に戻れないぞ、と。俺はもう訳が分からなくなった。
が、すぐに近衛は俺の耳元から顔を遠ざける。
「それではまた!」
最後に、今までのやりとりなど一切なかったかのようなきれいな笑顔を浮かべて近衛は校舎へと戻っていった。
待っているのなら迎えに行かないといけないよな、と俺はぼんやりと考えた。