近衛八重は飛び降りない
学校の屋上というのは青春もののマンガや小説においてしばしば登場する場所だと思う。恋人と弁当を食べたり、不良が溜まり場にしていたり、物思いにふけっていたりとシチュエーションは様々だが、いずれにも共通するのは普段の学校生活からは一線を画す空間もしくは主人公やその集団にとっての専用の場所として描写されているということだ。
二年生の俺、天塚晴が通う藤嶺高校の屋上は普段は施錠されている。屋上へと続く扉の貼り紙によると危険だかららしい。
とはいえ、屋上へと続く扉を封鎖しているのは古い南京錠だけ。先日ついに針金による開錠に成功して以来、屋上は俺だけが使える秘密の場所となっていた。
別に俺が高いところが好きとか屋上の景色が特別いいという訳ではないのだが、周りに人がいないというのは、人口密度がえげつない高校という空間においては稀有な場所である。特に俺のように人間関係が希薄な者にはありがたい場所だ。
そんな訳で今日の昼休みも俺はいつものように鍵を開けようとして、ふと異変に気づく。
なんと今日はすでに南京錠が外れている。ということは先客がいるのだろうか。ちょっと工夫すれば誰でも開けられるとはいえ、一人きりで独占していた空間を他の人にとられるのは寂しい。
でも相手も物静かな人物であればシェア出来るのではないか、などと思いつつ俺はドアを開ける。決して煙草を吸っている不良とかではなく、単に一人で静かに読書をしたいというような穏やかな人物であればいいのだが。
が、そこには俺の願望を粉砕するような衝撃的な光景が広がっていた。
屋上は施錠されているとはいえ、安全のため周囲には高さ二メートルほどの金網が設けられており、人や物が落下しないようになっている。
そして俺が校舎から出た扉のちょうど正面、数メートル離れた金網の向こうに一人の少女が佇んでいた。そう、金網の内側ではなく向こう側に。
それが意味するところは一つしか思いつかない。その光景を見て俺の心臓の鼓動は一気に跳ね上がった。
「おい! 早まるな!」
俺はとっさに一声叫ぶと、急いで駆け寄っていく。
近づいていくと、そんな状況であるというのに彼女がそこに立っている光景はとても絵になっていた。
夏服であるまばゆく光っている白い半袖のブラウス、風にそよぐセミロングの黒髪、そして美しい曲線を描いたスタイルが合わさったきれいな女性徒が物憂げな表情でそこに佇んでいる。遥か下の地面を見据える視線はまっすぐで、少し蔭が差してみえる横顔も美しかった。その光景には完成された美しさがあり、不覚にも一瞬見惚れてしまう。
俺が駆け寄っていくと、気配に気づいた彼女はゆっくりとこちらを振り返る。彼女の横顔があまりに美しかったので、俺は不覚にも振り返らないでくれ、と思ってしまった。
そんな思いもむなしく振り返った彼女は俺の姿を見てため息をつく。まるでせっかくドラマのいいところを見ていたのに親に呼ばれた、とでも言うかのように。
その表情からは直前の何かに思いつめてそのまま飛び降りてしまいそうにすら見えた表情が消えていて安堵する。
そして俺はふと気づく。先ほどは別人のような表情だったから分からなかったが、彼女は一年の近衛八重ではないか? 詳しくは知らないが、クラスメイトの陽キャたちが可愛い一年生の筆頭として挙げていたし、噂によると二年でも告白して振られたやつがいるらしい。
校内でもリア充グループのような集団に囲まれて歩いているのを遠くから見たことがある。少なくとも外から見る限り、思いつめて屋上から飛び降りるような人物には思えない。
「……とりあえず、こっちに戻って来いよ」
金網の向こうにいる人間とははらはらしてまともに話すことも出来ない。どうせ俺は昼休みに用がある訳でもないので、腹をくくって彼女と対話することに決める。
「見られてしまった以上仕方ないですね」
彼女は残念そうにつぶやくと金網に手をかけて登り始める。正直、「近づいたら飛び降りますよ」みたいなやり取りになるのかと思ったが、彼女は素直にこちらに戻ろうとしているようだった。もう死ぬという意志は消えたのだろうか。
……いや待て。戻ってきてくれるのは嬉しいが、金網をよじ上るのはとても危ない。
「おい、まさかそんな方法で向こうに行ったのか? 危なすぎだろ……」
何かの間違いで金網から手を離せば、そのまま地面まで真っ逆さまである。俺は顔を青くしたが、余計な手出しをすればそれこそ落ちてしまうかもしれない。
彼女は俺がそんな風に逡巡している間にも金網を登り切り、軽い身のこなしでこちらに着地する。そして俺の方を見てほら大したことない、とでも言いたげに笑う。
「ご心配なく。私は運動神経には自信があるので」
「いや、だからってな……」
「そもそも、自殺を考える人間がそんなことを心配するなんて思います?」
近衛は笑顔のまま恐ろしいことを言い放つ。
確かにこれから飛び降りようとする人間が事故で落ちることを心配する訳がない。もっとも、見ているこっちは生きた心地がしなかったが。
「そりゃそうか……てそうじゃない。一体何でそんなことを考えていたんだ!」
俺が思わず突っ込んだことを尋ねてしまった理由は二つ。
一つ目は単純に目の前でこのような行為に及んでいた以上、はっきりさせたいという行きがかりにも近い理由。単に気になるというだけでなく、これから俺が昼食を食べようとするたびに飛び降りに来られても困るという理由もある。
そして二つ目は、飛び降りようとしていた時の彼女の残酷なほど透明な瞳が気になったからだ。気になった、としか表現できないことが歯がゆいが、あまり校内の人間関係に興味がない俺でも放っておけなくなるような気持ちにさせた、とでも言うべきだろうか。ただ容姿がきれいだからというだけではなく、理屈を超えて人を惹きつける魅力が彼女の表情にはあった。
「その前にあなたは誰ですか? 私が見たことない方ということは先輩ですか?」
「二年の天塚晴だ。この屋上の主みたいなものだな」
俺の言葉に彼女は俺が持っている弁当箱に気づいたようで、少しだけ申し訳なさそうな表情になる。
「もしかしていつもお昼に使ってました? それは邪魔してしまって申し訳ありません。私は一年の近衛八重と言います。ではベンチにでも座りましょうか」
そう言って彼女はまるで仲のいい先輩を昼食に誘うかのような気軽さで、屋上に放置されているぼろいベンチを指さす。おそらく、昔のまだ色々厳しくない時代にはここでご飯を食べる生徒がいたのだろう。今ではすっかり雨風に打たれてぼろぼろになっているが。
こうして普通に話していると、彼女はいたって普通の女子高生に見えた。先ほどの何物でも吸い込まれそうな透明な瞳はすでに消えてしまっている。
「ああ」
俺たちはベンチに並んで腰かける。いつもは一人で座って食べているので、隣に誰かが座っていると違和感がある。それも学校内でも噂の超絶美少女なのだから猶更だ。
夏も佳境に入って来たからか、屋根のない屋上に座っていると暑い。俺は水筒のお茶を飲んで持ってきた弁当を広げるが、近衛は弁当を持っていなさそうだ。というか、手ぶらだ。
そんな俺の視線を察したのか、
「気にせず食べてください」
と近衛は言った。そういう察しの良さはさすがリア充といったところか。俺はあまり他人に気を遣えないので羨ましいが、飛び降りる直前だったとは思えない気の回し方だ。
「近衛は何も食べないのか?」
「お弁当はありますけど、これから飛び降りようというときに持ってくると思いますか?」
近衛はややいたずらっぽく尋ねる。彼女的には笑って欲しかったのかもしれないが、残念ながら俺は引きつった笑みを浮かべることしか出来なかった。
「何か適当に食えよ」
いたたまれなくなった俺は弁当箱のおかずを差し出す。
近衛は少し考えたが、
「そこまで気を遣ってもらう必要はないですけど、私が何も食べていないと逆に気まずいですかね。じゃあ一つもらいますね」
そう言って比較的手が汚れなさそうなメニューである、卵焼きをつまんでぱくりと口に入れる。何で飛び降りようとしている人を止めたのに俺が気を遣われているのだろうか。
「うん、おいしい」
そう言って卵焼きを頬張る彼女は、まるでつい先ほどまで飛び降りようとしていたとは思えなかった。だからといって彼女が虚勢を張っているというようにも見えない。
しかし俺には屋上のふちに立っていたときのあの表情も忘れられなかった。あの時の表情も到底作り物には思えなかった。まるで掴みどころのない人物だ。
「それじゃそろそろ教えてくれ、何であんなことしようとしていたのか」