近衛八重は好意が嬉しくない
「本当それ。皆好き勝手言って本当に困るんですけど」
がちゃりと校舎の扉を開けて現れたのは近衛その人だった。彼女は殴っている坂下と殴られている俺を交互に冷たい目で見る。
「こ、近衛さん……」
一応上級生である俺相手に好き放題していた坂下の顔面が、近衛が現れたというだけでおもしろいほど蒼白になる。さすがに好きな人に一番見られてはいけない現場を見られた以上かなりショックなのだろう。
そんな彼に近衛は少しだけ呆れた表情で言う。
「坂下君が授業に戻ってこないし、大井君と山野君が挙動不審だから何かと思ってきてみればこれですよ」
「いや、これには理由が……」
坂下は慌てて言い訳を始めるが、近衛はそれを気にも留めずに歩いて来る。近衛のことだから何が起こっているのかは大体察しがついているのだろう。それを見て坂下はこっけいなほど動揺していた。
そうか、こいつはこういう時の近衛を怒っているとでも思っているのか。確かにいつも浮かべているような笑顔は顔から消えているが、これはただ素の状態ってだけなんだけどな。
が、坂下がどれだけ慌てようとも近衛は平坦なトーンで続ける。
「分かってる。悪いのはこっちの先輩だけど、見たところもう十分殴られたみたいだからこの辺にしておいて?」
「お、おお……」
さっきまであれほど暴力的だった坂下が近衛の前ではただの挙動不審な男子になっているというのは少しおかしかった。
「そしてそこで寝っ転がってる振りして心の中で坂下君にマウントをとっている先輩も、二人とも聞いて欲しいのですが」
「何だよ」
こいつは俺の心が読めるのか? 確かに俺は体格や身体能力、見た目の良さといった一般的なステータスでは俺に勝っている坂下よりも近衛のことを深く知っていることに優越感を抱いていた。それを瞬時に見抜くとは伊達に人間関係も楽勝とか言っていた訳ではなかったのだな。
近衛は俺たちを真面目な顔をして交互に見る。
「二人とも好き勝手にどっちの方が私のこと好きとか言っていたようですが、所詮坂下君も好きになってから一年も経ってない。でも、私は生まれた時からずっとこんな自分と付き合ってきて、自分を好きで生きてきたんです。私に言わせれば、二人とも飛んだにわかですよ」
「……?」
坂下は恐らく意味が分かっていないのだろう、わずかに困惑が見て取れる。
だが俺には彼女の言いたいことがおぼろげながら分かった。
おそらく、近衛の本性は近衛以外誰も知らない。まあ家族とかならまた別かもしれないが、俺も知ったのは最近のことだ。だから、ある意味近衛はずっと孤独に生きてきたのだろう。周りに愛されてきたのだろうが、周りに愛された近衛は近衛本人ではなく、その影のようなものに過ぎない。
近衛の本性をずっと愛してきたのは近衛だけ。その年数と思いの強さに比べれば、俺や坂下など比べものにもならないにわか、ということだろう。だから彼女にとってそんな奴らにあれこれ言われるのが釈然としないのだろう。
それは分かるのだが、好きな相手のライバルが本人というのはしゃれにならない。そんなの勝てる訳ないじゃないか、と思いそう言えば元からどうにも勝ち目のない戦いだったな、と思い出す。
「とりあえず、このことは黙っておくので坂下君は教室に戻って」
「わ、分かった」
こうなるともはや近衛の言うがままである。あの坂下が近衛から逃げるように去っていくのは見ものだった。
坂下がいなくなると、今度は俺と近衛が二人きりで取り残される。というか、緊張が解けたからか殴られた全身がずきずきと痛み始める。今更近衛に無様な姿を隠しても仕方ないということもあって、俺はどうにか身を起こすと金網に上半身でもたれかかったまま口を開く。
「とりあえず、助けに来てくれてありがとう」
何から話していいか分からなかったので、まず人としてお礼を言った。
すると近衛は盛大にため息をつく。
「最悪ですよ、本当に。不良にぼこぼこにされていたところを颯爽と助けに来る私。また好感度上がるじゃないですか」
何を言われるかと思っていたが、二人きりになった第一声がそれだった。そんなに俺に好かれたくないのだろうか。さすがにそこまで言われると悲しくなる。
坂下には何を言われようとも構わないが、やはり近衛本人の言葉はいちいち俺に刺さる。
「それはそうだけど、自分で言うなよ」
「いや、そこは好感度上がるというのを否定してくださいよ」
「だって事実だから」
俺の言葉に近衛は表情を歪める。非常に不本意ではあるが、近衛は本当に俺の好意が心底不要なようであった。
「別にいいだろ。俺は近衛のことを知った上で勝手に好意を抱いているんだから。他の奴と違って俺に罪悪感を抱く必要もないし」
俺は痛む体を起こしてベンチに腰かける。それはそれで嫌だが、近衛にとって俺はその程度の存在ではないか、という思いはあった。
近衛は俺の隣に座るとそっと目を伏せる。
そして観念したように話し始めた。
「前に先輩からの好意は無って言ったじゃないですか」
「そうだったな」
本当に「無」なら好きになろうがなるまいが、どっちでもいいはずだ。
だが近衛の表情は少しだけ曇る。あのデートの時も思っていたが、やはり近衛は俺からの好意に心動くものはあったのだ。そして意を決したように言う。
「でも本当は期待があるんですよ。私のことを知っている人なら、私の何かを見つけてくれるんじゃないかって。自分で見つけられないものが他人に見つけられる訳ではないと分かってはいるんです。これまで何度も期待しては裏切られを繰り返して、十六年間生きてきました。だからそんなものをすっと現れた他人が私にくれる訳なんてないって分かっているのに……」
気が付くと、近衛の声は湿っぽくなっていた。ずっと追い求めていたけどずっと手に入らなかった。そんなものは手に入らないし、手に入らないなりに生きていかなければならない。近衛は理屈ではそう理解しているのだろう。
それでも、割り切れないからこそ完璧超人のような振る舞いを見せていても、時折こうして心が悲鳴を上げるのだろう。
「それでも、それでも……期待してしまうんです。私の秘密を全て知った先輩なら私の人生に価値を与えてくれるんじゃないかって。私はそれが嫌で嫌で仕方ないんです!」
近衛の目から一筋の涙が流れていく。普段いつも仮面をかぶっているか淡々としている近衛にしては珍しかった。俺の好意がどうこうというよりもそれに期待してしまう自分が嫌だったのか。
が、残念ながら近衛の涙を見ても俺の気持ちは変わらなかった。むしろそれは逆効果と言わざるを得なかった。近衛という外見的には完成された人物の中は実はひどく空っぽで、彼女はそのことに絶えず苦しんでいる。
それは風がそよぐだけで壊れてしまいそうな繊細なガラス細工のようで、固いのに脆いという相反する特性を持っていた。そしてそれがゆえに俺の心を惹きつけてやまなかった。
「ですから先輩……もう私の前に現れないでくださいよ……」
近衛は目を伏せたまま、絞り出すような声で言った。
普段何にも物怖じしない近衛が目を伏せている。本心でないことは明白ではないか。俺は申し訳ないと思いつつも、そんな彼女に対して喜びを抱いてしまう。例え本人が望まない感情だとしても、近衛が俺に対して期待を抱いてくれたことは嬉しかった。
「そういうことは俺の目を見て言ってくれ」
「嫌ですよ。顔も見たくありません」
そう言って近衛は子供みたいにそっぽを向いた。
近衛が言葉を切ったので今度は俺が胸の内を語る。
「ただ、俺も思うんだ。近衛みたいに欲しいものが何もないことに苦しんでいる奴がいる横で、俺が自分の欲しいものを諦めるのは失礼なんじゃないかって。それに近衛には、欲しい物があるならその他のことを全て無視してでも得るべきなんじゃないかって背中を押された気がしたんだよ」
だって近衛は欲しい物が何かすら分からないのだから。
「勝手に私に背中を押されないでくださいよ」
「だけど、近衛にもし手に入れたい物があったとして、誰かにそれを手に入れるのはやめろって言われたらやめるか?」
少しの間があった後、近衛は不本意そうに答えた。
「……多分やめないと思います」
「だろ?」
完全にレスバで勝利してしまい、敗れた近衛は沈黙して俯くのみだった。問題は勝ったけど特に何も進展していないことだ。別に近衛の許可があろうがなかろうが、俺がやることは変わらないのだから。
「まあそういう訳だから、俺は諦めずに気長にやるから近衛も気長に待っていてくれ」
「嫌ですよ、そんな生殺しみたいな状態がずっと続くなんて。しかもおそらくですが、今のままでは先輩に私が求めるものを提供出来るとは思えません」
「それはそうかもしれないが……」
そう言われてしまうと俺も弱い。残念ながらここまで近衛が俺に素を見せてくれたというのに、断絶の大きさが明らかになっただけで何の進展もない。高そうな山の麓に行ったら思ったよりももっと高いことが分かっただけだ。
そして、今に及んでも俺は近衛にとって「秘密を知っている図々しい人」であって「天塚晴」ではない。
結局、近衛の心は俺によって揺さぶられているのではなく、俺が彼女の秘密を知っていることから生じる期待によって揺さぶられているに過ぎない。
が、俺がなおも諦めない様子を見ると近衛は少し何かを考えるような仕草をした。俺も何か流れが変わったような雰囲気を感じたのでそれを見守る。口では期待したくないと言いつつも、近衛は俺に対する期待を捨てきれない。その葛藤から近衛は何かを考えているようだった。
ややあって、近衛は意を決したように口を開く。
「でもそれだと私も困るので一つだけチャンスをあげましょう」