坂下登は我慢ならない
その後も俺は近衛の調査を続けた。もはやストーカーをすることも本人と関わることも出来ない。人間性についてはこれ以上の情報を手に入れても進展はなさそうということもあって、近衛の中学のころからの友達に話を聞いて回った。
中学のころの近衛は今と違ってクラスの中心にいるタイプではなかったらしい。趣味らしいものも特になく、陽キャと陰キャの中間ぐらいの友達を数人作り、お茶したりカラオケしたり、時々買い物に行ったりという感じだったらしい。そこまで広くはないが友人関係を作ってそれなりに楽しそうにしていたようだ。
そして時々思い出したように料理や手芸などに挑戦したらしいが、結構すぐに上達してすぐに飽きたということらしかった。
おそらく彼女は趣味のようなものが見つかることを求めて色々やってみていたのだろうが、話を聞く限り見つかってはいなさそうだった。
しかし、言うまでもなくこれは悪手だった。俺もそれは薄々分かっていたが、それでも近衛のことを知りたいという誘惑に勝てなかったのだろう。
近衛は自分のことを何もないと言っていたが、どちらかというと俺にとっては底無沼やブラックホールの方がしっくりくるぐらいだった。ただの”無”ではなく周囲を惹きつける強力な”無”であった。そしてそれらに巻き込まれた者は悲惨な運命を辿るしかない。そう分かっているはずなのに俺は灯りに群がる虫のように、そんな彼女に引き寄せられてしまった。
数日後、俺が屋上で弁当を食べているとばーん、という乱暴な音とともに屋上の扉が開けられた。
そこで俺は初めて、しまった、と思った。
ただでさえ坂下という男を敵に回す行動をとっているというのに自分から一人きりの場所に足を運んでしまうなんて。
とはいえそのときの俺は後悔というよりはそうなったか、という程度の淡々とした感情しかなかった。この時の俺はすでに近衛のこと以外はどうでもよくなっていたのだろう。
「見張っておけ」
坂下は誰かに命令すると、手下らしき男を二人連れてこちらにゆっくりと歩いて来る。手下の二人も坂下ほどではないが体格が良く、運動部っぽい外見をしている。片方は坊主頭でもう片方は長身で顔に傷跡があった。坂下を含めて三人とも、一様に俺を憎々しげに見つめている。
近衛を調べるのはやめないとしても、せめてもう少し身の安全に気を配るべきだった、と反省はする。
俺が弁当箱を持ったまま何も反応出来ずにいると、坂下ら三人が半円に囲むように立つが、俺は怖くて何も出来なくなる。
「よう、俺の警告を無視してこんなところで優雅に昼食とはいい身分だな?」
坂下はドスの利いた声で言う。
どう答えていいか分からずについぼーっとしてしまうと、
「とりあえず弁当を置けよ!」
「ひっ」
手下の坊主頭が突然怒鳴り声をあげ、思わず手から弁当箱が滑り落ちていく。せっかくのおかずが屋上のコンクリートにべしゃっと散らばっていくのが見える。
それを見て手下の二人はげらげらと不快な笑い声を立てたが、坂下だけは俺を憎々し気に睨みつけている。
「お前、それでよく俺の警告を無視したな。一応弁解があれば聞いてやるよ」
坂下は俺を睨みつけながらぐいっと顔を接近させる。今回は本気で怒っているのだろう、前回よりも余計に威圧感を受ける。
が、残念ながら坂下がやっていることはあながち間違ってはいない。多少手段は過激かもしれないが、こいつのおかげで近衛に言い寄る男が減り、近衛の精神が安定していると思えばある意味正しいこととも言える。
近衛への告白を阻止された男たちも、どうせ断られる告白なのだから邪魔されてむしろ良かったとすら言えるかもしれない。
だから俺は堂々と答えてやる。
「ねえよ」
突然、腹に高速で何かがぶつかったような痛みを覚え、次の瞬間、俺はその場に倒れていた。夏の日差しに熱されたコンクリートの地面が俺の身体を焼く。
「痛ってぇ……」
そこでようやく俺は殴られたのだ、と気づく。殴られた腹がずきずきと痛むのはもちろん、コンクリートにぶつけた背中や足も痛い。
それでも何とか立ち上がろうと体に力を込めると、不意に体が軽くなり、目の前に坂下の顔が現れる。首元が痛い。どうも俺は襟元を掴まれて持ち上げられたらしい。
「お前、もやしの癖になかなか度胸あるじゃねえか」
そこでようやく俺の中の恐怖心が消えた。どうやら俺は不良に殴られるという未知の経験に恐怖を覚えていたのだろう。だが、一度殴られたことで未知への恐怖は消えて、代わりに痛みと敵愾心が芽生えてくるのを感じた。痛いのは嫌だが、所詮こいつらは近衛に比べれば大したことはない。
「弁解はしないが、一つだけ言えることはある。俺はお前なんかよりよっぽど近衛のことが好きだ」
「黙れ!」
「おえっ」
再び、猛烈な痛みが俺の腹を襲う。本来ならそのまま地面にたたきつけられていたところだが、坂下が俺の襟首をがっちり掴んでいるおかげで俺はまだその場に立たされている。胃がひっくりかえって口の中から何かが出てきそうになる。まだ食べる前で良かった。
「俺のことより近衛さんのことが好きだと言っておきながら、お前は彼女を嗅ぎまわっている。どうせそれが迷惑になっていることすら気づいてないんだろ? けがらわしいストーカーめ!」
坂下は吐き捨てるように言った。
「……馬鹿だな。あいつは言い寄られるのが嫌なだけで、嗅ぎ回るのは何も気にしてねえよ……ごはっ」
言い終える間もなく、俺の腹に今度は坂下の膝がめり込む。その光景を見て傍らの手下二人も息を呑んでいた。一応県内第一の進学校だし、直接的な暴力が本当に振るわれている現場は初めて見たのだろう。
俺が坂下を予想外に刺激してしまったというのはあるのかもしれない。
そしてそんな俺を坂下は侮蔑的な目で見降ろす。
「気にしねえ訳ないだろ。常識で考えろ」
「あいつが、そんな常識気にする訳」
今度は言い終える前に体にコンクリートがぶつかる衝撃が走る。気が付くと、視界にはきれいな夏の青空が広がっていた。ごつごつとした地面が背中に当たり、身体が痛む。
「坂下……さすがにこれはまずくね?」
顔に傷がある方の取り巻きが坂下の態度に脅えている。
が、坂下は彼をぎろりと睨みつける。どうやら軽く二、三発殴って落とし前をつけるだけのつもりだったのが本気の怒りに変わってきたらしい。
「うるせぇっ! 俺もここまでするつもりはなかったが、こいつが考えを改めないのが悪いんだ。……なあ、お前言っていいことと悪いことがあるのが分からないか?」
が、すでに俺の中で坂下は対等な敵ではなくなっていた。近衛のことを常識という枠にはめて考えている時点で大したことは知らない。俺の方があいつには詳しい。ああ、こんなことを考えているから近衛も良くない兆候とか言うんだろうな、と思う余裕すらあった。
むしろ殴られた痛みよりも近衛に言われた言葉を思い出した痛みの方が上ですらあった。
「……何笑ってんだよ」
坂下はさらに不機嫌そうになる。そんなつもりはなかったのだが、どうも自然と優越感から笑みがこぼれてしまっていたらしい。
「いや。どうせお前は上っ面の近衛が好きなだけなんだなってな」
「黙れ!」
「ぐはっ」
今度は胸の当たりを強く蹴られる。息が止まりそうな衝撃と痛みを覚え、思わず蹴られたところを抑えてうずくまる。気のせいか、これまでよりさらに坂下は言葉を荒げているのを感じる。
「近衛さんはな……近衛さんは俺のことを唯一ちゃんと見てくる人だったんだよ」
坂下の声は震えている。そんなに自分の感情を否定されたのが悔しかったか。
彼は俺と同時に自分に対してもそれを言い聞かせようとしているようだった。
「気のせいだろ。近衛がお前なんかをちゃんと見る訳ない」
「うるせえっ!」
今度は腹。しかも蹴られた衝撃だけでなく、痛みにのけぞった俺はベンチの足に後頭部を強打して余計に痛い。くそ、こいつ俺が下手に挑発したせいで完全に自制心を失ってやがる。恐れはなくなったものの、俺は普通の高校生なので殴られるのは普通に痛い。
「てめぇ、お前は一体近衛さんの何を知っているって言うんだ……」
坂下が言った時だった。
キーンコーンカーンコーン、とこの場の緊迫した雰囲気に似つかわしくない間の抜けた予鈴の音が響き渡る。その音に二人の手下の表情がさっと変わった。
「おい、もう授業始まるぞ」
最初に俺にイキっていた坊主頭が坂下をちらっと見る。すでに殴る蹴るの暴行が目の前で行われているというのに今さら授業に遅刻することに慌てているのが進学校の不良らしくておかしかった。
「戻りたければ戻れ」
坂下の声で二人は申し訳なさそうに校舎へと引き上げていく。こいつらは坂下に付き合わされただけで、元々そこまで俺に腹を立てていた訳ではないのかもしれない。俺は近衛の周辺を探っていただけで、こいつらには何もしてないからな。
「で? 大層なことを言うお前は一体何様のつもりなんだよ」
俺がこいつより近衛のことを分かっているアピールしたせいで、目的が俺への脅迫から尋問にいつの間にか変わっているようだった。
「お前に言う義理はない……近衛との関係をお前へのマウントに使うつもりはねえよ」
「適当ほざきやがって!」
「ごほっ、ごほっ!」
続けざまに俺の体に痛みが走る。いつの間にか坂下は俺に覆いかぶさるようにして俺の体を殴りつけていた。
「俺は、俺は……中学の頃野球部のエースだったんだ。俺がいれば地区大会も勝ち抜けるかもしれないって俺も、皆も期待していたんだよ」
急に坂下は自らの過去を話し始めたが、俺を殴る手を止めない。ただ、話を始めたからか、やや威力は落ちている。そのため俺にも話を聞く余裕ぐらいは出来た。暴力を振るわれている最中だというのに、俺は近衛の新たな一面を知れるかもしれないとむしろ楽しみに思ってしまう。
「中学の野球部はそんなに強くなかったけど、相手をゼロに抑えればいつかは勝てるからな。去年、俺が三年の時は期待があったんだよ。二年の時はベスト4まで行けて、それから俺はさらに球が速くなったからな。だから俺も一生懸命練習したし、チームメイトも同じだった。普段しゃべらない奴らも練習を見に来てくれたり、差し入れをくれたりしたよ。大会前には絶対優勝しようって願掛けにも行った」
いつしか俺を殴る手は止まり、坂下はどこか遠くを見る目になっていた。
そこで俺は初めて、男から情報収集するという視点は欠けていたな、という今となってはどうでもいい事実に思い至る。近衛は異性に対して一定の距離を置いていたが、逆にその距離の取り方から新たな一面が分かるかもしれない。
「そんな中、俺は大会中に肩を壊した。練習のし過ぎが原因だろうな。それもあってチームは二回戦で敗退。怪我は夏休みで治ったが、明けに学校に行ったときの空気は酷かった。皆が俺を腫物に触るように扱う。野球部のチームメイトは怪我の心配と『気にしなくていいよ』しか言ってこねえし、クラスの連中は憐れみの視線を向けてくる。あれは針のむしろみたいなものだった」
他人に変に同情されると余計に辛いという気持ちは分からなくもない。俺も屋上を見つけるまでは教室で一人でご飯を食べていたが、クラスの連中が時折憐れみの目で見てくるのが不快だった。まして坂下のような状態ならその不快さは何倍もあるだろう。そこは何となく想像できるという程度にしかならないが。
「俺は気にせずチームメイトたちと馬鹿やれれば良かったが、奴らがそんなんばっかりだから話すのも嫌になっちまった」
向こうは気を遣っているのだろうが、求められていない気遣いはかえって当人を傷つけることもあるのだろう。
そしてそんな時に近衛と出会えばどういう気持ちになるのかもまあまあ想像できる。
「どうせ、そんなときに変わらずに接してくれたのが近衛だったとかそういうオチだろう?」
「……よく分かったな」
俺の返答に驚いたのか、少しだけ坂下の語調が変わる。ただのストーカーだと思っていた俺が思いのほか近衛を理解していることに驚いたのかもしれない。
「分かるが、それは別にお前をちゃんと見てるとかじゃねえよ。単にあいつがそういう奴だってだけだ」
「分かったようなこと言うんじゃねえ!」
「うっ!」
少し坂下の手が止まって油断していたところに強烈な一撃をもらってしまう。危うく再びさっき食べた弁当を戻しそうになる。
が、それでもこんな奴より俺の方がよっぽど近衛について詳しいし、近衛を好きである。例えそれが望まれない好意だとしても。
「お前がどれだけ殴ろうと、俺の気持ちは変わらないし俺は諦めねえよ」
「うるせえっ! お前だってどうせ自分が一番近衛さんに詳しいって思いこんでるだけなんだよ!」
そう言って坂下が何度目かの拳を振り上げる。
そのときだった。
「本当それ。皆好き勝手言って本当に困るんですけど」