近衛八重は無感情ではない
「どうしたんですか? 何か前に会った時より暗いですけど」
月曜日。俺が前に五木と行った喫茶店で待っていると、近衛はやってくるなり怪訝な目で俺を見つめる。あれから俺はずっと自己嫌悪していて、それが顔にも出ていたらしい。とはいえまさか「お前のことが好きかもしれなくて落ち込んでいる」とも言えない。色んな意味で。
「ちょっと父親と揉めてな」
「そうですか。でもよくこんなところ知っていますね」
近衛は店内をきょろきょろと見回しながら感心したように言う。確かに普通の高校生が入るようなところではない。俺はちょっとだけ優越感に浸る。
「偶然見つけただけだ」
「そうですか?」
ちなみに今日は俺が四百円のコーヒー、近衛は五百円のカフェラテを頼んだ。何でかはよく分からないが、人間としての余裕を見せつけられたようで悔しい。
「それで今日は一体何の用で?」
「昨日のあれで色々吹っ飛んだが……。そうだ、まずクラスの話だ。一年C組を裏から牛耳っているというのは本当なのか?」
俺が尋ねると近衛は感心したのか、目を丸くする。
「さすが、私のことをこそこそ調べているだけのことはありますね」
「事実だけどその表現やめてくれないか?」
「事実じゃないですか」
「もういい、それよりもしかしてクラスの裏からクラスの平和を守っている黒幕なのか?」
俺の言葉に近衛は少しだけ考えてから答える。
「そうですよ。やっぱり身近でいじめとかあると不愉快じゃないですか。そもそも純粋に目の前で誰かが酷い目に遭っているのを見るのもあまり好きではないんです」
そう言えば柏木さんもそんなことを言っていた。マンガや小説で暴力描写を見ると、それをされているのがどんな人間であれ嫌な気持ちになるという。多分そういう人間は一定数いるのだろう。
俺はどうだろうか。仮に柏木さんのことを好きでなくてもあの時父に怒りを抱いただろうか。出来ればそうだったと信じたい。
「ですが、何より私にとってはどのクラスメイトもそんなに変わらないのに、彼らが勝手に序列を作って弱い者を虐げているのが気に食わないんです」
近衛はさらっと恐ろしいことを言い放った。一つ目の理由と同じ人格の人が言っているとは思えない発言だ。俺は近衛のテンションと表現の冷酷さの落差に思わず戦慄する。
いや、言っている内容自体は素晴らしいんだが、あえて言うなら本来平等という言葉はポジティブな意味があるような気がするのに、近衛が言うと“平等に無価値”というニュアンスが感じ取れて怖い。
「感覚が常人離れしていてよく分からないんだが」
「例えて言うなら、先輩はテストで四十点の人たちが三十九点の人たちをぼろくそに罵っているのを見たら不愉快になりませんか?」
「ああ、何となく分かった」
こいつにとっては光嶺も北嶋も五木も他の人間もその程度の差でしかないのか。
人間は本来平等なはずなのに、そう言われると人間を皆平等と考えることが間違っている気がしてくるから不思議である。
「しかもいじめって一度発生すると矛先をそらすのは簡単ですけど、潰すのは難しいんです。だからクラスは平和な方がいいですね」
何事もないことのように語るが、普通は矛先をそらすのも簡単じゃない。たまたま結論が「クラスは平和な方がいい」になっているからいいが、もし近衛の欲求が社会の秩序と相いれない方向に向けば、それこそ冷酷な犯罪者になりそうだ。
「それに、リア充グループに入ってみるという私の目的とも一致するので。……すいません、先輩相手だからって気を許しすぎましたね。何も隠さずに話せるのでついつい日頃思ってることを口に出してしまいました」
近衛は気まずくなったのか、カフェラテに口をつける。
近衛の価値観を打ち明けられる相手は他にいないからやはり打ち明けたいという思いは溜まっていくのだろう。
そして俺は行きがかりとはいえ近衛がそれを打ち明ける相手に選んでくれたことが嬉しかった。
「別にいい。俺も近衛の素の話が聞けて嬉しいし」
「良くない兆候ですね」
近衛はぽつりと言った。
近衛は俺の内心の喜びを見透かしているようだった。
「どういう意味だ」
「私としては素の私を見ている先輩は、私のことを同じ人間として認識しないと思っていたんですが、もしかして“自分にだけ心を開いてくれる後輩”みたいな認識になってません?」
近衛はじっと俺の目を見つめる。
「な、なってねえよ」
口では否定するが、近衛は疑いの目でじっと俺を見てくる。その透明な視線に俺は心の動きが見透かされるような気がして、慌てて目をそらしてコーヒーに口をつける。もっとも、それが一番図星を物語っているような気もするが。実際問題、“完璧超人の美少女の秘密を自分だけが知っている”という状況はそれだけで惹かれるものがある。
そんな俺の反応を見て近衛はため息をつく。
「全く、困ったものですよ。親しくすれば好きになられるし、秘密を明かしてもそういうふうに思われますし。マンガやアニメじゃないんですから『後輩が心を開いてくれている俺だけが彼女の悩みを解決してあげられるんだ』みたいに思われるの迷惑なんですよね」
言われてみれば無意識にそう思っていたところはあったので何も言い返すことは出来ない。
「同学年の男子にも一線どころか二線三線引いてるのに、いつの間にかファンクラブみたいな集団が出来てしまいますし」
近衛は心底大変そうに言った。よっぽど異性からの好意が重いのだろう。俺はそこまでの好意を受けたことがないのでよく分からないが。
今の近衛の発言には突っ込みどころが満載だった。
好きになられる、という表現なんて初めて聞いたんだが。
あと二線三線って何だよ。もはやシカトに近い何かじゃないか、それ。
が、今一番気になったのはファンクラブのくだりだった。
「ファンクラブ?」
俺の問いに近衛は憂鬱そうに話す。
「そうです。中学のころから一緒だった坂下君っていう男子がいるんですが、彼が私のことを異性として好きなんです。ただ、彼は私が彼氏を作る気がないということを理解してくれているので、向こうから線を引いて接してくれているんです。会うたびに毎回、さすがに申し訳ないなっていう気持ちになるんですよ。気づいたら、坂下君は私に好意を寄せる一年の男子を束ねてファンクラブという名の“私に迷惑をかけない集団”を作ってくれているんです」
「色々とすげえな」
が、そこでふと俺は引っかかるものがあった。
そう言えば俺にそんなことを言ってくるような奴がいたような気がする。
「なあ、その集団ってもしかして近衛に告白するのとかも禁止なんじゃないか?」
「そうですよ」
「坂下ってやつは告白しようとしている人を脅迫まがいのことで止めていたりするんじゃないか?」
「詳しくは知りませんが、多分そうですね。普通いきなり誰かに『誰々への告白をやめろ』て言われて素直にやめる人はいませんし」
「そいつは日焼けしててガタイが良くてスポーツ刈りだよな」
「よく知っていますね」
何ということだ。俺は頭を抱えたくなる。
「俺、この前そいつに警告されたぞ……」
「なるほど……それはもう私に近づかない方がいいかもしれませんね。いい機会ですし、私から手を引いてはどうですか?」
俺の言葉に、近衛はあっさりと言い放った。
そんなこと出来るか、と言おうとして俺は思いとどまる。元々こんなこと、近衛は望んではいない。そして続けたら俺は危険に晒される。近衛は自分のことを好きになった男同士で揉め事を見ていい気分にはならないだろう。
そもそもたまたま関わりを持っただけの他人なんだから、あまり深入りせずここで手を引くのが賢明で合理的な判断だろう。
つまり、続けるのは俺にとっても近衛にとっても望ましくないということになる。それでも俺は未練を捨てきることが出来ず、尋ねていた。
「近衛はさ、俺と関わるのは嫌か?」
すると近衛はほんの一瞬ではあるが、目を伏せた。
基本的に近衛は隠し事はしないし、常に堂々としている。堂々と、俺に“無”を晒している。その近衛が一瞬とはいえ、目を伏せたのが俺にとって衝撃的だった。
「嫌も何もないです。ただひたすら無ですよ」
近衛はそう言ったが、俺はどこかその言葉が信じられなかった。
例えそれが俺の作り出した都合のいい妄想だとしても、今一瞬目を伏せたのはこの言葉が本意ではないからだと思いたかった。
そこにあるのが好意なのか嫌悪なのか、それとも俺にはよく分からない近衛特有の感情なのかは俺には分からない。
ただ、近衛は嫌なら嫌というタイプなので、おそらく悪感情ではないのだろう。そして先に述べたような事情で俺には感情を見せたくないと思ったのではないか。そのような感情を持たれている以上、ここで退く訳にはいかなかった。
「分かった……そこまで言うならいったん関わるのはやめる。だがそれには一つ条件がある」
「条件?」
近衛はなぜ自分が条件を出されなければならないんだ、という表情になる。それはまあその通りだが、どうせ関わるなと言われている以上頼み得である。
「最後に一回遊びに行こう」
「え?」
俺の言葉に近衛は眉をひそめた。
「今までよく分からない関係だったんだ、一回ぐらいいいだろう。それに近衛も俺の前だったら素を出すことも出来るんじゃないか?」
「簡単に言ってくれますが、どこに人の目があるか分からないんですよ?」
近衛の言葉は否定的だったが、真っ先に提示された理由が純粋な拒絶でなかったことに俺は安堵する。やはり俺や俺と遊びにいくことそれ自体に悪感情はないらしい。
その後近衛はしばしの間考え込んだ。何をそんなに考えているのだろうか。
少しして考えがまとまった、というふうに顔をあげる。
「一回遊びに行ったら本当に私のことを諦められますか?」
「ああ、そしたらもう関わるのはやめる」
少なくとも表面上はそうしようと思う。
実際にそんなにうまくいくとは思えなかったが。何事も楽しいと思うことや好きなことは少しでも長く続けたくなる。子供のころ、ゲームは一日一時間までと言われて、一時間経った後に後五分、とごねて五分後もまたごねるのと一緒だ。
が、近衛は俺のそんな気持ちを知ってか知らずか、それ以上は追及せずに首を縦に振った。
「分かりました。では明日の放課後にでも遊びに行きましょう。それで終わりです」
近衛は言い聞かせるような調子で言った。それはまるで俺ばかりでなく、自分にも言って聞かせているようでもある。
「分かった。じゃあ明日もここで待ち合わせよう」
「分かった」
近衛が頷くのを見て、俺は伝票を持って席を立つ。近衛は一緒に出るところを見られると困るという配慮からか、座ったままだった。相変わらず彼女の表情からは何を考えているのかは読み取れなかったが、これまでのように俺にきっちり線を引けていないのではないか、俺はそんなことを思った。
とはいえ九百円の出費を強いられただけの成果はあった。近衛が内心俺に「無」以外の気持ちを持ってくれているのかどうかは分かりづらかったし、仮にそうでなかったとしたら、一回遊びに行けた分得したと思うようにしよう。俺はそんなことを考えつつ帰路についた。