天塚晴には好きな人がいない
「調子はどうですか、先輩」
翌日、打つ手がなくなった俺が次はどうやって近衛について調べようかと考えつついつものベンチで弁当を食べていると、弁当箱を持った近衛が現れた。今まではいつも一人で弁当を食べていたのに、このところ毎回誰かと弁当を食べている気がする。
「何しに来たんだ」
「ストーキングを禁じられ、姫乃にも話を聞いたならそろそろ打つ手がなくなったんじゃないかなと思いまして」
そう言って近衛はスカートを手で押さえながら近衛はごく自然に俺の隣に腰かける。
俺は何で調査対象に調査内容について話しているんだ? と疑問に思ったが他に当てもない。
「まあ最初から詰んでいるような問題だからどうしようもないだろう。俺の浅い調査だと、最初に近衛から聞いた内容を肉付け出来ただけで、特に新しいことは分かってないからな」
「でしょうね。そんな簡単に解決出来るなら生まれてからずっと悩んでませんから」
近衛は弁当箱を開くとぱくぱくと食べ始める。最初から俺など大して当てにしていないとでも言うように。いや、実際そうなのだろうが。じゃあ何でここに来たのだろうか。
「というか俺にばっか構っていていいのか? 光嶺と食わなくていいのかよ」
「みっちゃんは部活の昼練行ったからちょうどいいかなって」
「部活って何だ」
「テニス」
「だろうな」
イメージ通りすぎて他にコメントが思いつかない。
「それで姫乃からは色々話を聞けた?」
不意に近衛が話題を戻す。
一瞬話すかどうか迷ったが、北嶋には口止めされなかったし、近衛も北嶋が俺にあのことをしゃべったことを気にするタイプではなさそうだからいいか。
「聞いたよ、最近文学に凝ってる話とか、出会った時の話とか」
「へえ、あの話を聞き出すなんて女ったらしですね」
心にもないことを言いながら近衛は笑う。
それに恐らくだが北嶋は恋より友情を選びそうな気がする。恋人相手でも、彼女があのことを話さない方がいい相手だと思えば話さない人物な気がした。
「そんな訳あるか。本人も誰かに話したかったんだろう」
「それで、聞いてどう思いました?」
近衛は俺の反応を試すように尋ねる。とはいえ社交辞令的に「格好いいと思う」などと言ったところで意味はなさそうなので正直に答えることにする。
「どうって言われてもな……。言われてみれば、近衛がそれをしている光景が鮮明にイメージ出来るんだよな」
衝撃的な話の内容だったが、北嶋が真面目そうな性格だったこともあって一度も疑おうという気にならなかったからな。
すると近衛はわざとらしく悲しそうな表情になる。
「ひどいですね、そこは『まさかあの近衛がそんなことするなんて!』て驚くところですよ?」
「むしろ必要だと思えば一切のためらいもなくやるだろ」
「そんな……私はこんなに心優しい乙女なのに」
そう言って彼女はわざとらしく泣き真似をしてみせる。
「本当に上っ面だけの会話するよな」
俺は特に深い意図もなく掛け合いの一つ、ぐらいのつもりで言った言葉だったが、一瞬、俺たちを包む空気が凍り付いた気がした。
「先輩、私の上っ面じゃない部分って何ですか」
そう言って近衛はこちらを見上げる。それを聞いて思わず弁当箱に向けていた箸が止まる。ごく普通のトーンで訊かれただけなのに、俺はまるで詰問されているような圧迫感を覚えた。
が、それも一瞬のこと。すぐに空気は元に戻る。
「……悪かった、謝る」
「いえ、こちらこそ揚げ足とりみたいなことしてすみません」
近衛もやり過ぎたと思ったのか、頭を下げ、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべる。別に般若のような形相だったとかそういう訳でもないのに、些細な声色や表情の変化で空気を操るのがうますぎないだろうか。
世の中でカリスマ性を発揮している人は多分間近で話すとこういう感じなのだろう。もっとも近衛以上にこういうことが出来る人がいるとも思えないが。近衛が本気を出せば俺は高価な壺ですら勝ってしまうかもしれない。
「でも、謝ると言うのなら先輩の話も聞かせてくださいよ」
「は? 俺の話?」
思いもよらない話の展開に戸惑ってしまう。
「そうです。だって、普通はストーカーの悪評を背負ってまで私のこと調べないですよね? それは私に何か気になるところがあるからじゃないですか?」
「そうだな。あえて言うなら俺も近衛ほどではないけど、似たような気持ちがあるからだろうな」
「へえ、私と似てるとは大きく出ますね」
近衛は軽く驚きを見せた。これまで彼女と似ているなんて言う人はいなかったのだろう。俺も方向性は一緒だが、一と百ぐらいは違うので一緒とは言えないが。
「いや、近衛に比べればありふれた話だ。別におもしろくもない話だが、そんなに聞きたいなら教えてやるよ」
俺は水筒のお茶を飲んで口の中に残っているご飯を流し込む。
そう言えば、このことは今まで誰にも話してなかったなと思い至る。別に隠していたというほどではないんだが、話すような相手が出来なかっただけだ。それに、自分でも仕方のないことだ、という割り切りがあったのでわざわざ誰かに話すという気分にはならなかった。
「うちの父は個人経営に近い本屋を経営しているんだ。俺は幼いころから本に囲まれて育って、本も大好きになった。自然と、大きくなったら父の跡を継ごうと思っていたんだよな。で、父もそれを喜んでくれて、たまにレジ打ったりとか新しい本を並べたりとか手伝いをしてたんだ」
懐かしいな、と思いながらその時のことを思い出す。
「それはそれとして父と母だけじゃ回せないから何人かバイトがいるんだが、その中に柏木さんっていう大学生の人がいてな。小学校六年のころぐらいから勤めていて俺とも結構仲が良かった。時々俺に仕事とかも教えてくれたし、自然と憧れのお姉さん的な感じになってたんだよ」
「へえ」
近衛は意外そうに聞いている。確かに今の俺を見ていると恋愛とかは興味なさそうなタイプに見えるというのは分かる。ただ、その事件が起こるまでは俺ももう少し普通の男子だった。
思い出したらもう少し寂しさや胸の痛みのようなものが込み上げてくるかとも思ったが、意外にも何の感情もわいてこなかった。これは俺の感情が乾いてしまったせいなのか、目の前に近衛がいるからなのか。
「当時はあまり自覚してなかったが、まあ初恋だと思ってくれていい。で、俺の方もだんだん打ち解けてきて、中学に入ると個人的に勉強とかも教えてもらうようになったんだよ。今考えると少し申し訳ないけど、柏木さんも授業料も取らずに俺の宿題教えてくれたりしてさ。すごく優しく丁寧に教えてくれるのにたまに問題文読み間違えたり×と+間違えたりとか信じられない初歩的なミスして、それを俺が指摘して二人で笑ったり」
俺はまるで他人の体験を話すように淡々と話を進める。
「まあそんな話はいい、とにかく俺は彼女を慕っていたってことを理解してもらえれば。そしてあの事件が起こったのは忘れもしない中二のころだ」
もっとも、それを事件だと思っているのは俺だけだろうが。
「その日俺はたまたま父と柏木さんが奥で話しているのを聞いた。父は『何かい言っても改善されないがやる気がないのか』『アルバイトとはいえ給料が出ている以上仕事だ』というようなことを延々言っていた。俺はいたたまれなくなって思わず耳を塞いで隠れたんだが、やがて涙目になった柏木さんが飛び出していって、それから柏木さんは仕事に来なくなった。まあ事実としてはそれだけだ」
まさかその時はそれが柏木さんとの今生の別れになるとは思っていなかった。むしろ終わったら知らない振りをして、気分転換に遊びにでも誘おうかと思っていたぐらいである。今考えるとその時の思考がちょっとおめでたすぎて近衛には言えないが。
てっきり何もしなかったことを呆れられるかと思っていたが、俺の言葉を聞いて近衛の表情が一気に強張る。
「それはパワハラってこと?」
「広い意味ではそうだけど、ちょっとニュアンスが違うな。俺は柏木さんが好きだったから気づかなかったが、アルバイトとしての能力は、言いたくはないがかなり無能な部類だったらしい。レジ誤差は頻繁に出すし、陳列の指示とかもよく間違えるし。これは俺の推測だが、父も我慢出来なくてやめさせようとしたんじゃないかな。でも雇い主都合の解雇はなかなか出来ないから、厳しめに注意して自主退職に持っていこうとした」
それはそれでパワハラだが、業務上の指導と過度な叱責の線引きは難しいところである。
「なるほど。それで先輩はどうしたんですか?」
近衛が興味深そうに尋ねてくる。そこで何か行動に出る、と思うのが少し近衛らしい。
「それだけだ。将来の夢の知りたくない現実を知り、初恋の人を失った。それで俺は全てに無気力なままだらだらと人生を続けている」
「でもいいじゃないですか。好きな人がいるってだけで。それに会おうと思えばその人に会いにいくことも出来る訳ですし」
慰めてくれているのか本気でそう思っているのか、いまいち判断がつかない。
「いや、向こうからしたら辞めさせられた職場の子になんて普通会いたくないだろ。それに、これに関して言えば手に入らない恋なんてしない方がましだったと思うが」
「お互い、隣の芝生は青いってやつですか。私は手に入らない恋でもしたいですけどね」
そう言われてしまえば俺は何も言えない。
「……ちなみにもし私が今の話の証拠を集めて労基に告発し、柏木さんを職場復帰させたら嬉しいって思いますか?」
近衛は真顔でそんなことを言った。俺の返答次第では本当にそれをしそうで怖い。
「嬉しい前に恐怖だよ。それに、雇用関係が戻ったとしても気持ちは戻ってこないだろうしな」
とはいえ近衛が全く同じ立場になったらそれをしそうで怖い。仮に気持ちが戻ってこないと分かっていたとしても、いじめっ子に報復したのと同じ理由で父に報復しそうだ。
「なるほど。何にせよ、先輩は私とは違うってことですね」
そう言う近衛の目はどこか寂しそうだった。もしかしたら俺が似てるなどと言ったから、実は同じではないかと期待させてしまったのかもしれない。
おそらく近衛は友達はいっぱいいても孤独を感じているのだろう。出来れば近衛を何らかの形で孤独から救い出したかったが、今のところ手がかりすらつかめなかった。
「では私はそろそろ」
弁当が空になった近衛がベンチから腰を浮かせる。
「ちょっと待ってくれ」
俺はスマホを取り出す。
それを見て近衛は俺の意図を察したのか、複雑な表情をする。
「何ですか?」
「柏木さんの件で学んだんだよ、ちゃんと連絡先は交換しとけって」
それにストーカーを禁じられた以上、近衛のことを調べるにはもはや本人から直接話を聞くしかなかった。
「まあ連絡先より重要なこと色々話しましたし、別にいいですが。ただ、あらかじめ言っておきますと、万一私のことを好きになっても報われないですよ?」
「知ってる」
俺が近衛を好きになったとしても近衛が俺に愛情を返してくれることはない。そうなれば、また俺は報われない恋をするだけだ。
そして俺たちは連絡先を交換した。もしかしたら家族以外の女子の連絡先なんて初めてかもしれない。いや、柏木さんとも連絡先を交換していたな、と思い出したら嫌な気持ちになった。