第1章 ホムンクルス
ようやく3話目です。
ここは何処でも無くあらゆる場所だ。
事象の地平線。此処にはあらゆる時が流れている。万物は流転するが故に。
そして僕が此処に来た理由でもある。
時空の狭間にたゆたう僕は虚空に人が一人すっぽりと収まるくらいの大きさの結界を構築し、その中に僕の精を注入する。この二十年の間、体内で錬成し続けた生命の源だ。
そこに時を止めて固めてある血塊を注ぐ。もちろんお姉ちゃんの血だ。
僕の精とお姉ちゃんの血を結界の中で混ぜ合わせる。そしてその混ざり合う回転の力で結界内に熱を生じさせる。それは人の胎内と同じ温かさだ。
そして此処から時を逆流させながら前に進める。
そうお姉ちゃんが遠い昔に存在した時空間を探し出すんだ。その「時の記憶」からお姉ちゃんの記憶を呼び起こし、精と血の混ざり合う結界内に送り込んでいく。
しばらくすると結界内にぼんやりと人の形が浮かび上がってくる。
その人のような形をした物質に在らざる存在は徐々にハッキリとした人の形を帯びていく。
僕が作っているものは人造生命体「ホムンクルス」だ。だけど唯のホムンクルスじゃあ無い。
本来のホムンクルスは人間よりうんと小さく結界から出した途端に消えてしまう。だけどそれでは意味が無い。
何故なら僕は「お姉ちゃん」を造っているのだから...
結界内で人の形を成しつつあるホムンクルスに僕はお姉ちゃんの欠片を挿入する。それはあの時、お姉ちゃんの手で自ら取り出したお姉ちゃんの心臓。
結界内の人の形はお姉ちゃんの心臓を飲み込み表面の形を大きくうねらせる。
此処からが仕上げだ。此処からが従来のホムンクルスとは違う錬成方法だ。
僕は結界内に土の魔力を注ぎホムンクルスの肉体を固定化する。そして水の魔力を注ぎ肉体に生命の流れを構築する。さらに火の魔力を注ぎ肉体に活力を与える。そして最後に風の魔力を巡らし雷を作り出す。
一度に複数の魔法の発動を実現させる、魔法の多重詠唱は多元世界の存在を予見した僕にしか出来ない特別な魔法発動だ。これこそがホムンクルスを完全なものとしてこの世に造り出す唯一の方法なんだ。
土より産まれ燃える生命を水のように巡らせホムンクルスはみるみる大きくなりお姉ちゃんの形になる。そして最後に渦巻く風から生み出した雷をその身に落とす。
ドクン
生命が息吹く音が聞こえた。
ドクン、ドクン
結界の中には胎児の様にうずくまるお姉ちゃんがいる。
ドクン、ドクン、ドクン
薄っすら目を開けるお姉ちゃん。ゆっくり起き上がり焦点の定らぬ目を虚空に移ろわせていたが、次第に目に知性の光が射してくる。
「お姉ちゃん... お姉ちゃん!」
僕は自分でも気がつかないうちに声をあげていた。
「シレーアお姉ちゃん!!」
そう叫んで僕は結界を解く。結界が解かれてもお姉ちゃんはそこに存在した。消えずに物質としてそこに存在した。
「うあああ!」僕は言葉にならない絶叫をしながらお姉ちゃんに駆け寄りその身体を抱きしめる。
その身体はとても冷たい。その肉体には血が通わず魔力が巡っているからだ。
でも懐かしいシレーアの感触に僕は嗚咽をあげ強く抱くしめる。
「お姉ちゃん。やっと会えた。会いたかったよ。」
僕はお姉ちゃんの瞳を見つめる。
僕の言葉を聞いてか聞かずか、その目は虚空を見つめ冷たく胡乱な光をたたえていた。
そこで突然、僕は言い知れぬ不安に駆られお姉ちゃんに質問する。
「シレーアお姉ちゃん、僕が誰かわかる?」
そこでやっとお姉ちゃんは僕を見つめる。
そして白く冷たい顔は、無表情に血の通わない薄紅色の唇を可憐に動かす。
「はい、御主人様。貴方の名はハラド・グラウミン。私の創造主です。」
..........
お姉ちゃんが邪竜ベルミルスラクスを討伐してから早くも一花月が過ぎた。
ハラドとシレーアは仲睦まじくいつも一緒にいた。手を繋いで町を散策し、一緒に飯を食べ、一緒に風呂に入り、一緒に眠った。
この時がハラドの人生の最も幸せで最も平穏な日々なのであった。
だが幸せという蜜月の日々はそう長くは続かない。
ある日突然、北方の小さな街カフカスは燃え上がったのだ。
ハラドとシレーアが夕食の準備をしている時だった。
急に地面が揺れたかと思うと、外から大きな爆発音が聞こえてきた。
「え、え、え? 今の音なに!?すごい大きな音だったけど...」
ハラドが突然の揺れと轟音に狼狽していると、シレーアが何かを感じたか険しい顔になる。
「嫌な気配。邪悪な魔力... 町に何か良くないモノが現れたわ。」
「え!? なに? 魔物?」
ハラドが心配そうに聞くと、シレーアは首を横に振る。
「違う。魔物じゃない。もっと禍々しいもの。」
「まさか、ドラゴン?」
「いえ、違うわ。ハラド、院長先生と此処に居て。危ないから外に出ちゃダメよ!」
そう言うとシレーアは自室に戻り、竜殺しの魔剣ヴァルムンクを掴みそのまま孤児院を飛び出して行った。
我に返ったハラドは慌てて孤児院の玄関まで飛び出すが、シレーアはもうかなり遠くまで駆け出していた。
「お姉ちゃーん!行かないでよ!ここにいてよ!
お姉ちゃーん!」
大声で叫ぶがその時にはすでにシレーアの姿は見えなくなっていた。
玄関先で目にいっぱい涙を溜めて立ち尽くすハラドの背後から心配そうな声が聞こえた。
「ハラド大丈夫かい? 今さっきの揺れと大きな音は何だったんだい?」
ハラドが振り返るとそこには院長のピングビンが立っていた。最近は膝が悪くハラドの助け無しでは歩く事も難しいのに心配をして玄関まで歩いてきた様だ。
ピングビンを心配させまいとハラドは涙を堪えて、ふらつくピングビンの腕を支える。
「大丈夫だよ、先生。シレーアお姉ちゃんが様子を見に行ってくれたから、何かあってもお姉ちゃんがあっという間に解決して帰って来るよ。」
ハラドは自分に言い聞かせる様にそう気丈に答えて笑う。
しかし実は内心は不安でしようが無い心持ちでいっぱいであった。形容し難い何とも言えぬ不安と嫌な予感がして気が気ではなかったからだ。
振り向いて開け放たれた玄関から見える夕空は赤く不吉な色をしていた。
シレーアが町の中央にある大広場に辿り着いた時には、広場は破壊し尽くされていた。いつもは食べ物屋や雑貨屋などの様々な屋台が出ており町人で賑わっているが、そこかしこに火の手が上がり血生臭い煙が立ち昇っている。
もはやそのには生きている人間はいなかった。禍々しい魔力を垂れ流す異形の魔物共が跳梁跋扈する地獄と化していた。
大広場に足を踏み入れたシレーアの大きな魔力に反応してか、異形の魔物共は次々と振り返りその醜悪な顔を歪ませ牙を剥き出しにし敵意を露わに襲い掛かって来る。
「貴様らぁ!何処から湧いて出た!」
シレーアはそう叫ぶと襲い来る魔物共に向かいヴァルムンクを一閃させる。
一凪で数十の異形の魔物共を斬り伏せ、それでもなお襲い来る魔物の群れを返す剣で一閃、さらに一閃と次々に薙ぎ払う。
数百といた魔物共はあっという間に斬り伏せられる。
動くモノが無くなった広場の真ん中でシレーアは一人立ち尽くし首を捻る。
「こいつらじゃない... こいつらは唯の陽動か?この中に、あの邪悪な魔力を持つ者はいなかった... だとすれば何処に... 」
ブランシェトとティン・トットは町外れにある小さな酒場で夕食を食べようとしていたが町の中央部から異様な魔力の放出を感じ、取るものもとりあえず酒場を飛び出して大広場に向かい駆け出していた。
走りながらティン・トットが悪態を吐く。
「何だってんだ飯時に!つぅか何なんだこの異質な魔力は!?ブランシェトの結界はどうしたんだ?」
ティン・トットの問いかけにブランシェトは小さく首を振る。
「わからない... でも、この魔力は...まさか!?」
「何だ?知っているのか、つぅかブランシェトの結界をかい潜って町の中央にいきなり現れるたあ、一体どんな魔物何だ!?そんな事できる奴ぁ邪竜ベルミルスラクスくらいじゃないか?」
ティン・トットがそう言って頭をふると、それに呼応してかブランシェトも頭を振って立ち止まる。
「いえ、違うわ。この邪悪な魔力は随分昔に目の当たりにした事があるの。」
そう言ってブランシェトは魔術杖を地面に突き立てる。
いきなり立ち止まったブランシェトを見てティン・トットも慌てて足を止めて振り返る。
「何だドラゴンじゃないのか。しかしブランシェトの結界を破ってその中に侵入できる奴なんざそうそういないだろ!?」
「いえ。あなたも知っているでしょう?私は今、結界の効力をそんなに高く維持する事が出来ないって... 」
ブランシェトの言葉を聞いてティン・トットは神妙な顔をして頷く。
「ああ、知ってるよ。魔界の淵に張られた結界に今でも相当な魔力を送り続けてるのはな。
だが、それでもそんじょそこらの魔物なんざ相手にならないくらいの強力な結界じゃないか。それこそ魔族くらいじゃないと破れないんじゃないか?」
ブランシェトは魔力探知の魔法を使い周囲の索敵を行いながらティン・トットに向き直る。
「いえ魔物じゃないわ。この魔力はその魔族のものよ。」
ブランシェトがそう言うやティン・トットは目を丸くして驚きの表情を見せる。
「魔族だって!?いや、それこそ無いだろ!魔族はブランシェトを始めとするエルフの結界で魔界に釘付けになってる筈だろ!」
「そうよ。だからおかしいのよ。結界をかい潜ってこっちに侵入したなら私を含め、他のエルフ達も分かる筈だもの。」
ブランシェトはそう言って首を傾げると、ティン・トットは大仰に狼狽してみせる。
「おおい、どう言うこった!?じゃあどうやって魔族はこっちの世界に入って来たんだ?」
「そんなの今ここで直ぐに分かるわけ無いじゃない。でも大丈夫よ。この魔族けっこう大きさな魔力を持ってはいるけれど、強さで言ったら邪竜ベルミルスラクスの数段下ね。シレーアの敵じゃ無いわ。」
シレーアは何処からともなく湧き上がって来る異形の魔物を薙ぎ倒しながら町の中を走り抜ける。
シレーアが足を踏み入れる場所に待ち構えているかの様に魔物がおり、そこで交戦する事になりいちいち足止めをくっていた。
一体一体はシレーアの敵では無いが、こう多いと町の通りを抜けるにも時間が掛かってしょうがない。
シレーアは立ち止まり辺りを見回す。
「雑魚ばかりだわ。いったいあの邪悪な魔力を放っていた魔物は何処にいるの?目的は何なのかしら?」
ブランシェトは魔力探知の網を町中に張り巡らせ魔族の行方を探る。
ブランシェトとティン・トットが町の大広場に駆けつけた時には打ち壊された屋台の累々と積み重なる異形の魔物の死骸しかなく、シレーアはすでに別の場所に移動した後だった。
「シレーアとはすれ違っちまったか。見た事もない魔物が相当数入り込んだこの状況はちょっと異常だな。まったく読めない状況だな... こんな時は散らばって行動するのは良くねえんだが...。」
ティン・トットが眉をしかめて舌打ちをすると、索敵をしていたブランシェトが首を振ってため息を吐く。
「ダメね。魔族が何処にいるか分からないわ。此処で魔力を放出した後、隠蔽呪文を自分に掛けたのね。...やられたわ。陽動にまんまと引っかかってしまったわね。」
「そうか。それじゃシレーアは何処にいんだ?あの跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘は?」
ティン・トットが冗談まじりに混ぜっ返すとブランシェトも口元を緩めて答える。
「だだいま南下中ね。町の入り口の方に向かっているみたい。」
「よっしゃ。じゃあそっちに向かおうか。先ずはシレーアと合流しよう。」
シレーアが町の入り口にある門扉の辺りまでやって来ると、計っていたかの様にシレーアのいる南の端の町の入り口とは反対方向の北の方向から邪悪な魔力が放出される。
シレーアは魔力の放出される方角に振り返り息を飲む。シレーアがさっと顔色を変えるのと同時に大きな爆発音と振動を感じる。
町の北西。まさに孤児院のある方向から黒煙と炎の柱がもうもうと立ち昇る。
「ハラド!ピングビン先生!」
シレーアは大声で叫びつつ猛然と走り出す。
「おい何だ、今の音は!?」
「しまった!町に溢れる魔物は陽動だったんだわ!孤児院よ、ハラドと院長先生が危ない!」
ブランシェトは立ち止まり振り返ると、ティン・トットも慌てて歩みを止めブランシェトの見つめる方向をみる。
少し離れた北西の方向から黒煙が立ち昇っているのが見えた。
「何だって!?何でまた孤児院なんて狙うんだ?」
ブランシェトは大きく首を振って険しい顔をする。
「違うわ。狙いは孤児院じゃない。シレーアよ!」
燃え盛る町の中を駆け抜け、シレーアは孤児院の前に戻って来ると、孤児院の門前には一際大きな体躯を持つ異形の魔物が立ち塞がっていた。
その異形の魔物はシレーアを見るや不気味な咆哮を上げ襲い掛かってくる。
シレーアの身の丈をゆうに越す体躯を持つ異形の魔物が、獰猛な牙と爪を剥き出し襲い掛かってくるが、シレーアは剣を一閃させると一撃で魔物を真っ二つに切り裂く。
シレーアは剣を上段から勢いよく振り下ろし血振るいをして、燃え盛る孤児院を睨み付ける。
「そこにいるのは分かっているのよ!出ていらっしゃい!この卑怯者!」
シレーアがそう絶叫すると炎の中からゆらりと影が現れる。
その姿を見てシレーアは息を呑み、歯を食い縛る。
ずんぐりとした大きな体躯を真っ黒なローブで包み、冷酷な色をした双眸は瞳孔が縦に裂けており、額からはねじくれた角が三本突き出ている。
異様な風態の男だが、シレーアが息を呑んだのはそこでは無い。その異様な男の腕の中で羽交い締めにされているのがハラドだったからである。
ハラドはシレーアの姿を見るなり目に涙を溜め大声で叫ぶ。
「お姉ちゃーん!うわあぁーん!」
ハラドの絶叫にシレーアの瞳は一瞬揺らめくが、その眼差しを黒衣の男に転じると、シレーアは獣の様な獰猛な目で男を睨みつけ、獣の様な低く唸る様な声で静かに吼える。
「貴様... その子を放せ。毛程の傷をつけてみろ、千片に斬り刻みこの世から消し去るぞ。」
シレーアはそう唸ると割れんばかりに歯を喰いしばる。
シレーアとは反対に黒衣の異様な男は冷徹な笑みに口角を歪ませる。
「クックック... なるほど流石の迫力だな。だが分が悪いのは貴様の方だぞ。そこから指先一つでも動かしてみろ、この小僧はお前自身が殺さねばならぬ羽目になるぞ。」
「何!?どう言う事だ?」
「ほれ、貴様のすぐ後ろ。そこの足下で斬り伏せられている死骸は、貴様の愛する者ではなかったのか?」
その言葉を聞いてシレーアは眉をひそめる。その背筋には冷たい汗が伝う、嫌な予感しかしない。
シレーアは嫌な予感に二の句を告げる事が出来ず歯を喰いしばっていると、ハラドが泣きながら絶叫する。
「院長先生が... おばあちゃんが... 突然、大きな怪物に変えられちゃったんだよ!おばあちゃんが... 」
そこまで言ってハラドは声を詰まらせる。
シレーアはハラドの言葉を聞いて、目を大きく見開いて、後ろを振り返る。
そこには異形の魔物が斬り伏せられて死んでいる。
「ま、まさか、これ...この、人は... 」
シレーアの心臓は早鐘を打ち、呼吸は荒くなる。
それを見た黒衣の男は心底愉快そうに口角を上げ下卑た笑みを浮かべる。
「そのババアは特別に多めの魔力を費やして特別な変異をさせたのだが、他の人間共を使った変異体と同様に足止めにもならなかったな。
さすが邪竜ベルミルスラクスを葬り去っただけの事はあるな。」
シレーアが斬り伏せた無数の異形の魔物達の骸を横目に孤児院に向かっているブランシェトとティン・トット。
町の異質な雰囲気を感じ取りティン・トットは歩調をゆるめる。
「おかしいぞ。魔物の死骸ばっかりだ。」
「シレーアが倒したのね。何がおかしいの?お陰で進みやすいじゃない。」
ブランシェトの言葉にティン・トットは首を横に振る。
「そうだよ進みやすいんだよ。魔物の死骸ばっかりでな。...町の人達は何処に行ったんだ!?」
ティン・トットの言葉に状況を素早く理解したブランシェトが表情を固くする。
確かにここに来る迄に魔物達の骸は山ほど見たが、人間は見ていない。生存者どころか死者や怪我人も。これだけ魔物が跋扈している町に人影が無いのだ。
「ちょっと待ってて!」
ブランシェトはそう言うと近くに倒れている異形の魔物に駆け寄り、その体躯に触れる。
「...やっぱり。これ... いえ、この... 魔物じゃないわ。強力な魔力で歪められているけれど、この魔力波は人間のものよ... 」
「じゃあ何か!?ここら中で死んじまっている魔物はみんな町の住人って事になるのか?」
ブランシェトは沈痛な面持ちで静かにうなずく。
「何てこった!こりゃ一体どう言うこった!?
おい、そういや俺達は大丈夫なのか?」
「私とティン・トットは魔法耐性が高いし、何より私の神聖魔法の加護があるもの。魔物はもとより魔族の邪悪な魔力の影響は受けないわ。」
「そうか」と一言呟いてティン・トットは押し黙り、辺りをぐるりと見回す。
「ヤバイな。ちんたらしてたお陰で囲まれたみたいだぜ。」
ティン・トットの言葉にブランシェトも顔を上げると通りの向こうや路地から一体、また一体と変わり果てた姿の町人が現れる。
「ティン・トット、攻撃しちゃダメよ!」
「わかってるよ!しかしどうすんだ?こりゃヤバイぞ!」
「傷つけないで無力化して!」
そう叫んでブランシェトは魔術杖を構える。
「この数を!?俺たち二人で?」
シレーアは怒りで肩を震わせている。今しがた斬り伏せたのは孤児院の院長ピングビンだと言うのか。だとすれば此処に来るまでに斬り伏せた無数の魔物達は... そう考えると目の前が暗くなる。
「貴様... いったい何が目的で院長先生やこの町の人達を... こんな目に... 」
シレーアの言葉に黒衣の男は嘲笑うかの様に顔を歪め勝ち誇った様に語り出す。
「何の目的だって?それはお前だよ。竜殺しの女、 シレーア・グラウミン。お前が、お前の命が目的だよ。」
そう言ってせせら笑う男にシレーアは激昂する。
「何だと!たった一人。私の命を奪う為に町の人達を、院長先生を!」
シレーアの激昂に男は下卑た笑いを浮かべる。
「クックック。殺したのは貴様ではないか。」
「貴様... 楽に死ねると思うなよ。」
黒衣の男の言葉にシレーアが低く唸る様に言い放つと、男は冷たい双眸をシレーアに向けて口を歪める。
「フン、まだ状況がわかっていない様だな。この小僧の命は俺が握っているのだぞ。貴様は俺に歯向かう事は出来んのだ。大人しく言う事を聞くしか無いんだよ!」
「...卑劣で臆病な奴め。たった一人、私の命を奪う為に町の人達を魔物に変え、子供を人質に取るとはな。下等なゴブリンにも劣る下劣さだな。
なにより私はお前なぞ知らんぞ。お前に恨まれる筋合いも無い。」
「フン、何とでも言うがいいさ。だが恨みなぞ無いぞ、むしろ貴様には感謝しているくらいだ。」
「何!?お前はいったい何を言っているんだ?」
「邪竜ベルミルスラクスだよ。貴様があの邪竜を殺してくれたお陰で俺は自由になれたのだ。
俺は長らくあの邪竜に封印されていたのだよ。」
シレーアは侮蔑の表情を浮かべ小さくため息を吐く。
「なるほど、私がベルミルスラクスを討ち取ったせいでお前の封印が解けた訳だな。それで何故私を狙うんだ?」
「貴様が邪竜ベルミルスラクスを殺したからだ。本当は俺が殺す筈だった!俺が邪竜を殺して生き血を浴び、邪竜の力を得る筈だった!」
「何だ!?だから邪竜の代わりに私を殺すのか?」
シレーアが軽蔑の眼差しで男を睨むと、男は卑屈な笑みを浮かべる。
「そうだ!俺は邪竜に敵わず封印されてしまった。だが貴様が邪竜を殺した!貴様が邪竜の力を得た!」
黒衣の男の怨嗟の声にシレーアは鼻白む。
「なるほどな。お前が弱いのはわかったよ。」
男は相変わらず卑屈な笑みを浮かべている。
「ヘッヘッヘ... そうだよ俺では邪竜ベルミルスラクスに敵わない... だがな、貴様には勝てるぞ!
邪竜が殺されて一花月、俺はこの町に潜み、ずっとお前を観察していたんだよ!そして見つけた!貴様の弱点をな!」
黒衣の男はそう言ってハラドを抱え上げる。
ハラドは恐怖に青ざめ言葉を発する事が出来ないでいる。
「こいつだ、このガキだ。このガキが俺の手中にある限り貴様は俺に手も足も出ないんだよ!
ハッハッハァ!俺は貴様を殺し、邪竜の力を得るのだ!」
「なるほどな。この一花月イヤらしい視線を感じていたがお前だったんだな。」
そう言ってシレーアは鼻で笑うが、その視線は少し不安げにハラドに向けられる。
シレーアと目があったハラドは、彼女の瞳がいつもの自分を愛しむ優しい目になっているのを見とめる。
ハラドはいつも自分を見守っているその目を己の目に焼きつける様にしっかり見つめて、ギュッと強く目をつぶる。
シレーアとハラドは無言で言葉を交わす。
その二人の世界に自分は全く存在していない事に気がつき、この場を掌握していたと悦に入っていた自分がまるで意に介されていない事に黒衣の男は怒りに顔を歪め絶叫する。
「減らず口を叩けるのもこれまでだ!そこから一歩も動くなよ、指先ひとつ動かすな!動けば小僧が醜い化け物になり果てるぞ!」
そう言って黒衣の男はハラドを羽交い締めにする。
ギリギリと腕を締め上げられるハラドは苦痛に表情を歪めるが、意を決した様に目を見開く。
「お、お姉ちゃん逃げて!僕は大丈夫だから、お姉ちゃんだけでも逃げて!」
ハラドの悲痛な叫び声が響き渡る。
厳しい表情を見せていたシレーアはハラドの声を聞くやいつもの柔和な顔に戻る。
「ハラド、ありがとう。お姉ちゃんを心配してくれるのね。」
優しく微笑むシレーアを見てハラドの顔が子供とは思えない雄々しい決意を秘めたものになる。
「お姉ちゃんを殺させはしない!お姉ちゃんは僕が守るんだ!」
ハラドの力のこもった言葉に黒衣の男の顔が歪に歪み、ハラドを締め上げる手に力を込める。
「ガキまで減らず口を叩きやがる。先ずはこのガキから殺してやろうか!」
「痛った... くない、痛くなんか無いぞ!お前なんか怖くない!お前なんかに負けるもんか!」
ハラドは目を見開き黒衣の男をにらみつける。
黒衣の男はますます顔色を怒りでドス黒い赤い色に変え、その手に力を込めようとする。
「ハラド!...ハラド、ありがとう。いつもお姉ちゃんを守ってくれるね。でも大丈夫。お姉ちゃんは負けないよ...」
そう言って強張らせていた身体の力を抜き、静かに黒衣の男に視線を移す。
「おい!その子を離せ。お前の相手は私だ。」
そう言ってシレーアは無防備に佇む。
それを見て黒衣の男は愉快そうに下卑た顔を歪めた。
「ハッハー!そうだ、そうだぞ。抵抗するなよ。」
「ああ、抵抗しない。事が済んだらすぐにこの場を去れ。その子に手を出すなよ。」
「お前を殺して力を得れば、このガキは用無しだ。すぐにこんな所からおさらばしてやるさ。」
「やめろ!お姉ちゃんに手を出すな!僕が相手だぞ!離せー!」
ハラドはそう叫んで身をよじるが、その身は自由にならない。
ハラドをきつく締め上げたまま黒衣の男は片手をシレーアに向ける。
「ハッハッハァー!死ぬがいい!ラハメギル=カルヒ=エドラ!」
黒衣の男の手から燃え盛る炎の矢が幾つも放たれシレーアに襲いかかる。
無防備に佇むシレーアに炎の矢は何本も突き立てられるが、シレーアの身体を傷つける事はなかった。
「何!?耐火しただと?ならばコレはどうだ!ハエメギル=べレグ=ラング!」
黒衣の男がそう叫ぶとその手から無数の岩の刃が飛び出しシレーアに突き立てられる。
だがしかし魔法の刃もシレーアを傷つける事なく砕け散る。
無防備に佇むシレーアは無表情に冷たい視線を黒衣の男に向けている。
驚愕に表情を歪めているのは黒衣の男である。
「な... ど、どう言う事だ!?な、ならばコレで... 」
「やめておけ。お前の攻撃は効かない。...お前は弱い。」
冷たく吐き捨てる様に突きつけられた言葉に男は激昂する。
「黙れ、黙れ、黙れ!おのれ... こうなったら俺の持つ最大の魔法で消し去ってくれるわ!ブルイボルン=ダルセイン=ダンナ!」
そう絶叫し、黒衣の男は腕を天に振りかざすとシレーアの頭上に極太の雷が落ちる。
「ダンナ!ダンナ!ダンナー!」
立て続けにシレーアに雷が降り注ぐ。雷の光がシレーアに覆いかぶさり辺りを白く染め、周りの地面を穿つ。
爆風はハラドと黒衣の男の所まで届き、ハラドは思わず目を閉じる。
轟音が鳴り止み、風もおさまるとハラドはさっと目を見開く。その目は不安の色をたたえ揺らいでいたが、ハラドの心配をよそにシレーアは変わらずそこに佇んでいた。
ハラドはホッと胸を撫で下ろすとシレーアと目が合った。
シレーアは少し微笑むとハラドから視線を外し辺りを見回す。
「もう気が済んだか?コレで分かっただろう。これが邪竜ベルミルスラクスを屠った者の力だ、お前に私は殺せない。」
黒衣の男は額にあぶら汗を浮かべ、屈辱に歯を食いしばる。
「お、おのれ... おのれぇ... 」
怨嗟の言葉も告げられぬほど狼狽する男にシレーアは憐憫の表情を浮かべる。
「もういいだろう。その子を離せ。そしてこの場から立ち去り、私に怯えながら恥辱に塗れた余生を過ごせ。」
そう言ってシレーアは前に一歩踏み出そうとするが、男はハラドを羽交い締めにしたまま、その首筋に自身の黒ずみ歪に伸びた鋭い爪を突きつける。
「おい!それ以上近づくな!このガキが見るも無残に化け物になってもいいのか!?」
「だから、お前には私は殺せないんだ。ここからお前はどうしたいんだ?」
呆れた顔を見せるシレーアに男は尚も薄い笑いを浮かべる。
「なるほど。さすが邪竜ベルミルスラクスを殺した女、邪竜の力を得た女だ... 俺の力では殺せ無い... そんな事は分かっていたよ... 」
男はあぶら汗が伝う頬を歪めて笑い、シレーアを指差す。
「ではお前自身に殺してもらう。
それだ。その手に持つ竜殺しの魔剣ヴァルムンクを自らの胸に突き立て心臓を取り出せ!そして俺に捧げるんだ!」
その言葉に身をよじり絶叫したのはハラドである。
「馬鹿な事を言うな!お姉ちゃん僕の事は気にしないで!こんな奴はやっつけちゃって!」
「うるさいクソガキが!さあ、どうする!竜殺しの女!早くせねばこのガキを引き裂くぞ!」
そう言って男はハラドの胸に爪を立て上着を引き裂き露わになった胸に爪を突き立てる。
ハラドの胸には薄く血が浮かび始めた。
「やめろ!」シレーアが絶叫し身を固くする。
「やめろ!ハラドに手を出すな!傷をつけるなぁぁぁ...!」
シレーアは歯痒さに身をよじり唇を噛み締める。
「動くな!このままこの胸を引き裂けば、コイツの身は爆ぜて異形の怪物と化すのだぞ!」
「ぐ...」シレーアの噛み締める唇から一筋の血が流れる。
「早くしろ!その魔剣を胸に突き立てろ!」
「お姉ちゃんやめて!僕はどうなってもいいから!」
懇願するハラドにシレーアはためらい惑う瞳を向ける。
「おい... 黒衣の男。私の心臓を得たら、その子には手を出さずこの場を去るか?」
「ああ、貴様の心臓さえ得られればこのガキに興味は無い。」
「お姉ちゃん何言ってるの!?やめてよ!」
「誓え!私の命と引き換えにハラドには手を出さないと!」
「やだよ!お姉ちゃんやめて!」
「ああ、いいだろう。誓ってやる。このガキには手をださん。」
その言葉に逡巡しゆらめいていたシレーアの瞳は意を決した凛としたものに変わる。
その美しく澄んだ瞳は真っ直ぐハラドの瞳を見つめる。
「ごめんね。ハラド。」
「何言ってるんだ!やめろ!やめろよ!僕がお姉ちゃんを守るんだから!」
「ハラド愛してる。」
「僕も、大好きだよ...」
シレーアはヴァルムンクを逆手に持ちその胸に深々と突き立てる。
「お姉ちゃーん!」
ハラドの泣き叫ぶ声とともに魔剣は抜き取られ、鮮血が滴る胸からシレーアは自らの心臓を抉り出す。
「ハ、ハハ、ハッハッハー!やったぞ、コレで邪竜の力は俺のものだ!忌々しいガキの事など知るか!貴様もガキも化け物の餌にしてくれるわ!」
そう絶叫した黒衣の男はハラドを横に投げ捨て、その心臓を手にするために一歩踏み出す。
黒衣の男の首が飛んでいた。
ハラドをその手から離した途端にその首は宙を舞った。
シレーアが最後の力を使い竜殺しヴァルムンクを一閃させ黒衣の男の首をはねたのだ。
シレーアが地に膝を突き、その身を地に倒さんとするがその前にハラドが駆けつけてその身を抱き抱える。
ハラドは、今まさに命の火は消えんとするシレーアの白い顔を抱きしめる。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!やだよ、死なないで!」
号泣するハラドの瞳からいくつもの涙が頬を伝いシレーアの顔にこぼれ落ちる。
シレーアは薄く目を開けて力無く優しく微笑み口を開きかすれた声を出す。
「約束やぶってごめんね... 」
「お姉ちゃんは何にも約束やぶってないよ!約束やぶったのは僕の方だ。お姉ちゃんを守るって約束したのに!」
「お嫁さんになってあげられなくてごめんね... 」
そう言ってシレーアは眼から光を失い、静かに息を引き取った。
「!?...お姉ちゃん?...お姉ちゃん?目を開けてよ、起きてよ、お姉ちゃん!」
ハラドはシレーアを揺するが、魂の抜けたその身は呼びかけに応える事は無かった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
ハラドの悲壮な呼びかけに導かれてか、ブランシェトとティン・トットが駆けつける。
「ハラド!シレーアは... 」
とブランシェトと言いかけてハラドに抱かれる彼女を認めて絶句する。
「ブランシェト!お姉ちゃんが!お姉ちゃんが!ブランシェト、お姉ちゃんに治癒の魔法をかけて!」
ハラドはシレーアを抱きしめながらブランシェトに懇願する。
ブランシェトはハラドとシレーアの側に駆け寄り二人を抱きしめる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。私がもっと早く駆けつけていたら... ハラド、ごめんなさい!」
そう言ってブランシェトもその大きな瞳からはらはらと涙を零す。
「ねえブランシェト、お姉ちゃんを治癒してよ!お姉ちゃんの傷を治し、て... 」
ハラドは振り向き、ブランシェト見て言葉を途切れさせる。
涙に濡れ赤く目を腫らしたブランシェトの表情を見て悲しい現実を受け入れなければならない事を悟る。
とめどなく涙が頬を伝うブランシェトも己の無力さに打ちひしがれ立ち尽くすティン・トットもハラドにかける言葉が見つけられない。
ハラドはいくらその名を呼んでも、彼の愛しい人は応えてくれないと分かっていても、叫ばずにいられない。
「お姉ちゃん!シレーアお姉ちゃん!うああん!うあああん!うあああああ!」
ハラドはシレーアを抱き号泣する。
その声は虚しく空に響き渡る。
そうすると、それに呼応するかの様にしとしとと雨が降り出してきた。
雨はハラドの涙を洗い流し、地面を赤く染めるシレーアの血も洗い流していく。
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