遺書
唐突に、遺書を書こうと思った。死ねもしないのに指だけは達者なものだ。
社会に適応するために己を抑制し、日常生活を送るのは誰しも同じであると考えている。が、脆い私には限界が来てしまったらしい。まだ社会の歯車にすらなれていない愚かな己は、ありもしない期待と、社会への恐怖と、孤独と、劣等感に苛まれている。掃き出し口がない不器用な私は冷えた牛丼を口に運びながら、十万円の価値がある筐体に向かって文字を書いている。
このような文体と内容はきっと受け入れてもらえないのだろう。
それでいい。ただ、己の中に積もった塵を、花も咲かないのにまいているだけなのだから。死にたいのに死ねない肉塊の、ただのマスターベーションだと思ってほしい。
私は、十分すぎるほど恵まれた環境で育った。親に愛され、友人に愛され、恋人に愛され、期待され、見事にその期待に応えられなかった。私は、愛される自分でいたいと思うほど己を歪め、やればできる子であった小学校低学年の頃の私を張り付けたまま育った。体が成長すればするだけボロが出て、それを隠すことに必死になった。愛される人格でないことに気付いてしまった小学四年生の時点で、己の人生の歩む道は決まったも同然だったのかもしれない。
体と身がちぐはぐな私を守れるのは己だけであると思っても、こんな私を好きになれるはずもなく、社会的動物であるという本能の部分が首を絞めた。体だけ大きくなり表面上ですら社会に適応できなくなってきた私を、孤独と後悔が襲った。愛されるために人生を費やしてきたのに、愛されることを後ろめたく感じた。こんな私を未だに愛し、期待してくれる両親に、友として接してくれる友人に、近くで寄り添ってくれる恋人に、首を絞められる。こんな薄っぺらな肉塊を、まだ人として扱ってくれる人間を愛し、恵まれすぎた環境に感謝し、そして己を憎んだ。
愛されるために私を取り繕う反面、可及的速やかにこの世を去らねばならないと迷惑をかけない自殺の方法を漁ったりもしたが、そんなものはなかった。さらに小学六年生の時、私が愛していた祖母が目の前で死んでから骨になる過程と周りの反応を全て見た手前、わずかでも私を愛してくれている人間をあのような状態にするわけにはいかないと考えた。愛されるために創り上げた笑顔で阿呆な私を愛してくれる人間がいる限り、死なない。できるだけ迷惑をかけない。それが生まれ堕ちた己にできる唯一の償いであると思った。
しかし、歳を重ねるほどに学力は落ち、習い事も成果が出なくなった。抑えきれない人間としての個性や考え方が邪魔をし友人に迷惑をかけることも増えた。同じ理由で過剰なほどに私を愛してくれる両親を困らせた。
そして、社会の歯車に組み込まれようとした阿呆な小学生の私は、社会に適応できなくなったことを知った。両親は私が立派に公務員になって働いてくれると考えているが、己にそのような能力がないことは火を見るよりも明らかであった。国立大学医学部に進学した努力家な妹に倣ったはずなのに結果を出せぬまま、私は学力的にも精神的にも限界が来た。
果たして、ここまで読んでくれている人はいるのだろうか。
うっかり読んでしまった貴方に迷惑をかけてしまうのは本当に申し訳ない。どうか、ネガティブな感情を持たずに、下には下がいるのだと笑ってほしい。
笑顔で阿呆な私以外に愛される人格を知らない己は、これから先も、社会的動物としてちぐはぐな身体を抱えたまま生きるのだろう。愛してくれる人間が骨になるまで。私が愛した人間の骨を、小さな箱の中に詰めるまで。
しかし、己の体の中に積もった塵を吐きださねば、限界を超えてしまうと感じた。牛丼を買った帰り道で、走り去る車の前に体を晒せば死ねると思った己を止めるためにも、私はこうやって遺書という名のマスターベーションをせねばならない思った。己の惨めな人格を、私の中で殺すための遺書である。
以上が、私が文章を書くための理由付けであり、笑顔で阿呆な私が生き延びるために考えた戦略だ。
生き延びるために、読み手がおらずとも、己の塵を文字に起こしていきたいと考えている。
半分は己の人格を殺し、真の阿呆と成り果てるため。
もう半分は、昔祖母が読んでくれた物話のように花が咲くかもしれないという、あまりにも人間じみた浅はかな考えによるものである。