序章
それは、それは、今昔入り混じる理想郷。無限に広がる宇宙よりもたらされた思想と光の知識は人々をそんな世界へと誘った。
輝く星々は世界に光を湛え、亡者となった人間達の心を徐々に浄化していく。光と闇で区切られた世界を、ようやく地続きにすることが出来たのである。しかし決して闇が無くなったわけではない。人々の心の内側には美しい海の底で積もり続けるヘドロのように黒くドロドロした何かが滞留しているのだから。
「――はっ……はっ……はっ」
息堰切って走るのは女性。それを追いかけるのは滞留するヘドロを顕現したかのような物。ギチギチと体を鳴らしながら物は地面を蹴る。
この路地を出れば警備ユニットが敷設された大通りに出る。何度も縺れそうになる脚を必死に前へ向かって動かし続け、己の命を繋ぎとめようとした。が、後ろを走っていた物の速度は女性の脚力を凌駕し、一瞬脚が縺れた瞬間に物は女性捕らえた。
物は何も思うことはなく、ただ本能のままに鋭く変化した脚の一本を女性の右肩に突き立てた。どす黒い液体が物の体を濡らして汚す。が、そんなことはお構い無しに次々と脚を鋭く変化させては突き立てていく。
左肩。女性は劈く悲鳴を上げる。
右腕。篭った悲鳴。
左腕。声にならぬ悲鳴。
右脚。反応無し。
左脚。反応無し。
いつの間にか女性はだらしなく口を開け、涎を、涙を、鼻水を、尿を垂れ流している。意識は既に無い。いや、既に息をしていないかもしれない。そんな人間ならばはっとするような状況を目の当たりにしても、物は決して同様を見せなかった。何故か、それは至極簡単な理由である。物は人ではないからだ。その脚は無数であり、脚の根元には細かな副脚。体は甲殻に覆われているがその内側に見える部位は心臓のように鼓動していて膨れては縮むのを繰り返している。まるでその姿は蛸のようである。
蛸のような怪物の周囲には同様の怪物が複数おり、全てが女性に向かってその脚を伸ばし、突き刺していく。やがて女性は針の筵と化し、怪物達の内の一匹が針をものともせず女性に覆い被さる。怪物の体がドロリと溶け出し女性の亡骸を包み込むのに、そう時間は掛からなかった。
と、女性が突然声帯を激しく振るわせた。声は灰色の壁で反響し、溶け出した同胞を見守っていた怪物達を内側より破裂させる。確かに声は女性のものであったが、その実、まったく別の存在となっていた。
足を引きずり小刻みに震えながら歩く女性。その瞳に生気は無く、虚空をただ見つめる。
今日も街に雨が降り、怪物の痕跡を跡形も無く流していく。
まるで、雨は怪物の存在を溶かし霞めるようで――