第4章 Say Bad Bye
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「……………………ふぅ」
胸の前に構えた文庫本を閉じ、私は満足げな表情で感嘆の溜め息を吐いた。
辺りは既に、昼間の明るさも暑さも熱気も喧騒も消え失せた、電灯の青白い光によって辛うじて映し出される夜闇の世界だ。煌々と輝く楕円の月が、くすんだ都会の夜空にもよく映えている。
『はふぅ、今日も傑作揃いでしたねー』
「そうね」
『スリルも満点ですねー』
「本当にね」
『本当にねー――――じゃないですよっ! なにやってんですか李ちゃんはこんなところでっ!』
いきなり怒鳴り声を出した霧罪に気圧されて、私は背筋をぞくりと震わせた。危うくバランスを崩して、真っ逆さまに転落をするところだ。まったく、危なっかしいことこの上ない。
「…………霧罪、唐突に意味もなく叫ぶのはやめてちょうだい。折角の名作の余韻が台無しよ」
『そもそもこんなところで本を読む方がよっぽど台無しでしょうがっ! もっと落ち着ける場所で読みましょうよ! なんで常に紐なしバンジーのスタンバイをした状態でライトノベル読んでんですか李ちゃんはっ!』
こんなところ、とは失礼な。ここは私の見つけた、絶好の読書ポイントだというのに。
風通しがよくて涼しいし、周りに人がいないから私も安心して寛げる。うっかり面白い部分を音読してしまったり、声を上げて笑ってしまうことを恥じることもない。
『だからといってですね! いくらなんでも廃ビルの屋上、しかもその縁っていうのは如何なもんですかねぇ!』
「いいじゃない。廃ビル最高。誰もいないから誰も殺す心配がないし、なにより静かでいいわ」
『だったら屋上のど真ん中にヘリコプターのように鎮座して読書してくださいよっ! 何故にわざわざフェンスの外側に腰かけて、足をぷらぷらと空中に放り出してんですかっ! 死ぬ気ですか李ちゃん!』
「読書中に命を捨てるような無粋はしないわよ。作者に対する冒涜だわ、そんな行為は」
『思い立った0.5秒後に投身自殺を実現できるようなポジションで読む時点で既に、大分冒涜的ですっ!』
「静かにしてよ。好きなシリーズの最終巻、読んでるんだから」
『ああっ! いつの間に次の本に手をっ!?』
霧罪がぴーちくぱーちく騒ぐのも気にせずに、私は傍らに置いてある新刊の束から1冊を抜き取り、またぱらぱらと読み始める。
読書が趣味の人間の8割方はそうだと思うのだが、本を読むスピードというものは、昨日よりも今日、今日よりも明日といった感じに、日々進化を遂げていく。時を経るにつれて、もっと言えば数多くの本を読むことによって、スピードはどんどん上がっていく。
私もその例に漏れず、最初は1冊読むのに1日かかっていたのだが、今では1冊平均30分ほどで読めるようになった。しかも流し読みではなく、速読でありながら精読だ。決して物語を享受するという行為から手を抜いている訳ではない。
まあ、少し厚めの本なら、30分では無理だけど。
それでも、1時間あれば、大抵の本は読了できる。
そのスキルのお陰で、20冊近いライトノベルの新刊も、日付が変わる前に読み終えられそうだ。
『ふわぁ~あ。…………李ちゃん、そろそろ行かないと、終電が出ちゃいますよ?』
「1時頃までは大丈夫よ。田舎じゃないんだから、そんなに早く電車は途絶えないわ。もう少しだけ待ってよ、あと40分以内に読み終えるから」
『む~…………もうわたし眠いですよ~』
「先に帰って寝るのは…………無理、なんだっけ? それだったら、空中で寝ちゃえば? 私が移動すれば、綱で結ばれた石みたいに、ずるずると一緒に動くでしょ」
『いいです、我慢、できないほどでも、ない、です………………ふわぁ~あ』
「自分が女の子だってこと、忘れかけているでしょ? 大口開けて、みっともないわよ。いくら幽霊だからって、節操は守らなくちゃダメじゃない。そんなに眠いなら、寝ちゃって構わないわよ?」
『いいですってばぁ…………。李ちゃんが……自殺しちゃっても、イヤ、ですし……』
「……………………」
いきなりピンポイントで突いてくるな、この娘は。
なんだか、見透かされているような気分だ。
『今日、わたしたちの周りで、3人の人が、死んじゃいましたよね』
「……そうね」
線路に飛び込んで、電車に轢かれて死んだ、彼。
恋人に顔面を破壊されて殺された、彼女。
自らの喉をナイフで切り裂いて自殺した、彼。
『李ちゃん、どの人が死んだ時も、おんなじ顔してました』
「…………顔?」
『悲しそうでした』
霧罪は。
私の表情を、簡潔にそう評した。
悲しそう。
悲しそう、と。
『自分が殺したとか、自分の所為だとか、自分の責任だとか、自分の体質だとか、そういうことよりもっと、根本的なところで、悲しそうでした』
「……………………」
『人が死んじゃったっていう、そのこと自体に、悲しんでいるように見えました』
「……………………」
『だから李ちゃん、放っておいたら自殺しちゃうかなーって、そう思いまして』
「……寝ずの番、という訳かしら?」
『まあ、ぶっちゃけその通りですねー。李ちゃんも、朝言っていたでしょう?』
「…………?」
『人が死ぬのは、いい気がしないんです』
「……………………」
『況してそれが友達なら、尚更です』
「…………友、達……」
『友達ですよー。友達じゃなければ何なんですかー』
「……………………」
『一緒にご飯食べて、一緒に買い物行って、一緒に本読んで、一緒にお話して――――どこからどう見たって友達でしょう。これが友達じゃないっていうなら、この世に友達なんて概念自体あり得ませんよー』
「……………………」
しばしの沈黙。
響くのは、私がぺらぺらとページを捲る音だけ。
風一つない凪いだ夜空の寒々しさを助長する、空虚で、なにより気不味い静寂。
それが、10分やそこら、続いただろうか。
「――――ねぇ、霧罪」
最初に口を開いたのは、私の方だった。
クライマックスに差し掛かった小説から目を離さないまま、霧罪に声をかける。返事こそなかったが、声に反応してくれたのは気配で分かった。
望んでいなくても、不本意ではあっても。
私だって、殺人鬼。
気配くらいは、生まれ堕ちたその瞬間から感じ取れる。
「死ぬべきである人って、いると思う?」
抑揚のない口調で、私は霧罪に問いかけた。
『…………なんですか、それ。意味が分かんないですよー』
「言葉通りの文字通り、額面通りに受け取ってもらって結構よ。字面通りの意味しか、今の言葉にはあり得ないわ。なんなら、もう一度言ってあげるわ、霧罪。ねぇ、死ぬべきである人って、いると思う?」
『死ぬべきである、人…………』
「生きているべきでない人、という方が正確かも知れないわね。とにかく、そういう奴よ。どう?」
『…………そんなの』
霧罪は、いつもより大分低めの、怒りを堪えるような声で言う。
『そんなの――――いる訳がないでしょう』
「……でしょうね」
『当たり前のことです。今更、そんなバカげたことを訊かないでくださいよ』
「そうね。その通りでしょうね。えぇ、本当にまったく完全無欠にその通りだと思うわ。死ぬべき人間なんて、この世に1人もいないわ。陳腐な言い回しになるけれど、でもこれが真実よ。どんな人間だって、生きているのが当然であり、またそうであるべきだわ。生きることが義務だと言ってもいいくらい」
『…………? 李、ちゃん?』
霧罪が、怪訝そうな目で私のことを見ている。不審とか奇異とか、そういったものを眺める、軽蔑混じりのそれではない、純粋に驚愕と不可思議とを感じ取った、子どものような視線だ。
右肩に気配だけを感じつつ、私は言葉を続ける。
「でも、それでも私は死ぬべきなのよ」
『……………………』
「死ぬべき人間なんて、本当にいないわ。どんな人間だって、どんな有象無象だって、どんな取るに足らない命だって、生きている価値がある。生きている、という価値があるわ。一寸の虫にも五分の魂――――なら、そんな虫けらたちよりも遥かに大きく知恵もある人間に、命の価値がない訳がないの」
『な、なら…………!』
「ところが、この私は違うわ」
どこか希望の色に染まったような、嬉しそうな声を遮るようにして、私は断言した。
「私には、生きている価値がない」
『……………………』
「それと相反するように、対応するように、表裏一体の二律背反を成すかのように、私には死ぬ価値がある――――いいえ、死んで初めて価値が生まれる、と言った方がいいかしら。私が死んだって誰も困らない、誰も悲しまない、誰も泣かないし、誰もなにも感じはしないわ」
『そ、そんなことは、ないですよ!』
「いいえ、そんなことはあるわ」
霧罪の嘆願にも似た言葉を、一刀の元に切り捨てる。
いくら友達だと言ってくれた霧罪が相手でも、こればっかりは譲れない。
こんな霧罪だって、きっと、私がいなくなって、冷静になってくれば、涙など出ては来まい。
「よくよく考えてみなさいな、霧罪。私という殺人鬼は、生きているだけで自動的に人を殺せてしまうのよ? 私の意思に関わりなく、私の行動に関わりなく、殺意と害意と悪意と敵意を空気感染させて、見知らぬ他人を殺意に取り込まれた殺戮人形にしてしまう――――これじゃまるで、病原菌か、或いはウィルスだわ。その2つの間の違いなんて、医者でも研究者でもない私が知るべくもないのだけど」
『それは……そうですけど、でも』
「ねぇ、霧罪。例えばの話だけど、癌の特効薬が出来たら、人類みんなが喜ぶわよね? 誰もがその薬を歓待し、癌患者もその家族も希望に胸をときめかせる。それは間違いのない事実だわ。風邪とインフルエンザと癌、この3つの病気に対する特効薬を作れたら、ノーベル賞は間違いないとまで言われているもの。この薬を厭う人間がいたとしたら、それは薬を開発した人間のライバルだった人くらいよ。その人だってきっと、癌に罹患したら迷わずにその薬を使うでしょうね。別に、癌じゃなくたって構わないわ。風邪でもインフルエンザでも構わないし、骨粗鬆症でも喘息でもアレルギーでもいい。抜け毛や老い、関節の痛みとかを治してしまうような薬でもいい。どんなものであれ、薬というものは人間に歓迎されるものよ。何故だか分かる? 霧罪」
『……それは、やっぱり、病気を治してくれるからじゃ、ないんですか?』
「半分正解よ。でも、単位はあげられない」
病気を治してくれるのは、なにも薬だけじゃない。
でも、薬にしかできないことというのは、確かに存在するのだ。
「もう半分はね、霧罪――――薬が、病気の原因を殺してくれるからよ」
『こ、殺す……? ぶ、物騒ですよー、李ちゃん。たかだか薬のことなのに…………』
「いえ、正鵠を射過ぎているくらいよ。癌の特効薬は癌細胞を殺してくれる、風邪薬は風邪を引き起こす菌を殺してくれる、その他ありとあらゆる薬は、病気の原因となる物体を完膚なきまでに殲滅してくれるの。だから尊ばれるのよ。でもその反面、風の菌やウィルスの方はどうかしら?」
『どうって…………』
「病原菌というものはね、人間にこんなことを望まれるものよ――――『死ねばいいのに』」
『死ねば……』
「実際、病原菌なんていたって邪魔なだけじゃない。邪魔だから薬によって殺され、駆除され、駆逐され、殲滅されるのよ。病原菌がいなくなって困るのは、その菌を使って実験・研究を行う人間だけ…………大半の人間にとって、病原菌は憎むべき敵に過ぎないの」
『……………………』
「そして――――私は、その病原菌よ」
またページをぺらりと捲る。エピローグに差し掛かった小説は、残すページが10枚を切っていた。
「いるだけで人を殺す。いるだけで人を殺させる。いるだけで人を死に至らしめる――――そういう働きを持つものを指して、病原菌と呼ぶわ。ならば、私は紛うことなく病原菌よ。人間によって駆除され、駆逐され、殲滅されるべき憎き怨敵。それが、私よ」
『…………李、ちゃん』
「葡萄が兄弟一の根無し草なら、私は兄弟一の迷惑な殺人鬼よ。私の2人の兄も1人の弟も3人の妹も、殺人を自制さえすれば、1人の人間も殺さないで人生を終えることが可能な殺人鬼だったわ。でも、私は違う。生きているだけで人を殺す――――そんな殺人鬼は、私だけだったわ。長い《無々篠》の歴史の中でも、きっとそうでしょうね」
『……………………』
「私は死ぬべきでも、生きているべきでないのでもないのよ。私は、生きていちゃいけないの。つまらない言葉遊びに聞こえるかも知れないけど、それが事実よ。生きていちゃいけないのに、そもそも生まれてきてはいけないのに、なにかの間違いで生まれ堕ちて、なにかの間違いで生き延びてきた…………間違いだらけ誤植塗れ誤字脱字がオンパレードの人生なのよ、私のそれは」
『……………………』
「……確か、あなたはお兄さんに殺されたんだっけ? 霧罪」
『……はい』
霧罪は頷いた。
兄に、殺された。
その酷薄な事実を、霧罪は、声の調子を変えることもなく淡々と認めた。
『《小火辻》は、前にも言った通りの霊媒家系ですからねー。霊と触れ合い、使役し、支配するには、それ相応の実力が必要になります。霊と渡り合う為の、特別な能力が』
「それが、兄弟殺し、だったかしら」
『知ってますか? エジプトの神官たちは、魔力が逃げないように、自分の目を縫い合わせたんですよ。それとおんなじです。同じ母親の胎内で育ち、文字通り血を分け合った兄弟を殺すことで、特別な霊力を得る――――それが、《小火辻》の伝統行事です。…………なんて、全部死んだ後に知ったんですけどね。お姉ちゃんと一緒に、お兄ちゃんに殺された、その後に』
「そう…………。でも、それでも霧罪、あなたは自分の人生が間違っていたなんて、思わないでしょ?」
『思わないですよー』
無理にテンションを上げたような、やけに明るい声が響いてきた。
その声と同時に、私は小説を読み終え、作者のあとがきへとページが移った。あとがきに関しては様々なこだわりがあるだろうが、私は本編を全て読んでからあとがきを熟読する派なのだ。特にライトノベルというものは、あとがきさえも秀逸で面白いものが多いので、毎回楽しみにしている。好きな作家のものなら尚更だ。
『そりゃ、殺されたことはちょっとショックですけどねー。でも、わたしはこうやって幽霊になって、李ちゃんっていう友達とも知り合えました。だから、間違いだなんてこれっぽっちも思わないですよー』
「…………そう」
やっぱり、そうでしょうね。
霧罪は、自分の人生に後悔なんてしていない。
既に終わってしまった人生にも、これから続いていく人生にも、後悔なんて微塵も持ってはいない。
それは本当に、羨ましいことだ。
「……本当、私とあなたとは、思考が合わないわね」
『嗜好が合えば充分ですよー。考えていることまで逐一以心伝心だったら、逆にちょっとキモイです』
「そうね…………本当、そうだと思うわ」
言いながら、私は読み終えた文庫本をパタリと閉じて、自分の横に積んであった本の塔の1番上に乗せる。今日の作品たちも傑作ばかりだった、と、感慨を噛み締めながら。
そして、懐から、小さな直方体の物体を取り出す。
透明な硬い箱のようなものの中には、なみなみとなにかの燃料が入っている。上部には小さなスイッチと、射出口とが備え付けられ、内部には私などには到底理解できそうにない複雑な仕掛けが組み込まれていた。
言うまでもなく、それはライターだった。
私の名前と同じような、桃色のライター。
煙草など嗜まない私が持っていること自体がおかしいような、そんな代物。
それを本の束に近付け、私はゆっくりと、新刊たちに火を付けた。
『あー、それはやっぱり、今日もやるんですかー…………。勿体なくありません? っていうか、冒涜的というなら、この行為の方がよっぽどそうなんじゃ……』
「一期一会――――それが私の、人生における信条よ。これで、この作品たちは私にとって、生涯忘れられない作品となったわ。下手に所有なんてしていると、慢心して作品の内容を忘れてしまう…………その方が、作者にとっては失礼なことよ。忘れられる、なんて、作品を創り出す人間にとって、悪夢以外の何物でもないわ」
『はぁ…………そういうものなんでしょうかー……』
メラメラと、小さな火柱を上げて燃えていく本の束を眺めながら、私たちは小さな声で会話する。火花と火の粉が舞い散り、熱気が私の身体を薄く焼いていく。肌が焦げ付いていく感覚が、微かな痛みと共に全身へと広がっていくのが、どこか心地良かった。
「多くの芸術家は、死んでからその名を馳せるわ。宮沢賢治なんて、そのいい例よ。彼は、生前は無名も無名、作家として認知されることなんて考えられないような人間だったわ。でも、彼の死後に発見された原稿によって、宮沢賢治は作家になった。彼の死によって、彼は作家となり得たのよ」
『いや、それは原稿が発見されたからじゃ…………』
「これだって、同じことよ。この本たちは、燃えて、燃え尽きて、灰になって初めて、私の中で『忘れられない作品』になる。一生私の頭の中で、生き続けるのよ」
『ふぅん…………』
「そして、私も同じ」
それまでと、声の調子も何も変えずに、ただそれが日常繰り返される会話の延長であるかのように、私は自然と言葉を紡いだ。
世間話でもするような感じで、そう呟いた。
言いながら――――私は、ビルの屋上から、飛び降りた。
『え…………?』
死んで初めて、特別なものとして昇華する。
作家もそうだ、作品もそうだ。
なら、私だってそうかも知れない。
死んで初めて、他人の役に立ってみよう。
生まれるべきでなかった世界のバグは、今ここで消えよう。
私の死によって、これから失われるであろう万の命を救おうじゃないか。
誰も悲しまない、混沌とした闇の底へと堕ちていこう。
『李ちゃ――――!』
叫ぶ声。
伸ばされる手。
だけど、その手は私の元まで届かない。届いたところで、果てしなく無意味なのだけど。
加速しながら、身体が堕ちていく感覚。
耳を劈いていく風の音。
死が目前まで迫ってきているという、ある種の充足感。
これで、
これで、私は、
死ぬことで、私は、殺人をやめられる。
人を殺さないで、済むようになる。
だとしたら――――
「こうやって、死んでみるのも、悪くない――――」