第1章 Train と Rain
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ガタンゴトン、ガタンゴトン――――
「……………………」
満員電車。
人を否応なしに密着させ、不快な体温の行き来を強要してくる場所。
本来なら、私はこんな場所にいるべきではない――――いや、はっきり言っていてはいけない生物種である筈なのに、その理に反して、この身を有象無象の見知らぬ人間共の間に埋没させていた。
内心でバカにしながら。
目付きで威嚇しながら。
本心で何度も謝罪しながら。
――ごめんなさい。
――申し訳ありません。
いくら呟いても、誰にも届かない、無意味な自己満足を、いつまでもいつまでも、続けていた。
『え~っとぉ? 今日は、うん、なんでしたっけ?』
「……………………」
発言が二重鉤括弧で囲まれているが、この声は電話のそれとは違う。そもそも、電車の中では携帯電話の通話が禁じられている。優先席付近では電源を切ることすら推奨されているのだ。そんな中で、通話などしない。
大人の常識。
大人じゃなくても、常識は常識。
まあ、それはともかくとして。
『ちょっとちょっとちょっとちょっとー? 聞いてますか聞いてるんですか聞いていらっしゃいますか李ちゃーん? シカトは寂しいですよー』
「……………………」
溜め息を吐くことすらできずに、私は肩を竦めた。それはそれで、黙ってくれ、という意思表示だったのだが、彼女はまったく気付いてはくれず、尚も矢鱈と高い位置から言葉を降らせてくる。
『まー無視するならこちらとしても考えがありますからねー。と言ったって、ただただわたしが漫然と独り言を呟き続けるだけなんですけどー。鼓膜がおかしくなるくらいに聞かせちゃいますよわたしの美麗ボイスを』
そう言って彼女は、宣言通りに益体のない独り言を囁き始めてしまった。ぺらぺらぺらぺらと、その口のよく動くこと。しかもこの独り言を聞かされているのが私一人だけだと思うと、確かに無性にイライラするシチュエーションである。可能なことなら彼女の口を比喩的と物理的の両方の意味で塞いでしまいたいのだが、しかしそのような願いは、私には生涯叶わないだろう。
ここが満員電車だから、ではない。その気になれば私だって、ここにいる云十人の人間を一斉に殺すことだって可能なのだから、障害などまるでない。
酷く気は進まないが、しかしそれでも、可能であることに違いはない。
問題なのは、だから彼女の方なのだ。
『んあ? あれれ、李ちゃん、豪い不機嫌な顰め面ですねー。わたしの独り言――――もとい、呪いの効果がようやく出てきましたか』
こんなものが呪いなのか。
だとすれば、随分とショボいものである。私は呪いというものを、もっと禍々しくておどろおどろしいものだと思っていたのだけど、案外そうではないらしい。
…………いや、彼女が口から出任せを言っている可能性もある、か。
『あー! 疑ってますね李ちゃん。その目はわたしの発言を疑っている目ですね李ちゃん! 酷いですねー、無二の親友の言葉を疑うだなんて!』
私とあなたはいつ親友になったんだ、このストーカー。
などと、間違っても声には出さなかったのだが、それさえも目線から読み取ったらしく、彼女は宙に逆さまで浮いたまま、やけに明るい声で言った。
『それにですよ、わたしはこれでも一応本職なんですから。専門分野で嘘は吐きません。呪いなんてのは、突き詰めてしまえば心理学に基づいた精神攻撃に過ぎませんしねー。餅は餅屋、庭は庭師に任せてくださいよ――』
『――呪いのことなら、幽霊のわたしに任せちゃってくださいよー』
「……………………」
幽霊。
彼女は、悲壮感などまったく感じさせない声色で、自分のことをそう評した。これは、卑下や謙遜の類いではない。巫山戯ているのでも、冗談でもない。
真実、彼女は幽霊なのだ。
「…………」
『……あれ? なんかわたし、憐れまれてます? 可哀想、とか思われちゃってます?』
「…………」小さく首を振って、否定を示す私。
それを見て、彼女――――幽霊・小火辻霧罪は、再び嬉しそうに微笑んだ。
『ふへー、よかったよかった。正直、そういう可哀想って視線は苦手なんですよー。わたし自身、あんまり自分が可哀想って思っていないですからねー。他人からの勝手な同情って、なんて言うか、偽善めいて感じちゃって、正直気持ち悪いんですよねー』
気持ち悪いくらいに快活な幽霊に気持ち悪いなんて言われたら、その偽善を施した偽善者は大層衝撃を受けるだろう。彼女の姿は映らないだろうが、それでも敢えて言ってやる――――鏡を見てから言え。
顔は可愛いし性格も明るいのに、肝心要の存在そのものが全てを台無しにしている。
なんなんだ、この新機軸ガッカリ系キャラ。
とかなんとか、無駄な思考をしている内に、電車はようやく目的地に近付いてきた旨のアナウンスを流し、スピードを少しだけ緩めた。
『次は、池梟です。ご乗車ありがとうございました――――どうです? 似てました?』
全っ然。
私は霧罪の無邪気な顔にNoの返事を叩きつけて、先に開くであろうドアの方に視線を傾ける。見慣れたクリーム色のホームには、朝8時という時間に相応しく、吐き気がするくらいの人間が犇めいていた。
……………………。
失敗、したかも知れない。
『ほらほら李ちゃん、ドアが開きましたよー? 早く出ちゃいましょ、んでもって目的地に急ぎましょー』
はいはい。
数回頷いてから、私は人波の流れに身を任せ、ドアからホームへと降り立った。なるべく人に触れないように、ステップを利かせながら、ホームの逆側の端を歩く。
東部東城線、池梟駅。1番ホーム。
私と霧罪が歩き始めたのは、改札まで大分距離のある、電車の最後尾に位置するところだった。
……ここから、車輌10個分も歩くのか。
…………重ねて、失敗したようだ。
『ギリギリの駆け込み乗車って、ギャンブルですよねー』
「…………そうね」
スカートのポケットから携帯電話を取り出して、耳に当てる。これならば、幽霊の霧罪と話していても不自然はない。
『うおっ! 李ちゃんが実に20分振りにわたしと言葉を交わしてくれました! …………あー、この前買ったラノベに書いてありましたね、その方法。幽霊との怪しまれない会話をする10の方法』
「そんな無駄なものを10個も知らないわよ。さぁ、さっさと行きましょう。こんなところでまごついていたら、いつどこで間違いが起こるか、分かったものじゃないわ」
『あっははー。それもそうですねー』
ふわふわと浮いているのをいいことに、霧罪は身につけた真っ白な死装束をはためかしながら、中空で銃弾のようにくるくると回っていた。
まったく…………こちらは地べたを、自分の足で歩かなければならないのだから、少しは察してもらいたい。
できることなら、移動ツールを交換して欲しかった。
――――と。
「 」
なにも言わない。
私も、そして相手も、なにも言わない。
それくらいに、ありふれたこと。
だけど、決してあり得てはいけないこと。
見も知らぬスーツ姿の男性と、私の肩とが、軽く、ぶつかってしまった。
「……………………」
男はなにも言わない。
無言のまま、まだ電車の来ていない、隣の2番ホームへと向かっていく。
うるさく鳴り響くアナウンス。
微かに聞こえてくる、車輪の回る音。
迫り来る電車は、もう視認できる位置にあって。
それを男も認めたのだろう。
不意に――――彼は、線路に、飛び降りた。
「……………………」
いくら池梟が東部東城線の終着駅だからといっても、電車というものは、スピードを緩めた時点でも凶悪なくらいの破壊力を持っている訳で。
それは、人1人を肉塊に変えるには、あまりにも充分過ぎた。
ドガッ、バリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリバリッッ!!
無数の車輪が、ほんの1秒前まで人間だったものを、繰り返し繰り返し何度も何度も、踏み潰していく。真っ赤な血が冗談みたいに飛び散って、あっという間に地獄絵図が完成した。
あちらこちらで、悲鳴が聞こえる。霧罪も私の頭上で、気分を悪くしたように口元を押さえていた。吐き出すべき内容物などなにもない癖に、蒼褪めた顔で男が飛び込んだ一点を凝視している。
そんな阿鼻叫喚の中で、私は呟く。
誰にも聞こえないように、聞かれないように。
私自身にさえ、聞こえないように。
「はぁ…………また、か」
また私が、殺してしまったのか。
胸がずきりと痛んだ。
今まで繰り返してきたあの謝罪の言葉が、まとめて全て吹き飛んだ。
何度も味わってきた、無力感。
止められない、私の殺人体質。
「…………行くわよ、霧罪」
『え、えぇ…………そう、ですね……』
引き攣った表情で頷く霧罪。
携帯電話を耳に当てたまま、私と霧罪は、一番前にある改札に向かって、歩き始めていった。
…………あぁ、自己紹介を忘れていた。
私は無々篠李――――世界で最も迷惑で、性質が悪くて、死んだ方がいいような、殺人鬼だ。