午前零時の鐘
午前零時の鐘
休日の駅前
暑苦しかった夏も過ぎ、いくらか涼しさを感じるようになったこの日。俺は待ち合わせの場所で当然だが人を待っている。
片手にはめている腕時計を見る。待ち合わせの時間は十分前にすでに過ぎていた。だが、特に何を思うわけでもない。こういうことは日常茶飯事だ。
さらに十分ぐらい待っただろうか、ようやく俺の待ち人、もとい彼女は姿を現した。
「はあ、はあ・・・ご、ごめんね・・・龍河君・・・」
よほど急いできたのだろう。彼女、縫月穂波は肩で息をしながら謝っている。ちなみに、これもいつもの光景だ。
「いや、いい加減もう慣れたよ。で、今日は何で遅れたんだ?」
これまたいつものように俺は聞いた。たしか、前回は寝癖直しに時間がかかったから、だった。
以前穂波に聞いたところ、本人曰く寝癖が相当酷いものらしい。それで、毎日のように悪戦苦闘しているとのことだ。悪いときには直しきれずに来ることもあるからそうとうなものなのだろう。
そうと分かれば早起きすれば良いだろう、と以前言ってみたが、極度に朝が弱いらしく、毎日苦労しているという。それを聞いた俺は、この件でこれ以上もの言うのを諦めることにしていた。
「また寝癖直しか?」
彼女の頭に目を向けながらそう聞く。見たところ、今日は綺麗に直してきている。
「ううん、昨日の夜に目覚まし時計5つセットして早起きしたからそれは大丈夫だったんだけど・・・」
「へえ、それはよく頑張ったな」
俺は感心しながら彼女の頭を撫でる。しかし、あの穂波が早起きをするとは・・・驚きだ。
「えへへ・・・、龍河君にはいつも待たせちゃってるから、このままじゃいけないって思って」
穂波は気持ち良さそうに目を細めながらそう言う。
「ん?早起きしたんなら、何で今日は遅刻したんだ?」
俺が再び聞くと、穂波は恥ずかしそうに顔を赤くした。
「それはね・・・寝癖を直し終わったら少し時間が余っちゃって、そしたら今度は何を着ていこうかなって悩んじゃって・・・」
どうやら世の中は上手くできないように創られているらしい。
「なるほど・・・それでプラスマイナスゼロってわけか」
いや・・・むしろマイナスかもな。
「本当にごめんなさい」
もう一度頭を下げる穂波。俺はゆっくりと彼女の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でてやる。
「今日は早起きしたんだろ?それなら、その努力に免じて、遅刻はチャラだ」
「う、うん、ありがとう。ごめんね。いつもいつも・・・」
「もう謝らなくても良いって、ほら、早く行かないと電車が出ちまう」
俺はそう言って、彼女の手を引くと強引気味に歩き出す。穂波は「わわっ」と、驚いてはいたが、仕方ない。こうでもしないと彼女はいつまでも俺に謝り続けるだろう。
いつもこうやって二人で出かける時、いつもは市内をぶらつくだけなのだが、今日は電車を使って隣町の水族館へ行く予定になっている。
俺、龍河楓が穂波と今のような関係になって一年と少し、始めはぎこちなさが目立ったが、最近になってこの平凡な、でも微笑ましさを感じるこの関係に、居心地の良さを感じていた。
それと同時に、実感したものは、人の慣れの恐さ。
穂波の遅刻っぷりには、当初から驚かされたが、そう言った日々が続くと、耐性と言うか、それを踏まえて行動するようになる。
市内をぶらつくだけなら、さほどこれは問題にならない。だが、遠出する時など、電車を使用するときは、無意識の内に時刻をあらかじめ2〜3個確認して置くようになった。
電車に揺らされること数十分と、数分の徒歩で、目的地の水族館に着いた。
正直、水族館に来たのは小学生の時以来だ。
「わー、すごいよ。龍河君」
トンネル状の水槽で、穂波が一面に広がる魚達を見て嬉しそうにはしゃいでいる。俺は、魚を見るよりかは、そんな穂波の表情を見て楽しんだ。
だが、楽しい時間は早く過ぎるもので、ふと気付けば、日は傾きかけていた。
「イルカさん達、すごかったねー」
さっきまで見ていたイルカショーを思い起こしているようで、目を輝かせていた。
「ああ、あれは凄かった」
俺自身も、久しぶりに見た生のイルカショーに少なからず心動かされた者の一人なので、穂波の言葉には激しく同意だった。
それにしても、この季節になると、日が短くなったことを実感させられる。
水族館を出て、帰りの電車を降りたときには、すでに夜になっていた。
駅を出ると、二人の足は自然とある場所へと向けられる。
その場所は市内にある、小さな公園。古い感じのするブランコと、小さな砂場だけがある。小さな公園だ。
穂波と一緒に出かけるとき、最後に必ずここに来るようになった。
俺達が中に入った瞬間に、鐘の音が静かな公園内に響いてきた。
歴史を感じさせ、澄み切った鐘の音。これが、俺達が公園に足を運ぶ理由だ。
穂波はこの鐘の音が好きで、俺がこの公園に来るようになったのも、彼女にこの場所を紹介されてからだ。
この音色は、駅の近くにある時計台にある鐘から流れている。
この時間では駅周辺はまだまだ人は多い。それと対照的にこの公園には誰もおらず、静かに鐘の音に耳を傾けられる。
穂波は目を閉じて、その鐘の音を堪能している。その音の余韻が完全に聞こえなくなるまで
鐘の音が聞こえなくなると、穂波はゆっくりと目を開け、俺に向かって満面の笑みを向けてくれる。
穂波と付き合いだして、一年と少し。最初はぎこちなかったその関係も、今はとても居心地の良い居場所となっている。
俺はゆっくりと彼女に近づくと、そっと抱きしめた。
「え・・・」
突然で驚いたのだろう。力が入っていたが、すぐに俺に委ねるように体重を寄せる。
「・・・好きだ」
なぜだか分からないが、突然そう言いたくなった。
「・・・うん、私もだよ」
この後は、お互い何も話さず、ただこうしていた。それで充分だった。
この時の俺、いや俺達はとても充実していた。
校内、登下校、そして休日・・・毎日がとても満ち足りたものだった。
「自分は今幸せか?」
もしこの時そう聞かれていたなら、俺は間違いなく「そうだ」と答えていただろう。
それくらい、あの時の俺達は充実していた。
毎日が楽しかった――
毎日が幸せだった――
この日々が、永遠に続くとさえ、この時は平然と思うことができた。
あの時・・・あの日までは・・・
「・・・っ!!」
シャツが汗で体に張り付いていることに気付くのに、少し時間を要した。呼吸も乱れていた。
自室のベッドの上、勢いよく跳ね起きたのか、掛けていた毛布は乱れている。
――夢、か・・・
悪い夢だ。忌々しい過去の夢だった。
ふと自分の頬が濡れていることに気付く。どうやら泣いていたらしい。
ゆっくりとベッドから降りると、洗面所に行き、顔を洗う。
水道水とはいえ12月の水は冷たかったが、今の俺にはこの位が丁度よく思え、いくらか落ち着いた。
落ち着いたことで、何であんな夢を見たのかいくらか考えられた。どうやら前日から過敏になりすぎていたらしい。1年前もそうだった。その時は今よりもっと酷いものだったが。
――今年も来たか・・・
カーテンを開くと、まだ夜は明けておらず、それがまた俺を過去に引き込もうとして、とっさにカーテンを閉めた。
締めた瞬間、タイミングよく何処からか鐘の音が聞こえてきた。俺が以前好きだった鐘の音色、今はできれば聞きたくない音色。
そして、彼女が好きだった音色・・・。
今日は12月24日、縫月穂波の命日だ。
結局、あれから一睡もできず、午前中の講義もまったく身に入らなかった。
今日は午後からの講義はサボることにしている。毎年1回、必ず通っている場所へ行かなくてはいけないからだ。
途中にある花屋でリシアンサスの花束を買う。
目的の場所は、小さな墓地だ。墓の間を歩いていくと、一つの――穂波の墓の前に見覚えのある姿を見つけ、思わず立ち止まる。
しばらく墓石の前で手を合わせていた彼女は、立ち上がると、突っ立っていた俺の存在に気付いた。
「よお、偶然だな」
自分では努めて明るく言ったつもりだ。
「うん、でも・・・楓ももうすぐ来るかなって思ってた」
「・・・そうか」
俺はそう言いながら、墓石の前まで来ると、持ってきた花を供えて、手をあわせ、ゆっくりと目を閉じる。
本当ならば、隣にいる彼女と一緒に来るべきなのかもしれない。
彼女は霜岼美鈴。同級生で子供の時からの腐れ縁・・・
彼女は、穂波の親友同士だった。
そして今、俺の隣には彼女がいる。
彼女がいなければ、俺は駄目になっていただろう。悲しみと後悔の念に押し潰されようとしていた俺を、ここまで立ち直らせてくれたのも彼女のおかげだった。
忘れたい。だが、忘れもしない2年前の今日。
この日は、今年と違って早く雪が降り始め、地面にはうっすらと白い結晶が積もっていた。
放課後、俺達はいつもと同じように並んで下校の桜並木を歩いていた。
「最近、本当に冷えてきたよね」
隣を歩く穂波が、寒そうに身を縮ませながら言った。
「まあ、今年は特に寒くなるって言ってるくらいだからな。雪も積もってるし。」
「うー・・・ホワイトクリスマスになりそうなのは良いことだけど・・・」
冷たい風が吹くたびに身を縮める穂波を見ていると、何だかこっちまで寒くなりそうな気がした。
――本当に寒いの苦手なんだな・・・
「よし!」
「ど、どうしたの?急に・・・」
「何か暖かいものでも買ってくる。穂波は少し休んでなよ」
「え?あ、うん。ありがとう」
穂波は何も言わずに頷いた。そんな彼女を見て、俺は半ば駆け足で、近くにある、自販機へ向かった。
だが、近くにある自販機を見て、肩を落とした。
「売り切れかよ・・・」
自販機にある温かい飲み物には全て「売切れ」の文字が点灯していた。
――ついてないな・・・
そう思いながら、俺は少し距離はあるが、この付近にもう一つ自販機があったことを思い出した。
俺は少し考えた後、軽い気持ちでその自販機に行くことにした。
この何気ない選択に、重い後悔を抱くことになるとは、今の俺には想像もつかなかっただろう。
その自販機で適当なものを2缶買い、穂波のところに戻ろうとしたとき、桜並木が騒がしくなっていることに気付いた。
微かではあるが、人の叫び声や怒号めいたものが聞こえる。
――何だ?
それを聞いたとき、俺はとてつもない不安に駆られた。すぐに彼女の元に戻らなければ、ととっさに思い、足を速めた。
――・・・穂波!
彼女を待たせている場所に近づくにつれ、人の声は多くなった。
まだ断片的ではあるが「救急車」やら「警察」といった単語が時折聞こえてきて、俺は何かがあったことを確信した。
速く彼女の顔が見たくて、自然と全力で走っていた。
だが、全て遅かった。
時間にして数分。これだけの短い時間の間に、桜並木の光景はさまがわりしていた。
所々に、人が2〜3人倒れていて、うっすら積もった雪は、その色を白から赤に変わっている所もあった。
周りには少なからず人だかりができ、騒然としていた。
俺はすぐに穂波の姿を探した。
頼むから姿を見せて欲しい――そう思いながら、人の群れを強引に掻き分けていった。
だが――
俺が見つけたものは、俺が望んでいたものとは正反対の光景だった・
「楓?」
美鈴の呼びかけに、うっすらと目を開ける。
「大丈夫?・・・すごい顔色悪いけど・・・」
死蔵の鼓動が早くなるのが分かる。もう冬だと言うのに額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「うん、大丈夫だ」
その汗を拭いながら改めて彼女の墓石を見る。
毎年この場所に来て、あの時の事を思い出して、あの時の自分の罪を改めて胸に刻み込む。
俺は勝手に、そうする事が彼女への償いだと思っていた。
偽善、自己満足・・・そう言われればそれまでだが、俺にはそんな事しかもうできない。
「お前はこれからどうするんだ?」
「うん、これから校舎に戻ろうと思うけど、楓は?」
「真面目な奴だな。俺はもう家に帰るよ」
とてもじゃないが、今講義に出たところで頭に入らないだろう。行っても行かなくても同じだ。
「楓が不真面目すぎるのよ。今日の・・・覚えてる?」
「ああ、終わったら連絡くれ」
彼女は頷くと「遅れるから」と先に墓地を出た。
――本当に真面目な奴だな
そう思いながら、もう一度彼女の墓に目を向ける。
――また来年来るからな
そう自分にも言い聞かせるようにと心の中で告げると、背を向け、そこを離れた。
「楓!」
病院の廊下に響く声。
「美鈴・・・」
彼女に顔を向けたとき、美鈴が驚いたのが分かった。おそらく酷い顔をしていたのだろう。泣き腫らして赤くなった目。顔色も青白く、生気を失っているようだっただろう。
「穂波は・・・、大丈夫なの?」
そんな彼女の問いに、俺はどう答えて良いか分からなかった。
昼下がりの桜並木で突如起こった無差別殺傷事件。
その凶刃に倒れた穂波が救急車で運ばれる時にはすでに息をしていなくて、心臓の鼓動も、弱弱しいものだった。
すぐに手術が行われたが、容態は深刻で、今は集中治療室で治療を受けている。
「美鈴・・・すまない」
うな垂れたまま、俺はそう口にした。
「楓が、謝ることじゃないよ・・・」
「俺が・・・いけなかったんだ・・・あの時離れてなければ・・・すぐに帰ってきて、ずっと傍にいていれば、穂波は・・・」
泣き枯らしたと思っていた目から再び涙が溢れて、一筋、もう一筋と流れていく。
「く・・・うう・・・穂波は、俺が――」
「やめてよ・・・」
美鈴の悲痛な声に、俺は顔を上げた。
「そんなの・・・聞いたく、ない・・・」
彼女は、泣いていた。その頬には、涙が伝っていた。
「美、鈴・・・俺、は・・・く・・・」
再び涙が止まらなくなった。美鈴はそんな俺の隣に座って、黙っていてくれていた。
「あ・・・」
しばらくして、近づく足音と、美鈴が立ち上がるのが分かった。
「おじさん、おばさん・・・」
「美鈴ちゃん。来てくれてありがとう。きっと穂波も喜んでいるよ」
来たのは穂波の両親だった。おばさんのすすり泣く声が聞こえて、俺は胸を締められる思いがした。
「穂波の容態は・・・どうなんですか?」
美鈴がおそるおそる尋ねる。おじさんの表情は沈んだままだった。
「まだ分からない・・・医者は、今夜が峠だろう、と言っていた」
「そう、ですか・・・」
そんな二人の会話を、俺は駄目って聞いていることしかできなかった。
「穂波の近くにいてあげてくれませんか?」
「・・・はい」
「もちろん、楓君もだ」
おじさんの誘いに、俺はすぐ返事をすることができなかった。
「穂波も、それを望んでいるよ」
その言葉で、俺はやっと腰を上げることができた。
集中治療室にいる穂波の表情は、周りにある医療器具を覗けば、まるで静かに眠っているかのようだった。時間が立てば何もなかったかのように目覚めてくれる。そんな感じさへ抱くことができた
しかし・・・現実はそれを許さなかった。
12月25日の午前0時――
穂波は一度も目を開けぬままこの世を去った。彼女が息を引き取ると同時に、零時の定刻を知らせる、あの時計台の鐘が鳴った。
その鐘の音は、深い悲しみを帯びているような、そんな風に、その時の俺には聞こえた。
穂波の両親は、最後まで俺を責めはしなかった。だが、それが逆に俺に重くのしかかった。
それからの約半年間は、灰色の日々だった。
――穂波ハオマエガコロシタンダ・・・
そんな言葉が何度脳裏を掠めたか分からない。
以前の俺はそこにはなく、まるで動く人形のようだった。その変化の酷さにクラスメートたちは次第に離れ、孤立していった。その時の俺はそれを望んでいた。
自分が生きている意味が分からなくなったのだと思う。
――穂波を死なせてしまったも同然の俺が何で今もこうして生きているのか?
後に無差別殺人の犯人はすぐに逮捕されたが・・・俺はそいつを深く憎んだ。昔、そして今に至るまで、仇討ちをしたい人の気持ちがこれほどよく分かった時はなかった。だが、その犯人以上に自分を憎んだ。罵った。あんな奴から、俺は彼女を守ってやることはできなかったんだ。
そう思うと、俺はますます生きる意味を失っていった
そんな状態がしばらく続く中、以前と同じように俺に接しようとしてくれた友人がいた。
――それが美鈴だった。
穂波がこの世を去って、半年といくらか経っただろうか。
屋上
俺は学校でここにいることが多くなった。ここは本来立ち入り禁止なのだが、俺は古びた鍵を壊して入った。
だから、ここは誰も来ることはない。だから俺はここにいた。
この日も屋上でただボーっとしていたが、変化があった。
「わー、何処にもいないからまさかとは思ったけど、本当にここにいるなんてね」
驚いているような、呆れているような・・・そんな口調で彼女は言った。
「お前か・・・ここ、立ち入り禁止だぞ?」
「ふーん、じゃあ誰も来ないよね?だったら丁度よかったわ。楓に話したいことがあるから」
俺は何も言わなかった。話すことすらもう、疲れた。
「いつまでそうやってるつもり?」
その言葉にさっきまでのちゃらけた感じはなかった。
「今の楓、とても見てられない。それは・・・穂波も同じだと思う」
「・・・」
「今の楓は楓じゃない・・・元の明るい楓に戻ってよ・・・」
「・・・明るい?・・・そんな事できるかよ」
俺はゆっくりと体を美鈴に向け、初めて彼女の顔を見た。
「俺は・・・穂波を殺したも当然なんだぞ?」
俺がそう言うと美鈴は首を横に振った。
「あれは・・・運がなかったんだよ。楓は悪くない、だから――」
「運がなかった?そんな事で済まされるかよ・・・」
それを境に、俺は何か止め具が外れたみたいに次々と言葉が溢れた。
「俺が穂波の傍から離れてたばっかりに・・・俺があの時ずっと一緒にいてやれば、少なくとも穂波が死ぬことはなかったんだ!俺のせいで・・・!俺
のせいで穂波は!」
「楓・・・」
「穂波は寒い中一人で苦しんでたんだ!それなのに・・・俺だけ明るくなんか出来るかよ!俺なんか・・・俺なんかいっそ――」
そこまでで俺の言葉は乾いた音と共に遮られた。
左頬が熱い。それが美鈴に叩かれた事によるものだと気付くのに少しの間が必要だった。
「いい加減にしてよ・・・!」
ゆっくりと視線を美鈴に戻す。彼女は、泣いていた。
「あんたがそんなで、穂波が喜ぶの?誰が喜ぶのよ!」
「・・・」
「今の楓を見たら、穂波は悲しむよ・・・絶対に」
涙を流しながら、必死に俺に訴えかける彼女の姿を見て、俺は、自分が間違っているのか?と感じた。
「楓の気持ちは痛いほど分かるよ?ううん、私が思ってるよりも、もっと苦しんでるのかもしれない。でも・・・今のままじゃ・・・楓駄目になっちゃうよ」
「・・・美鈴」
「頑張って生きよう?穂波の分まで・・・」
美鈴の言葉を全て聞いたとき、俺が今まで張り詰めていた気が一気に緩んだ。
「俺は・・・俺は・・・」
思わず地面に膝をつく。俺は間違っていることに気付いた。
今の自分は自分の自己満足の為に落ち込んでいたのだと。
そして、このままじゃいけないとも思った。
それは、何より穂波の為にも――
だが、そうそう気分が変わるわけもなく、俺はその気持ちを紛らわす為に、大学進学を目指し、ただ黙々と受験勉強に打ち込んだ。
半ばヤケになっているような俺に、美鈴はよく手助けをしてくれた。
今まで無駄に過ごしてきた半年分を取り戻す為に、ただひたすら・・・
そして今、俺は大学試験に合格し、今に至る。
俺はただ、穂波の分まで、穂波の為に生きるべく、受験に打ち込んできた。
だが、その気が揺らぎ始めていることに、俺は気付いていた。
――俺は・・・
そんな時、携帯が鳴っているのに気付く。手にとってディスプレイを見ると、美鈴からだ
「もしもし」
『今終わったところだけど・・・今からで大丈夫?』
今、美鈴とは一言で言えば中途半端な関係にある。
恋人関係・・・と言うわけではない。だが、俺は美鈴が俺に抱いている想いに少なからず気付いてはいた。
そして、俺自身もあの事件の後からずっと俺の傍にいてくれた彼女に、惹
かれている自分に気付き始めていた。
「ああ、大丈夫だ。ああ、うん、分かった」
だが・・・
待ち合わせの場所に行くと、すでに来ていた美鈴は俺の姿を見つけて手を振っている。
今晩、俺と美鈴は一緒に夕食をとることにしていた。
市内のレストランで食事をしながら交わされる会話は、ありきたりなものだった。
それでも美鈴は終始明るい表情を俺に見せてくれていたが、俺はその表情を見るたびに申し訳ない気持ちになる。
彼女の気持ちに気付いていても、俺はそれから逃げていた。
それは、俺の中にまだ穂波を想う気持ちが残っているから、自分だけ幸せになっていくのが、彼女に対して申し訳ないと感じているからかもしれない。
そして、大した会話をするわけもなく、食事は終わり、俺達は店を出た。
「ごちそうさま。ごめんね。奢ってもらっちゃって」
「いいって。じゃあ、また明日な」
軽く手を振りながらその場から立ち去ろうとする。
「あ、楓」
そんな俺を美鈴が呼び止めた。
「ん?何だ?」
俺が振り返ると、美鈴は言いにくそうに何かを言おうとしていたが
「えっと・・・ううん、何でもない。ごめんね」
そう言って弱々しい笑みを浮かべた。
「・・・じゃあ」
――まただ
また俺は、彼女の気持ちから逃げた。
家に帰ると、俺は台所で水をいっぱい飲み干すと、そのままベッドの上に座り込んだ。
――このままじゃいけない
そう思う気持ちは大きい。だがそれ以上に、俺の中にある穂波への思いは根強く残っていた。
どうにも決心が固まらないまま、どれくらい経っただろうか?
この長い時間の間に、俺はある答えへと行き着いた。
――あの場所で、決めよう
俺と穂波の一番の思い出の場所である、あの場所で・・・
夜だからだろうか、外は予想以上に冷えていて、思わず身を縮めた。
その場所へ向かうまでの道のりで、俺は穂波と過ごした日々の事を頭に描きながら歩いた。
そして、ブランコと小さな砂場のあるだけの小さな公園に辿り着いた。
公園に入った瞬間に、二人で静かに時計台の鐘の音に耳をかたむけていた時のことが思い起こした。
目を閉じて、ただ静かに、鐘の音を楽しんでいた穂波の姿。
鐘を聞き終わった後、彼女と想いを確かめ合った時のこと。
その思い出を一つ一つ思い起こしながら、彼女が、穂波が俺にとって何物にも換え難い存在であったことを改めて痛感した。
――穂波・・・俺は・・・
『龍河君・・・』
――・・・!
俺はハッとなって辺りを見回した。今確かに、もう聞くことはないと思っていたあの声が聞こえてきた。
「穂波・・・?」
『龍河君・・・』
もう一度穂波の声が聞こえてきて、俺は公園の入り口を見た
「穂波・・・なのか?」
そこには、全身を青白い光に包まれた。しかし、それ以外はあの時と変わらない。
忘れもしない、彼女の姿があった。
『久しぶりだね・・・』
「穂波・・・ごめん、ごめんな・・・」
俺の口から出た最初の言葉は、彼女への謝罪の言葉だった。
俺は2年前から今まで、ずっと彼女に謝りたいと思っていた。
『謝らないで・・・私は龍河君のこと、悪いだなんて思ってないから・・・』
穂波は静かに首を振ると、続けた。
『それに、謝らないといけないのは、私の方だよ』
「え・・・?」
『私が急にいなくなったせいで、龍河君を苦しめちゃって・・・本当にごめんね』
「穂波・・・」
『でもね・・・もう終わりにしなきゃ』
彼女は微笑みながらそう言った。
『私はもう死んじゃったから、龍河君を幸せにすることはできない。でも・・・美鈴なら龍河君を幸せにしてくれると思うよ?』
彼女のその言葉を聞いたとき、穂波は全てを知っているのだと確信した。
「でも・・・俺は」
『駄目・・・このままじゃ、美鈴も龍河君も不幸になっちゃうよ・・・』
俺は何も言い返すことが出来ない。
『美鈴は、私と同じくらい・・・ううん、私以上に龍河君のことを想ってるよ。それは、龍河君も気づいてるんじゃないかな?』
「・・・!」
『だから・・・美鈴のことをもっとちゃんと見てあげて、それが・・・私の、最後のお願い・・・』
穂波の体が徐々に薄れていくのが分かった。
「穂波!」
俺は彼女に近づこうと歩を進める。
『さようなら、龍河君。私、もう行かなくちゃ・・・』
だけど、彼女の思い、なぜ彼女が現れたのかに気付き、足を止めた。
『短い間だったけど・・・龍河君と一緒にいれて、私、幸せだったよ?ありがとう・・・』
「俺も!君と一緒にいたこと、俺は絶対に忘れない!」
そう俺が叫ぶと、彼女は小さく微笑み――そして、消えた。
彼女が消えたと同時に、あの鐘が鳴った。午前零時を告げる、新しい日が来たことを告げる。あの鐘の音が流れた。
俺は、自分が助けられっぱなしなことを改めて思った。
受験の時、美鈴は自分のことで手一杯のはずなのに、それでも俺のことを気に掛けてくれていた。
そして合格発表で共に合格したときは、自分の事よりも俺が合格したことを喜んでくれた。
そして今、穂波にも背中を押された。
穂波自身が俺の彼女への思いに区切りを付けさせてくれた。
――俺は・・・
そして、今、俺の一番大切な人が誰なのか、気付かせてくれた。
「ありがとう・・・穂波」
俺は空を仰いでそう呟くと、何か白いものが舞っているのに気付いた。
――雪だ
舞い散る雪の中で、俺は決心を胸に携帯を取り出すと、美鈴の番号を呼び出し、掛けた。
もう夜も遅かったが、俺は絶対に出てくれると、根拠のない自信を抱いていた。
そして数回のコールの後、彼女は電話に出た。
「楓?どうしたの、こんな遅くに・・・」
――今、伝えよう・・・
「美鈴、今から会えないか?」
――俺の口から・・・
「今から?」
――俺の今のこの想いを・・・
「ああ、大切な話があるんだ」
――伝えよう。大切な彼女に・・・
Fin
読んでくださった皆様、ありがとうございます。
言い訳気味に言うとこれは自身初の短編でありまして・・・
説明不足であったり、微妙な点がいくつかあると思います。お気付きの方などはどんどん批評してやってください。




