月夜
漆黒の空に、少し頭の欠けた月が浮かぶ夜。
月子は、換気のために開けた僅かな窓の隙間から、自分の名前と同じ月をカーペットの上で仰向けになりながら眺めていた。
ぽにゃっとしたお腹を撫でる。
標準体型ギリギリを象徴する、この下っ腹が憎い。
親指と人差し指でつまむと、なかなかの厚みがある。
「今日も変な人来たな〜。」
自分以外には誰もいない空間で、ぼそりと呟く。
ただ空虚につけられたテレビに視線を移しながら、月子は昨年新卒で入社した大手スーパーの職場を思い出していた。
「だから、言ってるでしょ。別に使って無いんだからいいじゃ無い。」
けたたましく騒ぐ女性は60代だろうか。
白髪染めで染めきれていない白髪が所々残っている。
私は緑色の制服のエプロンの前で軽く手を握りながら、女性の話が終わるまで待っていた。
入社一年過ぎたとは言え、まだまだ請け負えきれないものがある。
周りのパートさんも心配しながら私を見ているけれど、誰も助け舟は出さない。クレーム対応は社員の仕事だと暗黙の了解があるからだ。
「あんたじゃ話にならないわ。」
「ですが…返金は致しかねます。一回履いたものは返品を承れません。」
「だから!何度言わせるのよ。太腿から上がらなかったからすぐ脱いだの。下着もちゃんと履いた上で履けるか試しただけだから。」
レジカウンターの上には、ベージュで足とお腹周りに花柄のレースをあしらったショーツガードルが置かれている。
そのレジカウンターに向き合う形で、女性客と対面していた。
「もう一度売り場に出せない状態のものは、返品できません。衛生上、履かれたものは店も捨てるしかなくなるので。」
「あんたじゃ話になん無いわ。店長呼んで。」
女性客が言い捨てたその時、ハッと顔色が変わったのが分かった。
軽く振り返ると、そこにはお世辞では無く、切長の目が美しい、同期で男性社員の九條が立っていた。
入社した時から、その絶世の美男子ぶりが有名で、新卒オリエンテーションの休憩時間に、同期の女性が彼の名前を検索しながら色めき立っていたのは記憶に新しい。
そんな彼、九條 由起が、にっこりと微笑んでこちらを見ていた。
「お客様、大変申し訳ございませんが、ガードルは衛生的な観念から、足を通されたものは返品致しかねます。」と言い、深々と頭を下げた。
耳の上で切り揃えられた黒いストレートの髪が、サラッと彼の頬を撫でる。
目の前の女性客は、完全に圧倒されて無言になってから、視線を私に向けた。
「そ、そうなのね。はっきり言ってくれなきゃ分からないじゃない。嫌だわ」
そういうと、履いて不格好に歪んだショーツガードルを取ると、そそくさと帰っていった。
振り返ると、毎度のことながら、九條の圧倒的な美が持つ後光パワーに嘆息して、拝む様に手を合わせた。
九條は前髪を掻き上げながら、耳の上をぽりぽりと掻く仕草をすると、目の前で小さく親指を立てた。
「気にしないで。竹中さんは悪くないから。」
照れた様に話す九條を見て、私の顔もほころぶ。
九條は見た目に反して、女性との会話が苦手だ。
有り余る美貌を危惧した母親により中学、高校と男子校に通っていたので、女性と会話する時に少し緊張すると以前話していた。
「竹中さん、3番だよね? きりもいいし、今、一緒に行っておこうよ。」
3番は休憩の隠語だ。
私は少し躊躇ったが、お客様が少ない今の時間帯に行くのが正解に思えた。
「そうだね。今から行こっか。」
バックヤードに向かう私の足は、なぜだか少しだけ怠く感じた。




