記憶喪失のフリをした処刑人殿下は、二度目の人生では私を逃さない
「……本当に、私を殺すのですね。アルヴィン様」
冬の凍てつく空の下、断頭台の上に跪かされた私――リゼットは、目の前に立つ婚約者を見上げた。
かつて愛した人は、氷の彫刻のような無表情で私を見下ろしている。その瞳に、私を慈しむ光は微塵もない。
「国家反逆罪だ、リゼット。言い残すことはないな」
「私は、何もしていません。その証拠も……」
「黙れ」
冷たい声が、私の言葉を遮る。
隣には、偽りの証言で私を陥れた異母妹のメアリが、勝ち誇った笑みを浮かべて彼にしがみついていた。
「おいたわしい、アルヴィン様。こんな悪女に今まで騙されていたなんて」
「ああ……。だが、それも今日で終わりだ」
アルヴィン様の手がゆっくりと上がり、執行人に合図を送る。
その瞬間、彼がふっと口角を上げたのを私は見逃さなかった。それは、獲物を仕留めた獣のような、あまりに冷酷で、それでいてどこか「悦び」に満ちた歪な笑み。
(……ああ、この人は、最初から私を壊したかったのだわ)
重い刃が落ちる音。
視界が上下逆転し、私の意識は暗転した。
はずだった。
「……様。……リゼットお嬢様!」
耳元で、懐かしい声が響く。
重く閉じていた瞼を開けると、そこには数年前に亡くなったはずの侍女、エマの顔があった。
「エマ……? どうして。私、死んだはずじゃ」
「何を寝ぼけたことを。本日はアルヴィン王太子殿下との、婚約お披露目パーティーですよ!」
鏡を覗き込む。そこには、首を跳ねられたはずの、若々しく血色の良い自分。
カレンダーに目をやれば、処刑される三年前の今日。
私は、死に戻ったのだ。
「……もう、嫌」
震える声が漏れる。
あの冷酷な瞳、あの絶望的な笑い。二度とあんな思いはしたくない。
愛なんていらない。名誉もいらない。ただ、あの男から、死から逃げたい。
「エマ、悪いけれど体調が……。今日のパーティーは欠席……」
言いかけたその時、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「リゼット! 無事か!?」
現れたのは、息を切らしたアルヴィン様だった。
まだ十七歳の、前世よりも幼い姿。けれど、その瞳は見たこともないほど血走っている。
(殺される――!)
トラウマが蘇り、私はベッドの上で身を固くした。
けれど、彼は私に近づくと、床に膝をつき、祈るように私の手を握りしめたのだ。
「ああ……温かい。リゼット、君が、生きている……」
「……殿下?」
様子がおかしい。彼は私の手を、壊れ物を扱うように震える唇で押し戴いている。
その時、部屋にいた騎士が焦ったように私に囁いた。
「申し訳ありません、リゼット様。殿下はここへ向かう途中で馬車事故に遭われ、頭を強く打たれたのです。そのせいで……」
騎士は言いづらそうに、しかしはっきりと告げた。
「……ご自身の名前以外、すべての記憶を失っておられるのです」
「記憶……喪失?」
私は絶句した。
目の前で、前世であれほど冷酷だった男が、大粒の涙を流して私の膝に顔を埋めている。
「君が誰かは分からない……だが、君を失うことが、死ぬよりも恐ろしいことだけは魂が覚えているんだ。お願いだ、私の側から離れないでくれ……」
――これは、神様がくれた逃げ場?
それとも、地獄への新しい招待状?
私は震える手で、かつての仇の、金色の髪に触れた。
「……殿下、少し離れてくださいませ。暑苦しいですわ」
私は困惑を通り越し、もはや引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
◆
馬車事故から一週間。記憶を失ったというアルヴィン様は、公務以外のすべての時間を私の部屋で過ごしている。
それも、ただ居るだけではない。
「リゼット、このお菓子を食べてみてくれ。君が好きだと言っていたお店をすべて買い取って作らせたんだ」
「買い取った……!? 殿下、あそこは王都で一番の人気店ですよ?」
「君の口に入るものが、他人の手に触れるのが耐えられなかった。……さあ、あーん」
金色の髪を揺らし、蕩けるような笑顔でフォークを差し出してくる。
前世の、あの氷のような眼差しはどこへ行ったのか。今の彼は、まるで主人に褒められたくて仕方のない大型犬……いや、その執着心はもっと粘着質な何かだ。
(信じられない。あの『氷の処刑人』が、私の食べこぼしを指で拭って、あまつさえそれを舐めるなんて……!)
私は背筋に走る悪寒を隠し、作り笑いでフォークを拒んだ。
「お気持ちだけ……。それより殿下、記憶の方は? メアリのことは思い出されましたか?」
あえて、前世で私を陥れた異母妹の名前を出してみる。
すると、アルヴィン様の瞳から一瞬で温度が消えた。
「メアリ? ……ああ、あの不愉快な女のことか。君の義妹だというから一度面会したが、君を侮辱するような口を利いたので、即座に領地へ叩き返しておいたよ。二度と君の視界には入れない」
「えっ……」
あのメアリを、一瞬で排除した?
前世ではあんなに彼女を重用し、私の訴えを無視し続けた男が。
「リゼット。私には君しかいないんだ。記憶がなくても、この胸が君を求めて疼く。君を傷つけるものは、たとえ君の家族であっても私が許さない」
彼は私の腰を引き寄せ、耳元で熱い吐息を漏らす。
その執着は、甘い毒のように私の思考を麻痺させていく。
(……ダメよ。騙されちゃいけない)
私は知っている。彼がどれほど残酷になれる男かを。
今のこの溺愛は、記憶がないゆえの「バグ」に過ぎない。もし記憶が戻れば、私はまたあの断頭台に送られるのだ。
「……殿下。私、少し外の空気を吸ってまいりますわ」
「ああ、護衛をつけよう。私の目の届く範囲ならどこへ行ってもいい」
(「私の目の届く範囲なら」……。やっぱり、逃げなきゃ)
私は心の中で国外逃亡の計画を練り直した。
幸い、彼は私を喜ばせるためなら、莫大な宝石や金を惜しみなく与えてくれる。これを少しずつ換金して、隣国へ逃げる軍資金にすればいい。
しかし、私が部屋を出ようとしたその時。
背後でアルヴィン様が、誰にも聞こえないような低い声で呟いた。
「……逃がさないよ、リゼット。今度は、絶対に」
振り返った時、彼はまた元の「記憶を失った無垢な婚約者」の顔をして、私に手を振っていた。
その瞳の奥に、前世と同じ、あるいはそれ以上の深い「闇」が渦巻いていることにも気づかずに。
◆
アルヴィン様の溺愛は、日に日に「包囲網」へと姿を変えていった。
「リゼット、このドレスを着ておくれ。君の瞳の色に合わせた特注品だ。……ああ、やはり似合う。これを着ている間は、他の男に指一本触れさせたくない」
贈られる宝石、豪華なドレス、そして常に背後に控える十人の近衛騎士。
それは「守護」という名の「監視」だった。
私は、彼から贈られた高価な装飾品を少しずつ侍女のエマ(彼女だけは信頼できる)を通じて換金し、隣国へ抜けるための隠れ家を手配していた。
(あと三日。三日後の夜会で、騒ぎに乗じて姿を消す……)
心臓の鼓動が早まる。
そんな私の不安を見透かしたように、アルヴィン様が背後から私の首筋に顔を埋めた。
「……リゼット。どうしてそんなに怯えているんだい? 私はこんなに、君を愛しているのに」
「……いいえ、少し夜風が冷たかっただけですわ、アルヴィン様」
「そうか。なら、もっと暖めてあげよう」
彼の手が、私の喉元に触れる。
その指先が、前世で刃が触れた場所をなぞるように動いた気がして、私はひっそりと息を呑んだ。
その日の深夜。
私は、隣の寝室から聞こえてくる「うめき声」に目を覚ました。
アルヴィン様だ。悪夢にうなされているのだろうか。
様子を伺おうとドアを少し開けた瞬間、私は自分の耳を疑う言葉を耳にした。
「……逃がさない……。あんな、あんな血生臭い真似は……二度とさせないでくれ……」
その声は、昼間の無垢な彼とは似ても似つかない、苦渋に満ちた男の叫びだった。
「リゼット……私の首を跳ねれば、気が済んだのか……? だが、私は君を……あの地獄から救うには、あれしかなかったんだ……っ!」
ガタガタと歯の根が合わなくなる。
「首を跳ねる」「地獄から救う」――そんな言葉、今世の彼が知るはずがない。
(まさか、アルヴィン様も……『戻って』きているの!?)
記憶喪失のフリをして、私を監視している?
前世で私を殺した理由を、今さら「救うためだった」などと独り言ちて、また私を自分の支配下に置こうとしているのか。
怒りと恐怖が混ざり合い、私は部屋に引き返した。
もし彼が「前世」を覚えているのなら、この溺愛は謝罪などではない。
私という獲物を二度と失わないための、執着の結末だ。
「……見ていたのかい、リゼット?」
背後で、冷たい声がした。
振り返ると、そこには寝衣のまま、月光を背に負ったアルヴィン様が立っていた。
その瞳に「記憶喪失の青年」の光はない。
処刑場で見せた、あの傲岸不遜で、すべてを支配する王太子の眼差しがそこにあった。
「……起きていらしたのですね、殿下」
「ああ。君がいつ、私の寝室の扉を開けてくれるか……ずっと待っていたんだ。……さあ、リゼット。手配した『隠れ家』の鍵を捨てて、私の胸においで。君が逃げる場所なんて、この国のどこにもないんだから」
彼は優雅に微笑み、私に手を差し出した。
その手には、私がエマに託したはずの、逃亡資金用の宝石箱が握られていた。
「どうして……それを殿下が持っていらっしゃるのですか」
私の声は震えていた。彼の手にあるのは、私が自由を買い取るために必死に集めた宝石箱だ。
アルヴィン様はそれを無造作に放り出すと、一歩、また一歩と私を壁際まで追い詰めた。
「エマなら地下牢だよ。主を裏切り、国外逃亡を助けようとした罪でね」
「そんな……! 彼女は関係ありません、私が命じたことです!」
「分かっているさ。だから彼女の命までは取らない。……君が、大人しく私の隣に居てくれるならね」
彼は私の頬を、熱を帯びた指先でなぞる。その瞳にあるのは、もう「記憶喪失のフリ」すら投げ捨てた、剥き出しの独占欲だ。
「……思い出されたのですね。いいえ、最初から覚えていらしたのね」
「思い出さない日などなかったよ、リゼット。君の首筋から溢れた血の赤さを。冷たくなっていく君の身体を抱きしめた、あの夜の絶望を!」
アルヴィン様が激昂し、私の肩を掴んで揺さぶる。
「前世の君は、既に手遅れだったんだ! 義妹と隣国の間者が組んだ呪詛によって、君の魂は内側から腐りかけていた。……そのまま死ねば、君の魂は消滅し、輪廻の輪からも外れるはずだった」
私は目を見開いた。呪詛? 消滅?
「だから私は、あえて君に反逆の罪を着せ、聖なる刃で君を処刑した。あれは、汚れた魂を浄化し、時間を巻き戻すための『禁忌の魔術儀式』だったんだよ。私はその代償として、自分の心臓の半分を悪魔に捧げた。君と共にもう一度、やり直すために!」
あまりに身勝手で、あまりに重すぎる告白。
彼は私のために、私を殺したというのか。
「……それで、私は感謝するとでも思ったのですか? あなたが私を信じず、一方的に命を奪った事事実は変わらない。今世でも、あなたは私を監視し、自由を奪っている……。これは愛ではなく、ただの支配です!」
私が叫ぶと、アルヴィン様は一瞬、悲しげに目を細めた。
けれど、すぐにその表情は昏い悦びへと塗り替えられる。
「支配? ああ、そうかもしれない。だがリゼット、君は知らないだろう。今世の君の身体には、私の心臓が半分溶け込んでいる。君が私を拒めば拒むほど、君の心臓も痛み、私を求めるように造り替えてあるんだ」
「……っ、なっ……」
言われてみれば、彼に触れられている場所が、火傷のように熱い。
嫌悪しているはずなのに、身体が彼に縋り付きたいという本能的な欲求を上げている。
「君が私を憎んでも構わない。呪ってもいい。だが、二度と私の視界から消えることは許さない。……明日の夜会で、婚約を正式な『婚姻』に格上げする。君に拒否権はないよ」
彼は私の額に、深く、刻印を刻むようなキスをした。
「おやすみ、私の愛しいリゼット。明日は、世界で一番幸せな花嫁にしてあげるからね」
去っていく彼の背中を見つめながら、私は絶望に膝をついた。
逃げ道はすべて塞がれた。
私は明日、私を殺した男の妻になる。
◆
婚礼を兼ねた夜会の会場は、狂おしいほどの花の香りと祝福の声に満ちていた。
鏡の中に映る私は、最高級のシルクと宝石に身を包んだ、世界で最も美しい「囚人」だ。
(……やるしかないわ)
私は、ドレスの奥に隠した小さな小瓶を握りしめた。
それは、彼に捧げられた宝飾品を密かに換金し、裏ルートで手に入れた「仮死状態」を作り出す毒薬。心臓の半分を共有しているという彼から逃れるには、一度心臓を止めるしかない。
「リゼット、準備はいいかい?」
扉が開くと、軍服に身を包んだアルヴィン様が現れた。その瞳は、獲物を完全に手中に収めた悦びに輝いている。
彼は私の手を取り、会場の中央へとエスコートした。
「皆様、紹介しよう。私の愛する妻、リゼットだ。彼女を傷つける者は、この国の敵と見なす」
万雷の拍手の中、彼は私の腰を強く抱き寄せた。
その瞬間、私は用意していた毒を、自らの口へと流し込んだ。
(さようなら、アルヴィン様。あなたのいない地獄へ、私は行くわ)
意識が遠のき、身体から力が抜ける。
悲鳴が上がる会場の中で、私は最後に彼の顔を見た。
……驚愕に目を見開くと思っていた。けれど、彼は――笑っていた。
「……リゼット。言っただろう? 『逃がさない』と」
視界が真っ暗になる直前、彼の唇が私の耳元に触れた。
「その薬を売った商人は、私の飼い犬だ。中身は毒じゃない……私への『依存を強める媚薬』だよ」
「……あ……っ」
衝撃で意識が覚醒する。
毒のはずなのに、全身を駆け巡るのは、灼熱のような快楽と彼への異常な渇望だった。
膝から崩れ落ちる私を、アルヴィン様は愛おしげに抱き上げ、会場の皆に見せつけるように深く、深く口づけた。
「君が私を拒もうと動くたびに、私は君をさらに深く縛り上げる方法を見つける。楽しいね、リゼット。永遠に続く追いかけっこだ」
私は、彼の胸の中で震えることしかできなかった。
心臓が、共有された半分と呼応するように激しく打ち鳴らされる。
憎いはずなのに、殺したいほど恐ろしいはずなのに。
彼の匂いを嗅ぐだけで、安らぎを感じてしまう自分が一番恐ろしい。
「さあ、帰ろう。私と君だけの、誰にも邪魔されない檻へ」
かつて私を死へ送った男は、今度は私を「永遠」という名の生殺しへと誘う。
逃げ場所なんて、最初からどこにもなかったのだ。
死ですら彼の手のひらの上。
私は、彼の腕の中で絶望を飲み込み、そして――
抗えない快楽に身を任せ、そっと瞳を閉じた。
これが、私たちが選んだ(えらばされた)、二度目の人生の「ハッピーエンド」。
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