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第九話 刻印のささやき

 追いかけられた日の夜から、眠りが浅くなった。

 目を閉じると、靴底の音が胸の中で鳴り続ける。

 叫び声は過去の残響みたいに耳の奥に張り付いて離れない。


 だが、恐怖は次第に薄れた。

 腹は容赦なく空いたままで、日が昇れば飢えはすぐに理性を追い出す。


 今日もまた、俺は動く。

 影にもぐり、拾い物だけじゃ足りず、盗める場所を探す。


 ――喋れない。

 ――頼れない。

 ――名乗れない。


 自分という存在の輪郭が、日に日に薄くなっていく気がする。

 けれど、それを感じている暇はない。


 町の中で、俺は一匹のネズミだ。

 路地から路地へ、油の匂いのする裏口から物陰へ。

 人目の隙間に潜り込めば、それだけで命がつながる。


 いつの間にか、盗みには段取りが生まれていた。


 まず、昼の人の流れを遠くから数える。

 表では何もせず、裏で廃棄の気配を探す。

 目立たぬように、店を決めては間隔を空ける。


 昨日追われた店には絶対に近づかない。

 それは体の奥が勝手に覚えたルールだった。


 胸を落ち着かせながら、一つの扉の影に潜んだ。

 厨房の裏は、夕方の仕込みで一瞬だけ混乱する時間がある。

 荷を運ぶ人の足音と怒鳴り声。

 そちらに意識が奪われれば、裏口の管理は甘くなる。


(今だ)


 喉の奥がひゅっと鳴っただけだが、それは自分への合図みたいだった。


 足音を忍ばせて木箱に近づく。

 そこに籠がひっくり返され、黒パンの塊がこぼれている。


 手早く三つだけ拾う。

 欲張れば失敗する。

 昨日学んだことだ。


 そして身を引いた瞬間――


 脳裏に、光の筋のようなものがちらついた。


 一本。

 いや二本。

 絡まる線が、薄い膜の裏側で揺れている。


(……なに、これ)


 前にも見えた。

 走って逃げたときに脳裏に浮かびかけた文字のようなものだ。


 今、その輪郭が少しだけ太くなっている。


 意味は分からない。

 それは日本語ではないはずなのに、見たこともないのに、どうしてか理解できる気がした。


 これは印だ。

 刻まれたもの。

 自分のための線。


 そう思った瞬間、胸の奥がかすかに熱を持った。


 過去の記憶が揺らぐ。

 学校? 名前?

 街の灯?

 日本語で呼ばれた誰かの声?


 全部、靄に包まれ、指先で触れれば崩れそうだ。


 代わりにこの世界の生活が、鮮明になる。

 石畳。埃。腐臭。空腹。

 それと盗み。


(……変わってきてる?)


 リングを見下ろす。

 錆びた銀色の輪が、夕日の中でくすんだ光を返した。


 拾った時はただの金属だった。

 今は、体の奥で何かをつなげているような……そんな錯覚がある。


 刻印――

 それはたぶん、首飾りと指輪のどちらにもある。


 けれど、意味はまだつながらない。

 ひとつひとつは欠けていて、不完全なまま。


 むしろ俺も欠けている。

 名前のない少年。

 日本人であった痕跡は日に日に薄れ、知識だけが骨だけ残した化石みたいに転がっている。


 喋ろうとしても、吐き出されるのは空気だけ。

 言葉はこの世界の音にも、日本語にもならない。


 俺は何者なのか――

 もう考える余裕がない。


 とにかく、生きなければならない。


 パンを服にねじ込み、物陰へと滑り込む。

 遠くで怒鳴り声がした。

 誰かが在庫の減りに気づいたのかもしれない。


(急げ)


 足が自然に動く。

 刻印の線が頭の中に薄く広がる。


 これは力なのか?

 呪いなのか?

 それすら分からないが、今は役に立つ。


 盗みは日常になった。

 恐怖も日常になった。

 刻印のざわめきもまた、日常の中に溶けている。


 そして――

 それが俺にとって、初めて形のある“武器”だった。


 喋れなくても、名前がなくても。

 この世界に適応し始めた少年は、気づかぬうちに境界をまたいでいく。


 盗む者から――

 狙われる者へ。

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