第八話 追跡
盗むのに、もう迷いはなかった。
腹が鳴るたび胸がすうすうして、指先が勝手に店先の残り物へ伸びる。
罪悪感なんてとうに薄れた。というより、言葉も他人も自分の輪郭も曖昧な毎日だ。
うまく考えられない。考えたところで、喉は何も外へ押し出してくれない。
今日も、路地裏の影に体を溶かしながら、店を食い物にした。
朝と昼で違う場所。
人通りが多い時間は避けて、袋や籠からこぼれた欠片を見つける。
運が良ければ誰かが捨てた半端なパン。
前は吐きそうになった味も、昨日の自分より今日の俺の胃袋は気にしない。
そして夕暮れが来た。
茜色に照らされた通りは、人が少し散って、油断しやすい。
俺はその油断に乗っかって、また一歩、線を越えた。
――袋の口が開いている。
露店の裏。木箱の上。隙間に押し込まれたらしい紙袋が、まるで「拾え」と言わんばかりに。
(……いける)
喉は声を出さない。けど、確かにそう思った。
周りに気配なし。
耳がひどく澄むようになり、少し離れた人の足音や会話が、前よりもはっきり胸に響く。
知らない魔法の線――刻印の気配がまた薄く浮かぶ。
脳裏に描きかけの文字みたいなもの。
昨日より少し輪郭がある。
おかしい。怖い。
でも空腹のほうが勝つ。
俺は腕を伸ばした。
紙袋をつかむ。
その一瞬は、いつも通りに思えた。
……が。
「おい!」
怒鳴り声。
時間が止まった気がした。
背筋に氷が走る。
肺が縛られて、息の吸い方すら忘れる。
「そいつだ! 待て!」
足音。複数。
地面を叩く革靴の音がまっすぐこっちに迫る。
思考より先に体が動く。
紙袋を胸に抱き、路地へ飛び込んだ。
走る。
足がもつれる。
呼吸が荒れる。
心臓が爆弾みたいに跳ね上がる。
「逃がすなッ!」
背後。近い。
誰かの手が肩に触れかけた気がして、全身の毛が逆立った。
(いやだいやだいやだ)
声にならない悲鳴だけが頭に乱反射する。
脳裏のぼんやりした刻印が、一瞬だけ光った――気がした。
何かが、足を押した。
軽くなったわけじゃない。速くなったわけでもない。
ただ、転びそうになるたび勝手に体が前へ持ち直す。
通りすがりの誰かを押しのけ、樽にぶつかり、狭い裏道を折れ続ける。
石畳を滑って膝を打ち、痛みで泣きそうなのに止まらない。
追手の足音が少し遠ざかる。
息が喉で千切れそうでも、止まる選択肢はなかった。
最後の角を曲がる。
そして、いつもの捨て場へ飛び込む。
土嚢と割れた木箱。
鼻の奥にこびりついた腐臭。
最初に気絶したあの路地裏が、今は安全に思えた。
体を抱えて丸くなる。
紙袋を服の下に押し込む。
息を殺す。
「どこだ?」「こっちは行き止まりだ!」
数十秒。
あるいは数分。
声は遠ざかった。
心臓の音が耳の内側に響く。
汗と涙が混じって、頬がぬるい。
しばらくしてようやく、何も聞こえなくなった。
俺はそっと袋を開ける。
中には固くなったパンと、切れ端のチーズ。
涙がまた零れた。
(助かった…?)
喉は何も言えないけれど、胸の奥がかすかに笑った。
震える手で食べ物を口に運ぶ。
味なんてわからない。
でも、生きてる実感はそこにあった。
指に嵌めたリングが、じんわりと温かい。
あのぼんやりした文字の線が、さっきよりくっきり浮かんでいる。
――気づかれた。
盗むことを。
俺という存在を。
それでもやめられない。
やめたら死ぬから。
俺はまた盗む。
追われても。
喋れなくても。
名前がなくても。
生きるために。




