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第七話 刻まれるもの

盗むのは一度きりだと思っていた。

けれど腹は減る。

拾えるゴミも、いつも運よく見つかるわけじゃない。


夜になると、路地裏は獣道みたいに静かになる。

その静けさの奥に、食べ物の匂いが潜んでいる。


狙うのは人通りの多い通りの端。

屋台でも店でもいい。

ただし、昨日の場所には近づかない。

顔を覚えられれば終わりだからだ。


日が暮れて、油の匂いが漂い始めたころ、少年は影のように動き出した。


足元に気を配り、視線が集まらない位置を探す。

声がない代わりに、耳だけは異様に敏感だった。

客の笑い声、店主の怒鳴り声、貨幣の触れ合う音——

その隙間で、自分だけが息を潜める。


今日は煮詰めた野菜が入った皿から、指先ひとつ分だけ。

明日は別の店で焼きパンの切れ端を。

翌日はまた違う通りで、売り物にならない果物を。


店を変え、通りを変え、盗む量もほんのわずか。


罪悪感はあった。

でも、生き延びるための方法として身体に染み込んでいく。



変化が生まれたのは、その「手順」が当たり前になり始めた頃だ。


影の濃さ。

人の流れの向き。

気づかれずに近づける足場。


そういったものが、文字でも地図でもないのに頭の中へ浮かんでくる。


いや、浮かぶだけじゃない。


時々、視界の端に細い線が走る。

読みかけの文字のようで、でも何語でもない。

日本語の痕跡とも違う。

この世界の言葉でもない。

混ざりかけて崩れた何か。


指先を伸ばす瞬間、その線がスッと整い、最短の道筋を示す。

まるで手を導くかのように。


決まって首飾りが静かに冷え、指輪がかすかに震える。


気のせいだと否定したい。

でも回数を重ねるほど“何かが働いている”のを認めざるをえなくなる。



盗みの技術が身につくほどに、別のものが薄れていった。


日本のことだ。


名前も思い出せない家族。

毎日通っていたはずの学校。

当たり前のように買えた食事。


知識だけが残っていて、記憶はもやに覆われる。

逆に、路地の地形や物陰の形は鮮やかになっていく。


日本語で考えようとすると、どこか噛み合わない。

気づけば頭の中の言葉はこの世界のものに寄っていた。


二つの言語の境目が溶け――

声のない自分はひたすら黙って進む。


盗むたび、線は濃くなり、

少年は霧の中へ沈んでいくようだった。


ただひとつ確かだったのは――

昨日と違う店で、今日も何かが消える。

誰にも気づかれないうちに。


生きるために。

声を持たないまま。

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