第七話 刻まれるもの
盗むのは一度きりだと思っていた。
けれど腹は減る。
拾えるゴミも、いつも運よく見つかるわけじゃない。
夜になると、路地裏は獣道みたいに静かになる。
その静けさの奥に、食べ物の匂いが潜んでいる。
狙うのは人通りの多い通りの端。
屋台でも店でもいい。
ただし、昨日の場所には近づかない。
顔を覚えられれば終わりだからだ。
日が暮れて、油の匂いが漂い始めたころ、少年は影のように動き出した。
足元に気を配り、視線が集まらない位置を探す。
声がない代わりに、耳だけは異様に敏感だった。
客の笑い声、店主の怒鳴り声、貨幣の触れ合う音——
その隙間で、自分だけが息を潜める。
今日は煮詰めた野菜が入った皿から、指先ひとつ分だけ。
明日は別の店で焼きパンの切れ端を。
翌日はまた違う通りで、売り物にならない果物を。
店を変え、通りを変え、盗む量もほんのわずか。
罪悪感はあった。
でも、生き延びるための方法として身体に染み込んでいく。
*
変化が生まれたのは、その「手順」が当たり前になり始めた頃だ。
影の濃さ。
人の流れの向き。
気づかれずに近づける足場。
そういったものが、文字でも地図でもないのに頭の中へ浮かんでくる。
いや、浮かぶだけじゃない。
時々、視界の端に細い線が走る。
読みかけの文字のようで、でも何語でもない。
日本語の痕跡とも違う。
この世界の言葉でもない。
混ざりかけて崩れた何か。
指先を伸ばす瞬間、その線がスッと整い、最短の道筋を示す。
まるで手を導くかのように。
決まって首飾りが静かに冷え、指輪がかすかに震える。
気のせいだと否定したい。
でも回数を重ねるほど“何かが働いている”のを認めざるをえなくなる。
*
盗みの技術が身につくほどに、別のものが薄れていった。
日本のことだ。
名前も思い出せない家族。
毎日通っていたはずの学校。
当たり前のように買えた食事。
知識だけが残っていて、記憶はもやに覆われる。
逆に、路地の地形や物陰の形は鮮やかになっていく。
日本語で考えようとすると、どこか噛み合わない。
気づけば頭の中の言葉はこの世界のものに寄っていた。
二つの言語の境目が溶け――
声のない自分はひたすら黙って進む。
盗むたび、線は濃くなり、
少年は霧の中へ沈んでいくようだった。
ただひとつ確かだったのは――
昨日と違う店で、今日も何かが消える。
誰にも気づかれないうちに。
生きるために。
声を持たないまま。




