帰還
アジトとは離れた別の出入り口。
地上に戻ったとき、夜はすでに深く沈みきっていた。
ラドネスの外縁、低い石垣と荒れた畑が続く地帯。風は冷たく、遠くの城壁の灯りがにじむように揺れている。地下の空気を引きずったままの体には、地上の風がやけに鋭く感じられた。
ネリアが周囲を見回し、短く息を吐く。
「ここからは目立つ。灯りはなしだよ。問題あるかい?」
ハディが頷き、カイレンが手信号で隊列を詰める。
ハディは一歩遅れて歩く。首飾りの刻印は沈黙しているが、胸の奥に残る違和感は消えていなかった。地下で触れたあの回路――大きなものに触れた感覚。
ふと、風の流れが変わる。
鼻先をかすめる乾いた匂い。土と、鉄と、わずかな焦げ。
ハディの足が止まった。
その瞬間、首飾りが微かに震え、視界の奥に細い線が浮かび上がる。
索敵。
意識が自然と刻印へ向かう。普段ならゆっくりと配列を開くところだが、今回は違った。嫌な予感が先に立つ。思考よりも先に手が動くように、刻印の並びを一気に切り替える。
いる。
しかも、一人ではない。
ハディは振り向き、カイレンの袖を引く。右手の指で左腕をを二度叩き、広がる方向を示す。
カイレンの表情が引き締まる。
「囲まれてるのか」
ネリアが低く言う。
「さっきの遺物に反応したか……それとも最初から張っていたか?」
答えは出ない。
だが、来る。
次の瞬間、石垣の向こうから影が滑り出た。
ゆっくりと、音もなく。
ひとり。
月明かりを背にして立つその男は、異様に整った姿勢をしていた。武装は軽い。だが無駄がない。布の隙間から見える腕には、刻印が刻まれているのがはっきり分かる。
それだけで、空気が変わった。
ただの襲撃者ではない。
ハディの刻印が警告を強める。線が歪む。
近づくほどに、相手の存在が輪郭を持たない。測れない。読めない。
男が口を開く。
「地下に触れたな」
静かな声だった。
だが、耳に残る。
「お前たちは、少し深入りしすぎた」
カイレンが一歩前に出る。
「どこの差し金だ」
男は答えない。
ただ、わずかに視線を動かし――ハディを見る。
その視線に、理由もなく背筋が冷えた。
何もかも見透かされているように。
ネリアが間に入る。
「時間を稼ぐ気はないわよ。やるなら来なさい」
その言葉に応じるように、男の足元の影がわずかに揺れた。
次の瞬間、消えた。
視界からだけではない。
感知から、消えた。
ありえない。
さっきまでそこにあった圧が、完全に途切れている。
だが――
背後。
振り向くより先に、衝撃が来た。
鈍い音とともに、体が横へ弾き飛ばされる。手甲で受けたはずの一撃が、骨の奥まで響いた。地面に転がりながらも体勢を立て直すが、呼吸が一瞬詰まる。
見えない。
感知が、役に立たない。
カイレンが叫ぶ。
「位置取りで方向を限定しろ!感覚に頼るな!」
だが、その声が終わる前に、もう一撃。
今度は正面。
狙われているのは、自分だ。
辛うじて避けるが、頬をかすめた風が鋭く、皮膚が裂ける。
ネリアが暗器を投げる。
当然のごとく空を切った。
ハディは歯を食いしばり、刻印をさらに詰める。
索敵を極限まで絞り、反応を強める。
線を増やす。
感度を上げる。
だが、それが逆に裏目に出た。
情報が多すぎる。
風、音、仲間の動き――すべてが同じ重さで流れ込む。
その中で、相手だけがノイズのように滑る。
掴めない。
その一瞬の遅れを、男は逃さない。
踏み込み。
衝撃。
今度は防ぎきれない。
腹に入った一撃が、体の奥の空気を全部吐き出させた。
視界が白くなる。
膝が崩れる。
地面に手をついた瞬間、背中に冷たい刃の気配が乗る。
終わる。
そう理解したとき、ネリアの声が遠くで響いた。
「離れなさいッ!」
閃光。
短い爆ぜる音。
男が一歩だけ距離を取る。
だが、それだけだった。
致命には届かない。
ハディは息を吸おうとして、うまく吸えないまま咳き込む。
体が言うことを聞かず、刻印の感覚も、鋭さを失っている。
視界の端で、カイレンが男と打ち合っているのが見えた。
だが、押されている。
明らかに。
男は一切無駄がない。
一撃一撃が正確で、速く、重い。
そして何より、読めない。
ネリアが歯噛みする。
「……格が違う」
その言葉が、現実だった。
そう思った瞬間、男の視線が再びこちらに向く。
わずかに、興味を示すように。
次の瞬間、足音が迫る。
避けられない。
体が動かない。
ハディは歯を食いしばり、身じろぎをする。
だが――間に合わない。
衝撃。
意識が暗く沈む。
最後に見えたのは、ネリアの伸ばした手と、カイレンの叫びだった。




