第31話 戻ってきただけ
仕事は、運びだった。
夜明け前。
霧が低く溜まり、路地の奥がぼやける時間帯。
「裏の倉まで。静かにな」
ラグスはそれだけ言った。
理由も中身も聞かない。聞く意味がない。
同行は二人。
ミークは軽い足取りで先に立つ。
「運びだってさ。まあ、今日は生きて帰れそうだな」
冗談はいつも通りだが、声は低い。
この時間帯の路地を、彼も信用していない。
後ろのヴァシュは、箱を抱える腕に無駄な力が入っている。
「……人の気配、少ないですね」
俺も同じことを思っていた。
下層区は、常に誰かがいる。
夜明け前でも、もっと雑音がある。
――静かすぎる。
俺は歩きながら、左手を壁に触れさせる。
手甲越しに伝わる感覚が、いつもより粗い。
(路地が、空いてる)
人が避けている。
理由がある。
角を一つ曲がったところで、気配が増えた。
足音。
複数。
速くはないが、散っている。
追われている、というより――
囲む位置取りだ。
俺は立ち止まらず、歩幅を一つだけ縮める。
それでミークが気づいた。
冗談が止まり、彼は何も言わずに速度を合わせる。
ヴァシュは気づくのが少し遅れたが、俺の動きで察したらしい。
次の角。
俺は右を選ばず、あえて狭い左に入った。
人一人がやっとの路地。
足元は排水で湿っている。
ここで、さらに壁に触れる。
――奥、板が薄い。
逃げ道になるが、音が出る。
それでも、他よりマシだ。
俺は箱をミークに押し付け、身振りで示す。
先。
低く。
俺が一歩、板に体重をかける。
ぎ、と小さな音。
同時に、背後で足音が止まった。
「……あ?」
気づかれた。
俺は迷わず、板を踏み抜いた。
板は完全には崩れない。
だが、十分に傾く。
俺はそのまま滑り込み、下の排水路へ落ちる。
水音は、霧に吸われた。
ミークが続く。
ヴァシュは一瞬遅れたが、箱を放り投げて跳んだ。
上から声が飛ぶ。
「下だ!」
だが、追ってこない。
排水路は臭く、狭い。
だが、入り組んでいる。
俺は即座に右へ。
直線を避ける。
二つ目の分岐で止まり、壁に触れる。
――ここ、抜けられる。
古い補修跡。
薄い石。
俺は肩で押し、崩す。
小さな穴が開く。
三人で転がり込む。
数秒後、上で足音が増えた。
だが、通り過ぎていく。
追うなら、もっと簡単な道を選ぶ。
俺たちは、選ばれなかった。
倉に着いた頃には、夜が白み始めていた。
ヴァシュは息を切らし、壁に手をつく。
「……俺、判断、遅れました」
誰も責めない。
ミークは鼻で笑った。
「生きてりゃ上出来だろ」
仕事は終わった。
報酬は少ない。
評価もない。
ラグスは俺たちを見て、短く言う。
「戻ったな」
それだけ。
帰り道、ミークがぼそりと呟く。
「なあ、お前……逃げ道、見るの早くね?」
答えない。
ヴァシュは、俺に深く頭を下げた。
理由は言わない。
俺も、言えない。
この街では、
生きて戻ったことだけが、すべてだ。




