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第22話 汚れを落とすということ

腹が減って死ぬ、という最悪の未来は、ひとまず遠のいた。

そう判断できる程度には、俺はこの町に慣れてきていた。


パンがある。

毎日ではないが、数日に一度は確実に腹に入る。

拾い食いだけでなく、少し前からは「外れ」が減っている。


そうなると、余計なことが気になり始める。


臭いだ。


自分の。


汗と埃と、乾いた血。

路地の湿気がそれを逃がさず、服に染みつかせている。

鼻を近づけるまでもなく、わかるほどだ。


前はどうでもよかった。

生きるか死ぬかの中では、清潔さなんて贅沢でしかなかった。


でも今は違う。


「……汚いな」


声にはならない。

頭の中で、日本語だけが浮かぶ。


前世の記憶が、こういう時に嫌な形で顔を出す。

毎日風呂に入っていた感覚。

洗濯された服の匂い。

蛇口をひねれば水が出た生活。


思い出すほど、今との差に気分が悪くなる。


それでも俺は、完全に諦めきれなかった。


川までは行かない。

外に出る気は、まだない。

あの「外」の気配を思い出すだけで、胃の奥が冷える。


だから、路地だ。


水溜まりの中でも、比較的澄んだ場所。

雨の後にできた、流れのある溝。

誰も使っていない古い井戸跡。


少しずつ、試す。


顔を拭う。

手を洗う。

布を絞り、服の表面だけでもこすり落とす。


冷たい水が、皮膚に染みる。

だが、嫌じゃなかった。


「……ましだ」


鏡はない。

それでも、感覚でわかる。


臭いが減った。

皮膚のざらつきが少しだけ取れた。


首から下げた首飾りも、一度だけ水に通す。

刻印は相変わらず意味を成さない。

単体では、ただの金属だ。


指輪も外して洗う。

なくすのが怖くて、何度も確認しながら。


その時、ふと気づく。


水の流れ。

自分の手の動き。

周囲の気配。


ほんのわずかだが、把握しやすい。


集中しているからか。

それとも、刻印をいくつも触ってきたせいか。


頭の奥で、ぼんやりとした線が揺れる。

文字のようで、文字にならない。

意味を持たないが、確かに「構造」を感じる。


――考えるな。

――今は、生きろ。


そう自分に言い聞かせて、作業を終える。


清潔になったところで、貴族には見えない。

冒険者にもならない。

ただの、少し臭わない路地のガキだ。


それでいい。


だが、通りすがりの視線が一つ、以前より長く俺に留まった。


理由はわからない。

わかる必要もない。


俺は布を絞り、また路地に戻った。


生きるのに必要なものが、

少しずつ「食べ物」以外にも増え始めている。


それが良いことなのかどうかは、

まだ判断できなかった。

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