第10話 影に名はない
裏通りを歩く音にも、俺は少しずつ慣れてしまっていた。
慣れるというのは、本当は危険な兆候なのかもしれない。
空腹は毎日の痛みで、恐怖は昨日より薄い影になり、盗みはただの動作になっていく。
夜明け前。
市場に並ぶ食材が店へ運ばれる時間帯は、裏路地がざわつく。
荷車を押す音。怒鳴り声。油と汗の匂い。
そして、その裏で、ほんの一瞬だけ目が届かなくなる場所が生まれる。
俺はそこに滑り込む。
パンの端、豆の袋のほころび、皮をむいた皮。
拾える物は拾い、足りなければ盗み取る。
手は震えなくなった。
逃げ道だけは常に頭の片隅に置いていた。
どこに死角があり、どこなら走ってもぶつからないか。
刻印めいた線が頭の奥でゆらりと光り、ぼやけた地図のように路地の形を示す。
(よし……)
袋の影に隠れ、パンの塊をつかんだ瞬間。
「誰だ」
低い声が、すぐそばから落ちてきた。
心臓が喉から飛び出しそうになり、体が勝手に後ろへ跳ねる。
手に持ったパンが転がった。
拾おうとしたが、そこへ足音が迫ってくる。
「待てッ!」
その声で、思考が吹き飛び、全身が動き出した。
逃げる。
影から影へ。
腰を低く、足音を薄く。
昨日覚えた路地の感触が、かかとから脳へまっすぐ伝わる。
背後で太い足が石畳を踏み鳴らす。
誰か一人じゃない。
二人か、三人か。
焦りが胸の中に沸騰するように広がる。
呼吸が乱れ、肩が焼けるほど重くなる。
(こっちじゃない!)
体が勝手に方向を変える。
昨日なら突っ込んでいたと思うような狭い隙間へ滑り込み、壁に肩をぶつけながら転がるように走り抜ける。
追っ手の声がぶつ切りに聞こえた。
「奥だ!回り込め!」
「ガキのくせに速ぇぞ!」
回り込む――その言葉が脳に刺さる。
もう逃げ道はないかもしれない。
だが、体は止まらない。
逃げなければ死ぬ。
それだけははっきりしていた。
足音が遠ざかった瞬間、路地裏の闇に滑り込み、身を伏せる。
心臓が壊れるほど鳴り、喉から出るのは呼吸にもならない音。
「……っ、っ……!」
しゃべれない。
息を整えることすらうまくいかない。
しばらくして、足音は遠のいた。
だが、終わったわけではなかった。
路地に残された泥の足跡。
荷車の近くに転がったパンの欠片。
それらはすべて証拠だった。
そして――
俺が狙われたのは偶然じゃない。
頭の中で刻印めいた線が広がった。
糸のような文字が一瞬だけ組み上がり、意味になりかけてほどける。
“見られている”
そんな感覚だけがはっきりした。
町には、盗みを見張る目がある。
それが衛兵なのか、商人なのか、もっと別の何かなのかはわからない。
ただ、今日の追跡は誰かが仕組んだものに思えた。
わざと裏口の巡回を減らし、誰かが身を潜めていた。
誘われた。
罠だった。
もし捕まっていたら――
先日の酔っ払いの拳どころではすまない。
骨か、命か、あるいは裏へ連れ去られて二度と戻れなかったかもしれない。
息を潜めながら壁にもたれかかる。
考えても答えは出ない。
喋れない俺には言い訳もできない。
この世界の文字がろくに読めないから、罰金や命令書なんて、理解すらできない。
名前がないということは、守る者もいないということだ。
(まずい……)
声にはならない呟きが胸に沈む。
逃げ足は鍛えられた。
刻印も少しだけ育っている気がする。
けれど、限界は近い。
食って、逃げて、また食って。
町は広いようで狭い。
隠れる路地には限りがある。
遠くで鐘が鳴った。
朝が来る。
また一日が始まってしまう。
追跡の気配は街の空気に沈み、俺の背骨に針のような感覚を残したままだった。
これ以上続ければ――
本当に捕まる。
いや、捕まえに来る。
店の怒りじゃない。
もっと組織的な“誰か”が。
路地の先で光が差した。
市場のざわめきが広がる。
喉が空っぽで、腹が痛い。
それでも、俺は歩き出す。
狙われても、名がなくても、まだ死ねない。
この世界が俺の存在を完全に飲み込むまでは。




