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第一話 目覚め


踏み固められた地面の冷たさが、皮膚を通り越して骨まで突き刺してくるようで、ゆっくり意識が浮かんだ。

薄暗い路地。どこかに閉じ込められたみたいに空気が重い。

湿った石壁がすぐ背後にある。立ち上がれば肩がぶつかりそうな狭さだ。


鼻をつく悪臭に反射的に顔をしかめる。

汗と腐敗、それに混じる鉄のような嫌なにおい。

ここがどんな場所なのか、知りたくもなかった。


喉がひりついた。焼け焦げた紙のように乾いて崩れていく感じがする。

声を出そうと試してみるが、空気が漏れるだけで音にならない。


日本語で何か言おうとしたのは確かだ。

だけどそれとほぼ同時に、頭の中で別の響きが重なってくる。

意味のある言語の形をしているのに意味として理解できない言葉。

音の塊が互いにぶつかって砕けて、霧みたいに散っていく。


――思考がばらつく。

――声にならない。


短い結論が胸の奥に冷たく沈んだ。


右手に気配を感じて、ゆっくりと開く。

指の間に食い込むように握られていたのは、黒ずんだ首飾りだった。

細い鎖は錆び、飾り部分は欠けて奇妙な形をしている。


腹が鳴った。

静かなはずの路地裏に、自分の体の音がひどく大きく響くような気がした。

息を吸うだけで胸が痛いのに、助けを待つべきではないという確信があった。


石畳に手をつき、立ち上がる。

体は鉛のように重い。足が震えて、前に出るたびにつんのめる。

それでも、止まれば死ぬという感覚があった。


路地の角に、汚れた布袋が転がっていた。

臭いをかいだだけで胃が拒絶する。

だが体が勝手に屈み込み、手が伸びた。


袋の中には、潰れた野菜のへた。

泥も埃も石も混ざり、食べ物と呼びたくない何か。

それでも指に掴んで、口に運んだ。

噛むと、繊維がざらついて舌を傷つける。

苦味と腐りかけの刺激臭が鼻に抜ける。


吐きたい。

だけど飲み込むしかなかった。


誰もいない。

はずなのに、背中がぞわりと粟立つ。


振り返れば、濡れた石壁と重なり合う影だけ。

しかし、どこかに目がある気がする。

この世界のどこかが、俺を試すように、あるいは狙うように。


――ここにいたら死ぬ。


言葉ではない。

理解でも推論でもない。

ただ、世界の皮膚みたいなものが俺にそう擦りつけてくる。


逃げたい。

でもどこへ?

そもそも、ここはどこだ?


日本の光景が、突然脳裏に鮮明に浮かぶ。

店の看板、舗装された道路、車のライト。

名前を呼ぶ声が確かに聞こえた……ような気がした。


全部日本語。

全部、この世界では口にできない。


現実と記憶が噛み合わない違和感が胃を締めつける。

それでも、絶望は湧かなかった。


こんな状況でも、不思議と心の奥底に浮かぶ言葉があった。


――なんとかなるだろう。


声にならない。

でも、確かにそこにある。


理由なんてない。

期待も希望もない。

ただ、まだ死んでいない。それで充分だ。


首飾りを握りしめる。

これは何なのか。

誰のものなのか。

なぜ捨てられないのか。

何ひとつわからないのに、確かな唯一の手がかりに思えた。


まだ名前も思い出せない俺は、喋れないまま路地を歩く。

生きるためだけに、動けるうちは。

ただそれだけを頼りに。

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