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【第四話】 「しあわせの隣には」



退職祝いの花束は、リビングの隅で少し萎れていた。

定年の日、職場でもらった拍手も、もう遠い出来事のよう。

朝6時に起きても、出社の支度はいらない。代わりにテレビのリモコンを握るだけ。


「なあ、佳代」

その日、珍しく雄一が口を開いた。


「ん?」

キッチンで野菜を刻む手が止まる。


「……俺たち、幸せだったか?」


佳代は、まな板の上で包丁を止めたまま、ゆっくりと振り返った。


「……今さら?」


「今さらだ。でも気になるんだ」

「退職したら、色々考えるのね」


佳代は笑ったが、その目に少しだけ寂しさがあった。

雄一もまた、笑いながら言った。


「なんだかよく分からなくなってな。ずっと働いて、帰って、飯食って寝て……これが“しあわせ”だったのかって」


佳代は席に座ると、言った。


「しあわせの隣りにいても わからない日もあるんだね」


「……歌か?」

「うん。昔、合唱で歌ったの。『三百六十五歩のマーチ』」


「ふん……知らんな」


「ふふ、あなたの人生、歌と無縁だったもんね。でも――」

佳代は夫の目を見て、言葉を続けた。


「私は、幸せだったと思うよ。

あなたの横に座って、夕飯を食べて、時々ケンカして、でも朝になったら“行ってきます”を聞いて……」


「それが、しあわせ?」


「うん。一年三百六十五日、一歩違いでにがしてたかもしれないけど、

毎日そばにいたじゃない。それだけで、私は充分だったよ」


沈黙が降りた。

でもそれは、やさしい沈黙だった。


***


その日の夕方。

二人は久しぶりに近所の川沿いを散歩した。


「お前、こんなとこ歩くの好きだったか?」

「ええ。あなたがいない昼間、よく一人で歩いてた」


「……気づかなかった」

「でしょ? 隣にいても、気づかないことってあるのよ」


川面に映る夕陽が揺れる。

佳代は足を止めて、夫の腕にそっと手を添えた。


「これからは、もっと気づいてね」


雄一は言葉を失い、ただうなずいた。


その手のぬくもりが、長い月日の答えだった。


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