【第二話】 「人生はワン・ツー・パンチ」
――「おい陽平、あんまり力入れるな。鉄ってのは、こっちの呼吸に耳を澄ませてくるんだ」
父・修造がそう言っていたのはもう五年前。
定年で工場を去ってからも、父は時折ふらりとやってきては、息子の仕事を静かに見つめていた。
でも今日は、来ない。
陽平は黙って、油と汗の匂いが染み込んだ作業着のまま、黙々とアーク溶接を繰り返していた。
鉄の熱が跳ねて火花になるたび、心の奥に父の声が響く。
「人生はワン・ツー・パンチだぞ。どっちか片方じゃだめなんだ」
若い頃は意味がわからなかった。「なんだよそれ、ボクシングじゃあるまいし」と反発もした。
でも、今はわかる。仕事がうまくいく日も、どうしようもない日も、両方が“人生”なんだと。
***
その日の昼休み、工場の休憩室で、一枚の古びたノートを見つけた。父がかつて使っていた工具メモ帳だった。
そこには、図面の隅にこんな走り書きがあった。
「汗かき べそかき 歩こうよ」
「右足出して 左足出すと いつのまにやら歩いてる」
「……父さん、こんなことまで書いてたのかよ」
陽平は苦笑しながら、手のひらでノートを閉じた。
***
その日の夜。帰りの電車の窓に映った自分の顔は、思いのほかやつれていた。
「毎日毎日、同じようで意味あるのかって思ってたけど――」
ふと陽平は呟いた。
「今日は昨日のつづきじゃない
明日はきっと いい日になる」
自分で自分に言い聞かせるように、そっと言葉をこぼす。
明日も鉄と向き合う。それは地味で報われない日々かもしれない。
でも、それでもやめたくない。ひとつの道を歩き続けるその姿こそ、父が残した「背中」だった。
***
家に帰ると、仏壇の前に小さな花が飾られていた。母が供えたのだろう。
陽平はそっと座り、ノートを手にこう呟いた。
「なあ、親父。今日の俺、ちゃんと歩けてたか?」
誰も答えない部屋のなかで、陽平はまっすぐに前を見た。
明日も、右足出して、左足出して、もう一歩。
人生は、ワン・ツー・パンチだ。