【第一話】 「しあわせは歩いてこない」
春の終わり、風に揺れるツツジの花の向こう側。
住宅街の小さな公園に、ひとつぽつんと木のベンチがある。
そこに毎日現れるのが、佐伯静江おばあちゃんと、ランドセルを背負った孫の晴人だった。
「おばあちゃん、今日も100点だった!」
「それはすごいじゃないの、晴人。がんばったのねえ」
そう言って、静江は大きく手を広げる。晴人が照れながら抱きつくと、彼女は少し嬉しそうに、でもどこか寂しげな目をした。
「ねえ、おばあちゃん。しあわせって、どこにあるの?」
突然の問いに、静江はちょっと笑った。
「そうねえ……よく聞いて。しあわせっていうのはね、“歩いてこない”のよ」
「え? 歩いてこないの?」
「うん。だから、自分から歩いてゆくの。ほら、こんなふうにね」
静江はベンチから立ち上がり、小さなステップを踏むように一歩、二歩。
「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩さがる――ってね」
彼女は歌うように言った。
晴人は首をかしげた。「さがっちゃったら、意味ないじゃん」
「いいえ、さがってもいいのよ。また進めばいいんだから」
静江は言う。「人生はね、ワン・ツー・パンチなのよ。汗をかいて、涙も流して、でも――歩こうよって、そういうこと」
それからしばらく、ふたりは木陰で絵本を読み、クッキーを食べて、少しおしゃべりをして過ごした。
別れ際、晴人がぽつりとつぶやく。
「歩いてくと、しあわせに会えるの?」
静江は小さく笑った。
「ううん。歩いてる途中に、気づくのよ。しあわせって、案外そばにあったんだなあって」
その夜、晴人は家で母にこう言った。
「ねえママ、ぼく、歩いてみる。明日も、いっぱい歩く。そしたら、もっとしあわせ見つけられるかも」
母は驚いたように笑い、ふと静江の言葉を思い出す。
「足もとにある幸せに、気づかず通りすぎてた――か」
そうして、翌朝。
ランドセルを背負った晴人は、玄関を出るなり言った。
「ワン・ツー! ワン・ツー! おばあちゃんみたいに、歩いていこうっと!」
その足取りは少し不器用で、でも確かに「前へ」と進んでいた。