9.
「サンドラちゃん、お部屋から出て大丈夫かしら、気分の優れないことはなくて?」
「平気ですわお母様」
カリーナは久しぶりに部屋から出てきた娘の体調を心配している。気分が優れないというなら、この部屋に充満する香の煙は体調不良を起こしそうなほどだが、それは慣れているから気にしない。
一家が揃ったので、みんなそれぞれの椅子に着く。当主としてマルティンが上座に座っているが、衣装の仰々しさからしてロベルトとサンドラの方が屋敷の主に見える。むしろ、魔族の夫婦のような息子と娘に、両親は生贄として添えられているようにすら見える。
だがしかし、実態はただの家族の団欒である。
「遅れて申し訳ございません、ついでなので屋敷内の結界を見回っていましたの」
サンドラは顔は見えないものの声は弾んでいる。これでも家族が揃う食事を楽しみにしていた。
燥いだ結果に行ったことが悪魔除けの結界強化だったわけだが、本人は純粋にただ燥いでいた。足取り軽くルンルンと怪しげな儀式を行うサンドラの姿は、狂気に満ちた悪魔のようであった、と儀式を手伝った使用人たちは後に語る。
「そうか、屋敷中に気を配れるとは素晴らしい御令嬢だ、嫁に欲しいという男が殺到しないか心配だな」
マルティンは本気である。正気ではないかもしれないが、彼は本気で魔術に造詣の深い娘を自慢に思っていた。
「いやだわお父様ったら」
こんな引き籠り令嬢がモテるわけがないだろう、とサンドラは冷静に考えていたけれど、彼女が懸念しているのは自分の生活様式だけだった。なにせ、サンドラはこの世界の社交を知らない引き籠り令嬢なのである。
「下手な男に妹はやれませんね、妹に近付くならば私を倒してからです」
ロベルトも本気である。正気ではないかもしれないが、彼は本気でサンドラのことをただの可愛い妹だと思っている。
「ホホホ、ロベルトは妹想いだこと」
カリーナも本気である。正気ではないかもしれないが、彼女は家族が健康で仲良くしているだけで充分だった。
フェルセン家の晩餐は闇と異様な香の煙の中、禍々しく和やかに始まった。
屋敷中に結界を張って回る貴族令嬢なんかいない。そんなお嬢様に殺到する男どももいない。そうツッコミを入れたい気持ちを飲み込んで、使用人たちは悪魔召喚、ではなく主家の晩餐を粛々と見守る。
全員の前にまずは前菜が並べられた。紫色の野菜ばかりを集めた温野菜に、黒いソースと赤いソースがぶちまけられた一品は、この凄惨たる大広間に相応しい不気味な仕上がりになっている。味は大変美味しく身体に無害どころかむしろ健康に良い、ただの温野菜サラダだ。
「では、いただこうか、サンドラ」
当主の一言で、家族揃って笑顔で手を合わせる。
そして、お祈り、ではなく邪気祓いが始まった。
「それでは、ご唱和くださいまし」
サンドラが立ち上がり、鈴の連なった魔道具をガッシャンガッシャン振り回しながら、奇妙な歩き方でテーブルの周りを歩き回る。今日は人が多いので、いつもよりも余計に騒々しくなっている。
それに合わせて、壁際に並んでいた使用人たちが教え込まれた呪文を朗々と演唱する。ベテランたちは無我の境地で、新人はとんでもないところに来てしまったと顔を青褪めさせて、抑揚のない声が折り重なって悍ましい響きを生み出している。
サンドラがテーブルの周りを二周したところで呪文は終了した。何事もなかったように令嬢が再び着席し、何事もなかったかのように家族は前菜を食べ始めた。
しかし、この邪気祓いは一品ごとに行われる。フルコース料理は果てしなく長い儀式となるだろう。
フェルセン家の家族が揃う夜、カーテンの閉め切られた屋敷からは、幾度も悍ましき合唱が聞こえてくるのだった。
家族だけの慎ましい晩餐会は始終和やかに進行した。大広間の装飾が重苦しく惨憺としているだけで、あとちょっと気味の悪い邪気祓いの儀式があるだけで、家族仲の良いフェルセン家が集えば会話は弾んだ。
食事が終われば場所を変えずに食後の団欒が始まる。本当は居間などに移るべきだが、移動となればまたサンドラの発作が起きかねないし、広間の飾りつけだけでも大仕事だったから居間の模様替えまで手が回らなかった。
父と母は食後酒を楽しみ、ロベルトとサンドラはお茶を飲む。マルティンのグラスよりもカリーナのグラスの方が大きく、グラスというよりジョッキと呼んだ方がいい酒杯になみなみと蒸留酒が注がれているが、いつものことなので家族は誰も気にしない。
食後酒とお茶が最後の邪気祓いだ。並んでいる使用人たちにも安堵の表情が見える。客人を招くような大掛かりな晩餐会は開かれずとも、フェルセン家の家族の晩餐はいつも準備から大掛かりで過酷であった。
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