4.
「お待たせいたしましたわお父様」
「構わないよ、おまえは相変わらず研究熱心だね」
父マルティンがこの部屋に来てから約三時間後、ようやく部屋の主であるサンドラが腰を落ち着けた。
室内には先ほどの歓迎会で使われた強烈な香の匂いがまだ充満しているが、マルティンは気にしていなかった。フェルセン伯爵邸には、もうすっかりいたるところにサンドラが使用する魔除けの香の匂いが沁みついているため、些細な匂いなど気にならなくなる。
今さっき香を焚いたばかりだと少々煙たくはあるけれど、マルティンは最早これが我が家の香りと思い、むしろ落ち着くくらいである。
新人のメイドは疲れ果てていたので、フリーダに引き摺られるように退室した。最初はみんなあんなものだ。これでまだ序の口である。
明日には彼女のための魔除け道具の選定の儀式があるし、この屋敷で働く限りサンドラの謎の儀式からは逃れられない。あのメイドも一か月もすれば玄人の顔付きになるだろう。
サンドラは父の分もお茶を淹れてテーブルに並べる。お茶は普通の紅茶だ。ただ、まずはサンドラがティーカップに注がれた茶に向かってブツブツと呪文を唱え、鈴の連なった謎の道具をガシャガシャ鳴らしてから、ようやくマルティンの前へ置かれる。
邪気祓いである。サンドラの怪しげな服装のせいで呪いの儀式にしか見えないけれど、お茶の味や成分には何の影響もないただの邪気祓いだ。
マルティンは娘の淹れてくれた茶に喜んで口を付けた。どれだけ慣れているとはいえ、三時間も放置されると喉が渇く。
サンドラは伯爵令嬢ではあるが、使用人でもこの部屋に気安く立ち入ることができないため、身の回りのことはだいたい自分で出来るようになった。
本当ならば、十三歳ともなれば貴族の御令嬢としての立ち振る舞いを学ばなければならないのだが、フェルセン家は娘に甘かった。
いつまで経っても社交界に出ず、それどころか外に出ようともせず、ダンスのレッスンも刺繍の練習もせず、地下室に籠って悪魔祓いの研究に没頭する娘を、両親は研究熱心な才女だと本気で信じていた。
娘が欲しがるものがドレスやアクセサリーではなく、怪しげな魔術書や毒々しい魔道具だとしても、できる限りの手を尽くしてなんでも買い与えてしまう。
こんな娘全肯定だから悪魔に憑りつかれても気が付かないのだ、とサンドラ本人も呆れてしまうほどだ。
「三日後にはロベルトも王都から帰ってくる、晩餐にはサンドラも出るのだろう?」
「はい、晩餐会の準備は進めておりますわ」
にこやかな親子の会話だが、サンドラの言う晩餐会の準備は勿論普通のパーティーの準備ではない。
サンドラが他人に会うことを極端に嫌うから、フェルセン伯爵領の領主館では人を呼ぶようなパーティーを行うことはない。パーティーが必要ならば王都にある屋敷の方で開催する。領主館から出ることのないサンドラは決して参加することはない。
だから、長男が帰ってから行う晩餐会も、家族だけでただ夕食を囲むだけだ。
それでもサンドラには準備が必要だった。
マルティンは深くは聞かない。領主館に帰った時点で、屋敷のいたるところに設置された魔除けの道具が移動されていたことには気が付いている。新しいものを購入したという報告も受けている。今回もサンドラによる屋敷中の魔除けの結界は着々と完成に近づいているようだ。
それでも当主は、娘が一家団欒の時を楽しみにしていることを嬉しく思うだけだ。
「うんうん、ロベルトもおまえに会うのを楽しみにしていたぞ」
サンドラの六歳年上の兄ロベルトは、十八歳の時から文官として王宮で働き始めて一年が経つ。だいたい半年ごとに長期休暇があるので、その時は故郷に帰って父から領地経営を学ぶのだ。
「はい、お兄様にお会いするのは半年ぶりですから、念入りに魔除けの儀式を行わなければ」
「サンドラは兄想いの良い子だな」
マルティンは張り切る娘の姿に、それが黒いベールの下から凄味のあるオーラを漂わせている姿であろうと、微笑ましく眺める。
マルティンはだいたい一ヶ月ごとに自領と王都を行き来しているが、それでも毎度、サンドラの悪魔除けの儀式に付き合わされている。
半年ぶりのロベルトは屋敷に帰って早々サンドラの儀式に一日中付き合わされるだろうが、マルティンは兄弟が仲良くしていればそれでよかった。ロベルトだって妹のことはよくわかっているから、いつも嬉々としてサンドラの儀式に付き合っていた。
「それでお父様、王都では勇者様の御噂は聞けまして?」
「おまえは勇者の話しが好きだな」
マルティンは面白がるように笑った。
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